2011/02/13

簡単にはめられる木は、簡単に外れるんですよ

 「英語教育」(3月号)が届く。「やっておいて良かったこと・やっておけば良かったこと」ということで、「勤務校を変わってみて」という部分を書きました。現任校はまだ2年目なので、エラそうに何かいうことはしたくないので、初任校から前任校での記事となっています。懺悔でもあり、反省でもあり、覚悟でもあり、迷いでもある内容です。この延長線上に、現在の自分があるので、前回のような記事が出来てきます。

 久しぶりのブログなので、感じていることを少しずつ。

 前回の記事で少し誤解をされているところもあるみたいですが、私は競争自体を否定はしません。子どもの鬼ごっこも競争でしょうし、ドロ警も競争でしょう。自然発生的な競争を否定するつもりは全くありません。
 しかし、「作られた競争」には懐疑的です。しかも、「作られた競争」をプロデュースする人が、その競争を通じて、自分の理想とするような人間を育てようとする競争には、嫌悪感すら持ちます。人間は年を重ねると、「自分の理想とするような若者」を育てたくなるようです。「競争」ということばを「ぜったい正義」という錦の御旗にする人を私たちは信用してはいけないのではないでしょうか。
 「なぜ、御用聞きビジネスが伸びているのか」(藤沢久美、ダイヤモンド社)という本の最後に次のようなくだりがあります。多少長くなりますが、引用します。

  • 四〇〇社を超える経営者の方々からうかがったお話しの中で、とても印象深く残っている言葉があります。それは、「競争しない」という言葉です。特に何十年にもわたり黒字を続けている企業の経営者の方は、ほとんど皆さん「競争しない」とおっしゃっいます。(p.213)
  • 世の中一般で言われている「競争」は、「競争相手を倒し、生き残る」というイメージです。一方で、「競争しない」とおっしゃる企業にも、実は「競争」があるように思います。それは、「自社との競争」。自社との戦いと言った方が正確かもしれませんが、誰かを倒して生き残るのではなく、成功体験や昔ながらのやり方など、自社が築き上げてきたものと戦い、時にはそれを変えて、新しい市場を生み出していく。誰も倒すことなく、傷つけることなく、新しい活路を見出していく「自社との競争」があるように思います。(p.214)

ビジネスの世界と教育の世界、どちらが「競争」を求められるかといえば、もちろん前者でしょう。しかし、そのビジネスの社会でも、相手を意識しての競争よりも、自分との競争=自分を高めようとする方が、成長するようです。これは、日本文化も大きな要因なのでしょう。

 もうひとつは、大工さんとの会話。

  • 和室を作れない若い大工が増えてきた。
  • 墨つけができない若い大工がほとんどだ。
  • 回り階段を作れない若い大工がほとんどだ。
  • カンナを使えない若い大工がほとんどだ。刃を研ぐことが出来ない。
  • 建前の時に、金属で木を留めないと、危なくて2階を歩けないような家ばかりだ。
  • 5~7回踏み込むことで木を木に押し込んでいたが、今はすっと入る。
  • 同じ柱でも、目の位置や木の上の部分、下の部分かを考えて、柱は考えなければならないが、コンピュータで穴をあける人は、そんなことを考えない。だから、家が持たない。
  • 柱のクセを読んで、開くのではなく、内側に入るように柱を立てるのだが、柱を読めない大工は、工場から届いた木材をつなげるだけだから、家が持たない。
  • まぁ、早い話が、大工じゃなくて、組み立て工なんだよな、今の大工は。

便利な時代はいいものですが、便利すぎる時代は技術を失わせることがあるようです。大工もその一例のようです。今は、「大工」といっても、板を自分たちで切って階段を作るのではなく、工場から送られてきた板を組み合わせて、階段を作ることが多いとか。そうすると、階段の構造を大して知らなくても、階段が出来上がってしまうようです。(回り階段は、これでは作れないそうです)

学校でも、便利な教材が増えてきました。でも、それに頼りすぎてしまうと、教員の作問技術が落ちてしまうような気がします。目の前の生徒をイメージして作る、手作り教材は、教師の修行の1つだと思います。辞書や参考書、インターネットで例文を探しながら、どうやったらターゲットの文法が理解できるようになるかを考えることは、良い勉強の1つです。

もちろん、お手本として教材を使うことも必要です。いい教材もたくさんありますからね、Road34とか、フレーズで覚える英単語とか、、ほら♪(笑) しかし、そこから自分で問題を作っていくことも、必要じゃないかなぁと私は思いますが、いかがですか。

2011/01/28

競争と居場所

本日は長女の学年集会で午後から休暇。もうすぐ小学校卒業です。12年前の冬、雪の降る日に生まれた彼女も、まもなく中学生かと思うと、自分も年をとったなぁと感じます。

誰しも、自分の子どもには、「勉強ができるようになって欲しい」「スポーツが得意であってほしい」「人間関係が良好であって欲しい」「活発であって欲しい」などなど、自分のことは棚上げして、ある意味、「親として当然ともいえるワガママな希望」を持つものです。ほら、赤ん坊の時に、「はやい」「大きい」ことに価値観を持ってしまうことと同じです。小さいときに、「この子は、天才かもしれない!」「イチローのようなスポーツ選手になるかもしれない!」なんて思いませんでしたか。私は思いました(^^;;

娘のことを話すなら、私と連れ合いとの遺伝子の結果なのですから、冷静に考えれば天才でもないし、イチローにもなれません。私に似れば、新しい環境にはなかなか適応できないだろうし、妻に似れば算数・数学はチンプンカンプンでしょう。遠藤周作がエッセイで、「自分の子どもなんだから、そこまで優秀な子どものわけはない。でも、皆さん、幸せに暮らしているでしょ?」と親に向けて投げかけていました。

確かに、人口も増えて、経済も右肩上がりの時代は、その言葉に説得力があったでしょう。高校進学率も半分程度で、終身雇用が保障され、ほとんどすべての人が、郊外に一軒家を買えた時代もありました。しかし、少子化が進み、デフレ地獄から脱却できず、大学進学率が50%を超える時代になってくると、遠藤周作さんの言葉に、うなずきつつも、「でも、やっぱり」と思ってしまうのが親というものです。もちろん、私もその1人です。

そこで、「学力をつけろ」という圧力が学校にやってきます。この「学力をつけろ」というのは、「今まで以上に」という意味が内在されていて、「もっと高く、もっと高度に」という意味が含まれています。
人間の「『もっと』スイッチ」が入るのは、外的要因があったとしても、内側にしかありません。自分が必要だと思う、自分がもっと知りたくなる、という要素がなければ、「『もっと』スイッチ」はオンにならないのです。これは人間にとって普遍的な「能力」です。
タバコを吸っている人に「タバコは体に悪いから辞めろ!」といっても止めないでしょ。「健康のために適度なスポーツはしなさい」「深酒は体に悪いですよ」「本を読めば、人間としての深みが出るから読みなさい!」といわれて、実行する大人がどれだけいるでしょうか。おそらく、ほとんど皆無でしょう。正論なんて役に立たないものです。

ところが、子どもに対して大人は正論で責め立てるのです。「ほら、勉強しなきゃダメだよ」 どうして?と尋ねられれば、「今の日本経済では、しっかりとした大学を卒業してなぁ、大きな企業に入らなきゃ。。。」と正論攻撃は続きます。(その結果、今年の大学生の就職率をみて下さい。日本経済を支えている中小企業への就職を希望する大学生は少ないでしょ)

話しがそれました。(いつものことか;苦笑)

この「『もっと』スイッチ」をオンになかなか出来ないと思うと、『競争原理』を持ち出します。どっかみたいに、「上位50校には、5億円を配分する」というのは、その最たるものでしょう。(このときに、韓国の教育を声高に主張するのに、なぜか学力世界1のフィンランドの教育は黙殺するのは、都合が悪いからなんだろうか。)

ここで、私も含め、保護者は考えるわけです。
「自分の子どもの能力が十分に開花できないのは、平等を求める、横並びの教育がいけないんだ。うん、そう、日教組が悪いのよ。ゆとり教育が悪いのよ。競争社会なんだから、しっかりと競争させなきゃダメ!」

このとき、私も含め保護者は心の中でこう思います。

「うちの子は、競争で勝つに決まっている!」

これは、当然でしょ。競争を求める人は、そこで負けることなんて考えません。負けるために競争を挑むなんて、論理矛盾ですから。

競争に勝つために、色々なお誘いに乗るようになります。

「塾に入れなきゃダメだよね!」
「家庭教師をつけなきゃ!」
「通信教育はいいわよぉ、リーズナブルで」

もちろん、いかに「学校だけでは、無理なんですよ」と彼らは声高に保護者に訴えます。「学校だけに任せておけないわよね。ウチの子の成績が伸びないのは、先生の教え方に問題があるんですよぉ」という心を上手に、刺激してくれるんですよ。

さて、こんな教育を受けてきた子どもたちは、どうなるでしょうか。競争に勝った子どもは、負けた子どもに対して、どういう気持ちを持ち、負けた子はどんな感情を持つか。さらには、競争という舞台に立たなかった子どもはどうなるか。

果たして、「思いやり」「協調性」「コミュニケーション能力」なんて、そんな教育の中で、はぐくまれることが出来るのだろうか。

先日、成人式を迎えた卒業生と「プチ同窓会」を開きました。そのうち、1人は、地元の成人式で実行委員を務め、成功に導いた女の子です。彼女は「有名大学」の生徒でもなければ、競争の土俵に乗りさえしませんでした。短大を卒業して、幼稚園の先生になるために、いま頑張っています。リーダーシップがあり、優しい心の持ち主である彼女は、園児にとって素晴らしい先生になれると信じています。

私は、自分の子どもには、勉強が出来て、他者より上に行くことに快感を持つよりも、友人が多く、気持ちの優しい子どもになって欲しい。そしてこの国に暮らす様々な人と、関わりを持って欲しいと考えています。(もちろん、勉強が出来てくれれば、うれしいけど;笑)

娘とは色々と話し、地元の公立中学校に進学することになりました。ちなみに、「チャレンジ」はやっていますが、これは、最後まで行えなかったときには本人がお年玉で支払いをするという条件付きです(笑)。

まとまらないエントリーですが、医師だけの国もなければ、弁護士だけの国もない。大企業に勤めたり、医師や弁護士になったら、幸せになれるとは限りません。自分の人生を、自分で責任を持って選択し、生きて欲しいものです。
友人の体育教師が「自分の子どもを、『使い捨て』部活には入れたくない」といっていましたが、私も自分の子どもは『使い捨て』されて欲しくはありません。スポーツは競争を求めることもあり、往々にして「使い捨て」が行われるということでした。
教育と競争。このバランスをどうとるのか。生徒が競争の土俵に立とうとしたらもちろんサポートはしたいと思いますが、そこから降りようと思ったときに受け入れたいものです。そうなったときに、私の立ち位置はどこにあるのか。自ずと、答えは決まってくるでしょう。

2011/01/14

Teachers should be seen and not heard.

久しぶりのブログ。体調を崩しただとか、精神的に落ち込んでいるわけではありません。ご心配を下さった方には、感謝します。

昨秋から、「兼業主夫」になっています。連れ合いが働くようになり、今までおんぶにだっこだったのを改めまして、包丁を握ったり、洗濯機(ちなみに我が家は2槽式sweat01)を使ったり、お風呂を洗ったり、子どもの送り迎えを行ったりと、いやぁ、もう大変です、それは。世の中のママさん先生のご苦労を経験しています。妻の勤務先も、彼女がしたいと希望したというよりも、私がお願いしたということもあり、「兼業主夫」をせざるをえない状態です。
妻が帰ってきたらグチを聞き、一緒に考え、仕事の見通しを立てて、と昼間は先生、夜はカウンセラーという状況。安易な「民間神話」に与するつもりはありませんが、仕事が常にあり、倒産を考えなくていいことには、感謝したいものです。

少しずつ、時間的にも余裕が出てきたので、ブログも少しずつ更新していきます。

転勤後2年経ち、感じたこと。副担任をしていた昨年度は、3年生の授業のみだったので、正直、勝手が分かりませんでした。「流れに乗る」ということの難しさを感じつつ、担任ではないという遠慮もありましたし。(これは教師としての仁義だと思うのですが、いかがですか)

しっくりとくる授業というのがあります。空回りしていない感覚があり、生徒との温度差がほとんどなく、授業中に活気があるという授業です。これは、授業者である自分の感覚に過ぎないのかもしれませんが、皮膚で感じるものです。「しっくり感」を持てない授業は後味が悪いし、持てる授業は充実感があります。充実感とは、「自分がうまく説明したな」というものではなく、「自分の手を離れて、生徒が自分で学べていたな」という感覚です。若いときには「自分がうまく説明できた授業」がいいと思っていましたが、年と共に、「一定の秩序の中で、生徒が『勝手に』学習していた授業」に魅力を感じています。

前任校での最後の回りの授業も、現任校での授業も、「出汁」は全く変わっていません。リスニングをして、"What is this passage about?"という全体像をつかみ、それから細かい部分を聞きとる。新出語句の学習の後に、英文を解釈して、音読、筆写という流れです。もちろん、細かい部分の変化はありますが、この流れがしっくりするのは、おそらく「自分の理解」がこういう流れなのでしょう。もちろん、全く違う切り口の授業の先生もいるでしょうが、それは「その先生の理解」の流れなのでしょう。

そう考えてみると、たくさん課題を与えて、あれもこれも、という「ガツガツタイプ」は、そういう学習方法をしたことが良かったと思っているか、そうしてもらいたかったという思いを持っているのだろうし、生徒の自主性を重視する「放任タイプ」は、それに対する気持ちが強いものです。1つの物差しである「ガツガツvs放任」の直線上のどこに自分が位置するかというのは、学校種に関わらず、変わらないものなんだろうなぁと思います。もし学校種ごとに変えていたとしたら、かなりのストレスになるだろうな。

脱稿して、ちょっと気持ちも楽になりました。続きはまた次に。

2010/10/21

"desuku"でいいじゃないですか(^^)

週末に開催される「第3回山口県英語教育フォーラム」に参加できそうかも、、と思い期待していたのですが、諸事情で伺えなくなりました。残念。昨年、anfieldroadさんと同じ宿に泊まり、ホテルの屋上の露天風呂に入ったり、近くの公園で足湯をちょっとだけ楽しみましたが、ヘルニアの痛みのために満喫しきれませんでした。多くの先生方のお話を聞くことも楽しみですが、懇親会や観光など、それ以外の楽しみもあるだけにがっくり。。

昨日、youtubeの動画を貼りましたが、テンポスの森下会長の「組織論」と「担任論」は似ているなぁと思います。インセンティブなんかで人間は大して動かない。「これをやれば、成績が伸びるよ!」「これをやれば、志望大学に合格できるよ」なんていう最大のインセンティブを用意されても、動かない高校生は圧倒的多数でしょう。「ディベートすれば英語が出来るよ」なんていわれても、「だから?」で終わってしまう生徒が多いってことですよ。

教師の資質など、1つでいい。人間が好きだということです(「生徒」ではない)。人間が好きな人なら、厳しい人でも、優しい人でも、いい先生になります。でも、人間よりも、自分のことが好きな人は、どんなに英語が出来ても、どんなに理論を知っていても、いい先生にはなりません。そんな先生は、たいした技術がなくても、学習する生徒を増やします。
以前にお世話になった社会の先生(現在、66歳!)で、抜群に英語の出来る先生がいました。彼は、「中学校の時の英語の先生がね、『私は英語が専門じゃないから、ぜんぜん出来ないんだよ』といっていたんだけど、ホントでね、"desk"ではなく desuku"って発音していたんだよ。それで何にも問題はなかった」と仰っていました。でも、当時の少年に「英語を勉強したいな」と思わせるような魅力を持っておられた方だとか。

授業中に、ちょっとした生徒の変化を感じ取るのは、能力ではありません。人間好きが持っている感覚です。狭い範囲内の経験ですけど、中学校の先生は人間好きが多いような気がします。

中学校の先生方のブログを読んでいると、生徒の悪口が出てこないんですよね。ずっこけたエピソードはあっても、全てほほえましい。生徒がこんなことを出来るんだ!という純粋な驚きなど、生徒を育てていこうとする感性や、立場は違うけど、人間としては対等であるという哲学を感じます。グチは出ても、前向きです。

人間好きの先生が担任をすれば、クラスの雰囲気が「人間好き」の方向に進みます。だから、優しいクラスが出来上がる。小学生ほど担任に影響されないかもしれないけど、高校生だって担任のカラーがクラスに出るものです。そういうクラスは、グループ内かもしれないけど、よりお互いに注意関心を持っていけるようになります。
人間が好きだから、対象に謙虚になれる。そして尊敬することができます。

技術論も結構。科学を行いたいというなら、それも結構。そういう道もたくさんありますし、必要とされるものでもあります。
でも人間好きの普通の教員にとっては、技術や科学の占める割合など、それほど大きなウエイトではないのですよ。

2010/10/20

技術では、ほとんどの人は動かない

激動の1ヶ月。「教育」とは関係のない分野に踏み込まざるを得なかった(現在完了?)ので、その勉強の毎日。新鮮な刺激も多く、興味を持ったのはDNAが原因か?

「フレーズで覚える英単語」の高校生用の基本版「フレーズで覚える入門英単語 ドリルブック」の校正も完了。文英堂よりまもなく発売されます。書き込みタイプのドリルとなっておりますので、ご興味のある高校の先生は11月に見本をご連絡ください。。

靴下を買いに近所のスーパーへ。この頃、妙に5本指ソックスに凝っているので、探したところ安いのは中国製ばかり。小市民的な抗議活動として、少々高くても国産を購入しました。でも、自分の出来る範囲で国産を購入して、使用することが個人にも出来る景気対策になるのではないかな。
靴下であれば、国産と中国産との差など、2本買ったところで数百円に過ぎなかったし、今までの経験では国産の方が長持ちをしました。長い目で見たコストパフォーマンスは、たいして変わらないだろうし、もしかしたら国産の方が安いかもしれません。

少しだけ、いつものようなブログに。

「やる気にさせる」ということが、テーマになるということは、自分の思うほどに生徒をやる気にさせられない先生が多いということの現れです。最初は「1人でもいい」と思ったのが、「5人くらい」いや、「半分」、「圧倒的多数」、「クラス全員が」なんて、どんどん、欲は膨らむものですから、満足できるレベルは高くなっていきますから、常に不満の状態が続くのかもしれません。

そこで、なぜか技術に走る人が出てくる。最初は、「生徒のやる気を」と生徒の成長を願っていたのに、技術論になってくる。でも、本当に技術論なんでしょうかね、生徒のやる気は。

2010/10/04

キャラじゃないかw

「アクション・リサーチ全国大会」で使用したパワポファイルを、誤解のないように加筆訂正したものです。

学校教育での英語は、教育という理念の上に乗るものです。この理念は、教師、一人ひとりが違います。一方、英語教育は方法論です。違う土台の上に、方法論が乗ります。この両者が上手に合致して、ようやく一人前の教師となり、深まってくるのです。

だから、教育論だけでは英語教育にならないし、方法論だけでは宙に浮いた花を求めるようなものになります。若い先生には、英語教育という方法論から入るのではなく、自分にとって教育とは何なのかという哲学をまず持ってもらいたいなぁと思うのも、こんなわけです。

「母校」といいますよね。グレートマザーのイメージを述べるまでもなく、母のイメージは良いときも、悪いときも受け入れてくれるものです。卒業生が文化祭のときに遊びに来て、楽しい様子を話してくれたり、つらい状況を話してくれたり、私たちは何をすることもできず、ただ聞くだけなのですが、「来て良かった」といって帰ります。

これは、学校の教育活動が、彼ら彼女らにとって、生徒が受け入れる受け入れないは脇においておいて、理念や思いをベースに生徒と接しているからでしょう。生徒が自分の人生を自分で選び、自分で責任を持てるようにしようとする思いがあるから、「母校」となるのだと私は信じてやみません。これが分からないような研究者は、英語教育の方法論として純粋に研究をすればいいのであって、現場に口を出さないほうがいい。底が浅いので、議論になりませんから。

残念なことに、生徒の学力を上げるということを至上主義にしてしまうと、大学進学率を競うようになります。生徒を数字としてみるようになってしまったとき、そこには理念もへったくれもなくなってしまう。

自分自身を振り返って、そうなっていなかった部分はないだろうか、という反省をこめての発表でした。

誤解ないように申し上げれば、生徒が○○大学に行きたいといえば、できるだけサポートするつもりはありますけど、「君は偏差値が高いから○○大学はどうだ?」という指導はしたくないということです。偏差値70あっても、映画を撮りたいということであれば映画の専門学校に、音楽をやりたいというのなら音楽の専門学校に進学することを生徒が真剣に考え、そしてかなえたいと思ったら、自分で自分の人生を選択できたということを喜びたいというだけです。

なんだか、今日のエントリーはアツいね(笑) キャラじゃないので、ここでおしまい。

生徒の成長・教師の成長「yokohama.ppt」をダウンロード

2010/10/03

お疲れさまでした

同僚の花岡先生の、最後の試技。20回連続国体出場だけでなく、オリンピックを始め、多くの国際大会に参加してきた彼女の最後の試技を陸上部の部員と一緒に応援しました。日本のトップアスリートとして20年間も活躍してきたことに心から拍手。担任を持ちながら、部活動の顧問を行い、さらに自分が選手としても練習をする。すばらしい。
最終試技までは1位だったが、最後の試技で山口県の選手に2cmほど抜かれてしまい、逆転ならずに終了。惜しいが準優勝。しかし、終わったときのすっきりした顔は、きれいでした。こんな貴重な時間を生徒と一緒に見られたことに心から感謝。また、表彰式の時に、優勝した選手が、早めに表彰台から降りようとしたその心遣いにも感動。

実は、その前にというか、合間に、横浜で「アクション・リサーチ全国大会」に参加。会場に13:30に入り、13:50-14:20までパワポを使って発表。事情を話し、ちょっとだけ早めに会場を後にして、14:25の京急に乗り、天台の陸上競技場に直行しました。
今回は、レジュメも発表者持参だったので、レジュメを作らず、不自由をお掛けしました。ごめんなさいm(__)m 朝から生徒引率だったので、荷物を持っていけませんでした。パワポファイルは、近いうちにアップします。

本日の国体でいちばん部員にとって幸せだったのは、自分たちの顧問が戦う姿を見ることができたことでしょう。指導者の戦いは、生徒が壁を乗り越えるときの大きなエネルギーになるんだろうなと見ていて感じました。(株)テンポスバスターズの森下社長は『「戦いモード」で会社が変わる』といっておられますが、『「戦いモード」で教室(学校・部活)が変わる』のでしょうね。

2010/09/14

教師の基本は担任

色々と書いては消したけど、ひと言でいいや。(twitterみたいだね;笑)

「教育」という営みが、その語の前に「英語」がつくと、どうして教育を知らない評論家がエラそうにものをしゃべるのだろうか。
私たちが教育を学べるのは、大学ではない。現場である。それを、象牙の塔の住人は自覚した方が良い。

本当に知りたければ、普通の公立学校で、担任を2~3周りやってみるといいよ。それをする根性がないなら、エラそうなことをいわないほうがいい。



2010/09/10

サルじゃないんだよ

「危機論者は備えの重要なことを訴えつつ、無意識的には危機の到来を欲望している」
「私が危機論者を好かないのは、彼らが危機の到来のときに「逃げる」ことを経験的に知っているからである。
「ほら、オレが言ったとおりになっただろう」と言うのは、彼らが安全な場所へ立ち去るときの「別れ際」の台詞なのである。
共同体のフルメンバーである「大人」はそういうことをしない」
(スーパークールな一夕

普段の出だしと変化させて、内田ブログから引用してみました。

確かにこれはあるよなぁ。「このままではダメだ」という人は多い。「だから、こうしようよ」と提案する人も多少はいる。しかし、「実際に、こうしているよ」と行動する人はごく少数です。クールに第三者を気取る人は多いかもしれないけど、行動する人はごく少数。これは、民とか官とかにかかわらず、少数の気がする。
どうしても全体として受け入れざるを得ない状況になったとき、いちばん反対していた人が受け入れるための方策に走ったことを何度も見た経験があります。「逃げる」のではなく、「受け入れる」ための行動をしていました。そういう人って、人間的に私は尊敬します。そういう先生は、なぜか社会や国語に多いのはどうしてだろ?

さてさて、anfieldroadさんのブログを読んでいて考えたこと。

世の中で、英語教師に対する批判は多い。理科でもなく、国語でもなく、数学でもなく、英語に対する批判は多い。これは、「英語」という、実用に直結する、、、もっといえば、ビジネスに直結する教科ならではの「悲劇」でしょう。小学校からずっと美術をしているのに、上手な似顔絵は一枚も描けないのはケシカランとはいわれないけど、英語の場合はいわれてしまう。

全体像が見えず、自分の論理から離れられない人は、自分の論理では受け入れられない現実を目の前にすると、自分の論理内での原因を探したがる。英語教育でいうなら、英語教師の英語力が低いからだ、日本は英語がなくても生きていけるからだ、文法をしっかりと学習しないからだ、音読が少ないからだ、ディベートが行われていないからだ、と、あちらこちらに、その原因を声高に言う人は多い。

でも、人間の営みはそんなに単純ではないでしょ。しかし、自分の論理でしか物事を考えられない人は、単純に考えたがる。

単純に考えたがる人は、A→Bという単純な図式をもちだす。「競争があれば、成長がある」とか、「コミュニカティブな活動があれば、コミュニケーション能力があがる」とか、「ディベートを行えば、実践的なコミュニケーション能力があがる」とか、とにかく単純な図式をだしたがる。
たしかに、その人はそれで成功したかもしれない。しかし、その人は自分では気づかない高い能力の変数αがあることに気づいておらず、Aα→Bが分かっていないだけなのだ。マスコミをにぎわしたり、高い実践結果を出したりするような、能力の高い人に限って、この傾向は高いような気がする。ちなみに、このαが目の前の対象者とのコラボなのだが、高いBを見て、Aの高い実効力、αに対する無意識の自尊心が高くなったときに、私たちは失敗するし、傲慢になるか。
同じことをしても、同じ結果になるとは限らないのは、学校だろうが、民間だろうが同じことです。心的生産性に関することは、マニュアルには限界、しかも底の低い限界がある。

現場という最前線で働いている人たちは、このことが分かっている。ボーっとして、毎日を過ごしているわけではない。どうやったら、Bを最大化できるか、自分なりに考えている人がほとんどだ。(表面に出さない人は多いけどね) Bは授業の結果だけではなく、生徒の成長も含め、人間として総合力である。
だから、評論家的にポジションを目指して現場から離れていく元教諭を私はあまり信用しない。どんなに偉い先生でも、評論家的精神になったり、取り巻きを持つようになったりしたら、お山の大将一直線になるものだ。

生徒の英語力を伸ばすためには、授業だけではない。これははっきりしている。普段、どうやって生徒と接しているか、今の生徒の個々の状態、全体の状態はどうなっているか、生徒が精神的にネガティブになっているときにどんなコミュニケーションを取ろうとしているか、そんな総合力=αが大きな変数となっている。

「お前は、好きな先生の教科は出来るようになるねぇ」と母親に言われた経験はありませんか?(私は何回もあります(^^;;) 私と同じ経験をした人はいくらでも聞いたことがある。その先生の教科力が高ければ教科に対する信頼は高くなるかもしれないが、人間的に好きになるわけではない。人間的に好きになるのは、その先生の人となりや、眼差し、真摯さなど数字では評価できないオーラのようなものではないですか。相手の年収や学歴、乗っている車、会社名、偏差値など目に見える数字で、異性を好きになるような人は少数だし、いたとしてもあまり信頼できないよね、そんな人。
それなのに、数値目標を出せ、エビデンスドベースが必要だと、「営業職」をさせるから、トラブルになってくるんだよなぁ。

話しを元に戻すと、英語教師の学力が低いから生徒の学力が伸びないのだという単純化したい人がいるのも事実だろう。単純化したい人は、何か目的があるんだろう。ギボアイコが霊と話しができるといって、ホニャララを目指したように、なんかあるんだろうなぁ。なんだろ(笑)

元に戻って、困難な状況の時にどうすればいいのか。
目の前の生徒に対して真剣に接して、生徒に必要なサポートを行っていくしかないのだ。目の前の対象(集団も含めてね)は、この世界で唯一の対象であるのだから、他者の方法がピッタリあてはまることはない。もっと上手くいくかもしれないけど、真似事はたいてい失敗するものだ。
しかし、成功した人に限って、自分の真似をさせたがる人のなんと多いことか。それが思い上がりになっていることを、成功した人は気づいていないのが悲劇なんだろうけど。

彼らが、自分の方法論が上手くいかなかったときの、最後のいい訳は「英語教師が悪い」である。優秀なリーダーは、自分の「部下」という実行部隊を悪くいわない。その部下の能力が最大化するように方策を立てるからだ。

「英語教師が悪い」といっている人は、自分が独りよがりの論理を展開してるだけか、優秀なリーダー(オピニオンリーダー)ではないと、宣言をしているだけなんだよ。そんな人に、マジメに付き合う人は、エネルギーの無駄。時代は省エネ。

2010/08/10

happy surprise!

久しぶりのブログ更新。といっても、どこかに出かけているというよりは、心境の変化。いつか近いうちにブログに備忘録として書き留めるかもしれませんが、自分なりの悟りが開けてきたというか、心境の変化というか、ガリバーの馬屋というか、なんとなく自分の精神的な居場所が変わってきたからかな。

そんな中で、卒業生から電話が来ました。今年の1月に電話があったとき、年賀状を出したいから住所を教えて欲しいという電話があって以来です。彼女は年賀状を出したのですが、なぜか私のところには届かなかった。珍しく年賀状とはどういうことかなと思っていたところ、彼女は手紙の中で結婚についての報告をしていたそうです。

そんな彼女は、最後の最後まで卒業が危ぶまれていました。卒業したいという漠然とした希望と、卒業まで自分が耐えられるかどうかという現実的な不安、ありがちな本人の周辺に起きる「問題」がありました。そんな彼女を最後まで励ましたのが、周囲の友だちでした。昨日の電話は、彼女へのお祝いのために集まったその友人たちも一緒でした。

そのお祝いの理由はこちら。

20100809192618
彼女が母親になったということです。
母親になり、自分の親への気持ちも変化があり、自分を心から信頼してくれる小さな命を愛おしいと思えるようになったとのこと。

我田引水。

授業を振り返ってみます。グループ学習を行っていたときに、「教え・教えられ」という関係が英語力をつけるためには効果的だと思っていましたが、「相互扶助」という関係性もあったなぁと思います。正直に申し上げて、後者はぜんぜん意識さえしていませんでした。卒業が危ぶまれる生徒に対する、友人からのサポート(ピアサポート)は、教員の直接的なサポートよりも効果的なことがあります。教員は、お互いに支え合える空間を生徒が作れるような環境作りをすればいいのであって、登場人物の1人として表に出る必要は必ずしもありません。

昨日、電話で話した卒業生のうち、大学進学したものは1名です。でもね、今でも6名が良い関係を結べ、お互いに幸福を祝福しあえ、サポートしあえていることは、うれしいことでした。
こういう時にまた考えます。有名大学に何名入れたとか、偏差値をいくつ伸ばしただとか、それだけに拘泥することに、どれほどの一般性があるのかなぁと。人間は幸せになる権利があるのだし、幸せになるために生きており、それは大学名や偏差値ということと、幸福とは一致しないことだっていくらでもあります。

基礎学力をつけたいというのであれば、その向こうに何があるのかを考えないといけないのですね。見えないこともあるかもしれませんが、ふたを開けてみると、想像もしなかった「良いもの」があるものだ、、、、昨日の電話で思いました。
エラそうに最後に書けば、ふたを開けたときに宝物が見えるかどうかは、方法論ではなく、教育論です。分からない人は、分からないし、分かる人は、すっと分かるものです。

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