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2012/05/16

all pain, no gain

前日は夕方にガス欠状態。進学者用の補講を行い、そのまま帰宅してきました。
その前日は、友人であるsoftmachine社長のM氏に、「(web)デザイン・映像について」の話しを生徒にしていただきました。前回の目崎雅昭さんに続いての企画でしたが、今回は2クラス合同です。

デザインについてという話しは、門外漢なので生徒が希望していても、「そっか、頑張れ」で終わってしまいます。それが分かっているから、生徒は一切相談してきません(苦笑)。しかし、Mさんの講演の後、ふだんはほとんど私は声を聞かない生徒が、M氏に「話をもっと聞きたい」と話しかけてきたり、デザインや映像とは縁のないような進路を考えている生徒がやってきたりと、「本物」に触れると何か感じるものがあるようです。それは、講演後のアンケートにも表れており、「とてもおもしろかった。これからの人生に役立てていきたい。本日はありがとうございました」という、高校生が書くような表面的な文章はほとんどなく、A4の用紙に所狭しと思いが書いてありました。
Mさん自身が、ストレートにデザインの仕事に入ったわけではなく、30近くになってからはじめたという「回り道」も生徒にとってはプラスだったようです。人生は直線じゃないんですよね。

このごろ、再び『北斗の拳』が気になります。これは、日本版の『ゲド戦記』だと私は思っています。ケンシロウの成長があり、そして後継者としてのリュウの成長。「哀しみ」とは「人生を受け入れること」であり、自分自身を高めていけば、その先は自然と道が切り開けていくから、そこを歩んでいく。そんな風に、私は勝手に理解しています。

リュウというのは、「ラオウ」の息子です。リュウを育てていたリセキは、ケンシロウにリュウを返すときにこういいます。

  • リュウはいまだ生のままに。われらのちっぽけな生きざまを教えても害になるだけ!それゆえ生のままに育てました。あとはあなた様が!

そしてリュウはケンシロウとの旅の中で、大きな男の人生を見ます。ケンシロウは一切、リュウに何も教えません。リュウはケンシロウと共にいるだけです。2つの物語を終えると、ケンシロウはリュウの元を離れます。

  • リュウ!おまえはその小さな体にすでに哀しみを知る心を刻みつけた。お前に教えることはもうなにもない。あとはラオウの血がおまえを進むべき道に導くであろう。

こんな置き手紙をして、急にいなくなります。

心理学のグレートマザーではありませんが、「教える」とは「型にはめる」ということです。「ちっぽけな生きざま」なんて教えたって、教育目標に加えたって、なんの意味もないどころか、「害になるだけ!」なんでしょうね。「子どもには可能性がある」というのであれば、ちっぽけな生きざまをしている大人が人生についての何かを教えようとするって事は、百害あって一利なしなんだろうな、と本当に思う。

なんだか、英語教育のことはまったく書かなくなってきたなぁ(苦笑)

2012/05/11

学び(2)

 昨晩は、妻が参加した発達障害研修会の話しで盛り上がる。どこまで書いていいもんかしら、ということに悩んでいるのですが、ある程度の発達障害は小学校低学年までに治療を開始すると効果が上がるとか。(ちなみに、講師は福島県立医大の先生。千葉県の医師会とサポート団体主催) 発達障害の子どもを育てる親は、どこかしらに違和感を抱いています。そして、発達障害の大人になると、生きにくさを感じるといわれています。
 小学校の低学年までがひとつの節目であるならば、小学校の先生(特に1年生かな)の役割が重要になります。発達障害がこれだけ大きな問題となっているのですから、小学校の先生方の負担を減らして、医療につなげることが大切だと私は思います。しかし、実際にはあれもやれ、これもやれ、のオンパレード。挙句の果てには、やりきれないならと、「ムチ」を見せる始末です。政治家は、自分たちにとって都合がいい人間を育てたり、自分たちにとって都合のいい教員と面倒な教員との溝を作って分断化を図るのではなく、どんな思想の持ち主であろうとも、児童・生徒の健やかな成長を援助できるようなサポートをするべきです。政治の道具じゃないんですから、教育は。

 学力向上とずっといわれています。つまり、向上していないということなのでしょう。もちろん、「実績」があがっている学校もあるようです。ただその「成果」とは、偏差値や大学入試の「結果」であって、「学力とはなんなのか」というそもそも論は脇においているような気がします。偏差値と大学とを目標にしているなら、大学に入ったらどうするんだろうか?就職先に偏差値つける? それとも、「あとは、本人の問題だから」といって投げ出すか? 「シラバス」が大流行なんですから、人間という存在の「人生シラバス」を作り、その中の高校生とはどういう期間なのか、と考える必要があります。「生徒の人生は自分で決めるんだから、そんなシラバスは教師は作る必要がない!」っていう声も聞こえそうです。少し、ことば足らずでした。あなた自身の「人生シラバス」のことです。

 「何のために学ぶのか」という問いかけが、大学入試のため、偏差値のため、なんていうのはあまりにも悲しいと思いませんか。大学入試も偏差値もなかった江戸時代、人々はどうして学問を行ったのか。寺子屋を作ってまで、どうして教育に力を地域は注いだのか。カネがなく、中学校に行くのすら間々ならなかった戦前に、それでも学ぼうと思ったのはどうしてでしょうか。偏差値で競争させないようなフィンランドがPISAでトップにいるのはどうしてでしょうか。「偏差値アップこそ学力向上だ」ということを実績とするのは、ベネッセの好きそうな話題ではありますけど、教師として私は残念だと思います。

 自分が周囲から愛されて生まれ、周囲に愛されて育ち、自分を気にしてくれる大人がいる。晴れの日もあれば、雨の日もある。どんなときでも、自分を大切にしてくれる大人の存在は子どもにとって心強いものです。そうすれば、次は自分が周囲を愛し、子どもを気にかける大人になるものです。
 学びの本質とは、周囲のために自分の力を惜しまず、自分のことを自分で選び、人生を選んでいける力をつけることでしょう。だからこそ、自分の能力を伸ばしたい、そう思うからこそ、学びがあるわけです。本を読みたくなるし、食欲と同じように、知識欲も沸いてきます。これを人間力と呼びます(私が勝手に呼んでいるだけですが)
 人間力のアップのためには、部活動も大切です。横のつながりだけでなく、上下のつながりも覚えてくる。人間としての土台も大きくなります。これも、人間力のアップが望めます。

 人間力がつき、そして自分はどのように生きたいかという哲学を生徒が持てば、あとは自分で勉強していくものです。高校3年生を担任していて、本当にそれは感じます。偏差値アップや有名大学に入りたいなんていう理由ではなく、自分がどんな生き方をしたいのか、そんなことを思えば、体重を乗せて自分を鍛え上げていくのです。その結果、「○○大学に行きたい」となります。

 ところが、私はいままで結果を最初に求めてきました。失敗したなぁと思う問いかけは次の通り。

  • 将来、どんな生き方をしたいか考えよう
  • どこの大学に行きたいか考えよう
  • 将来、困ることがないように今のうちに勉強しよう

最初の2つは、考えるものではなく、目の前に現れるものです。ただし、人間力がつかないと目の前に現れてくれません。だから人間力がないと、自分探しの旅に出てしまい、あっちの仕事をやっては辞め、こっちの仕事をやっては辞め、「自分に合う仕事はなんだろうか」というリクルートが喜びそうな問いかけをしていくことになります。
そして、最後の問いかけは、脅しです。「善良な脅し」です。「文句を言えない脅し」です。間違っているのかといえば、間違ってるとはいえません。そういう問いかけは、いちばんたちが悪い。生徒と私との関係や、私自身の人間性なんてどうでもよく、「いうこと聞かなきゃ、お前の人生たいへんだぞ」という最低の脅しです。
よくまぁ、私自身、こんな問いかけで教師をやってきたと思っています。恥ずかしい限りです。

 大切なことは目に見えません。人間の成長は目に見えません。ただ、目に見えないことを信じていくのが、子どもの教育に携わる人です。予備校や塾の人は、目に見える偏差値にこだわればいい。それがその人たちの仕事なんですから。企業経営者も数字にこだわればいい。それが仕事なんですから。しかし、教育に携わるのであれば、目に見えないことを信じられるかどうか、ということです。部活動で県大会を目標にして、それがかなえられたにしても、かなえられなかったにしても、その活動を通じて、生徒が成長することが指導者のいちばんの目標でしょう。出場できたから○、できなかったから×と、心から思っているまともな指導者はいないでしょう。

 偏差値にこだわったら、美容師志望の生徒に対し、「君は偏差値が75もあるんだから、ここの大学はどうだ?」という可能性が高い。1度限りの人生です。そして、天文学的な確率で生まれてきた命です。その命を大切にして、自分の人生を選び、他者の力となれるような生き方をする子どもが増えていけば、この国は変わっていくんじゃないかな、と私は思います。ただ、今の政治家がそういう人間が増えることを好むかどうかは分りませんが。

2012/05/03

人生を豊かにすることが学びの原点

本日のtwitterには大阪維新の会の「家庭教育支援条例案」に驚き。ガセ情報に踊らされたり、卒業生へ場違いの「謝罪」をしたりと、ニュースにはこと欠かない同会ですが、今回の条例案にはとにかく驚きしかありません。
特に驚いたのは次の通り。

  • わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり、こうした子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する(18条)
  • 児童虐待の背景にはさまざまな要因があるが、テレビや携帯電話を見ながら授乳している「ながら授乳」が8割を占めるなど、親心の喪失と親の保護能力の衰退という根本的問題がある(前文)

広い意味での支援は、親が必要だと感じたときに気軽に相談したり、愚痴を聞いてもらえたり、「ママ(パパ)友」と語り合えたりしたときの「場」の提供です。啓蒙するかのよな、子育て論(べき論)なんて、親にとってありがたくもない迷惑に過ぎない。相談や愚痴なんていうものは、彼らにとっては「無駄」と見えるかもしれません。なにせ、「こどもの家事業」の廃止を2013から廃止しようとしている人たちですから。(その訴えは、「こどもセンター職員一同より緊急のお願いです」をご覧下さい) 
 残念なことに、維新の人たちは表層的にしか、教育をご存じない。田中康夫氏が「国歌・国旗」「憲法9条・護憲」を保守・革新をリトマス試験紙とすることを愚かしいと喝破していますが、偏差値の高い高校や大学に入学させることのみをメインの「成果」とすることが、教員としての優劣だなんていうのも、愚かしいのです。人生の基本哲学なき教員集団こそ問題だと私は思う。批判を恐れつついえば、人生哲学がなく、進学実績に一喜一憂したり、管理職になりたいと実績作りに励んだりしていては何かがおかしくなります。生徒に届くことばさえ、見つけることが出来ないでしょう。
 むしろ親に対して、学校名にこだわるのではなく、子どもが自分の人生を自分で決定して、それに対して責任をとれる生き方を考えていきましょうよ、と私は「啓蒙」したいのです。親は世間を知っているだけでなく、見栄もある。子どもをついつい、ブローチ代わりにしてしまう。(私もそうです) だからこそ、ちょっと離れたところから、教師が冷静に親と向かい合うことが必要なんです。人間の人生はその人のものであるからこそ、人生を大切に生きてもらいたい、と相手を信用し、サポートすることは養育者として必要なことだと私は思う。
 少し話がそれちゃいました。いつものことですが。ちなみに、「育て方」と「発達障害」とが無関係であると、長崎県こども政策局が次のようにいっています。

  • 違います。生まれつき脳の機能に障害があることが原因です。
      「親のしつけが悪い」という周囲の誤った非難によって、子どもだけでなく親までも傷ついていることが多くあります。
      発達障害児の問題行動は、子どものわがままや、親のしつけが原因ではありません。親だけでなく、周りの人たちが軽度発達障害について正しく理解することがとても大切です。(発達障害に関する相談

少し、授業のことを考えてみました。

「しっくりと絡み合う授業」とは、現場の先生でなければ分からない感覚でしょう。生徒のベクトルと教師のベクトルとの方向が一致し、長さはちょっとだけ教師の方が長い。いくらすばらしい教案を書いたり、目標を掲げていても、方向が違うと生徒は集中しなくなるし、教師の長さが短いとお見限りとなる。教師が長すぎると空回りする。

このバランスを皮膚で感じられないところが転勤したときのストレスの原因のひとつでしょう。

空回りすると、生徒をどうにかコントロールしたくなるものです。「おい、いうこと聞けよ」っていうやつです。民間企業の上司であれば、人事権(評価)を使って、「おい、いうこと聞けよ」ということもあるかもしれません。しかし、ここは学校。そんな評価など、生徒はあまり気にしてくれません。
だから、「間違っていない」ことで、生徒を脅します。それが、「大学入試対策」です。「これは、試験に出る」ということをすれば、生徒はコントロールできます。「試験に出るから英単語」「試験に出るから文法」「試験に出るから長文」「試験に出るからリスニング」という対策だけしていれば、コントロールできるでしょう。

でも、人間がいちばん力を出すのは、支配されたときでも、強制されたときでも、コントロールされたときでもなく、相手と同じ方向を見たときです。(サン=テグジュペリのことばが有名ですよね、「愛とは見つめ合うことではなく、同じ方向を向き合うことだ」) 人生は学ぶことによって、深く・広くなり、楽しいものとなる。そんな学びこそ、人間にとってもっとも有意義なものだと私は思います。その枠組みの中で、英語教育はどうあるのか。そんな原点は忘れたくないものです。

2012/05/02

Look its behind うん? it's behind ・・・かな?

 明けて昨日から進学補講開始。流れの中でいちばん難易度の高い補講をすることになったものの、全体の80%が普通科の生徒です。中には、いちばんの苦手教科が英語というものも少なくありません。自分の子どもの話を聞いていれば当然なのでしょうが、「教える/教えられる」という学校の空間の基礎にあるのは、教師と生徒の人間関係なのですね。人間関係のないところに効果的な授業→学力の向上なんてあるはずもありません。人間関係の上に授業が成立しているのに、その土台を無色透明にした「教材の開発」なんて、無意味なことをどうしてどっかの官庁はやりたがるのでしょうか。この関係に甘えるといっているのではなく、よりどころにしてそれぞれの先生方の色を出せばいいのであって、それ以上でなければ、それ以下でもない。
 「教材開発」というのは、日本酒作りでいえば、大メーカーの酒造り。外食産業でいうなら、チェーン店だと私は思います。確かに、最低限のものは出来るかもしれませんが、それで何か驚くようなものはできないでしょう。「塩こしょう少々」というのは、職人の感覚です。感覚を明確に言語化することなど、できないものです。最低限度の満足という枠組みで教師を育てたって、所詮、その枠組みの中でしか育ちません。チェーン店(製造部長)の味がいいのか、それとも職人(杜氏)の味がいいのか、どちらを目指すのでしょうか。
 同じ授業を持っている人が使う「共通プリント」というのも同じ。こんなことをしていては、教授者としては成長しない。それについては、次回にでも。この延長線上に、「共通テスト」があるんだろうな、と思う。

それはともかく、本日からの進学補講は以下の通り。

 使っている教材はこちら。(夏休みまでに終える予定)

ある先生からの紹介を受けたのですが、解答解説がピカイチにいい。問題を解いたり、読会をするだけなら、この解説をみれば、それだけで対応できます。お気に入りの要約までついています。しかも、プリントを作るためのデータがHPからダウンロードできるというのが、使い勝手がさらによくなります。

そこで補講では、全ての問題を解いてきたということを前提に次のような流れで進めています。

  • センスグループ分けのスラッシュ(自分なりのルール)
  • そのセンスグループでのサイトラ
  • 再びスラッシュ
  • 音読
  • Read&Look up
  • Flip & Write
  • 要約

「先生、授業と同じ流れですね」といわれましたが、長文をしっかりと読むためには、これらの作業が必要だと思うので、補講も授業もスタイルは私の中では変わりません。Readingという授業の特性を考えれば、同じ形式でいいでしょう。ただ、補講は時間的に余裕があるので、これからはディクテーションを入れたり、暗唱を入れたり、バリエーションを拡げていきます。

5/21の金環日食のために購入したのがこの雑誌。お買い得感たっぷりです。子どもの人数分、注文しました。

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