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2011/01/28

競争と居場所

本日は長女の学年集会で午後から休暇。もうすぐ小学校卒業です。12年前の冬、雪の降る日に生まれた彼女も、まもなく中学生かと思うと、自分も年をとったなぁと感じます。

誰しも、自分の子どもには、「勉強ができるようになって欲しい」「スポーツが得意であってほしい」「人間関係が良好であって欲しい」「活発であって欲しい」などなど、自分のことは棚上げして、ある意味、「親として当然ともいえるワガママな希望」を持つものです。ほら、赤ん坊の時に、「はやい」「大きい」ことに価値観を持ってしまうことと同じです。小さいときに、「この子は、天才かもしれない!」「イチローのようなスポーツ選手になるかもしれない!」なんて思いませんでしたか。私は思いました(^^;;

娘のことを話すなら、私と連れ合いとの遺伝子の結果なのですから、冷静に考えれば天才でもないし、イチローにもなれません。私に似れば、新しい環境にはなかなか適応できないだろうし、妻に似れば算数・数学はチンプンカンプンでしょう。遠藤周作がエッセイで、「自分の子どもなんだから、そこまで優秀な子どものわけはない。でも、皆さん、幸せに暮らしているでしょ?」と親に向けて投げかけていました。

確かに、人口も増えて、経済も右肩上がりの時代は、その言葉に説得力があったでしょう。高校進学率も半分程度で、終身雇用が保障され、ほとんどすべての人が、郊外に一軒家を買えた時代もありました。しかし、少子化が進み、デフレ地獄から脱却できず、大学進学率が50%を超える時代になってくると、遠藤周作さんの言葉に、うなずきつつも、「でも、やっぱり」と思ってしまうのが親というものです。もちろん、私もその1人です。

そこで、「学力をつけろ」という圧力が学校にやってきます。この「学力をつけろ」というのは、「今まで以上に」という意味が内在されていて、「もっと高く、もっと高度に」という意味が含まれています。
人間の「『もっと』スイッチ」が入るのは、外的要因があったとしても、内側にしかありません。自分が必要だと思う、自分がもっと知りたくなる、という要素がなければ、「『もっと』スイッチ」はオンにならないのです。これは人間にとって普遍的な「能力」です。
タバコを吸っている人に「タバコは体に悪いから辞めろ!」といっても止めないでしょ。「健康のために適度なスポーツはしなさい」「深酒は体に悪いですよ」「本を読めば、人間としての深みが出るから読みなさい!」といわれて、実行する大人がどれだけいるでしょうか。おそらく、ほとんど皆無でしょう。正論なんて役に立たないものです。

ところが、子どもに対して大人は正論で責め立てるのです。「ほら、勉強しなきゃダメだよ」 どうして?と尋ねられれば、「今の日本経済では、しっかりとした大学を卒業してなぁ、大きな企業に入らなきゃ。。。」と正論攻撃は続きます。(その結果、今年の大学生の就職率をみて下さい。日本経済を支えている中小企業への就職を希望する大学生は少ないでしょ)

話しがそれました。(いつものことか;苦笑)

この「『もっと』スイッチ」をオンになかなか出来ないと思うと、『競争原理』を持ち出します。どっかみたいに、「上位50校には、5億円を配分する」というのは、その最たるものでしょう。(このときに、韓国の教育を声高に主張するのに、なぜか学力世界1のフィンランドの教育は黙殺するのは、都合が悪いからなんだろうか。)

ここで、私も含め、保護者は考えるわけです。
「自分の子どもの能力が十分に開花できないのは、平等を求める、横並びの教育がいけないんだ。うん、そう、日教組が悪いのよ。ゆとり教育が悪いのよ。競争社会なんだから、しっかりと競争させなきゃダメ!」

このとき、私も含め保護者は心の中でこう思います。

「うちの子は、競争で勝つに決まっている!」

これは、当然でしょ。競争を求める人は、そこで負けることなんて考えません。負けるために競争を挑むなんて、論理矛盾ですから。

競争に勝つために、色々なお誘いに乗るようになります。

「塾に入れなきゃダメだよね!」
「家庭教師をつけなきゃ!」
「通信教育はいいわよぉ、リーズナブルで」

もちろん、いかに「学校だけでは、無理なんですよ」と彼らは声高に保護者に訴えます。「学校だけに任せておけないわよね。ウチの子の成績が伸びないのは、先生の教え方に問題があるんですよぉ」という心を上手に、刺激してくれるんですよ。

さて、こんな教育を受けてきた子どもたちは、どうなるでしょうか。競争に勝った子どもは、負けた子どもに対して、どういう気持ちを持ち、負けた子はどんな感情を持つか。さらには、競争という舞台に立たなかった子どもはどうなるか。

果たして、「思いやり」「協調性」「コミュニケーション能力」なんて、そんな教育の中で、はぐくまれることが出来るのだろうか。

先日、成人式を迎えた卒業生と「プチ同窓会」を開きました。そのうち、1人は、地元の成人式で実行委員を務め、成功に導いた女の子です。彼女は「有名大学」の生徒でもなければ、競争の土俵に乗りさえしませんでした。短大を卒業して、幼稚園の先生になるために、いま頑張っています。リーダーシップがあり、優しい心の持ち主である彼女は、園児にとって素晴らしい先生になれると信じています。

私は、自分の子どもには、勉強が出来て、他者より上に行くことに快感を持つよりも、友人が多く、気持ちの優しい子どもになって欲しい。そしてこの国に暮らす様々な人と、関わりを持って欲しいと考えています。(もちろん、勉強が出来てくれれば、うれしいけど;笑)

娘とは色々と話し、地元の公立中学校に進学することになりました。ちなみに、「チャレンジ」はやっていますが、これは、最後まで行えなかったときには本人がお年玉で支払いをするという条件付きです(笑)。

まとまらないエントリーですが、医師だけの国もなければ、弁護士だけの国もない。大企業に勤めたり、医師や弁護士になったら、幸せになれるとは限りません。自分の人生を、自分で責任を持って選択し、生きて欲しいものです。
友人の体育教師が「自分の子どもを、『使い捨て』部活には入れたくない」といっていましたが、私も自分の子どもは『使い捨て』されて欲しくはありません。スポーツは競争を求めることもあり、往々にして「使い捨て」が行われるということでした。
教育と競争。このバランスをどうとるのか。生徒が競争の土俵に立とうとしたらもちろんサポートはしたいと思いますが、そこから降りようと思ったときに受け入れたいものです。そうなったときに、私の立ち位置はどこにあるのか。自ずと、答えは決まってくるでしょう。

2011/01/14

Teachers should be seen and not heard.

久しぶりのブログ。体調を崩しただとか、精神的に落ち込んでいるわけではありません。ご心配を下さった方には、感謝します。

昨秋から、「兼業主夫」になっています。連れ合いが働くようになり、今までおんぶにだっこだったのを改めまして、包丁を握ったり、洗濯機(ちなみに我が家は2槽式sweat01)を使ったり、お風呂を洗ったり、子どもの送り迎えを行ったりと、いやぁ、もう大変です、それは。世の中のママさん先生のご苦労を経験しています。妻の勤務先も、彼女がしたいと希望したというよりも、私がお願いしたということもあり、「兼業主夫」をせざるをえない状態です。
妻が帰ってきたらグチを聞き、一緒に考え、仕事の見通しを立てて、と昼間は先生、夜はカウンセラーという状況。安易な「民間神話」に与するつもりはありませんが、仕事が常にあり、倒産を考えなくていいことには、感謝したいものです。

少しずつ、時間的にも余裕が出てきたので、ブログも少しずつ更新していきます。

転勤後2年経ち、感じたこと。副担任をしていた昨年度は、3年生の授業のみだったので、正直、勝手が分かりませんでした。「流れに乗る」ということの難しさを感じつつ、担任ではないという遠慮もありましたし。(これは教師としての仁義だと思うのですが、いかがですか)

しっくりとくる授業というのがあります。空回りしていない感覚があり、生徒との温度差がほとんどなく、授業中に活気があるという授業です。これは、授業者である自分の感覚に過ぎないのかもしれませんが、皮膚で感じるものです。「しっくり感」を持てない授業は後味が悪いし、持てる授業は充実感があります。充実感とは、「自分がうまく説明したな」というものではなく、「自分の手を離れて、生徒が自分で学べていたな」という感覚です。若いときには「自分がうまく説明できた授業」がいいと思っていましたが、年と共に、「一定の秩序の中で、生徒が『勝手に』学習していた授業」に魅力を感じています。

前任校での最後の回りの授業も、現任校での授業も、「出汁」は全く変わっていません。リスニングをして、"What is this passage about?"という全体像をつかみ、それから細かい部分を聞きとる。新出語句の学習の後に、英文を解釈して、音読、筆写という流れです。もちろん、細かい部分の変化はありますが、この流れがしっくりするのは、おそらく「自分の理解」がこういう流れなのでしょう。もちろん、全く違う切り口の授業の先生もいるでしょうが、それは「その先生の理解」の流れなのでしょう。

そう考えてみると、たくさん課題を与えて、あれもこれも、という「ガツガツタイプ」は、そういう学習方法をしたことが良かったと思っているか、そうしてもらいたかったという思いを持っているのだろうし、生徒の自主性を重視する「放任タイプ」は、それに対する気持ちが強いものです。1つの物差しである「ガツガツvs放任」の直線上のどこに自分が位置するかというのは、学校種に関わらず、変わらないものなんだろうなぁと思います。もし学校種ごとに変えていたとしたら、かなりのストレスになるだろうな。

脱稿して、ちょっと気持ちも楽になりました。続きはまた次に。

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