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2012/12/24

学力の差はどこでつくか

ようやく冬休み。最後の授業で生徒から「今年の授業はきつかったです」といわれ、ちょっと満足。
「○○対策」とは、ヨッシーの「ふんばりジャンプ」みたいなものだと私は思います。いくら対策をねったところで、それを支える土台がなければ対策なんて出来ないし、その形式に慣れることがいちばんの対策でしょうし。

今年というか、ここ2年、雑誌「英語教育」は斜め読みになってきたし、「新英語教育」はずいぶん離れた距離で読んでいます。

ブログをいちばん書いていたときは、どのように生徒の学力をアップさせるかということだけを考えていました。そのために必要なのは、方法論だと思っていたんですね、あの時は。だから音読をさせようとか、対面リピートだとか、単語を文で覚えさせたり、フレーズになったりと、とにかく、試行錯誤でした。

そして、実際に、生徒の学力がついていった。おもしろいほど、つきました。だいたい2007年前後だったかな。

ただ、記事に書いたかどうかは記憶は定かではないですが、現在まで続く引っ掛かりがふたつあります。

  1. どんなテストでも、学力のある生徒の点数が高いのはどうしてだろうか
  2. 何かと批判される「訳読」だけをしている先生のクラスも、「アクティビティが活発である授業」のクラスだろうと、学力の高い生徒は成績が高いし、そうでない生徒は低いのはどうしてだろうか

たとえば、テストで「妥当性」なんて何度も聞きました。確かに、教師を20年近くもしていると、自分が作った問題も含め、「え!? どうしてそんな問題を出すの?」ということに何度も出会います。「そんな問題では妥当性(=勉強した生徒と勉強していない生徒との間に差がつかない問題)が低いよ」というような問題です。でも、そんな問題でも、勉強をしている生徒は点数がいいし、していない生徒は点数が悪い。これ、どうしてでしょうか。私の考える「妥当性」が間違っているとしか考えられないという結論かな(苦笑)。

そして、「音声を含めないと」「文法をしっかりとやらないと」「アクティビティで動きがないと」「日本語に訳せないと」などなど、先生方はいろいろなこだわりがあります。よく、「訳読式の授業はダメだ」なんていうけど、そういう先生のクラスの生徒の点数が極端に低いかというと、必ずしもそうでもないわけです。すると、優秀な先生方は「生徒が自分で勉強したんだ」というでしょう。何度も聞きました、はい。でもね、勉強をしない生徒が多い学校で、そういう授業だったとしても、テストの平均点が15点も変わることなんてほとんどないわけです。10点変わることだってレアケースです。平均点では「優秀な」先生が教えているクラスの方が高かったとしても、そのクラスの中には、「昔ながらの」先生が教えている生徒よりも点数が低い生徒だっていくらでもおります。もっとえいばね、英語を専門で勉強もしていないような大学生が教える塾に通っている生徒は、学力が伸びないんですか? そうとは限らないでしょう。

私が何をいいたいのかといえば、「教え方」のみでは、教師が想像しているよりもよっぽど小さな差しか産まないんじゃないか、ということです。もちろん、職人的にその「差」を追求するために、指導法に力を入れるのは、とても尊いことだと思います。しかし、リアリスティックに考えると、もっと大きなポイントが違うところにあるんじゃないかなぁと漠然と思うわけです。

(続く予定)

2012/12/20

prophecy? prophet? profit?

第3回考査前の授業が完了。担任をしていると、いままでに経験したことのないことが出てきます。ひとつひとつ勉強です。自分の「一手間」で、生徒が楽になっていくのであれば、順調にいっていることは脇に置いておいても、その「一手間」に時間を費やしたいものです。

twitter(@kumita0921)でも書きましたが、私は議論をするつもりはありません。議論をして、何かコンセンサスが産まれるとは思ってはいないし、お互いにイヤな思いをするだけだし、議論に勝とうが負けようが、何も生み出さないし。

この頃、どうしても違和感があるものがCan-doリストです。「自分の授業の設計図を作り上げていくことが間違っているというのですか?」といわれれば、間違っていませんといわざるをえない。でもね、それが正しいかというと、どうもそう思えません。

大まかなリストは、全体的な目標が見えるが、具体性に欠ける。細かいリストは、丁寧に書かれているけど、がんじがらめになる。大まかなリストの方が力を発揮できる先生もいれば、細かいリストが似合う先生もいる。だから、「統一したリスト」には違和感がある。これがひとつめの理由。

昔、ジョッキーの武豊氏が「スタート前に想定していたものとは違う展開のレースがあった」と話していました。全盛期だった彼でさえ、先行・差しの想定とは違うことがあったんですね。機械でなく、「馬」という生き物が相手ですから、自分の思ったようになどいかないことがあるわけです。これはクラス(生徒)も同じことです。開けてみなければクラスの雰囲気がどうなるか分からないことがいくらでもあるのに、その前にリストがどうして作れるんだろうか。

良かれと思って作ったものに、手足を縛られて、柔軟性がなくなっていくことにどんな意味があるのかなぁとずっと思っていました。

たぶんね、根底にあるのは教員不信ではないかな、と思うようになりました。それと、悪意のない信念の押しつけ、です。

授業の方法からカリキュラムにいたるまで、細かいことを決めたがるのは、教師に対する不信感が根底にあるのではないでしょうか。だから、お上はいろいろと規定したがってくる。それに対して、なぜか、優秀といわれている先生がその片棒を担ぎ、現場教師をサポートする大学の先生方が、なぜか片棒を担ぐ。そして、その担いだ見返りに、ポジションが変わっていく人が少なくない(苦笑)

本来であれば、優秀といわれている先生こそ、世の中に自分たちの実践を示して、不信感を払拭するべきである。サポートする大学の先生は、世の中に対してもサポートすべきである。ところが、そうではなく、規制側に回っていく。もしかしたら、本人はそんなつもりはないのかもしれないけど、それが規制側に利用されるんです。

「1年生の時にこれをしておけば良かった」「1学期にこれをしておけばよかった」というshould-have-doneリストの方が教師にとってプラスになると私は思うんですけどねぇ。あまり、同意してくれる人はいませんが(苦笑)
自分なりに「いい授業が出来たな」と思っても、満足できなかった授業と比較して、生徒の学力向上は大きな差がないのも不思議なところではあるんですけど(苦笑)

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