« 指導テクニックを磨く、その前に。 | トップページ | prophecy? prophet? profit? »

2012/11/15

俗物的自分が可能な無私の部分

一昨日は妹を連れて病院へ。「高齢出産」なので、心配です。本日には産まれそうだということで、吉報を待っています。

前回の続きです。

「指導方法、その前に」と書きました。すごく極端なたとえであることを承知の上で、こんな疑問をこのごろ強くしています。

  • 名人の先生の口調や間の取り方、指導方法など全て備えたロボットは、すぐれた教師になり得るか

そして、Can-doリストについて感じたこと。

  • すばらしいリストを作り、その通りに授業を行えば、生徒の学力はアップするか

英語教育の施策は、生徒の英語力アップのためのものにあるはず、ですよね。決して、誰かの研究の成果のためだったり、英語教師(教授?)的栄心を満たすためだったり、ということではないはずです。もちろん、「現場職人」である現職教員よりも、持続的に国家が運営されることを考えたり、「英語力」とはどのようなものなのかその方向性を示したりすることは、指導層にとっては大切なことです。もっといえば、方向性を示す人々は、無私でなければ、どこかに矛盾が生じてしまい、それは隠しきれないものであるという、メタ認知能力を備えた強い気持ちを持たなければいけない。(メタ認知がなければ宗教になってしまう危険性がある)

少し話題がそれましたが、「これはすぐれた指導方法だ。だからみんなに広めよう」とか、「リスト作りは生徒の学力アップに役に立つ。だからみんなに広めよう」という人たちには、おそらくは悪気はない。しかし、あなたたちにとって役に立ったことが、他の人にとって役に立つのかというメタ認知能力がない限り、他の人のモチベーションを下げる可能性があることを知ってもらいたい。

「汎用性のない研究」が無駄だとは私は思いません。しかしそれを、「あたかも汎用性のあるもの」として、「広めていこうと発表すること」には違和感がある。「○○大学(高校・中学校)ではこういうことができた、だからあなたのところでもできるはずだ」という条件がまったく違うところで当てはめられると思っているならそれは違うでしょう。

あまりふさわしい例ではありませんが、英語教育の方法論よりもよっぽど汎用性があると私は思っているアドラー心理学をベースとした対生徒関係でさえも、教師の人間観がアドラー心理学と違えば、意味が非常に薄れてしまうわけです。教師は生徒をコントロールすべきだという発想の元では、アドラー心理学は使えません。(そういう人がアドラーを学ぼうとはしないだろうけどw)

つまり何がいいたいかというと、プラクティカルなことよりも、「学力」を生徒に「伝承」したり、興味を抱かせるような、その中間的存在の教師というのは、人となりが大切なんじゃないかなぁということです。故・遠藤周作がそのエッセイの中で「キリストやムハンマドなど立派な人物だとは思うけど、彼らが自分の連れ合いだとしたら辛いだろう」と書いていた(気がする)。成人君主は立派だけど、こっちが疲れてしまう。俗物ではあるけど、手の届きそうなちょっとした部分が無私であるとういことだけで、私には人間的魅力を感じるのですが、いかがなもんですかねぇ。

やっぱり、文学に戻るといいかもしれませんね、19世紀のイギリスのように。

« 指導テクニックを磨く、その前に。 | トップページ | prophecy? prophet? profit? »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 指導テクニックを磨く、その前に。 | トップページ | prophecy? prophet? profit? »

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
フォト
無料ブログはココログ

おすすめ