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2012/07/01

山を越えると、里ではなく新たな山が見える

大飯原発再稼働か。昨年の3月の福島原発爆発をライブで見ていたことを今でも思い出します。とにかく、怖かった。続く地震に、原発の爆発。東大で原子力を勉強していた近所の人が、西に逃げた方がいいですよ、といっていたことを思い出します。

報道によれば、3ヶ月程度で作ることが出来る火力発電所があるというのに、それを作ろうともせず、「計画停電の計画」という「脅迫」を作ってきた電力会社。それを指導もしなかった経済産業省。それを追認してきた野田政権。「たね蒔きジャーナル」をyoutubeで聞いていると、原子力ムラの強さを知ります。菅政権・野田政権をみていると、民主党という政党に希望を持っていた自分がバカだったなぁと強く思う。もう次の選挙では、投票する選択肢がないかもしれません、小選挙区は。
野田政権は、国民の生命安全よりも、国民の命よりも、原子力村や財務省が大切だと考えているのかとさえ思ってしまいます。事故の危険性だけではなく、使用済み核燃料の処理方法をどうするのかということが、原発が必要だという人はどのように説明するんだろうか?イギリスのBBCでは、次のような記事も。http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-18662892

菅・野田政権を応援している民主党の議員ははっきりと主張すればいい。「自分の信念を曲げても、国民との約束を破っても、出来上がった既得権益の舞台に出演したかった。マニフェストは、そのための作文に過ぎなかった」と。

こんな国民との約束を破る片棒を担いだのが自民党と公明党でしょう。私はもう、政治には絶望しました。「ウソ」の片棒を担ぐ自公にもウンザリです。

英語教師としては、信念を大切にしたい。英語を受験道具としてではなく、ことばとして考えていきたい。

このごろ感じること。

教科書は、英文だけでいいのではないか、と思います。コミュニケーション活動や、ファーザープラクティスなんていらない。良質の英文さえあれば、いいのではないか。その英文を使って、教師が授業を展開していくのだから、教科書は道具であればいい。
教科書の営業の方が、「新課程の教科書は、学習指導要領を十分に取り入れていないという批判を英語の先生から受けました」と苦笑していましたが、そういう「批判」をする先生方は恥ずかしくないのだろうか? 自分で教科書を料理するのではなく、料理された教科書が良い教科書だという感性は、私にはまったく理解できません。それで、どこに教師の成長があるんですか?

授業をするときには、授業をデザインします。そのデザインをスムーズに実行するために、プリントを使う。そして、授業をしていくと、どこかに違和感を覚えます。描いたデザインと、授業とが乖離していたり、自分のデザインそのものに、改善点が必要だったりします。

それを教師側は直していく。生徒側は、そのデザインを信じて、デザインの上を学び、その先生との温度差を詰めていく(生徒が信じてくれるのは、授業そのものだけではなく、その先生の人となりも大きな要素)。 教師側のデザインがフルに実現し、生徒がその方法を受け入れたとき、授業は形となって完成します。

そして、次の課題が出てくる。(授業形態に変化が生まれてくる) 

この繰り返しの中で、生徒は英語力をつけてくると私は信じています。だから、教科書は良質な英文だけでいいのではないかと思います。

授業のスタイルまで指定してくる教科書(共通プリントなるものも、似たようなものなんだろうね)なんて、私は使いたいとは思いません。

(教科書は、英語1・英語2・リーディングについてです。また、英文のみの教科書は、検定に通らないことも分かっています)

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