« 2012年1月 | トップページ | 2012年4月 »

2012/03/31

過程と結果

 卒業後、3年目の同窓会。お世話になった先生の退職祝いを当時の学年職員がほぼ集まって開かれました。私たちにとってあの学年は、職員も生徒も最高のメンバーでした。教師はお互いに専門職として仕事を自分たちでしていました。(つまり、他者への過度な干渉はなかった) そして、教師を見るのではなく、生徒を見ていました。(「愛はお互いを見つめあうことではなく、ともに同じ方向を見つめることである」byサンテグジュペリ)
 生徒も、本当に気持ちのある生徒でした。細かいイタズラはもちろんあったものの、友だちを大切にして、気持ちのよい生徒でした。今回の同窓会にしても、4日前にS先生のお祝いをしようとmixiで呼びかけたところ、集まった生徒がなんと40名!どちらかというと、「イタズラ系」の方が多かった気もしますが、そんなものだろうな。

 男子の卒業生の手を見ると、ごっつくなっています。「いま、何をしている?」と聞くと、板金だったり、車の整備だったり、洋服の販売だったりと、ホント様々。とってもかっこいい手だね。
 女子は、保育士になっていたり、看護師になっていたり、工場で働いていたり、小学校で先生をしていたりと、こちらも様々。『成長する英語教師をめざして』や『英語教育』(大修館)でも紹介したディズニーに勤める女の子も来ていました。

 この学年の周りは、私にとっての「新しい原点」です。自分がいい気になっていた鼻を、生徒が卒業してから折られました。学力が伸びたという結果、そして有名大学に入るという結果、そんな「結果」を目標にして、それを「達成」していい気になっていた数年前の自分が、いかに愚かだったかを、思い知らされた学年でもあります。
 他の先生方が、有名大学に生徒を合格させようと頑張っていることが愚かだといっているわけではありません。それはそれで、否定するつもりはありません。
 しかし、生徒の人間的成長をサポートすることがいちばん大切な課題だと、教育相談を通じて考えていた私にとっては、その優先順位は高くはない、ということです。有名大学に何人合格した、国公立に何人合格したなんていう「結果」はどうでもいい。

 自分で自分の進路を決定して、その選択に責任を持って取り組むという過程を私はサポートしたいと思っています。結果として合格したならば、それは良かったと思えるし、合格できなければそれを受け入れるためのサポートをしていきたい。
 私の人間観・人生観が、そういうものだからです。

 有名大学に入り、上場企業に入社することが、人間にとっての最高の人生というのなら、私もガツガツして偏差値を上げよう、有名大学に合格させようとするでしょう。しかし、それがイコールの関係に必ずしもならないということに気づきました。(遅すぎる気づきだったけど) 人間はそんなに単純じゃないし、人生もそんなに単純じゃない。
 でも、単純化した方が「分かりやすい」といって、人目を引くことがあるけれど、自分の人生を振り返ってみれば、ある程度の年齢の人は分かるんじゃないかな、と私には思えます。人生って、深みのあるものでしょう。
 持っているものは持っている悩みがあるし、持っていないものは持っていない悩みがある。ほどほどがいいのかといえば、ほどほどであれば、欲もでてくる。もっと手に入れば、さらに欲しくなる。持ちすぎると不安になる。
 人目を集めれば、それを維持しようと躍起になる。躍起になれば、勇み足があり、それを隠すために不誠実なことをしようとする。
 いま自分が持っているもので、他者を大切にする生き方が幸せだと思っていますが、どうなんでしょうか。まぁ、「時代」にはそぐわないかもしれないけど(苦笑)

 英語という教科は、受験で大切なために、いろいろな「期待」される部分があります。結果という期待に応えようとして努力している人もいれば、過程を大切にしようと努力している人もいる。私は後者でありたいし、後者の気持ちを失ったときは、昨日の同窓会のような卒業生とは会えなかったろうな。
 エリクソンのライフサイクルは、学んで良かったな、と私は思っています。

2012/03/27

教育

春休み突入。明けて昨日は休暇を取って、栃木まで野暮用。

短い文章だと全てが伝わらないことを承知の上で、2つほど気になることを。
ただ、その前に東京新聞の「本音のコラム」(2012/03/26)を紹介します。看護師の宮古あずささんが、福島第一原子力発電所近くの双葉病院で、「院長が患者をおいて逃げた」という事実と異なる報道がなされたことに次のように述べています。

  • 何かあれば「ほらやっぱり」とばかりに私たちをたたいてくる、メディアへの不信感に根音がある。精神科病院は、常に社会の矛盾を引き受けてきたともいえる。医療者を強者としてきた安易な報道では、ここが常に抜け落ちる。震災前、双葉病院の患者に対し、社会はどれだけ関心を寄せてきたのだろう。

これは、学校に対してでも当てはまる気がします。

気になることの1つめ。学校への政治の「介入」について。
「政治」としいっても、その定義が難しい。世の中のこと全てが政治と関わっているといえば関わっているので、教育に対しても一定の力が及んでいることは間違いないし、それを全て否定するつもりはありません。
ただ、入学式・卒業式の「国歌国旗問題」のように人々の感情に訴えるような政治介入、そしてこの問題が袈裟からのぞいているような大阪府の「教育基本2条例」(教育行政基本条例、府立学校条例)と「職員基本条例」に私は反対します。
理由はふたつ。教育という場は、感情で決定してはいけないからです。確かに感情で流されてしまうときもあります。人々、生徒や教師、保護者の感情がダイレクトに入り込みやすいところです。しかし、その感情で決定が左右されてしまって、いいことはありません。「愛国心」という名が示すように「愛」は感情そのものです。それを利用して、社会の感情を学校に持ち込もうとすることに、私は心から嫌悪感を持ちます。
感情がダイレクトに出てしまう場に家庭があります。家庭では許されるのは、親は逃げないからです。どんなトラブルが子どもにおきても、決して逃げずにつきあい続けるからです。そういう親を子どもは信用するし、長い目で見たときに裏切りません。教師はその期間はせいぜい3~数年です。
一方、「社会」は、厳罰化や理想論を押しつけるだけで、つきあい続ける人はほとんどいません。自分が思春期だったとき、どのような中学生・高校生だったのか。もう一度、思い起こしてほしいものです。いまの少年ほど勉強をしていたのか、規範意識は高かったのか。私はそうは思わない。(自分が思春期だったとき、「ツッパリ」に何もいえなかった人々が、今の少年のイタズラに対して目くじらを立てるのは、大人としてイタイとさえ私は思います。)
ともかく、教育の場(家庭以外ね)での決定に、感情を持ち込んではならないということが1つめ。同じような論理で、教員の政治運動に対しても私は否定的です。

もう1つは、入学式や卒業式という日は、節目として大切な日ではあるが、それは「誓いの日」「別れの日」という側面が強いということです。入学式では、「自分がこの学校で、しっかりと学んでいこう」という誓いをします。
高校の3年間は、振り返ると短いものですが、1日1日は長いものです。楽しい日ばかりではなく、悩みもあれば、不安もあり、それが問題行動に表れるときもあります。じっくり、私たちが話を聞いたり、勉強や話しを通じて世界を広げるサポートをしたり、学校行事を行ったりと、毎日の積み重ねがあります。生き方を考えたり、人生を考えたりしつつ、進路を選び、そしてゴール地点が「卒業式」です。(教師は、感情に流される気持ちを抑え、理性での判断を行えるよう「組織」があります。)
その大切なゴール地点の「卒業式」は、教師や生徒にとって、3年間の積み重ねの「記念日」であるのに、そこに国歌斉唱の時に起立しているかを確認する来賓や、職員が歌っているかを確認する民間校長は、この3年間の重み、教師と生徒の記念日をどのように捉えているのでしょうか。(ちなみに私は、着席したままのことは1度もありません) 
入学式や卒業式で演奏される国歌を、自分たちのいうことをすなおに聞く教員か、哲学的方向性が似ているかのチェックのために利用しているとしか私には思えないからです。入学式・卒業式を思想チェックの場とし、そこに国歌を利用しているとしか、私には思えないからです。

もうひとつ、気になること。最初とは全く関係ないことです。

自分に対する戒め、そして自分が今までしてきたことに対する反省も込めてですが、教科教育から少し離れて、教育という枠組みで教科教育を見つめ直してみたらどうだろうか、とこのごろ、強く思います。その教育を、教科教育でどのように具現化していくか、特別活動でどのように具現化していくか、そんなことを考えていきたい。
教育に答えはありません。だから、いろいろな「具現化の形」があるでしょう。その多様性が生徒にとって救いになります。
ただ、「生徒のニーズ」「保護者のニーズ」といって、その形を「受験指導」にするのは、私は間違えだと思う。「受験指導」を通じて、何を伝えたいのか、という哲学があれば話しは別です。しかし、最初に「生徒のニーズ」を理由にするならば、教育観はどこにいっているのかと私は思います。教師を専門職とするのは、教科指導だけではなく、この教育観の裏打ちされているからであり、教育観なき学校における教育活動では、専門職たり得ないと私は思う。この教育観は明文化できるものではなく、生徒との関わりの中で生徒が感じていくものです。その先生のことばに重みを持つものです。(比較的、国語や地歴公民の先生には、この重みを持つ先生が多い気がします。)
技術と哲学は違います。哲学なき技術は人を傷つけることがあります。私も、さんざん、悪いなく、好意をベースとしてきた「教育活動」で生徒を傷つけてきました。相手に悪意がないと分かっているから、生徒はストレスが一入だったでしょう。
「競争」というのであれば、日本に比べて「競争」がないといわれるフィンランドは、どうして学力が世界でトップなのか。日本という、相互扶助の文化(社会的ストック)の中で、どういう教育がいいのか、いまいちど、考えてみたいものです。

本日のブログは政治的なものなので、コメントは閉じます。賛成の方も、反対の方も、こういう問題はご自分の場で主張されて下さい。

2012/03/22

受験生になる皆さんへ(クラス通信「たいまつ」最終号)

今年度は、クラス通信「たいまつ」を約50号、発刊しました。A4の両面印刷。よく書いたなぁと思いますが、前任校での学年主任が書いた3年間で350号に比べれば、まだまだか(^^;; 本日は、その最終号を大公開!(っていうほど、たいしたものじゃないけど;笑)

<1年は早いものです>
 本日をもちまして、2年D組が解散します。全員が進級できたことに、ホッとしています。2Dはまとまりもあり、クラスの雰囲気が明るく、仲のよいクラスであったので残念で仕方ないのですが、3年次の科目選択の関係もあるので、この4月からみなさんは新しいクラスでそれぞれ学ぶことになります。第2学年最後の「たいまつ」は、受験学年になる皆さんへのメッセージだと思ってください。

<「美しいもの」を「美しい」と感じたい>
 「人生は競争である」という考え方に私は大いに違和感を感じています。『家栽の人』(毛利甚八作・魚戸おさむ画)というマンガは、「木を育てることと、子どもを育てることは同じことがある」と作者が木の職人さんから聞いたのが、このマンガのきっかけだったと裁判所関係者から聞きました。(ホントかどうかは分からないけど)
 4巻だったでしょうか。気持ちが荒れた少年が主人公の桑田判事に突っかかります。そこで彼はいいます、「強くたって、弱くたって、美しいものを見ることはできる」と。美しいものを、何のフィルターも通さずに、美しいと感じることはできるのです。
<私は君たちの「その時」を信じている>
 人間は理屈や論理で動くものでもありません。100%正しいアドバイス(指導)は無意味といっていいくらいです。「タバコは体に悪いからやめなさい」「読書をしなさい」「勉強をしなさい」「お酒の飲みすぎはダメですよ」「夫婦仲はむつまじく」など、100%正しいアドバイスですが、もしこれらを言われて、「あ!そうだ!目からうろこだ!」と思い、実行する人などいないでしょう。
 人間が動くときは、心の中に何かを感じて、それがコップに満ちて、あふれ出るときです。それが、いつかは誰も分かりません。「早く育てよう」「大きく育てよう」と大人はしてしまいますが、それは逆効果。「勉強しなさい!」といわれて、うれしい人などいないでしょう。教師としての私の仕事は、「すくすく伸びる広い庭を与えるだけでいいんです」(左カット参照)というように、場を与えて、「その時」が来ることを信じることです。教育の営みとは、そういうものなのです。

<「不合格」で良かった!?>
 「努力は裏切らない」というのは、本当だと思います。しかし、「努力をしたら、成功するか」というと、必ずしもそうではない。一生懸命に勉強をしても、テストで失敗することもあります。いくら準備をしても、仕事で失敗をすることもあります。
 自分自身でも2回、「えっ!?」と思う結果がありました。1回目は大学入試。もう1回は、海外留学のための奨学金テストでした。両方とも、どうして落ちたのか、よく分かりません。
 第1志望に不合格、滑り止めにも不合格、「最後の最後の砦」に進学した私にとって大学時代の最初の半年はおもしろくないものでした。山形県には当時セブンイレブンもなく、県庁所在地なのに山形駅は木造。夜は早いし、生活も不便そのものです。
 しかし1年も過ぎると、その土地が好きになってきました。お酒は美味しいし、スキー場はすぐ近くにあるし、山登りもできれば、河原ではBBQもできる。しかも、温泉まで車で30分です。そして、生涯の友もでき、恩師とも出会え、そして妻とも出会いました。
 大学院時代に受けた留学の奨学金のテストにもし合格していたらどうでしょうか。私が教師になったとき、千葉県では約100名の採用がありました。そして、その翌年は50名、さらに翌年は25名。人数の枠を考えても、おそらく教師にはなれなかったでしょう。
 だから、ふと立ち止まって考えます。あの試験、合格しなくて、正解だったのかもしれないと。

<人間万事塞翁が馬>
 これは、「幸福や不幸は予想のしようのない事のたとえ」として用いられることばです。人間にとって、何が良いことになり、何が悪いことなのか、それは予想はできないものです。宝くじに当たることは短期的には「良いこと」かもしれません。しかし、そのお金が原因で、家庭が崩壊し、本人の人間性も崩れるケースは少なくないようですが、もしそうなれば宝くじに当たったことは「悪いこと」になります。
 もう少し自分の経験で押し進めると、「努力した結果を受け入れると、良いこと(幸せなこと)が訪れることが多い」と思います。成功しても、失敗しても、その結果は結果として受け入れる。その結果は、天があなたに望んでいることで、それがあなた方にとって最高の道だと教えている、そんな風に私は感じます。

<若者にとっての受験とは何だろう>
 高校と大学の受験、これは何なのでしょうか。志望大学に合格するために、君たちが勉強しているのは重々承知しています。それは、当然のことでしょう。
 でもね、「合格」すればしたで、それは喜べばいい。しかし、「不合格」であったとしたら、「そこに行かないほうがあなたのためだよ」と天が教えているのです。「ここまで勉強した君だから教えてあげるよ。これが君の歩くべき道だよ」と、合格・不合格という結果で教えてくれているんだよね。
 その時、私たちがいちばん難しいことは、その結果を素直に受け入れることです。合格して勘違いをしたり、不合格で落ち込みすぎたりするのではなく、その結果を素直な気持ちで受け入れたいものです。それが「生きる力」なのではないかな、と私は思います。そんなしなやかさを、育むサポートを私はしていきたいものです。
 1年間、お疲れ様でした。そして、ありがとう!

2012/03/19

大学の学びは無意味なのか?

町内会長の仕事もあと2週間。ゴールが見えて、ホッとしました。本日は、午後から書類の提出や相談で市役所に。市役所の方の対応もとても親切/丁寧です。

世の中で「優秀な(英語)教員」とは、生徒の学力を高める先生だと思われているでしょう。多くの生徒が英語の偏差値が上がったとか、多くの生徒が検定に合格しただとか、そんな先生が「優秀」といわれていると思います。実際、親の立場からすれば、それはよく分かる。(これを①とする)

その延長線上に、「有名大学に合格させた」という先生も「優秀」とされるでしょう。それまで以上に進学の実績を出した先生、そういう先生が「優秀」といわれる気がします(そんなことない??) 親としてみると、それもよく分かる。(これを②とする)

①=②とするならば、もしくは②のための①とするならば、大学での学びってなんだったんでしょうか。

英文学を学んだり、語学を学んだり、教育とはなんぞやという教育学を学んだり、英語教師になるための単位取得ではそのようなことを学びます。高校進学・大学進学のためのノウハウなんて学びません。

大学での学びと、「優秀な教員」との間の温度差の原因はなんなのか。

twitterでつぶやくと後に残らないので、ブログでtwitter的につぶやいていきます。

教師にとっての「学び」が試されているような気がします、この問題は。

2012/03/15

久しぶりのブログ。と、ここ2年間は何度書いたことだろうか(苦笑)

なんだか、不義理をしてばかりのこの1年間です。携帯の着信に気づいても、折り返しかけることを忘れていたり、メールの返信もままならなかったり、原稿さえ忘れていたりと、キャパオーバーの状態でした。一つひとつの仕事量は少なくても、気持ちが焦ってしまいます。横のつながりのない仕事がいくつもあると、あれもこれもの状態になり、お手上げになるものだということを、身をもって体験しています。

エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を読んでいて、気になったこと。

『リーダーシップを持った政治家』を「日本の空気」の中に私は感じます。確かに、政治家にとって「リーダーシップ」は大切な要素のひとつでしょう。いろいろな意見の中から、人々にとってプラスとなるものを判断して、そこに進むリーダーシップは大切なものです。(もちろん、何が人々にとってプラスになるかという判断は、教養によるものです)
ただ、今の日本の空気を見ていると、「あの人なら、なんとかしてくれそうだ」という「期待の空気」であって、耳目を集める政治家は、賞味期限が切れないようにスピード感をキープし続けなければいけない緊張感が求められていそうですが。

愛が束縛につながり、教育が思い通りの存在につながる危険性を意識しつつ、愛をはぐくんだり、教育を行ったりしなければならないのと同じように、リーダーシップには独断の危険性を意識をする必要があるのではないでしょうか。それを意識するのは、有権者であり、その有権者は、「有権者」になっていない子どもの将来を大人の視点で考えられないものか、と私は思います。

「自由」を与えられると、独立していない人々は不安になるので、その「自由から逃走」をしてしまう危険性があるのは、フロムの著の通りです。

教育に話しを転換します。

教師が、専門職として、自立しているのならば、私は「自由」を放棄しないほうがいいと思います。
放棄しないことは、とても辛いことです。研鑽を続ける必要があることです。
政治の力におもねったり、流行に流されたりしないことですが、「そのような生き方」を受け入れることでもあります。

中学生の娘が塾に行き始めました。教え方を聞いていると、講師の理解は怪しいなぁと思う一方で、私が教えていたときには全く伸びなかった成績が、伸びてきました(苦笑)。「お父さんよりも、よっぽど分かりやすい」といわれる始末ですrain

教え方うんぬんも大切かもしれませんが、教え方が上手な先生が必ずしも生徒の成績を伸ばしているとは限らないものです。

英語教師として充実した気持ちを持っていることが、生徒の琴線に触れる条件だと私は思います。研修会の表の目的は、「教え方の研修」でしょうけど、裏の目的は「英語教師のエネルギーの充填」だと私は思うようになりました。(だからこそ、講師の誠実さや熱心さを「表」で知ってから、「裏」(懇親会)での本音トークがセットになって本当の研修になる)

英語教師の「自由」とは、「こだわり」だと私には感じられます。ライティングにこだわるもよし、リーディングにこだわるもよし、受験指導にこだわるもよし、オーラルメソッドにこだわるもよし、英語の授業を英語でというこだわりもよし。

ただ、自由から逃走してはいけないと思うし、自由から政治の力を使って「逃走」させてはいけないとも思う。

生徒の成長を願う教師が、充実した気持ちで授業を続けられれば、そこから生徒は自分で進むべき道を切り開いていってくれる。そんな信頼感がなければ、学校に教育など存在しない。人間は自分の生き方を自分で決められる、という人間に対する信頼感がないところに、教育など存在しないのだ。

だから、教師は気持ちを維持するのがたいへんだ。しかし、「自由から逃走」は望ましくない。



« 2012年1月 | トップページ | 2012年4月 »

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
フォト
無料ブログはココログ

おすすめ