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2013/07/25

先生の成長1

1学期が終了と同時に、生徒引率でオーストラリアのWaggaWaggaに。独身のときにバックパッカーでオーストラリアを3週間ほど旅していましたが、ずいぶんと物価が高くなっていますね。それと、あの頃にはいたるところにいた、日本人がシドニーであまり見かけませんでした。(現地ガイドさんも同じことをいっていました)

わがままに関しては天下一品のせいだからでしょうが、私は押し付けられる無意味な仕事のモチベーションが高まりません。おそらく、カネとか名誉をいくらぶら下げられようと、自分が無意味だと思う仕事には決して魂が入らない。その一方で、必要だと思うことは、見返りがなくても行います。これは、私が尊敬する先生に共通することです。学習指導でも、校務分掌でも、部活動でも、必要だと思うこと(生徒にとって必要でありかつ、自分がしたいこと)をしている先生は、こちらが小さくなるくらいに、まぶしく感じます。

日本から離れているのですが、ネットでつながると外国にいる気がしません(苦笑) でも、少し冷静になって、ブログを書いてみます。

  • 英語が使える人が「グローバル人材」の資質を持つということは、数学ができる人が「論理的な考え方」を持っている人というのと同じくらいに、御伽噺ではないか。

なんだか、英語=グローバルという手垢のついた発想です。「数学は論理的な思考を高める」と私も教わりました。これは逆から考えれば、確かにいわゆる理系の人たちは、「論理的思考」でものごとを考え、数学が苦手だった人は論理的思考がない、ということになりませんか? 今まで私が接してきた数学の先生の圧倒的多数が論理的に考えており、大学入試で数学を必要としなかった先生方は論理的思考ではないのでしょうか。いやいや、そんなことはありません。感情的な数学の先生も多くいましたし、論理的な私立文系大学出身の先生もいました。
おそらく、「論理的思考の資質を持った人は、数学が好きな傾向がある」という程度なのではないかなぁと私は思います。

同じく、「英語という教科に興味を抱くという資質の持ち主は、外側(海外)に興味を持つ傾向がある」という程度ではないのでしょうか。これって、べつに「ニンジン」があるからそれを選ぶのではなく、資質がベースとなり、自分が興味を抱くようになったきっかけがどこかにあったから、学び始めただけにすぎないでしょう。

グローバル人材である経済界の方々のように、金儲けをしたいからとか、政府のナントカ委員に選ばれたいとか、自分の名声を高めたいとか、そんなことはありません。英語教育を批判するライターのように、こんな記事を書けば、英語教育に批判的なグローバル人材の方々から「ういやつじゃのぉ」といってほしい、なんていう下心ではありませぬ。人間の基本的な欲求は、「~したいからする」ということです。

内田樹氏ではありませんが、人は勝手に意味を見出していくものです。誰かの言葉を勝手に解釈して、それを自分の糧にするものです。学びとはそういうものです。もし画一的なものがあるなら、本の伝えるメッセージは誰にとっても同じでしょうが、そんなことはありません。同じなら、文学批評なんていらないはずですから。

もともと、学校という場所(中学校や高校に限定します)は、その教科(科目)に興味を持ち、それを教えたいと思う人が先生という立場になる場所です。そして、その教科(科目)に興味を持っているとは必ずしもいえないが、そこを自分たちの居場所にしている(したい)と思っている人が生徒としてやってきます。だから教師は、生徒が学べるような環境づくりをします。それが、「生徒指導」と呼ばれます。

自分が教えたいことを教えるための環境づくりですから、「生徒指導」には温度差があってある意味で当然です。ある程度、ごちゃごちゃの中でも教えられる人はキャパが広いし、きっちりした中で教えたい人は、均一性を目指します。世の中はひとつの価値観ではないのですから、そういうバラバラもいいものだと私は思っています。

ところが、この場所に、外部からの妙な圧力が入ってきます。自分たちのイデオロギーを学校現場に押し付ける人たちが出てくる。この人たちは、「自分たちは間違っていない」という発想だけではなく、「自分たちこそが真実なのだ」という仮面(本心?)をつけているから厄介なのです。

「間違っていない」(「自分たちが真実」)という発想には、価値観がひとつしかありません。たとえば、英語=グローバル人材の育成の基本、のようにです。世の中は、彼らのような優秀な方々だけではありません。なにせ、資産作りや金儲け、権力闘争といったごくごく普通の人にはあまり縁がない高いポジションで生きておられる方ですから。有名私立学校に行き、迷いもなくグローバル人材を目指している若者は極めて少数であります。だから、ごくごく一般の子どもたちが、思春期に悩んでいる姿はあまり想像できないのでしょう。もちろん、私だって学力をつけようと努力はしていますけど、それはグローバル人材育成のためだなんて思ったことはありません。新しいことを生徒が学ぶ、できなかったことがわかるようになっていく経験は、若者にとって必要だと思っているからです。

このような営みの中で、教師は教師になっていきます。それで、いいんじゃないのかなぁと私は思います。
教師が名誉や名声、実績作りを目指し始めると、「裾野にいる生徒(部員)」はだいたい、その活動の意味とは違う犠牲者になるものです。強豪校と呼ばれている部活動の話を聞けばそれはイメージできるのでは?

オーストラリアのガイドさんが、「オーストラリア人は働かないですよ」と冗談めかしていました。仕事は9-17時。昼休みは1時間半。完全週休2日で、土日に働くときには、倍の給料。サービス残業なし。それでいて、経済は順調です。(中国経済の影響をもろに受けるだろう!という人もいるかもしれませんが、それはどこの国でも同じことでしょう)

リーダーとしての役割の人が、ギスギスと運営しようとすれば、社会全体がギスギスとしてきます。多くの人がイライラしてしまいます。その結果、「かくあるべき理想論」というイデオロギーが組織論・社会論にとどまらず、「役割論」にまで侵食してきています。「教師はかくあるべきだ」「生徒はかくあるべきだ」「若者はかくあるべきだ」というコンセンサスを作るのは、リーダー的存在であり、それを認めているのは、その嵐の中にいない人々です。(そこからはみ出てしまった人は、宇宙の彼方にいくはずもなく、誰かの隣人になります、念のため)

これでは、感受性が豊かな生徒はいまの学校制度では育ちにくいのではないかなぁと私には思えてしまいます。

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