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2012/07/06

名誉を求めない

こんな学校の対応、そして教育委員会の対応は本当なんだろうか?とにわかには信じることができませんでした。正直に申し上げれば、今でも信じられません。それほど、私の「常識」では考えられないことです。

いじめという問題は、残念ながら学校の中だけではありません。職場にもあるでしょうし、業界にでもあるでしょうし、政治の世界にもあるでしょう。一部政治家に対する、マスコミの偏向とさえいえるような報道は、完全にいじめです。しかし、学校では「先生」というジャッジがいるところが、他とは違います。

確かに、「相手とかかわり続ける覚悟のある鍛え」までもが、「いじめ」「しごき」として批判されることに私は大いに違和感を感じます。学校の中には、学校の中の論理があり、それを学校の外にいるマスコミや「識者」がしたり顔で論評することに、吐き気さえ感じます。私自身、保護者として学校の対応に違和感を感じても、先生にかかわり続ける覚悟があれば、自分の子どもが成長していく姿を見ているからです。(この、「かかわり続ける覚悟」が大切なところ! これがなければ、理不尽は単なる理不尽になる)

しかし、今回の件は、そんなレベルではもちろんありません。

教育委員会は、いったい、何を守りたいんだろうか。そして、学校(このように「学校」というと、主体があいまいになってしまうのが残念だけど、これは管理職のことなんだろうか?)は何を守りたいんだろうか。

彼らが守りたいものは、何か問題があったとしても、何事もなかったかのようにして、現状を守りたいのかなぁと私には思えて仕方ありません。これは、文部科学省にも通じるDNAなのではないかとさえ、思います。

原発事故の後、年間「20mシーベルトまでは被爆しても大丈夫だ」といってきたのは、文部科学省です。良心的科学者の警告を無視して、それに従ってきたのは、各地の教育委員会、そして、それにつながる管理職です。
危険性がまだ分らなかったとき、児童・生徒の安全を考えていれば、給食を弁当に切り替えたいという訴えがあれば、すぐに対応できたはずです。それさえも、嫌がる校長・教育委員会もあったという報道もありました。

こうしてみてみると、彼らがほしいのは、変わらない現状なのかもしれません。放射性物質だろうと、いじめがあろうと、自殺があろうと、変わらない現状のためになら、「因果関係が分らない」「はっきりとした原因の究明ができない」という「結論」を下すのでしょうか。

本当のいい先生とは、子ども(児童・生徒)の「安全」を守ることのできる教師だと私は思う。そして子どもは、学校で「勉強」をする。学校に必要なことは、「安全」「勉強」のふたつであり、そこから子どもたちは自分たちで成長していく。子どもに勉強をするようにいいつつ、自分は「安全」については、ヒラメよろしく、上の意向ばかり気にしているようなら、表面的には優しかろうと、表面的には面白かろうと、ぜんぜん「良い先生」ではない。

教育職に携わる人間は、名誉を考えると卑しくなる。教諭が管理職をめざすと、校長の意向を忖度するようになる。校長になれば、実績がほしくなって、カイカクしたがる。そして、校長の中でもえらくなれば、退職した後にどっかに天下りしたり、教育長を目指したり、勲章をほしがったりと、さらに名誉や権力がほしくなる。もちろん、例外ともいえる良心的な管理職もいるでしょうけど。こういう「道」があるからこそ、「変わらない現状」を求めているんじゃないだろうか。(ぜーんぶ、一般論です、念のため)

それで傷つくのは、子どもである。

だいたい、教師をめざす人間は、その道でトップではない人がほとんどです。えらそうにいう私だって、トップとは程遠い成績でしたし、それは今でも同じです。だからこそ、せめて、子どもの安全を第一に考えられるためにも、名誉なんて考えないようにしたいものです。
そして、透き通った意味での、「幸せ」の哲学がなければ、妙な道に乗ってしまう危険性がある。「役割だから」といいつつ、結局はミイラになってしまう危険性があるってことです。人間に対する哲学がなければ、人間に対応はできないし、40前後になってもその哲学がなければ、「学校の教師は勉強さえ教えていればいい」と思うんだろうね。(教師にそんな哲学を求めることは、スーパーでロケットを求めるようなもんだと思っているのかもしれないけど) しかし、学校が本当の意味での学校になるためには、必要だと私は思いますが。

大津市の中学校2年生の男子生徒のご冥福をお祈りします。
合掌。

2012/07/01

山を越えると、里ではなく新たな山が見える

大飯原発再稼働か。昨年の3月の福島原発爆発をライブで見ていたことを今でも思い出します。とにかく、怖かった。続く地震に、原発の爆発。東大で原子力を勉強していた近所の人が、西に逃げた方がいいですよ、といっていたことを思い出します。

報道によれば、3ヶ月程度で作ることが出来る火力発電所があるというのに、それを作ろうともせず、「計画停電の計画」という「脅迫」を作ってきた電力会社。それを指導もしなかった経済産業省。それを追認してきた野田政権。「たね蒔きジャーナル」をyoutubeで聞いていると、原子力ムラの強さを知ります。菅政権・野田政権をみていると、民主党という政党に希望を持っていた自分がバカだったなぁと強く思う。もう次の選挙では、投票する選択肢がないかもしれません、小選挙区は。
野田政権は、国民の生命安全よりも、国民の命よりも、原子力村や財務省が大切だと考えているのかとさえ思ってしまいます。事故の危険性だけではなく、使用済み核燃料の処理方法をどうするのかということが、原発が必要だという人はどのように説明するんだろうか?イギリスのBBCでは、次のような記事も。http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-18662892

菅・野田政権を応援している民主党の議員ははっきりと主張すればいい。「自分の信念を曲げても、国民との約束を破っても、出来上がった既得権益の舞台に出演したかった。マニフェストは、そのための作文に過ぎなかった」と。

こんな国民との約束を破る片棒を担いだのが自民党と公明党でしょう。私はもう、政治には絶望しました。「ウソ」の片棒を担ぐ自公にもウンザリです。

英語教師としては、信念を大切にしたい。英語を受験道具としてではなく、ことばとして考えていきたい。

このごろ感じること。

教科書は、英文だけでいいのではないか、と思います。コミュニケーション活動や、ファーザープラクティスなんていらない。良質の英文さえあれば、いいのではないか。その英文を使って、教師が授業を展開していくのだから、教科書は道具であればいい。
教科書の営業の方が、「新課程の教科書は、学習指導要領を十分に取り入れていないという批判を英語の先生から受けました」と苦笑していましたが、そういう「批判」をする先生方は恥ずかしくないのだろうか? 自分で教科書を料理するのではなく、料理された教科書が良い教科書だという感性は、私にはまったく理解できません。それで、どこに教師の成長があるんですか?

授業をするときには、授業をデザインします。そのデザインをスムーズに実行するために、プリントを使う。そして、授業をしていくと、どこかに違和感を覚えます。描いたデザインと、授業とが乖離していたり、自分のデザインそのものに、改善点が必要だったりします。

それを教師側は直していく。生徒側は、そのデザインを信じて、デザインの上を学び、その先生との温度差を詰めていく(生徒が信じてくれるのは、授業そのものだけではなく、その先生の人となりも大きな要素)。 教師側のデザインがフルに実現し、生徒がその方法を受け入れたとき、授業は形となって完成します。

そして、次の課題が出てくる。(授業形態に変化が生まれてくる) 

この繰り返しの中で、生徒は英語力をつけてくると私は信じています。だから、教科書は良質な英文だけでいいのではないかと思います。

授業のスタイルまで指定してくる教科書(共通プリントなるものも、似たようなものなんだろうね)なんて、私は使いたいとは思いません。

(教科書は、英語1・英語2・リーディングについてです。また、英文のみの教科書は、検定に通らないことも分かっています)

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