« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

2013/05/26

日本英文学会第85回大会

 ということで、仙台から帰ってきました。広島大学の柳瀬陽介先生からお誘いをいただき、柳瀬陽介先生や山口県の佐藤綾子先生、順天高校の和田玲先生、甲南女子大学の鈴木章能先生と「「文学出身」英語教員が語る「近代的英語教育」への違和感-大学の英文学教育は中高英語教員に何ができるのか-」というタイトルでシンポジウムに参加してきました。
 発表原稿は次の通りです。実際には、もっと簡略してお話しをしましたが、予定ではこのように発表するはずでした。自己紹介の部分を省き、全文を掲載します。

◎動機付け

 「学習への動機付け」は古くて新しいテーマである。英語学習の場合の動機付けは、学校の内外で見つけられる。たとえば「グローバル社会で生き抜くために必要だ」「大学入試で必要だ」「将来の出世のために必要だ」など、大人の視点からの利益を果実とする動機付けがその中でも代表格だろう。このような「おいしい」動機付けが子どもたちに与えられている一方で、高校生や大学生の英語力は下がっているといわれている。「希望の英語教育」(江利川春雄氏)で紹介されている調査によれば、「(茨城県での約20万人の調査では)2008年度に偏差値50であった成績中位者(1万人の受検者中5000番の生徒)が1995年のテストを受けるとすれば偏差値が42.6に下がり、順位も2704番下がって7704番相当の実力」(斉田智里2010)となっている。全ての教科で、「大人の視点」的動機付けがもっともなされている英語の力が落ちてきているのか。これは、「大人の視点」が高校生の視点とはまったく違うからではないだろうか。今の高校生はよく勉強する。自分の高校時代を思い起こすと、ここまで学習していたとは思えないほど勉強している。それなのに、どうして英語力の低下があるのか。

 

◎共感

 「大人の視点」というのは「勝者の視点」である。その「勝者の視点」、つまり自分がグローバルな社会で働きたいとか、出世したいとか、人もうらやむようなカネ持ちになりたいとか、有名大学に合格したいだとか、名声がほしいだとか、そのような思いを高校生が持っていない限り、「動機付け」にはなりにくい。20年ほど高校生と接してきて、そのような「野心」を強く持っている生徒はあまり多くないように思われるのだが、今のおじさん世代(団塊の世代~激しい受験戦争世代)は強く持っているような気がする。そこが「動機付けギャップ」なのだろう。

 小学生から若者まで人気のある『One Piece』にもそれは表れている。海賊王を目指す主人公ルフィーとその仲間が航海するマンガであるが、そこには競争的な要素や、勝ち負けの要素よりも、「仲間のため」という気持ちが強い。仲間を守る、仲間に共感する、仲間に打ち明ける、そのような物語が今の中高生を引きつける。そこには、よりよい生活をしたい、自分が中心となって活躍したいという思いを持つ中心的なキャラクターは出てこない。競争で世の中が良くなり、受験の勝者が幸福になるという親世代の方程式がいかにウソだったかを見てきた今の若者は、周囲との競争より、周囲への共感に重きを置いているのではないか。

 共感に重きを置いているからこそ、「上から目線」をより嫌う。「大人の視点」は「上から目線」そのものであり、聞いてはいるけど、聞き流されている。耳には入るけど、脳では拒否される。

 

◎共感をえる題材

 先生と呼ばれる人は、比較的「勝者」であるから、英語のできない「敗者」に対して「上から目線」の題材を採用したり、教材を作る傾向がある。しかも、無意識に、かつ、悪気なく作ってしまう。残念ながら、教科書でもその傾向はあり、学力が低いと、人間力や精神年齢までが低いと思っているとしか思えないような内容が幼稚な教材さえある。もしくは、英語の時間は修行であり、ただその時間を「こなす」ことに主眼を置いているという気持ちしか伝わってこないものもある。行間から、「この教科書(教材)を使う生徒は英語が苦手ですから、まぁ、深く掘り下げてもムダですよ」という編者(著者)の声すら聞こえてくるものもある、残念ながら。そういう教材では、生徒が共感することはないだろう。

 そういう中で、生徒にとっても取り組みやすく、現代の若者の内面に刺激や共感を与えられる教材のひとつが文学ではないかと私は思う。たとえば、『星の王子様』(三省堂、Exceed1)。王子様がそれまで訪れた星で出会った人々は、子どもにとっての「大人像」としても捉えられる。そして、物語の中には子どもが共感できることばもたくさん含まれている。

One sees clearly only with the heart.Anything essential is invisible to the eyes.

(心で見なくちゃものごとはよく見えないっていうこと。たいせつなことはね、目にみえないんだよ。)

You mustn't forget it. You become responsible forever for what you've tamed.

(あんたはこのことを忘れちゃいけない。面倒をみた相手には、いつまでも責任があるんだ。)

英文はそれほど難しくはないが、生徒は自分の体験や思いをこの話しに重ねることができる。生徒は、子どもっぽく見えて、アイデンティティに苦しんでいることも少なくない。大人が思っている以上に、辛い経験を重ねていることが少なくない。実際、『星の王子様』で授業に入るまでは、生徒がどれほど関心を示すが不安だったが、実際に授業をしていくと生徒は内容に入れば入るほど、集中してきたことに驚いたことを覚えている。いわゆる「手ごたえ」があった。それは、生徒が言葉にできないけど、なんだかモヤモヤしていることが物語の中に言語化されていたり、自分の心の中で思っていたことが文字になっていたりしたからだろう。

 ブルック・ニューマンの「リトルターン」(三省堂、Exceed Reading)も生徒の心をひきつける。見た目には全く変わっていないのに、急に飛べなくなってしまったアジサシに対して、生徒は自分たちの「喪失感」を重ねていく。友だちにも何事もトラブルがないように装い、飛べなくなったことを隠している主人公のアジサシに対して、生徒は自分たちの心を映し出すことができる。そして、その中で新しい出会いがある。また、「その時」がくると、アジサシは飛べるようになるという希望を持っているエンディングも、生徒に共感と希望を与えてくれる。

 いわゆる文学という範疇に入るかは分からないが、「コーチ・カーター」(開隆堂、Sunshine2)も部活動を熱心に行う生徒は共感できる話題でなかろうか。今は弱いが、かつてのバスケットボール名門校に、OBで全米最優秀選手にも選ばれたケン・カーターがコーチとして招聘される。そして彼は練習させるだけでなく、生徒に勉強をさせ、服装を整えさせていく。勝利至上主義よろしく「コマ」として生徒(部員)を見るのではなく、規律を持つことの大切さや、勉強をしていくことの大切さを訴えるカーターと、それに応え、文武両道に邁進していく選手は、学校における「人間力」の育成のヒントになる。ややもすれば、「部活をやりに学校に来た」とうそぶく生徒もいるが、えてしてそういう生徒も本当は勉強ができるようになりたいと思っている。そういう生徒にとっても、何かが変わるトピックだろう。

 もちろん、全ての課が文学だとお腹一杯になってしまうだろうが、このようなレッスンは必要だと私は思う。

 

◎共感から学習へ

 英語学習に音読が必要であるが、共感できる教材は生徒は声に出す。表面的な読みだけではなく、行間まで自分たちなりに解釈しようとする。英語ができるできないという次元ではなく、共感できれば、先を知りたい、もっと学びたいという生徒だけでなく、誰にとっても自然なことなのではないか。だいたい、利益による動機付けするよりも、共感による動機付けのを、純粋であればあるほど、人は好むのではないだろうか。

 日本語であれば「クサイ」ものでさえ、英語だと素直に心の中に入ってくる。たとえば、授業の中で"Do you have a girlfriend?"といっても生徒は反応するが、「おまえ、彼女いるの?」というと、問題になる。"What time did you get up this morning?"というと答えようとするが、「今朝、何時に起きたの?」と聞けば反応は薄い。母語以外の言語だと、なぜか受け入れやすいことは、こんなところにも表れている。

 その上、これは希望を持ちすぎかもしれないが、文学作品により、自分の何かが変わったとなんとなくでも感じられたら、将来、本を読むことも増えてくるかもしれない。

 文学は人間そのものなのだから、英語を通じて、自分を含める人間への理解を深められるという大きなメリットがある。学力は豊かな人間力の上にあるべきものだ。様々な人間を文学を通じて思考を重ねることで、人間力を高められるのではないかと私は思う。そしてそれが、本来のコミュニケーション能力につながっていくと私は信じて疑わない。

 また、閉塞感を感じることが多いが、文学に親しんでいれば、人間は同じようなことで悩んだり、争ったりすることが分かり、自分だけではなないんだなぁと実感を持てるのではないだろうか。

 しつこくなるが、共感できる教材なら生徒は興味関心を持ち、学習につながる。それは学力アップにつながるだけでなく、生徒の人間的成長にも大きく寄与する。プラクティカルな英語という圧力が強くなってきているが、人間力をつけるためにも、文学的な要素は必要だろう。

 

2013/05/04

虚栄心は名誉欲は怖い。魅力的だからね。

tweetしたことまとめておきます。少々、誤解ないように一部加筆訂正してあります。

ここ10年以上の学校教育のひずみの根本にあるものは、「実績を残すこと」に拘りすぎている学校や教師、そしてそれを願う体制や保護者、それに乗っかりたい教育関連の企業なのではなかろうか。「実績」とは生徒の有名大学への合格だったり、虚栄心をみたすものだったりする。
「ありのまま」を受け入れようとせずに、「理想的な生徒」「理想的な教師」など「理想的な○○」を望みすぎたら、それこそ社会が歪む。(英語の教科書の登場人物ばかりだったら怖くない?w) 反社会的でない限り、生徒のありのままを受け入れればいいじゃないのか。
根本にある問題は、「幸福な生き方」にあるのではないか。有名大学に行くことやグローバル社会と呼ばれるところで活躍することを「目的」とすることが幸せ には直結しないのに、なぜか直結しているように大人は子どもを教育しようとする。それを信じて子どもは勉強し、その結果が学校(教師)の実績になる。その「実績」は数字としては残るが、生徒の人生にとってのプラスになるとは限らない。
幸福論についてはいろいろなことをいう人がいるけど、自分の人生を自分で決められること、そして友人(人間)関係が豊か(多さとは限らない)であることが もっとも大切だと思う。小学生だってひとつの人格を持っているのだから、自分で人生を選ばせたい。大人の役割は、背中を見せ、サポートすること。
今年26歳になる卒業生(女子)が結婚するという連絡を受けたのだが、その周囲はまだ結婚しないという。その理由は、お付き合いしている男性が、非正規雇 用だからだそうだ。結婚したくないのではなく、将来が不安で結婚できないという。この問題の方が、私はよっぽど根の深い問題だと思う。
目の前の生徒の幸福を考えるのであれば、大学合格の数を競うよりも、安心して働けて、生活を送ることができる社会作りを目指す方がよっぽど大切である。結 婚したいのに、目の前にいるお互いにとって大切な相手と結婚できない。この方が、国家にとってよっぽど大きな損失ではないだろうか。
若者を安い労働力、文句をいわない労働力として非正規で雇用している経済界の視点を、「民間の視点」として受け入れることは、若者を人生をどのように考えるかという点において、学校とはまったく相容れない。蟷螂の斧に過ぎないけど、私は疑問を持って、活動していきます。
大学合格者数に拘ったり、どっかから降ってわいてくるプロジェクトに教師が乗っかったりするのは、自分の実績を作りたい=つまらん虚栄心を満たしたいとい う欲求が根底にあるのではないか。本来、教育とはそういう下らないことから遠く離れたところに位置する。そういう人たちは、必ずグループを組む。それは、勝海舟の元に集まった志を持った集団ではなく、ピン立ちできなかったり、おこぼれにあやかろうとするチームである。大きなチームから、小さなチームまで、いろいろとあるでしょ。ほら、そこそこ。
くだらない虚栄心とかけ離れているから、「変人」が学校の教師として存在している。生徒のありのままを受け入れるから、「変人」が学校の先生として必要 だ。施政者が「枠」を作れば(緩やかな枠は必要だよね)、そこからはみ出てしまう子どもがでてくる。はみ出しすぎないためにも、「変人先生」は必要なんです。
そういう先生が「居場所」となって、生徒もありのままの自分を受け入れて、「ちょっとはみ出た場所」で過ごせるようになる。そうすれば、生徒はあっちまで、はみ出しすぎない。
ということで、大学の教職では、エリクソンのライフサイクルを1年間、じっくりと学んだらいいのではないかなぁと思う。人間はどのように生まれ、どのよう に死んでいくのか。「死」という視点があれば、虚栄心から冷静になれる。大切なときに、冷静になれるんです。(いつもじゃないよ)

« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
フォト
無料ブログはココログ

おすすめ