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2013/07/28

先生の成長4

 だったら、どうすればいいのか。私は、生徒のありのままを受け入れればいいと思う。他者の人格・尊厳を傷つけないという条件で、ありのままを受け入れればいいのではないかなぁと思います。世の中には、いろんな人がいます。いろいろな資質の持ち主がいます。その人たちが集まって、日本というコミュニティを作り上げていきます。だから、そのままを受け入れていけばいいのではないでしょうか。
 こういうと、「生徒が勉強しなくてもいいのか」ということをいう人がいますが、だったらあなたたちの愛している「昔の教育」は、数値目標も何もなかったでしょ?グローバル人材の育成なんていうスローガンなんていうのもなかったでしょ?と問いたい。そんなものはなくても、あなたたちのようにご立派で、優秀な人々が育ってきたではありませんか。
 学校の先生もありのままでいいと思うんです。着飾る必要もない。ありのままでいいと思う。『家栽の人』の中で桑田判事が、「調査官は自分の人生を教科書にする」ということを述べています。これと同じように、「教師も自分の人生を教科書にする」ということで、いいんじゃないかなぁと思います。誰しもが、ブラックジャックやドクターKにはなれないけど、生徒の成長を心の中で願いつつ、教育活動に勤しめたらそれでいいんじゃないかなぁと思う。(生徒の成長を心の中で願うことは、教師にとって必須です) 大阪は教師の希望者も減り、教頭のなり手も減ってきているようです。いくら生徒に勉強を教えたいと思って教師を希望したところで、あんな首長の方策ではうまくいくはずもないでしょう。教師が疲弊したら、そのしわ寄せは児童・生徒にくることが、あれほどに詭弁を弄することのできるお方がどうして分からないんでしょうか。詭弁術で相手をやり込めようと、世論を操作しようが、マスコミとタイアップしようが、こだわりを持つ先生たちを変えることなんてできません。
 先生の成長は、ありのままで学校で先生をしながら、こだわりを自然と持つようになることだと私は思います。虚栄心に流されることなく、あるがままの状態で教師を続けていけば、自分なりに落ち着けるポジションがえられていくものです。モデルを見つけることは大切かもしれないけど、モデルを「神格化」するのではなく、困ったときに「あの先生だったらどうするだろうか」という程度の「内なるアドバイザー」程度にすればいいだけで、別に傾倒する必要もなければ、チームを作って祭り上げる必要もない。あなたなりのピン立ちでいいじゃないですか。仲間とは自立した人の集団であって、集団として力を持つグループではない。「和して同ぜず」は仲間であって、「同するために和す」はどこか違う。
 指導案を書くときに、「クラス観」があります。そのクラスはどのようなクラスだとあなたは理解していますか、ということを書く欄です。教えるべき対象をどのように見るかは教師にとって大切だということです。これと同じように、私は教師にとって必要なもうひとつのことは、適切な人間観だと思います。人間観とは、「自分も生徒も立場は違うが、人間としては同じ価値ではある」というものです。立場が違うと価値まで異なると思っている人がいますが、私はそう思わない。何兆分の1の確率で生まれてきた人間なんですから。生徒指導中に、相手の人格を傷つけるような先生もいることも、残念ながら事実です。同僚だとそれをいいにくい雰囲気もあるでしょう。でも、あなたがそうしなければ、傷つけられた生徒にとっては「救い」になるものなんです。積極的に戦わなくても、あなたがその場にいるだけで、大きな役割を担っています。
 生徒の成長を心の中で願っていられれば、どうすれば学力が上がるか、どんなサポートが目の前の生徒に必要か、などなどが見えてきます。人間としての価値は同じだと思っていれば、上手なコミュニケーションがとれます。これが、教師としての大切な資質だと私は信じて疑いません。
 人間を「労働力」としてのみ考え、利益のためにその人の人格を考えてこなかったり、相手の成長よりも、自分の手柄や虚栄心を高めることに熱心だったりする人が「民間人校長」になってもすぐに辞めたり、うまくいかないのは、こんなことが原因なんでしょうね。まぁ、自分を優秀だと思っている人は、あまり学校の先生には向かないのかもしれません(笑)
 遠藤周作が子どもたちを必死になって勉強させようとする母親に対して、「自分たちを見てみなさい。勉強ができなくても、そこそこ幸せに生活しているじゃないですか」というようなことをエッセイで書いていました。中学生のときに読んだこの1文が、いまだに私には残っています。一組の男女からその子どもが生まれてくる確率は、何兆分の1のものです。せっかく生まれてきた子どもなんですから、子どもたちの成長を信じ、ありのままを受け入れていくようにした方が、よっぽどいいのではないでしょうか。(もちろん、反社会的なものは違いますよ)

2013/07/27

先生の成長3

 「グローバル人材を目指す」という一種のスローガンに私が心の底から嫌悪感を抱くのは、それが「経営者サイドにとって都合のいい人材を目指す」ということだからです。もちろん、人の生き方を一方的に規定しようとするその傲慢さにも腹立たしさを感じます。
しかもその「グローバル人材」という定義がよく分からない。どうも、英語がある程度、自由に使えるというのは条件らしいというのは分かる。そして、海外で活躍できるという要素もあるらしい。「活躍」というのは、しっかりと利益を生み出せるような交渉力を備えた人間なんでしょう。自分で起業して、世界に通用する革新的(イノベーティブっていうんでしょうか)なナントカを作り出すのも、グローバルっていうのかもしれません。そして、企業が削減したいのが人件費ですから、管理職になるまでは給料がいくら低くても文句はいわない。サービス残業もいとわない。(残業という発想すらない人かもしれませんが)そして、経営者に利益以外で主張することもない。少なくとも、学校の先生という仕事とは対照的なものですよね。だって、学校の先生で、彼らがいうところの「利益」を生み出している人なんて、まずいないでしょうから。世界で働けるわけもなく、交渉力も弱い。流行のディベートをしたところで、周囲を納得させている人って、どのくらいいるんだろうか?(苦笑) 革新的な技術を生み出している人は、理系で多少いるかもしれないでしょうけど、文系ではほぼ皆無でしょう。職員会議では、管理職に対して自分たちの主張はしっかりとする。唯一あてはまっていることは、「サービス残業」をしているところ程度かな。そう考えると、私たち教員は「グローバル人材」としては条件を満たしていない人ばかりです。もちろん、一部の大学の先生には、「グローバル人材」はおられるのかもしれないが、ほぼ全員は違うでしょう。
 教員だけではありません。日本の若者のうち、どれほどが彼らのいう「グローバル人材」になっていくのか。ほとんどならないでしょう。(もしね、半分以上がなってしまったら、彼らの方が困ってしまうかもしれません) 
 では、どうして「グローバル人材の育成」というのか。それは「グローバル人材」を若者に目指させ、それがうまくいかなかったら、「お前は落伍者だ」というような意識を植え付け、非正規雇用だとか、安い人件費で働かせることが、「影の目的」ではないかと思えて仕方ないのです。もし違うなら、非正規雇用の割合の増加を説明できない。

 この「ゲーム」に学校は参加していませんか。「グローバル人材の育成」の元に「学力向上」をうたい、それを「大学合格」に結びつける。ゴールともいうべき大学合格を数値で表し、そこに向けて走らせる。私立学校はこの合格者数という数字を学校の経営の「道具」としているでしょう。そして公立学校までがここ10年程度で、このゲームに加わってきています。そのため、「優秀」な教員を私立は公立から引き抜いたり(まぁ、引き抜かれるわけですね)、公立は「主要高校」に集めたりしているわけです。そして、「実績」を(生徒が)出すと、それが(管理職・教師の)手柄になります。このルートにうまく乗っかった生徒は、まだ学校に違和感を持たないでしょう。しかし、乗ることができなければ、「母校」とは呼びたくもないのでは? 学校の目標に「貢献」できなかったのですから、あまりいい気分ではないでしょう。
 彼らの目指す、一部のエリートと、多くの人件費の安い非正規雇用を生み出す競争は、学校の大学合格者実績数競争から始まっているというのは、いいすぎでしょうか。前回に引き続き申し上げれば、私は生徒が大学に行くことを否定しているのではありません。そして、大学にいけるなら、大学で学んでもらいたいと思っています。そして、大学進学へのモチベーションだってしています。私が主張することは、それは生徒の内面から湧き出てきた学びたい意欲がきっかけとなるべきであり、決して学校側が規定しようとするべきものではない、ということです。学校は、生徒の内面の成長を促すものであり、その成長の結果の「果実」は提示すべきではないと思っています。
 大人は往々にして、自分の思い通りにならない子どもを脅かします。「そんなことじゃ、この世の中の『果実』をとることができないんだぞ」と、さもその「果実」は誰にとってもすばらしいものであり、普遍の価値を持つものとして提示します。でもね、いっている大人自体、それが本当の果実だと思っていなかったり、実は果実を手にしたことがなかったりするわけです。結局、自分の思い通りに子どもをするための「幻想の果実」に過ぎないわけです。私は、学校の教員はそれが「幻想の果実」だと分かっている人が少なくないと思っています。
 そうすると、なかなか書きにくいことではありますけど、今の「学力向上」「進学重視」の掛け声の延長線上には、子どもを自分たちの思い通りに育てたいという大人の醜い心情が入っているような気がしませんか? 同意してくれる大人は少ないかもしれませんが、同意してくれる子どもは多いような気がします。

2013/07/26

先生の成長2

箱の開け方が分からなければ、箱の開け方を教えられます。
釣りの仕方が分からないなら、釣りの仕方を教えられます。

当然といえば当然なのですが、実用的な「教え」とは、こういうものでしょう。自分の目的の答えを持った人がいて、その人にその答え(方法)を教えてもらう。箱の明け方にしても、釣りの仕方にしても、なんでも具体的な答えが決まっていれば、明確に教えてもらえるわけです。

しかし、教育の目的である人間の生き方については、答えが明確に決まっていません。経済が右肩上がりで、バブルの絶頂期のころまでであれば、一定の「方程式」があったのかもしれません。(その「方程式」が本当に正しいものであったと現代の若者がどれほど信じているか私は疑問ですが)。

しっかりと勉強する。偏差値の高い高校に入学し、有名大学に進学し、大手企業に就職することが、人生の目的であり、幸福へのチケットであると信じているナイーブな大人はどのくらいいるのでしょうか。わざわざ仕事や大学を休み、東日本大震災の被災地にボランティアとして活動をしにいく多くの若者の行動は、それとは対角線の位置にあると私には思われます。有名私立中学・高校、そして有名大学に入学、大企業に就職をしたことで自分は幸せになったと思っている人はどのくらいいるのでしょうか。もちろん、権力や資産の魅力にとりつかれている人もいるでしょうが、実際に「自分は学歴や学力で幸せになった」という人は極めて少数派なのではないかな? そうではない何か、人とのつながりや自分が生きていることの存在意義、社会的な役割、自分の人生を自分で選ぶことの力などで幸せを感じるのではないかなぁと私は思ってしまいます。人は幸せになるために生きているのであり、学校での学ぶということは、人生の目的=幸せになることにつながっていくものだと私は思っています。次の世代にこの社会を受け渡し、よりよい世の中にしていけるような人材を育てることが、抽象的ですが、学校教育が目的とする「人材育成ポリシー」なんだと私は思います。

人生論や宗教論的になってしまいましたが、もうすでに、勉強をすることによって得られる「果実」として「学歴」や「就職」があったにせよ、それが私たちの幸せ・不幸せが決めるものではないということは、今の40代以上を見れば分かるでしょう。出身大学順に「幸福度の偏差値」が決まっているわけではありません。私たちの若いときに出現した「フリーター」は、「フリーター」的な生き方があって、それを社会を受け入れたという若者にきっかけがあったのか、私は疑問です。というのも、「非正規雇用にならないように」と子どもにいっても、20代前半の若者の非正規雇用の割合が40%を超えている現状は、若者が非正規雇用を求めているからではなく、企業側の論理です。それなのに、職業として身分が安定している教育行政に携わる人々や、教員が、「非正規雇用にならないように」なんていっても、説得力はないでしょう。そんなことをいうくらいなら、社会から非正規雇用がなくなる方向への活動をするべきじゃありませんか。それとも、あなたが目の前で教えている生徒さえ良ければいいですか? 自分が安定している受け皿に乗っているせいか、「受け皿」が小さくなっていくことに目を背け、いかにしてその受け皿に滑り込めるかを考えるよりも、どうやって大きくしていこうとするかを考えるほうが、よっぽど次世代のためになるのでは。「そんなことをいわれても」という声が出てくるかもしれませが、私たちができることは、自分の虚栄心を意識した上で、それを満たすための行動を生徒を使ってしないことだと私は思う。

 多くの大人が、子どもに対して勉強のモチベーションとして、「方程式的な幸せ」を長い間与えてきたことも、紛れもない事実です。その上、残念なことに、一部の学校には国立大学合格何名だとか、早慶上智に何名だとかという、「数値目標」がいまだに掲げられています。(売り上げを自分の力で上げる数値目標なら分かるけど、勉強をするのは生徒なのに、その生徒の「努力」の数値目標というのも、私には違和感があります) 
 こういう目標があれば、そこで働き続けるためには、「教える技術」に目を奪われる先生方が出てくるのも当然でしょう。「学力をあげるための指導技術」があれば、飛びつきたくなる。もちろん、生徒の学力を上げたいという思う気持ちは私も同じですが、そのバックボーンが受験なのか、人間的な成長を信じることなのか、全く違うのです。

本来であれば、好きだから学ぶ、というのが基本です。役に立つかどうかではなく、好きだから、興味があるから学ぶのが本来の学びです。それがどうして、こうも変わってしまうのか。受験を通じて、人間力が鍛えられるという側面もあることもよく分かります。自分と向き合うわけですから、自分が鍛えられますが、それはラッキーな副反応ともいうべきものです。

誤解なきように念を押せば、私は受験制度を廃止せよといっているのではありません。大学のオープンキャンパスも生徒には勧めているし、大学で学ぶすばらしさも伝えていますよ。生徒が自分で調べ、「○○大学に行きたい」と決めたならば、それは全力で応援したい。それは生徒が自分の人生を自分で決めようとしているのですから、そのサポートは喜んでします。(今までもそれはしてきている) 
そうではなく、教師自身(親)が自分の虚栄心を隠しつつ、「この生徒は勉強が出来そうだから、○○大学を目指して頑張らせたい」「今年は二桁の国立大学を目指させたい」ということは止めましょうよ、と私はいっているのです。そして、それを動機としての「学力向上」に強い違和感を持っているのです。

2013/07/25

先生の成長1

1学期が終了と同時に、生徒引率でオーストラリアのWaggaWaggaに。独身のときにバックパッカーでオーストラリアを3週間ほど旅していましたが、ずいぶんと物価が高くなっていますね。それと、あの頃にはいたるところにいた、日本人がシドニーであまり見かけませんでした。(現地ガイドさんも同じことをいっていました)

わがままに関しては天下一品のせいだからでしょうが、私は押し付けられる無意味な仕事のモチベーションが高まりません。おそらく、カネとか名誉をいくらぶら下げられようと、自分が無意味だと思う仕事には決して魂が入らない。その一方で、必要だと思うことは、見返りがなくても行います。これは、私が尊敬する先生に共通することです。学習指導でも、校務分掌でも、部活動でも、必要だと思うこと(生徒にとって必要でありかつ、自分がしたいこと)をしている先生は、こちらが小さくなるくらいに、まぶしく感じます。

日本から離れているのですが、ネットでつながると外国にいる気がしません(苦笑) でも、少し冷静になって、ブログを書いてみます。

  • 英語が使える人が「グローバル人材」の資質を持つということは、数学ができる人が「論理的な考え方」を持っている人というのと同じくらいに、御伽噺ではないか。

なんだか、英語=グローバルという手垢のついた発想です。「数学は論理的な思考を高める」と私も教わりました。これは逆から考えれば、確かにいわゆる理系の人たちは、「論理的思考」でものごとを考え、数学が苦手だった人は論理的思考がない、ということになりませんか? 今まで私が接してきた数学の先生の圧倒的多数が論理的に考えており、大学入試で数学を必要としなかった先生方は論理的思考ではないのでしょうか。いやいや、そんなことはありません。感情的な数学の先生も多くいましたし、論理的な私立文系大学出身の先生もいました。
おそらく、「論理的思考の資質を持った人は、数学が好きな傾向がある」という程度なのではないかなぁと私は思います。

同じく、「英語という教科に興味を抱くという資質の持ち主は、外側(海外)に興味を持つ傾向がある」という程度ではないのでしょうか。これって、べつに「ニンジン」があるからそれを選ぶのではなく、資質がベースとなり、自分が興味を抱くようになったきっかけがどこかにあったから、学び始めただけにすぎないでしょう。

グローバル人材である経済界の方々のように、金儲けをしたいからとか、政府のナントカ委員に選ばれたいとか、自分の名声を高めたいとか、そんなことはありません。英語教育を批判するライターのように、こんな記事を書けば、英語教育に批判的なグローバル人材の方々から「ういやつじゃのぉ」といってほしい、なんていう下心ではありませぬ。人間の基本的な欲求は、「~したいからする」ということです。

内田樹氏ではありませんが、人は勝手に意味を見出していくものです。誰かの言葉を勝手に解釈して、それを自分の糧にするものです。学びとはそういうものです。もし画一的なものがあるなら、本の伝えるメッセージは誰にとっても同じでしょうが、そんなことはありません。同じなら、文学批評なんていらないはずですから。

もともと、学校という場所(中学校や高校に限定します)は、その教科(科目)に興味を持ち、それを教えたいと思う人が先生という立場になる場所です。そして、その教科(科目)に興味を持っているとは必ずしもいえないが、そこを自分たちの居場所にしている(したい)と思っている人が生徒としてやってきます。だから教師は、生徒が学べるような環境づくりをします。それが、「生徒指導」と呼ばれます。

自分が教えたいことを教えるための環境づくりですから、「生徒指導」には温度差があってある意味で当然です。ある程度、ごちゃごちゃの中でも教えられる人はキャパが広いし、きっちりした中で教えたい人は、均一性を目指します。世の中はひとつの価値観ではないのですから、そういうバラバラもいいものだと私は思っています。

ところが、この場所に、外部からの妙な圧力が入ってきます。自分たちのイデオロギーを学校現場に押し付ける人たちが出てくる。この人たちは、「自分たちは間違っていない」という発想だけではなく、「自分たちこそが真実なのだ」という仮面(本心?)をつけているから厄介なのです。

「間違っていない」(「自分たちが真実」)という発想には、価値観がひとつしかありません。たとえば、英語=グローバル人材の育成の基本、のようにです。世の中は、彼らのような優秀な方々だけではありません。なにせ、資産作りや金儲け、権力闘争といったごくごく普通の人にはあまり縁がない高いポジションで生きておられる方ですから。有名私立学校に行き、迷いもなくグローバル人材を目指している若者は極めて少数であります。だから、ごくごく一般の子どもたちが、思春期に悩んでいる姿はあまり想像できないのでしょう。もちろん、私だって学力をつけようと努力はしていますけど、それはグローバル人材育成のためだなんて思ったことはありません。新しいことを生徒が学ぶ、できなかったことがわかるようになっていく経験は、若者にとって必要だと思っているからです。

このような営みの中で、教師は教師になっていきます。それで、いいんじゃないのかなぁと私は思います。
教師が名誉や名声、実績作りを目指し始めると、「裾野にいる生徒(部員)」はだいたい、その活動の意味とは違う犠牲者になるものです。強豪校と呼ばれている部活動の話を聞けばそれはイメージできるのでは?

オーストラリアのガイドさんが、「オーストラリア人は働かないですよ」と冗談めかしていました。仕事は9-17時。昼休みは1時間半。完全週休2日で、土日に働くときには、倍の給料。サービス残業なし。それでいて、経済は順調です。(中国経済の影響をもろに受けるだろう!という人もいるかもしれませんが、それはどこの国でも同じことでしょう)

リーダーとしての役割の人が、ギスギスと運営しようとすれば、社会全体がギスギスとしてきます。多くの人がイライラしてしまいます。その結果、「かくあるべき理想論」というイデオロギーが組織論・社会論にとどまらず、「役割論」にまで侵食してきています。「教師はかくあるべきだ」「生徒はかくあるべきだ」「若者はかくあるべきだ」というコンセンサスを作るのは、リーダー的存在であり、それを認めているのは、その嵐の中にいない人々です。(そこからはみ出てしまった人は、宇宙の彼方にいくはずもなく、誰かの隣人になります、念のため)

これでは、感受性が豊かな生徒はいまの学校制度では育ちにくいのではないかなぁと私には思えてしまいます。

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