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2011/05/23

今頃は、君は汽車の中♪

久しぶりのブログ更新。といっても、授業は相変わらず進めております。
クラス替えもあり、担当する生徒も変わり、温度差を埋める作業も終わりました。前半の目標は、「音読」と「リスニング」、「暗唱」にターゲットを置くことに。後半は、「スピーチ」「英作文」(ライティングにあらず)へと移行していきたいと思っています。そのためにも、音読や筆写は必要です。

何の仕掛けもない状況で、教科書の本文のまねをさせる英文を作らせたところ、多くの生徒がSVという組み合わせが出来ていない状況に軽いショックを受けました。Sが単数にもかかわらず、Vに3単現のsがないのは、まだかわいい。関係代名詞の非制限用法はできているのに、このSのVはどこにいっちゃったのよ、というものもありました。教科書で、必ずSVの組み合わせを確認させるだけでなく、音読をした上で、筆写したり、ディクテーションをしたりと、「正しい英語を書き写す作業」が必要だなぁと思いました。「何となく読み」からの脱却の道筋を立てないで多読を促したところで、「誤読」が増えるだけだと思うんだけど、それって間違っているでしょうか。

ということで、いつものように教科書はリスニングから入り、Q&A、音読をした上で、「日本語訳付きディクテーション」を開始しました。

例えば、授業で I like dogs.を勉強したら、プリントの最後のページには「私は犬が好きだ」と書いてあります。それを、教科書のリスニング音声を聞きながら、その日本語の下に、"I like dogs."と書かせるようにしています。
音声を流すのは3回で、1回目は通し。2回目は、文や節(長いときには句)の単位で一時停止。そして、3回目は通し、です。
最後のチェックは、「フリップ&チェック」。recieveかreceiveかのように、本人たちにとって曖昧なスペリングの時には、しっかりと見ているようです。

どんな器の中で自分が生きていきたいか、そして、時にはどんな器を自分が作り上げていきたいか。そんなことを考えると、自分の居場所が見えてくるのでしょうね。きれい事かもしれないけど、自分の生き方は、そうでありたくないものです。
うん? なんのことかって? マイミクさん以外は分からないってことで。

本日から長期出張。次にPCを使うのは、30日(月)の深夜となります。ちなみに、ブログが更新される頃は、電車の中です。

2011/05/13

GWが始まったと思ったら、終わってから1週間が経過してしまいました。光陰矢のごとし、、、ではなく、GW光のごとし、といったところでしょうか。

今年度は、メインでは普通科の英語Ⅱと、国際科のLLを担当しています。英語2では、あえて今までと同じように、What is this passage about?から始まり、Q&A、新出語句、音読・・・という一連の流れで授業をしてみました。1年次に受け持った生徒も、受け持たなかった生徒も含め、「名詞のグループは□で囲む」、「前置詞のグループは(    )でくくる」などの基本ルールがほとんど忘却の彼方というか、意識から彼方の地へといっていたようです。
ということで、同じようないつもの同じ作業を3時間。SVを確認させたり、動詞のグループにはアンダーバーを引かせたりと、基礎からはじめています。

「何となく読み」から脱却して、今の教科書が音読用教材になるように勉強をしようというものの、それを理解してくれる生徒はどれだけいるやら。
ただ、1年と今年と担任をしている女子生徒から、「長文が読めるようになったんです、イディオムはよく分かっていないのですがsweat01」といわれました。細かすぎることを覚える「構文ジャンキー」になならないように心がけたので、すこしうれしい一言でした。昨年の秋に準2級に合格したので、今回は英検2級にチャレンジするNさんにエールを送ります!

先日、5/4付けのtmrowingさんのブログを読んでいて、ちょっと気になったことがあります。それは次の1文です。

  • 塾や予備校や英語学校などへの嫌悪ではないのです。自分の資産価値を自ら貶めることへの嫌悪なのですね。

そうかもしれないなぁと読みながら感じてはいたものの、どこか引っかかります。もちろん、その部分もあるのですが、何が気に掛かっているのか考えてみました。

もともと、私は教員志望ではありませんでしたが、教育学や教育心理には興味を持っていました。林竹二氏の著作の読書会を友人と行い、「学ぶことは何かが変わることだ」という言葉の意味を議論したこともありましたし、『日本の教師に訴える』のむのたけじ氏に秋田まで会いに行くこともありましたし、障害児教育の単位も取りましたし、大学時代には4年間、ボランティア系のサークルにも入っていました。(って、キャラじゃないかもしれないけどcoldsweats01

だから、私自身は英語教育というよりも、教育に興味がありました。人間が生きていくということはどういうことなのか、学ぶということはどういうことなのか、社会の中の学校の役割はなんなのか、寺子屋から学校へと変わった意味はなんだったのか、などという、およそ『英語教育』とは無縁なことばかり大学では勉強していました。江戸末期の子どもが使ったおもちゃで遊んだりもしたなぁ。教育学や教育心理を勉強した後に、英語教育の講義や演習を受けても、あまり興味を持てませんでした。
人間が集団で生きていく上で教育は必要です。そして、個人が意味のある人生を送るためにも教育は必要です。そのためには、学校や教師はどのような存在であるべきか、そんな書生論ばかり考えていました。その「書生論」と「英語教育」との間に、接点を見いだせなかったんです、あの当時は。

そんな書生論にはお金のことを考える必要もありません。いや、お金を考えることは不純だとさえ、思っていました。話はかわりますけど、スワンベーカリーを作った故・小倉昌夫氏は、福祉関係に勤める人たちの金銭に対するマインドを変えさせることから、始めたんですよね。似たようなものかな、教育も福祉も。

ところが、学校という場ではやはり、お金がかかります。私立高校は「経営」と「教育」とのせめぎ合いもあるでしょう。
授業だけを考えても、金銭的に余裕のある家庭と余裕のない家庭の子どもが同じ教室で学ぶなら、どうしても余裕のない家庭の子どものどちらに、合わせるかという問題が出てきます。教材費だけでもなく、修学旅行、校外学習など少しでも安くて、そして良いものを提供しようとすれば、教師の目に見えない仕事が増えます。うん、でもそれは、心地よい疲れであり、ストレスにはなりません。自分の作業で、生徒が経済的に楽になるのであれば、そのサポートはしたいと考えるのが学校の先生でしょう。

その一方、予備校や塾は、学校に比べると高いお金を取ります。税金が使われているわけではないし、高いお金を取ることは当然でしょう。それで、学力を上げることを主目的としているならば、まだいいと思います。しかし、大手の塾の中は、学力を上げるというよりも、売り上げを上げることを主目的としているところもあります。(これは断言します。株式を公開していれば、株主への責任もありますからね) 
これが、私が塾や予備校に感じる嫌悪感の源です。まぁ、いまだに書生論から抜け出せておらず、世間知らずということなんでしょう、私は。

もちろん、売り上げよりも学力重視をしている塾があることも知っていますが、そういう塾は経営がうまくいかないケースが多々あるようです。
たとえば、教育重視と売り上げ重視という軸で考えると、ベネッセは「教育産業」の中では、「教育重視」に近いと私は思います。だから、ベネッセが買収した「東京個別」とうい塾の経営は思わしくない(株価をみたり、塾業界の人の話を聞いた限りですが)。ベネッセという学校と似た方向性のマインドを持つ会社は、あこぎなことはできないでしょうから、どうしても売り上げは落ちていくのでしょう。
もし、売り上げと学力とを両立できると、塾・予備校と生徒とがwin-winの関係になるすばらしい「教育産業」になるでしょう。もちろん、「教育重視」なのだから、生徒を捨てないし、えり好みしない、という条件付きで。(ただし、集団を壊す生徒については、その限りではない)

嫌悪感を感じない塾・予備校は、自分で教材が作れるところです。塾用教材の表紙だけ変えて、それを自分の教材として使ってみたり、定期考査を集めてそれを自分たちの教材としているような塾は、私は軽蔑してやみません。
その上、保護者や生徒に対して、学校や教師への不安を煽るような、「風評」を出すことだってあるでしょ。

ちょっと後ろ向きだけど、たまにはこんなブログでも許して下さいな。

2011/05/03

誰(何)を守るのですか?

ようやくGW。。。というエントリーを書こうと思って早数日(苦笑) 昨日はスポーツ大会のため、時間的に余裕があったので、たまりにたまった事務仕事。ようやく机の上がきれいになりました。もう少しだけあるけど、ようやくゴールが見えました。

今年度、自治会長を引き受けることになりました。この役割で、いちばん多いのは「苦情への対応」です。地区の世帯のうち約500世帯が加入して、100世帯が未加入なのですが、こちらがムッとするような対応をしてくるのは、未加入者からの「苦情」です。最初はまじめに聞いていたし、1時間以上もの「抗議の電話」にも対応していました。でも、「自治会という互助会組織で、どうして互助会に自分の意思で入らない人の話を、自治会が聴かなければいけないのか?」という疑問を持つようになりました。とある事務所(会社)の社長さんから電話があり、事務所脇のゴミの集積所の移動を希望されました。それを解決した後に、「自治会に入りませんか」というと、「それは難しい」です(笑)。だったら、最初から町内会に頼ってくるなよ、ってことです。(ちなみに、ゴミの集積所の移動は、自治会の決定事項でなく、近隣の人々の話し合い)

その地域に暮らし、その地域をよくしていこうとする人は、前向きな提案はあっても、その地域の人間関係を壊すようなことはいいません。自分さえ良ければ構わないと思う人などほとんどいないからです。そこで生活する人たちの顔も具体的に思い浮かべることもできるし、自分もそこで暮らす1人だという実感もあります。

同じような関係が、まだ撤回していない文部科学省が問題ないよといっている「20ミリシーベルト問題」が見えてきます。
4/10のブログでも書きましたが、彼らは子どもたちの生命と安全を守り、意味のある教育をしていこうなどと思っていないのでしょう。文部科学省という省庁にいると、子どもたちの顔など具体的に思い浮かべません。田中君は算数が苦手だけど、理科が好きだったような。鈴木君は、この頃、ちょっと大人になったな、だとか。高橋さんは、両親の離婚問題で、この頃、元気がないことが心配だ、とか。当然ですが、彼らは現場で教育活動を主体的にしていないのですから、想像もつくはずもない。
難関試験をパスした彼らですから、放射線によるガンの危険性も知っているでしょう。しかし、彼らにとってはあくまでも「確率」にすぎない。「1年続けば200人に1人、2年続けば100人に1人がガンになる危険性がある」(学校放射線基準は「安全でない」 ノーベル賞受賞の米医師団)といわれても、「残りの199人や99人は安全なんだから、いーじゃん」というのが、彼らの論理なんだろうとしか思えません。彼らはいったい、子どもの生命と安全を守らずして、何を守ろうとしているのだろうか。

一方、親や教師は目の前の子どもを皮膚で感じています。自分の子どもが、自分よりも先に死ぬことは最大の親不孝であるから、親は子どもの安全に気をつけるものです。自動車事故に気をつけるようにするし、犯罪に巻き込まれないようにもします。身を挺してでも守ろうとする。学校の先生も、親のレベルにはなれないだろうが、子どもの安全は守ろうとする。交通事故での死亡事故よりもよっぽど高い放射線の危険性に対して、親や教師が子どもを守ろうとすることは、当然です。自分の子どもなのですから。

でも、放射線量の高い地域では、地域のしがらみを考えると、「自分の子どもだけ転校させたら、もう2度と地元に戻ってこられないのではないか」という不安もあり、その場に留まらざるを得ないという辛い決断をしている人が多いようです。
原発から50km付近に暮らす友人が、「学校で部活動をするのに、保護者に同意書を書かせるんだけど、どう思う?」と聞かれました。同意書があれば部活動に参加させるけど、なければ参加させないそうだ。「自分の子どもだけ部活動をさせないわけにはいかない」というジレンマは、イライラとなって、学校や教師に向かってきます。
学校や教師の立場になってみれば、文部科学省も「問題ないですよ」といい、県知事も「20ミリシーベルトを撤回せよ」とはいわないのだから、このような同意書は苦渋の選択なのだろう。

結局、文部科学省というところは、何をしたいのだろうか。地域の絆を壊すプロジェクト?

これからも、この線量で安全だと言い張るのであれば、ふたつ提案がある。これができるなら、反対しません。

  • 文部科学省・経済産業省、東京電力、菅内閣の閣僚(細野豪志議員を含む)、原子力委員会、保安院の関係者は、子どもや孫を20ミリシーベルトギリギリの学校に転校させる。
  • 郡山の学校でとった表土を、それぞれの敷地や、自宅の庭に保管して、「少しでも放射線の軽減を図る」こと。

できるなら、してみなさい。

文部科学省がどういう行動をしていくのか、皆さん、注目して下さい。言葉では誰でもきれいなことはいえるし、時には人を欺くことができる。でもね、大切なのは、困難なときにどのように行動したかです。

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