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2012/10/17

感謝!

授業も「受験モード」に徐々に近づく。といっても、構文集や問題集を行うわけではなく、基本は「要約・音読、そして単語」。

授業の開始は英検の長文問題の活用。第2回山口県英語教育フォーラムで、永末温子先生 (福岡県立香住丘高)から学んだ方法です。表面に問題文、裏面に問題を印刷し、長文を読んでから問題に進みますが、一方通行です。最初は、3級から始まり、次に準2級(←現在、ここ)。これから2級まで進む予定。要約をしっかりと行っている生徒は全問正解している割合が高く、さすがですね。
今年で、山口県英語教育フォーラムは第5回を迎えるようです。私も伺いたいと思っています。

  • 第5回山口県英語教育フォーラム

    「『Can-Doリストの使用』、その前に・・・。」、 長沼 君主"東京外国語大学)

    「『英語の授業は英語で』、その前に・・・。」、 山岡憲史立命館大学

    「『自己表現』、その前に…。」、 奥住 桂埼玉宮代町立前原中学校)

講師の先生を取り囲んでの懇親会も勉強になります。講演やブログでは分からないお人柄を感じられることが興味深い。今年は、山口県に山形の銘酒を持っていきますので、また多くの出会いがあるといいな。

長文をしてからは、大学入試センター試験の並べ替えの問題を使い、文法の復習。どうも分からなくなってくると、動詞をふたつ並べたり、前置詞の後に動詞を入れたりと、彼らのイメージする「文法学習」とはまったく違う問題なのに、自分たちでより複雑にしてしまう生徒がまだいます。SVは大切に、前置詞の後には名詞、SVがふたつある場合は接続詞がある、makeを見たら知覚動詞だと思え、見る聞く感じる知覚動詞、そんな標語的に繰り返し復習をしています。恥ずかしながら正直言えば、自分が今まで授業で行ってきたことは、そんなに生徒には定着していないものですね(苦笑) でも、「思い出す」という作業が出来ているので、よかれとしますか・・・。

授業の最後の30分程度で「要約」です。これについては、また近日中に。

さて、お陰様で、柳瀬陽介先生、奥住桂先生との共編著『成長する英語教師をめざして』の第2刷が出ることになりました。


日本各地の、校種、年代・立場を超えて、英語の先生方の思い・考えが詰まった一冊です。たとえば高校であれば、いわゆる進学校から、いわゆる底辺校まで書かれており、どの学校でも英語の教師の役割は、英語の授業を通じて、生徒の成長を促すことなんだなぁということが分かります。さらに、その作業を通じて、教師自身も、英語教師として、さらには教師、人間として成長していくことが胸に響いてくるエッセイで書かれています。

第2刷には、帯がかかります。その帯はこちら。

Viewattachmentimage

帯には筑波大学の卯城先生、埼玉医科大学の笹島先生の書評の抜粋が引用されています。皆さま、どうかご購入下さい♪

2012/10/10

Teachers think, therefore we are.

一昨日の月曜日はとある研修会。雨の中にも関わらず、多くの先生方が全国から集まっておられ、その熱気を感じてきました。

話題は変わりますが、アサーショントレーニングに参加したことがあります。アサーションとは、「相手(の意見)も自分(の意見)も大切にする」という考え方です。(しっかりとした大人であれば当然のことのようにしていることなのですが) 自分の考え方を述べることは、基本的人権と同じものであり、大切にされなければなりません。昼食を一緒に誰かと行こうとしたときに、その人と食べたいものが違う。「だったら、今日はラーメンにするけど、次回の時にはカレーにしない?」と提案をすれば、「相手も自分も大切にする」ことになります。
アサーションを学んで、今でも楽になっていることは、「コミュニケーションをしない」という権利でした。誰に対してもアサーティブな態度で接することなく、その人とコミュニケーションを取りたくないと思えば、とらなくても構わない、それは権利であるのだから。この概念を聞いたとき、ホッとしたことを覚えています。

さて、話しは元に戻ります。

その研修会でどうしても気になったことがあります。ひとつ目は「自己表現活動」があまりにも多く使われていたこと。「生徒(子ども)たちは自己表現活動が好きだ」ということは、確かにそういう生徒はいるかもしれませんが、周囲に対して自己表現できることなど、人間の表面的なことだけです。深い内面を表現したときに、それが集団に受け入れてもらえなければ、その人は深く傷つきます。これは、エンカウンターのファシリテーターを経験した人なら、その危険性をよくおわかりのことと思います。人間として成長し、自分の世界が出来上がれば出来上がるほど、内面を全体の前で表現することは危険が伴います。
もちろん、そこまで深い自己表現活動はしないよ、といわれるかもしれませんが、だったらそれは、「表面的な自己表現活動」に過ぎない。「表面」のやりとりをするだけの「コミュニケーション」活動はもちろんありだと私は思う。英語のスキルを高めるためのトレーニングとしての方法という位置づけであれば、まったく問題はない。しかし、英語の授業の中のコミュニケーション活動が、「グッドコミュニケーター」の育成につなげられると、どうも違和感を感じる。あれ、どっかでおかしくありませんか?

もうひとつは、講演における講師の発言。レジュメなどなく、あくまでも私のメモです。

  • 英文を100回読んで、その英文を記憶して100点を取れたら、そのテストは良いテストではないかもしれない。これでは記憶力勝負になってしまうからだ。

確かに件の講師は、「音読」といわず「読経」、「筆写」といわず「写経」と仏教にずいぶんと造詣の深い方だったようですが、音読とは英文を記憶するためだけのものなのかなぁと私は疑問に思いました。確かに、意味も分からず、単に声を出しているだけの「お経読み」(これなら、素人的には「読経」といえるか)なら、あまり効果はないかもしれません。しかし、紙芝居を読むときに、目の前の子どもの目を輝かせる気持ちになって物語を音読したり、頭の中で登場人物の様子を思い浮かべて音読したりすることは、記憶力の問題だけではありません。
夏の大会が終わってから受験勉強を始めた生徒がいます。坊主頭の彼は、7月のGTECで400点も取れませんでした。「どうにかして7月まで野球に集中して、それから大学に行きたい」と4月に相談されたので、「単語は短期間でごまかしはきかないから、それまで単語だけは最低限、覚えていくこと。そして、夏休みは1日2時間、『英会話・ぜったい・音読』の標準編を音読しましょう」とアドバイスしました。それを愚直に守った彼は、まだまだ目標には届いてはいませんが、同じ野球部の中で夏休み明けの英語力がいちばん高くなりました。英文を読むことは、記憶することだけの作業ではないと私は経験的に感じています。

1人だけで世界を拡げていくことは限界があるし、集団を維持するためには、思想や利益などの共通の価値観が必要となる。共通の価値観が大切になると、学習会が宗教的になってくる。(宗教を否定しているのではありません、念のため) 

はっきりいえば、「これが、間違っているというのですか?」「これが、正しくないと思っているんですか?」という否定的な問いかけをしてくる人の主張は私はスルーします。世の中のことはたいていは間違っていないのですから。(ただ、優先順位が異なりはするけど)

「私は○○だと思う、それは××だからだ」といういい方の方がよっぽど気持ちがいい。もちろん、××には人間に対する畏怖が含まれており、かつ「ナントカ要領に書かれている」が入らない場合に限るけど。

自分の足で立つためには、最初は周囲に支えてもらうことも必要だけど、立てるようになったら、自分の頭でそこで立っている意義を考え、時には歩いて遠くにいくことも大切なことなのでしょうね。

2012/10/09

血液型占いみたいに単純じゃない

「お金」についての話し。「Tはお金が大好きなんだけど、いくら稼いでもむなしさが残るんだって」と友人。Tは友人と私の共通の知人であり、社会的には「成功している」と思われている人です。幅広く事業を展開し、カネの遣い方も私たちとはまったく違う。
そこから、友人と「金銭論」に話しが進む。「カネで幸せは買えないけど、カネで潤いは買うことはできるのはどうしてなんだろうか」 
「生活というか、暮らしというか、生き方というか、その人のゆるぎない『魂』があれば、それを潤わせる形でカネを遣うことは出来る。自転車が好きならばパーツをよくしてみたり、日帰り旅行を1泊にしてみたり、ほら、俺たちなら○○で××して△△なんかも、ぱーっとできる(笑)」
「うんうん(笑)」
「それって、外側から見ると、『潤い』の部分しか見えない。外からは『魂』はみることができないので、『潤い』だけをみて、「あの幸せは『潤い』でできあがっている」と勘違いするんじゃないかな。実際は、潤いは地球の海みたいなもので、表面を少しばかり覆っているに過ぎない」
「詩的だねぇ」
「Tは『潤い』を求めて稼いでいるのかもしれないけど、彼が求めているのは『魂』なんじゃないかな。だから、むなしさが残る。いくら歌がうまくても、尾崎豊のカバーができないのは、彼は自分の『魂』を歌っていたからだよな」

とまぁ、竹林ではなく、居酒屋清談でした。

この頃感じることなのですが、これって、英語教師にも当てはまるんじゃないかなぁと思います。

教員としての『魂』があり、そこに英語教師としての『潤い』があって、充実した教師になるんじゃないかなぁ。『魂』とは、いろいろな形がある。十人十色です。それがいい悪いは別にして、いろんな形があります。経営者としての魂もあれば、医者としての魂もある。トレーダーとしての魂もあります。利害関係を抜きにして、若者の成長をサポートしたいという魂は教師的な「魂」です。教師としての生き方がゆるぎない先生はこの『魂』が確固としています。それが自分に合えば「オーラ」に感じられ、自分に合わなければ「邪気」に感じますが。

たとえば基本的なスタンスとして、
「教育」であれば、どのようなスタンスで生徒と接しているのか。教育とはどのようなものと理解しているか(もしくは関心がないか)。
管理職志向なのか、現場志向なのか。
部活動に対して積極的なのか、消極的なのか。
(もっとあるでしょうけど、とりあえず3つだけ)

そして、もっと細かくなる。
「教育」は、先生の人間観が全面に表れてきます。場合によっては人生観だったり、生き方だったり、その全てが表れてきます。

そして、もろもろの割合がある。「英語」「教育」「管理職」「現場」「部活」がどんな割合になっているのか。

されに、全てのエネルギー量がどうなっているのか。

これらが複雑に混ざり合って、「魂」ができあがっていきます。そんな魂を「人となり」と呼ぶのではないでしょうか。

その魂の「潤い」(こういうと誤解を受けそうだなぁ)に「英語教育方法」がある。「英語教育」のノウハウだけを追及して、技術論だけを磨いたところで、説得力のある魂を持った言葉にはなりません。優秀な方法論をもっている機械が存在し、授業をしたって魅力ある授業になりません。医療であれば「治療する」という目的のためにはロボットを使うこともあるでしょうが、教育は教え手と学び手のウエットな作業なんです。だから、すばらしい教授法の先生が生徒の学力を上げているかといえばそんなことないし、ルーキーで経験不足の先生が学力を伸ばしていないかといえば、そうでもない。「名人」と生徒から評価される先生は、間違いなく「魂」のある先生に違いありません。

上から目線のようになってしまうけど、若いときから技術論を追求するだけでなく、それよりも魂を育てることも大切です。(この魂の育てに文学があるんだろうなぁ) いつもの話になってしまいますが、研修会で習ってきたノウハウがそのまま移植できないのは、魂が違うからなんです。それなのに、ディベートだの、共通プリントだの、共通のCan-doリストだの作ったところで、魂を無視したら、員数主義から抜け出すことはできない。(もちろん、同じ「潤い」を共有できる「魂」を持っている集団であれば、それらは大きな力になります。ただ、それはレアケースじゃないかな)

自分の「魂」に恥じない「潤い」を持つ覚悟があれば、誰しもいい先生になれると思うんだけどね。

もちろん、こんなウエットな英語教育を追及していく先生ばかりじゃ、それはそれで怖い気がする(笑) 教育相談は大切だけど、それにまい進する先生だらけだったら、怖いのと同じです(笑) 魂のことなんてしっちゃいねーよ!という先生がいたって、生徒が受け入れていれば歓迎する話しです。でも、そういう先生は、必ず優れた「魂」の持ち主なんだけどね(笑) 人をひきつけるということは、そういうことだと私は思います。

2012/10/03

英語教育、この一冊

うーん、自分にとって何かあるだろうかと思っていたのですが、ありました。それは、こちら。

  • 國弘正雄『英語の話しかた』(サイマル出版、1970年)

英語を勉強したいという卒業生に渡してしまってから、これが絶版になり、マーケットプレースでもなかなか手に入らないことに気づきました(苦笑)

「英語教育」といえるのかどうか不安も残りますが、中学校の時に英語が苦手だった私が英語の教員になるきっかけとなった本でした。それでなくても勉強をしなかった中学生だったときに、英語の勉強は表に英語、裏に日本語の単語帳を使うだけの勉強方法でした。ところが、この本の中にある、「中学校3年生の教科書を3ヶ月音読したら、アメリカの学会での司会が出来た」という大学の先生の話を聞き、音読を始めたのが、いま生徒に宗教とまでいわれるほど「音読、音読」といっている自分と音読との出会いでした。

「このまま英語が苦手じゃまずいな」と思った高校1年生の夏休みに、中学校2年生と3年生との教科書を100回以上音読しました。それは、この本がきっかけです。藁にもすがる思いで、なんとかしようと思いました。それまで英語の授業は苦行の時間です。文法は用語が分からないし、主語動詞もよく分からないし、単語もよく分からない(笑) 先日の同窓会では、当時の友人から、「お前はそんなに出来たっていう方じゃなかったよなw」と覚えられていたほどでした。

音読をしたあとの、高校1年生の2学期には、おもしろいほど、英語が分かるようになっていました。「自分にも出来るじゃないの」という感動。これが、英語教師としてのベースとなっています。

ご存じの方もおられますが、私はもともと英語教師になりたいと思ったのは大学の4年生の時です。大学も、本当は経済学部に行きたかった。バブル経済のまっただ中、商社マンになれたらかっこいいなと思ったのは『なぜか笑介』の影響だったか(笑)

大学時代も(今でもそうだけど)、語学には興味なく、心理学に興味を持ったのは、、、と続くのですが、それはまたの機会に(笑)

授業という50分の限られた時間の中で、何を取り入れるか、何を捨てるかは、教師の哲学というか、その先生の学習スタイルが反映されると私は思います。私は、とにかく音読。単語も音読。要約したら音読。文法は後からついてくる(=後で学べばスッと頭の中に入ってくる)とスタンスで授業をしているのも、この『英語の話しかた』がきっかけとなっていることはいうまでもありません。

蛇足ですが、その國弘正雄先生に、『これでわかる基礎英語』の推薦文を書いていただけたことも、夢のようなことでした。単に推薦文を書いてくれたのではなく、ゲラに目を通され、気になる部分に朱を入れた上で、推薦文を書いてくださったのです。

英語教師としての自分にいちばん影響を与えた一冊といえば、『英語の話しかた』しかありません。

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