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2012/05/11

学び(2)

 昨晩は、妻が参加した発達障害研修会の話しで盛り上がる。どこまで書いていいもんかしら、ということに悩んでいるのですが、ある程度の発達障害は小学校低学年までに治療を開始すると効果が上がるとか。(ちなみに、講師は福島県立医大の先生。千葉県の医師会とサポート団体主催) 発達障害の子どもを育てる親は、どこかしらに違和感を抱いています。そして、発達障害の大人になると、生きにくさを感じるといわれています。
 小学校の低学年までがひとつの節目であるならば、小学校の先生(特に1年生かな)の役割が重要になります。発達障害がこれだけ大きな問題となっているのですから、小学校の先生方の負担を減らして、医療につなげることが大切だと私は思います。しかし、実際にはあれもやれ、これもやれ、のオンパレード。挙句の果てには、やりきれないならと、「ムチ」を見せる始末です。政治家は、自分たちにとって都合がいい人間を育てたり、自分たちにとって都合のいい教員と面倒な教員との溝を作って分断化を図るのではなく、どんな思想の持ち主であろうとも、児童・生徒の健やかな成長を援助できるようなサポートをするべきです。政治の道具じゃないんですから、教育は。

 学力向上とずっといわれています。つまり、向上していないということなのでしょう。もちろん、「実績」があがっている学校もあるようです。ただその「成果」とは、偏差値や大学入試の「結果」であって、「学力とはなんなのか」というそもそも論は脇においているような気がします。偏差値と大学とを目標にしているなら、大学に入ったらどうするんだろうか?就職先に偏差値つける? それとも、「あとは、本人の問題だから」といって投げ出すか? 「シラバス」が大流行なんですから、人間という存在の「人生シラバス」を作り、その中の高校生とはどういう期間なのか、と考える必要があります。「生徒の人生は自分で決めるんだから、そんなシラバスは教師は作る必要がない!」っていう声も聞こえそうです。少し、ことば足らずでした。あなた自身の「人生シラバス」のことです。

 「何のために学ぶのか」という問いかけが、大学入試のため、偏差値のため、なんていうのはあまりにも悲しいと思いませんか。大学入試も偏差値もなかった江戸時代、人々はどうして学問を行ったのか。寺子屋を作ってまで、どうして教育に力を地域は注いだのか。カネがなく、中学校に行くのすら間々ならなかった戦前に、それでも学ぼうと思ったのはどうしてでしょうか。偏差値で競争させないようなフィンランドがPISAでトップにいるのはどうしてでしょうか。「偏差値アップこそ学力向上だ」ということを実績とするのは、ベネッセの好きそうな話題ではありますけど、教師として私は残念だと思います。

 自分が周囲から愛されて生まれ、周囲に愛されて育ち、自分を気にしてくれる大人がいる。晴れの日もあれば、雨の日もある。どんなときでも、自分を大切にしてくれる大人の存在は子どもにとって心強いものです。そうすれば、次は自分が周囲を愛し、子どもを気にかける大人になるものです。
 学びの本質とは、周囲のために自分の力を惜しまず、自分のことを自分で選び、人生を選んでいける力をつけることでしょう。だからこそ、自分の能力を伸ばしたい、そう思うからこそ、学びがあるわけです。本を読みたくなるし、食欲と同じように、知識欲も沸いてきます。これを人間力と呼びます(私が勝手に呼んでいるだけですが)
 人間力のアップのためには、部活動も大切です。横のつながりだけでなく、上下のつながりも覚えてくる。人間としての土台も大きくなります。これも、人間力のアップが望めます。

 人間力がつき、そして自分はどのように生きたいかという哲学を生徒が持てば、あとは自分で勉強していくものです。高校3年生を担任していて、本当にそれは感じます。偏差値アップや有名大学に入りたいなんていう理由ではなく、自分がどんな生き方をしたいのか、そんなことを思えば、体重を乗せて自分を鍛え上げていくのです。その結果、「○○大学に行きたい」となります。

 ところが、私はいままで結果を最初に求めてきました。失敗したなぁと思う問いかけは次の通り。

  • 将来、どんな生き方をしたいか考えよう
  • どこの大学に行きたいか考えよう
  • 将来、困ることがないように今のうちに勉強しよう

最初の2つは、考えるものではなく、目の前に現れるものです。ただし、人間力がつかないと目の前に現れてくれません。だから人間力がないと、自分探しの旅に出てしまい、あっちの仕事をやっては辞め、こっちの仕事をやっては辞め、「自分に合う仕事はなんだろうか」というリクルートが喜びそうな問いかけをしていくことになります。
そして、最後の問いかけは、脅しです。「善良な脅し」です。「文句を言えない脅し」です。間違っているのかといえば、間違ってるとはいえません。そういう問いかけは、いちばんたちが悪い。生徒と私との関係や、私自身の人間性なんてどうでもよく、「いうこと聞かなきゃ、お前の人生たいへんだぞ」という最低の脅しです。
よくまぁ、私自身、こんな問いかけで教師をやってきたと思っています。恥ずかしい限りです。

 大切なことは目に見えません。人間の成長は目に見えません。ただ、目に見えないことを信じていくのが、子どもの教育に携わる人です。予備校や塾の人は、目に見える偏差値にこだわればいい。それがその人たちの仕事なんですから。企業経営者も数字にこだわればいい。それが仕事なんですから。しかし、教育に携わるのであれば、目に見えないことを信じられるかどうか、ということです。部活動で県大会を目標にして、それがかなえられたにしても、かなえられなかったにしても、その活動を通じて、生徒が成長することが指導者のいちばんの目標でしょう。出場できたから○、できなかったから×と、心から思っているまともな指導者はいないでしょう。

 偏差値にこだわったら、美容師志望の生徒に対し、「君は偏差値が75もあるんだから、ここの大学はどうだ?」という可能性が高い。1度限りの人生です。そして、天文学的な確率で生まれてきた命です。その命を大切にして、自分の人生を選び、他者の力となれるような生き方をする子どもが増えていけば、この国は変わっていくんじゃないかな、と私は思います。ただ、今の政治家がそういう人間が増えることを好むかどうかは分りませんが。

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