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2012/04/27

遣いたいが、貯金もしたい

もうすぐゴールデンウイーク。

ちょっと気になったこと。これも、twitterだと記録に残らないのでブログで書くといういつものクセなので、なんらかの根拠があるわけじゃありません。

  • 聞くだけで英語が出来るようになるという教材があるなら、教科書の代わりに中学校で採用したらどうだろうか?
  • 学力をつける授業ということで、予備校の授業が評価されることがあるが、どこかの予備校でコミュニカティブをベースとしている講義(論理矛盾かなw)をしているのだろうか。どこかの(一般的な)予備校で英語による講義をしているのか。
  • 予備校は偏差値を上げるという唯一の目的なのだから、効果的な方法があれば、そこに飛びついていくだろう。(「筋肉質な講義」) 東進ハイスクールに「音読ルーム」があると聞き、私は驚きました。さすが、ですね。
  • 学校での授業でコミュニカティブを前面に出すのであれば、予備校的な物差しでいえば、学力アップに直接的につながることにはならないのだろう
  • 学校と予備校との目的がそれぞれ異なることは、当然である。
  • 学校が予備校的な目的(偏差値アップ)をメインとするならば、コミュニカティブな授業がダイレクトに偏差値アップにつながるのだろうか。
  • 偏差値アップにつながるならば、予備校は講義中心のものではなく、小規模で、コミュニカティブな活動を行っているところがいいだろう(って、あるかは知らないけど)
  • コミュニカティブな授業を通じて、英語に対する興味関心が高まり、自律的な英語学習者になっていくことを期待するのであれば、それは生徒(学習者)の可能性を信じることなのだから、管理しないことだ。小テストなんかもってのほかである。生徒がドアをノックしたときにサポートをする。どっちつかずではいけない。
  • もし、コミュニカティブな授業と予備校的取り組み(筋肉質的偏差値アップ)が相容れないのであれば、コミュニカティブな授業は学力向上には予備校ほどの効果は見込めないが、○○はすばらしいのだ、という棲み分けが必要になってくるのか。
  • 両者は二律背反の関係か。たくさん食べたいがダイエットしたい。無駄遣いしたいが大金持ちになりたい。
  • 「いやぁ、そこまで極端な話しをされても」と苦笑するならば、極端ではなく、その割合をどうするというのか。2つの講座で1つはコミュニカティブ、もうひとつは予備校的だとしたら、外に出すときには両方を見せなければ誤解をされてしまう。理科の実験では小学生が楽しそうに活動しているが、その実験で理論的なことまで理解させられるはずもないのだろうけど、あたかもそれで理解できていると見せてしまうとしたら何だかなぁと私は思う。
  • 本日の授業のこと。グループで和訳をチェックさせるときに、1分の時間を与えたが、全体的に50秒程度で全てのグループが話し合いを終えていた。残り10秒は無視して、50秒で次の活動に入ったけど、もし「マニュアル」を作っていたとしたら、1分まで待っていたろう。この例はとてもちっちゃな話しだけど、授業ではマニュアルがあってもそれはアウトラインであり、最終的には教師の観察力。マニュアルにできっこない。それをマニュアル化しようとするような取り組みをしたら、どこかでウソになる。(でも、ウソに見えないようにするし、「それはウソだろ!」という人もいないんだけどねw)
  • ところで、和訳をいやがる人って、その何がイヤなんだろうか?
  • 本日、amazonから届いた本はこちら。では、お休みなさいm(__)m

2012/04/20

Respect for 蒼井そら!

なんだか長い一週間。何年たっても、GWまでは時間的な余裕がないものです。精神的余裕はもっとないか(笑) 学級通信を100号書く!と宣言した手前、今週は本日も含めて4号発行。昔に比べると、学校からLHRが極端に少なくなったので、生徒に訴えかけるのはクラス通信がいちばんだね。「LHRは『担任の宗教の時間』だよ」と初任の頃にいわれましたが、あの1時間をどうやって乗り越えるかは、担任力アップにつながったと思うんですけど、この時間がなくなった影響はボディブローのように効いてきますね。

わけのわからん自称教育評論家に嫌がらせを受けていた蒼井そら(@aoi_sola) さん。彼女のtwitterやブログを見ていると、英語(外国語)学習のリアリティを感じます。ファンとダイレクトにコミュニケーションをとりたいからということで、中国語や韓国語を勉強しているとのこと。すごいなぁ。自分にはそういったリアリティが現在あるのかといえば、ない。少し、考えてみようかな、うん。
それにしても、教育評論家とは実に偽善的な職業だ。勝手なコメントが、道徳的に間違っていなければ、誰もそれをとがめない。私たちは、特に政治の世界はそうだろうが、反道徳的な世界で生きています。人間社会ですから、当然でしょう。そして、反道徳的な「権力闘争」「金銭至上主義」「出世欲」などの「欲」を心の中で強く持っているのに、表面的には、それらがあたかも道徳的であるようなとりつくろいをすることを、偽善という。
最終的に自分がどう行動するか、それを学ぶのがリベラル・アーツなんでしょうが、教養のない偽善者にはこれが理解できない。だから「実践的」「実用的」ということばを前面に出してくる。その人たちが権力を握ったらどうなるか。あれ、、、どっかの世界に、こんなことをいう人が多くない、、、か?(笑) 日常生活で、彼女を上回るような「実践的」「実用的」なことをしている人はどれほどいるのだろうか?

さて、少し、授業のことを。

今年の目標は、「選択と責任」ということで、生徒が自分たちで単語帳を選び、各自、購入させることからはじめました。「単語型」「コロケーション型」「文(章)型」のそれぞれの長所と短所を話し、まずどのタイプを使うかを決めさせます。その上で、書店でどれがいいかを選ばせます。私の方からは、一切、どれがいいとはいいませんでした。(この2段階の決め方でないと、拡散してしまう。詳しくは本日の本を参照してね)
生徒は先輩やクラスメートに「取材」をして、どれがいいかを選び、それをはじめます。そして覚えるのは、「細切れの時間」ということにして、毎日の生活の中の5分、10分の空き時間で単語を覚えるようにアドバイス。

授業の最初の5分を使い、覚えた単語のチェック。「暗記率の目標は3割」「一回のチェック単語は50個」「日本語から英語」というルールで、生徒はそれぞれチェックしています。私も、こんな方法は初めてなので、思いがけないこともいくつも、出てきています。マイナスのものは消して、プラスのものは「もちろん想定していた」というような顔で対応しています(笑)

プラスの想定外は5分という時間でした。この時間が生徒にとっては短いのです。だから、もっとやりたい。しかし、5分できっちりと終わらせることで、「もっとやりたい!」という気持ちが、モチベーションにつながっていますね。「あぁ、もうなくなっちゃったの!?」と焼き肉の時に思うのと同じことです。

生徒1人1人の学力差があるし、与えられたことだけを行う人間にはなって欲しくない。だから、自分で単語帳を選び、それを最後まで行う、という経験をしてもらいたいんですよね。「選択と責任」です。なぜか、理解してくれない人が多いんだけど(苦笑)

授業も、具体的な予習をするように、プリントを配布。とはいえ、なかなか最初からこちらが考えるように予習はしてくれないし、狙いも分かってくれません。いくら説明してもダメですから、授業の中で「この予習は、こういう意味があり、この予習をすることで、授業がさらに分かりやすくなるのか」と生徒が感じられるようになって、初めて、魂の入った予習をしてきてくれるわけです。アリバイ作りの予習は、たいして意味がいないものです。そんな予習をしてくるのではなく、長文を読んで理解するために必要な作業として予習をしてきて欲しい。本日、添付しましたプリントは、まだまだ改善の余地あり。授業の中で、少しずつ改善していきます。もちろん、改善していなきゃ、こっちもいけないんだけどね。

「lesson12.PDF」をダウンロード

2012/04/14

原発の再稼働に反対します

スーパーで食料品を買うときに、産地をどうしても意識します。タケノコが大好きな子どもたちに今年は我慢させたり、イチゴも西のものを購入したり、子どもたちの安全をまず意識しています。

理由はもちろん放射能が怖いからです。

「安全だ、安全だ」という人もいますが、原発から出る廃棄物のうち100ベクレル以上/kgあれば、「低レベル放射性廃棄物」として廃棄されているようです。しかし、それ以上に食べ物に含まれている検査を見ると、不安でたまりません。

60歳を超えれば、危険性がずいぶんと低くなるようです。「安全、安全」といっている人はおじさんが多いですから、その人たちにとっては安全でしょう。しかし、これからの日本を背負っていく子どもにとっては、その安全性は、年配者以上に考えられなければなりません。

借金を次の世代に残さないから消費税を上げるという政府が、次世代どころか、1000年、10000年以上も処理方法がないプルトニウムを生み出す原子力発電所を再稼働させようとする野田政権は、責任ある姿勢なのでしょうか。

専門家が、危険だといっているのに、政治家は危険だといわない。
福島原発は安全だといっていた専門家はその責任をとっていない。
これだけの被害を出しているのに、東京電力の誰もが刑事責任を問われていない。

だーれも、責任をとらない状況で、専門家が警鐘を鳴らしているのにも関わらず、原発を再稼働させようとしている現在の民主党政権、そして今まで推し進めてきた自民党。

枝野経産大臣の詭弁にはもうウンザリ。一部のマスコミでは、「枝野大臣は反原発だ」といっていますが、「爆発的事象」「すぐには影響はない」という”迷言”を残し、東京電力から多額のパーティ券を購入してもらっていた枝野大臣は、国民の安全と電力会社の利益、どちらのサイドにいるのか。

原発の事故を考えれば、「地元の理解」の「地元」は、そこにある自治体だけの問題ではない。福島原発の影響は、福島県以外にも及んでいる。200kmも離れた千葉県だって大きな被害者だ。
大飯原発でもし事故が起きれば、西日本もたいへんな被害を受ける。

それでも、再稼働をするというのだろうか。

2012/04/10

数値化できない欲求

『古武術に学ぶ身体操法』を読了。

1~3章までも興味深く読みましたが、第四章の「発想を育てる」がいまの自分にはいちばん、しっくりときました。その中でも覚えておきたい部分を。

  • 本来測ることのできないものを無理に数値化しないと気がすまなくなっている
  • 演技をしているだけで、教養として言葉が身についていないため、その場の状況を瞬間的に把握する能力が育っていない
  • 「これしかない」と固定されていたら、こんなにも多様な文明は作られなかった
  • こういう時代になって、いっそう私は「これが正しい」といいづらい(中略) 正しいという表現はどうしても使いづらいのです。
  • 自分が常にいいとは思っていない、だからこそ、次々に技が進展していく

また、同書の中で紹介されていたのが「永田農法」。

これを読んでいくと、「読んで訳すだけの英語授業」と批判を受ける授業でも、どうして英語ができる人たちが生まれてきたか、なんとなく分かる気がします。好きなもの・栄養価のあるものを食卓に乗せて、「ほら、食べなさい」といわれるよりは、「あの料理が食べたいな」と思わせたほうが、食に対する欲求が高まるでしょう。

もちろん、どちらが正しいか。「子どもに、栄養価の十分なものを与えるのが間違っているのかというのか?」といわれれば、「いや、間違ってはいません。。。」というしかありません。しかし、それを「これが正しい」ということは、甲野先生ではありませんが、いえないものです。「間違っていないこと」は、「正しいこと」とは言い切れません。それよりも、「間違っているのか?」という問いかけは、上手な詭弁術としか私には思えないのです。

食にしても、学びにしても、子どもや生徒に対する信頼がなければ、食卓に全てを乗せたり、行うべき事柄を全て与えたりと、至れり尽くせりになります。「飢える」(=stay hungry)という過程を通じて、自立的に食べたり、学んだりという方向に進むと思うんですが。

もちろん、これは発達段階にもよります。小学校1年生に対する指導と、中学生に対して、高校生、そして大学生に対して、それぞれ異なります。しかし、「きめの細かい指導」が、現代の若者の"stay hungry"を阻害して、彼らの成長経験を先延ばしにしている部分があるような気がして仕方ないのです。

信じられれば、食べ物にしても、学びにしても、任せることができる。しかし、信じられなければ、多くを管理したがるものです。中学生や高校生、大学生に対して、どれだけ教師と生徒との間に信頼関係があるかが大切になると私には思われます。「きめの細かい指導は悪いっていうの?」という問いかけと、"stay hungry"から欲求を引き出せると信じることとは、ねじれの関係なんですよ。つまり、共通したことばがないのです。

目の前の大人が、学ぶことを楽しんでいれば、"stay hungry"から学びたいという欲求は生まれてくるものでしょう。ここには、数値もなければ、証拠もありません。あるのは、人間に対する信頼だけです。

あれ、いつの間にか、「食」がなくなり、「学び」だけになったか(笑)

ある大手企業の人事の方から、「課題を自分で見つける力が若者にはないなぁ」といわれました。もちろん、「現代の若者」という表現についてはいろいろな意見もあるでしょうが、彼の感想は、示唆に富んでいるのではないかなと思ったものです。

2012/04/09

人間はいつでも、学ぶことができる

以前に國弘正雄先生から聞いた話。

元韓国大統領・金大中氏は、42歳になってから英語を勉強しはじめたそうです。ロンドン大学で講演も行ったり(特任教授?)、英語で本も数冊書いたようですが、國弘先生をして「抜群の英語力」といわしめるほどの、英語力だったそうです。

週末に、とてもうれしいメールをいただきました。本人の許可をいただき、ブログでご紹介します。

 先生のお陰で私の閉ざされた青春が蘇りました。
旧制女学校の1年で英語の授業を受けましたが、
戦争のため英語は敵国語となり、2年から授業は
廃止されました。英語は私にとって未知の世界に
なってしまいました。

波乱万丈の人生を乗り越え、自由な時間を手に
した時は、老年になっていました。80歳過ぎてから
では無理かなあと思いましたが、生きている間に
英語を勉強してみようと思い立ちました。本屋で
「短文で覚える英単語1700」を手に取ったのが
私の出発点になりました。CDは始めは私には
速すぎて聞き取れませんでした。しかし「継続は
力なり」が証明されました。なんとか1冊暗記する
ことができました。CDもあの速さで充分です。
今年の新聞に高校入試の英語の問題が
掲載されていたので試しに解いてみました。
殆ど正解でした。やっと3年間で中学を卒業する
ことができました。もう一度本を開いて「はじめに」
を、読み直してみました。

「誰にとっても道は一歩から始まります、どんなプロ
でも、はじめは素人です」この言葉が今更のように
ジーンときて胸が熱くなりました。
先生、本当にありがとうございました。  

十倉(85歳

こういうメールをいただくと、あの本を作ってよかったな、と思います。十倉さまは、私の祖母と実は同い年です。
80を過ぎて学ぼうとする意欲に驚いただけでなく、学ぶ喜びが人間にはあるという話しは本当にそうなんだなぁと痛感しました。

2012/04/07

Eats, Shoots & Leaves

始業式。新しいクラスが発表されることに、生徒もワクワク・ソワソワ。年をとり、あまりこのワクワク感もなくなってしまったせいか、生徒のワクワク・ソワソワの様子を見て楽しみ、Wordsworthの"The Rainbow"を思い出したり(笑)

実は、今年は初めて「理系」の担任をします。「理系」と書きましたが、「理系」と分けられているのではなく、3年次の科目選択でクラスを分けると、どうしても「理系的」になるクラスが出てきます。Writingをとらずに、数学3や数学Cをとる生徒のいるクラスです。
積極的理系もいる反面、消極的理系(英語が苦手だ)という生徒も少なからずいるので、授業をどうやって組み立てていこうか、そんな風に3月から考えていました。(これは、後述)

物理や化学の先生に「工学と理学って何が違うんですか?」と尋ねると、まずは専門的なお話し。「・・・・・」。なんだか、PCの専門の方の話を聞いているようで、分かる単語はでてくるんだけど、全体として何を言っているのか理解が出来ません(^^;; 見るに見かねたせいか、副担の化学の先生が「工学は目に見えるものを作り、理学は理論や薬品で実験したりする」とシンプルに全体像を教えてくれて、なんとなく納得。今年は、文字通り、生徒と共に勉強していくことが多そうです。
私が正しく理解すれば、その理解は、生徒も納得できるでしょう、たぶん。でも、分かりすぎてしまうと、それはそれでまずいかもしれません。「今年の担任は物理や化学のことよく分かっていないから、自分たちで調べていかないと」と思ってくれれば、それもひとつの「教育」です。ある程度、理解しておいて、分からないふりをするのが、ベストかな。

授業は、教員人生初めての、Readingのみの1科目展開。

英語力にもかなり差があるので、同じ授業でも、使用するプリントでその意味づけが変わってくる2方式をとろうかと思いましたが、自分の中で却下。tmrowingさんのワークシートを見て、「あ、これこれ!」と思い、アイディアをいくつもいただきました。いつも、おんぶに抱っこをさせていただいておりますm(__)m 私のワークシートや授業計画も出したいのですが、職場にファイルを忘れてきたので、また来週にでも。

Readingの授業で今年、取り入れていきたいことは次の通り。

  • とにかく英語に触れさせる
  • 教科書の新出語句を、教科書外のコロケーションで覚える
  • 「熟語」を増やす
  • 難易度の高い英文を、なんとなくで済まさない。文法的な理解も深める。カンマ1つも大切にする
  • 自分なりの「スラッシュ」を入れ、その「塊」を拡げていく
  • サイトトランスレーション
  • 音読(いろいろなバリエーション)
  • パラフレーズで表現を増やす

授業内で、一切、やらないことは、受験指導。受験参考書や問題集の類いを授業で行うつもりは全くありません。もちろん、放課後の補講では行いますが、授業の中では全く行わない。だいたい、学習指導要領にだって、「大学進学のため」なんてことは、ひと言も書いてないでしょう。大学はあくまでも結果であり、英語力をつけるという立ち位置から離れないようにしよう。

明けて昨日の放課後は、ALTに授業の件で相談して、いくつも納得。ウイリアム・バロウズのことを聞き、like a fishは、like William Burroughsとも使うよと教えてもらう。ちょっと、オタク系かな?(笑)

2012/04/04

正しさスパイラル

いつか、もっと深く考えてみたいと思っているので、同じ話をまた書くかもしれませんが。

「昔の授業は、読んで訳すだけだった」という批判をよく聞きます。実際、自分の高校時代は、カセットテープを使わない先生でしたし、英語ⅡC(ちょっと定かでない、Bだったかな?)の「英作文」の授業はその全く逆に、日本語を読んで英語に訳すだけでした。

シャドイングもないし、オーバーラッピングもありませんでした。授業中にアクティビティをすることなんて皆無でした。隣の人とQ&Aなんてありませんでしたし、もしあったとしても、盛り上がらなかったでしょう。
英作文だって、別解を深くやっいたようにも思えません。

予習プリントもなければ、副教材もないし、CDの販売なんて全くない。

ただ、ずいぶんと英文は読まされた気がします。毎回、教科書を2ページくらいだったかな。とにかく進みました、読んで訳していく授業でしたから。

こんな授業を受けた人は少なくないでしょう。

そして、英語授業の改善が生まれてきた。音声を重視しよう、実際の場面を取り入れよう、コミュニカティブにしよう。音読でもいろんなバリエーションが出てきて、教科書会社は予習のための教材を作ってくれたし、CDで音声も生徒は十分に接することが出来るようになった。

これらは、言語学習の方向性としては正しい。批判をする人は少ないでしょう。

正しい方向にいっているのであれば、その正しい教授法を受けた今の若者は、学力が上がっているハズなんだけど、どうして「学力低下」がいわれるんだろうか。

江利川先生のブログに、興味深い記事があります。

中学校の段階で開きがでているのですから、高校になるともっと広がっているでしょう。

「正しいことをしてきているのに、結果が悪化している」ということは、相手が人間であれば、十分にありえることです。日本マクドナルド会長・原田泳幸氏は近著「勝ち続ける経営」の中で、「リサーチで企画するな」といっています。(この本は、教員にとってもおもしろいと私は思います。蛇足ですが、私はマックも含め、ファストフードは好きではありません)
リサーチをすれば、「正しい」方向性は見つかるが、人間はそのようには動くとは限りません。論理的にOK、方向性がOKであろうと、人間はそのように動くとは限らない。

子どもに本を与えたから、子どもが本を読むとは限らない。勉強部屋を与えたから、勉強するとは限らない。サッカーボールを与えたから、サッカーが好きになるとは限らない。「愛している」と自分の気持ちを伝えても、相手が自分に興味を持つとは限らない。(逆に、どん引きされることの方が多い;笑) などなど、「正しい」と思われることが、「望む(正しい)結果」を生み出すわけではありません。この矛盾を考えない限り、いつまでも机上の人間になってしまう。
「正しい」方法よりも、親が本を読めば子どもは本を読むし、大人が学ぶ姿を見れば、子どもは学ぶ。サッカーを好きな大人が周囲にいれば、子どもも好きになる。「正しい方法」なんてよりも、「そのことが好きな大人(教師)」「そのことを楽しそうにしている大人(教師)」の方が、子どもたちに与える影響は多いと思うのです。これは、「論理性はどうなんだ」「証拠はあるのか」といわれても、そんなものはない。人間は、論理や証拠で生きているわけではないので、あるはずもないのです。
しかし、「正しい」ことを進めたい人は、そうは思わない傾向があるから、不思議なんだけどね。「共通理解」を多用する人を、私は信用しません。「共通理解」と、「そのことが好きだ」ということは、相容れないことが多いですから。好きというスタイルは自分独自であって、それを他の人と合わせるのは、ナンセンス。共通理解は、ルールとして作ればいいものであり、スタイルまで統一するものでもありません、本当に好きであれば。

「学校で、テープを流してくれないから、自分でやるしかないよな」と生徒が思ったら、それだって大きな教育の成果じゃないですか。私たちの年代(現40代)で、こんな経験をした人はいませんでしたか? /desk/じゃなく、[desuku]と発音している先生が不安だったから、自分でラジオ講座を聴いてみたり、ウオークマンが高いから、自分でポータブルプレーヤーを組み立てて聞いたり、など、あれはあれで、すばらしい教育だったと私には思えます。

話は変わりますが、授業もいい加減に、組合の話ばかりしていた先生に教わった生徒が教師になったら、組合には加入しないでしょう。教師の話がダイレクトに生徒に受け入れられるわけじゃないってことです。これは、親の子育ても、教師の教育も全く同じこと。

「きめ細やかな指導」は、「子どもの自立性」を時には奪ってしまうことがあります。それを、教師として私は忘れたくない。親として気づくのは、子育てが終わったとき。つまり、後戻りも出来ないし、「次」もやってきません。そのときには、次の世代が同じような「正しさスパイラル」に入ってしまいますが、次の世代に自分の失敗を伝える人もいないでしょう。

不自由を与えることで、好奇心が芽生えてくる、そんな教育は「現代風」じゃないとしたら、それはそれで、残念なことかな。

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