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2010/09/21

41回目のバースデー

41回目の誕生日。二回目の成人式を終え、よちよち歩きになったくらいか。mixiとはいいもので、マイミクの卒業生からおめでとうメッセや、携帯メールでの連絡をもらえました。なんだか、うれしいですね。

教師は幸せな仕事だと思います。若者が成長していく様子を目の前で見られ、卒業をしてからもつながりを持てるのですから、担任という仕事はやめられません。表には出せない苦労も少なくはないけど、体が動く限り、担任は続けたいな。

驚いたニュース。

うーん。こんなことってあるんですね。ファイルの更新日時が記録されることを知らなかったのか?しかも、この容疑者の検事は、「大阪地検のエース」だったようで、何がなんだかよく分からない。

昔、ブログに書いたかもしれないけど、聞いた話。私立小学校の面接でのひとこまのようですが、できすぎているので、眉唾かもしれません。

「君は、うちの小学校に入って、どうしたいの?」
「ボク、いい中学校に入るんだup
「良い中学校に入って、どうしたいの?」
「ボク、いい高校に入るんだup
「良い高校に入ってどうしたいの?」
「ボク、いい大学に入るんだup
「いい大学に入って、それからどうしたいの?」
「・・・・・」
「君は、大きくなったら、何になりたいの?」
「ボク、、、バスの運転手になりたいんだ!happy01

同じような場面が、クラスでもあったなぁ。

「俺ね、偏差値上げたいんだけど、どうすればいい?」
「どうして偏差値を上げたいの?」
「MARCHに行きたいんだよね」
「どうしてMARCHに行きたいの?」
「だって、できたら行きたいじゃないの」
「MARCHに行って、どうするの?」
「いや、別に何も決まってないけど」
「良い大学に行ったら、幸せになれるの?」
「・・・・」

件の大阪地検のホープも、有名大学出身だとか。学ぶとはどういうことかを考えながら、今年最後の酷暑の明日を過ごしたいものですね。人生は一回しかないのですから。

2010/09/16

正論だけなら、サルにもいえる

一気に円安。なるほど、為替介入か。
ちょっと前に気になる「世論」(この「世論」も誰が何をいっているのか明確にならないから分からないんだよなぁ。「空気の研究」が必要か)で、「日本政府は円高に対応するべきだ」というものがありました。何が気になるかというと、もし日本政府がそのような認識を持って、簡単に対応できるなら、すぐにでも対応していただろうな、ということです。
経済の素人のワタクシは好きなことがいえます。曰く「各国と協調して、行きすぎた円高が是正されるようにせよ」とか、曰く「G7で各国と話し合え」とか、曰く「とにかく円高をナントカしろよ」などなど、簡単には文句を言えないような「正論」を言えちゃうのです。責任のない、素人ですから。

新聞報道によれば、為替介入の根回しに一ヶ月を要したとか。

実行に移す人は、色々なことを素人よりも深く考え、より実効性を持たせるように行動している(と私は信じたい)のですから、1点のみしか見ていない外野があーだこーだいうには、一定の節度が必要になってきます。それが、人間としての「格」でしょう。

我田引水。

私は高校の教員ですから、「中学校の英語教育はかくあるべきだ」とか、「大学の英語教育はかくあるべきだ」などと、自信を持っていうことは出来ません。経験したこともないのですから、分かりません。同じ弦楽器かもしれませんけど、エレキギターと三味線、ウッドベースくらいの違いがあるんじゃないかな。多少は似ているところはありますが、違うんです。

中学校に比べて、高校や大学は、そこで学ぶ学習者の層がある程度、均等化されています。もっとはっきりいえば、学力差がある。自分の基本スタンスを、学力の低い層に合わせたいと私は思っているので、大学や進学校などの学力の高い層の英語教育にツベコベ文句をつけたことは一回もありません。自分が経験したことのない分野については、謙虚に聞くということが必要だと思うんですよ。
学力的に厳しい大学の英語教育にしたって、相手は大学生という大人ですから、高校生相手のノウハウがそのまま使えるとは思いません。高校3年生を受け持った翌年の1年生への対応にさえ、ちょっとギャップを受けるのですから、相手が大学生なら、もっと大きな溝があるでしょう。
横道にそれますが、約1年前に「椎間板ヘルニア」と診断を受けてから、自分がそんなに若くないこと、永遠には体は軽やかに動かないということを、痛感しました。だから、あっちの学校やこっちの学校を経験して一家言を色々なところで持つよりも、自分の興味関心のあるところで深めたいと私は思っています。

さて、昨日の続きをもう少し書くと、自分の守備範囲でもないことをエラそうにいう人間が私は理解できない。居酒屋談義ではない。「円安誘導」と同じように、正論を振りかざす人は、自分の顔を鏡でもう一度、よく見るといい。何も感じないなら、教師としての格、人間としての格の問題であり、同じ言語を話すかもしれないけど、共通の言葉がない。

これは、大学の先生や、進学校の先生に多い気がする。

「英語の授業は、かくあらねばならない」
「英語の先生は、かくあらねばならない」
「自分の指導で、生徒の大学進学がこれだけ伸びたんですよ。高校での英語教育というものはだなぁ~」

のように、「かくあらねばならない」「~というものは」ということを、「『強者』の論理」(『』に入っているよ、念のため)で振りかざす人間は、視野が狭いのだ。そんな視野が狭い人たちの話を真に受けて、自分のことをせめる人たちがいるとしたら、悲しいことだ。私が出会ってきた先生は、誰しもが自分のポジションで、生徒に向き合う人たちが圧倒的大多数でしたよ。

ホンモノとは、こちらを奮いだたせてくれる人間性や言葉を、謙虚に持っている人だと思います。謙虚とは、ミエミエのへりくだりではないのですよ、念のため。まぁ、どんな人でこちらが奮いだつかは、その人次第なんですけどね。

2010/09/14

教師の基本は担任

色々と書いては消したけど、ひと言でいいや。(twitterみたいだね;笑)

「教育」という営みが、その語の前に「英語」がつくと、どうして教育を知らない評論家がエラそうにものをしゃべるのだろうか。
私たちが教育を学べるのは、大学ではない。現場である。それを、象牙の塔の住人は自覚した方が良い。

本当に知りたければ、普通の公立学校で、担任を2~3周りやってみるといいよ。それをする根性がないなら、エラそうなことをいわないほうがいい。



2010/09/10

サルじゃないんだよ

「危機論者は備えの重要なことを訴えつつ、無意識的には危機の到来を欲望している」
「私が危機論者を好かないのは、彼らが危機の到来のときに「逃げる」ことを経験的に知っているからである。
「ほら、オレが言ったとおりになっただろう」と言うのは、彼らが安全な場所へ立ち去るときの「別れ際」の台詞なのである。
共同体のフルメンバーである「大人」はそういうことをしない」
(スーパークールな一夕

普段の出だしと変化させて、内田ブログから引用してみました。

確かにこれはあるよなぁ。「このままではダメだ」という人は多い。「だから、こうしようよ」と提案する人も多少はいる。しかし、「実際に、こうしているよ」と行動する人はごく少数です。クールに第三者を気取る人は多いかもしれないけど、行動する人はごく少数。これは、民とか官とかにかかわらず、少数の気がする。
どうしても全体として受け入れざるを得ない状況になったとき、いちばん反対していた人が受け入れるための方策に走ったことを何度も見た経験があります。「逃げる」のではなく、「受け入れる」ための行動をしていました。そういう人って、人間的に私は尊敬します。そういう先生は、なぜか社会や国語に多いのはどうしてだろ?

さてさて、anfieldroadさんのブログを読んでいて考えたこと。

世の中で、英語教師に対する批判は多い。理科でもなく、国語でもなく、数学でもなく、英語に対する批判は多い。これは、「英語」という、実用に直結する、、、もっといえば、ビジネスに直結する教科ならではの「悲劇」でしょう。小学校からずっと美術をしているのに、上手な似顔絵は一枚も描けないのはケシカランとはいわれないけど、英語の場合はいわれてしまう。

全体像が見えず、自分の論理から離れられない人は、自分の論理では受け入れられない現実を目の前にすると、自分の論理内での原因を探したがる。英語教育でいうなら、英語教師の英語力が低いからだ、日本は英語がなくても生きていけるからだ、文法をしっかりと学習しないからだ、音読が少ないからだ、ディベートが行われていないからだ、と、あちらこちらに、その原因を声高に言う人は多い。

でも、人間の営みはそんなに単純ではないでしょ。しかし、自分の論理でしか物事を考えられない人は、単純に考えたがる。

単純に考えたがる人は、A→Bという単純な図式をもちだす。「競争があれば、成長がある」とか、「コミュニカティブな活動があれば、コミュニケーション能力があがる」とか、「ディベートを行えば、実践的なコミュニケーション能力があがる」とか、とにかく単純な図式をだしたがる。
たしかに、その人はそれで成功したかもしれない。しかし、その人は自分では気づかない高い能力の変数αがあることに気づいておらず、Aα→Bが分かっていないだけなのだ。マスコミをにぎわしたり、高い実践結果を出したりするような、能力の高い人に限って、この傾向は高いような気がする。ちなみに、このαが目の前の対象者とのコラボなのだが、高いBを見て、Aの高い実効力、αに対する無意識の自尊心が高くなったときに、私たちは失敗するし、傲慢になるか。
同じことをしても、同じ結果になるとは限らないのは、学校だろうが、民間だろうが同じことです。心的生産性に関することは、マニュアルには限界、しかも底の低い限界がある。

現場という最前線で働いている人たちは、このことが分かっている。ボーっとして、毎日を過ごしているわけではない。どうやったら、Bを最大化できるか、自分なりに考えている人がほとんどだ。(表面に出さない人は多いけどね) Bは授業の結果だけではなく、生徒の成長も含め、人間として総合力である。
だから、評論家的にポジションを目指して現場から離れていく元教諭を私はあまり信用しない。どんなに偉い先生でも、評論家的精神になったり、取り巻きを持つようになったりしたら、お山の大将一直線になるものだ。

生徒の英語力を伸ばすためには、授業だけではない。これははっきりしている。普段、どうやって生徒と接しているか、今の生徒の個々の状態、全体の状態はどうなっているか、生徒が精神的にネガティブになっているときにどんなコミュニケーションを取ろうとしているか、そんな総合力=αが大きな変数となっている。

「お前は、好きな先生の教科は出来るようになるねぇ」と母親に言われた経験はありませんか?(私は何回もあります(^^;;) 私と同じ経験をした人はいくらでも聞いたことがある。その先生の教科力が高ければ教科に対する信頼は高くなるかもしれないが、人間的に好きになるわけではない。人間的に好きになるのは、その先生の人となりや、眼差し、真摯さなど数字では評価できないオーラのようなものではないですか。相手の年収や学歴、乗っている車、会社名、偏差値など目に見える数字で、異性を好きになるような人は少数だし、いたとしてもあまり信頼できないよね、そんな人。
それなのに、数値目標を出せ、エビデンスドベースが必要だと、「営業職」をさせるから、トラブルになってくるんだよなぁ。

話しを元に戻すと、英語教師の学力が低いから生徒の学力が伸びないのだという単純化したい人がいるのも事実だろう。単純化したい人は、何か目的があるんだろう。ギボアイコが霊と話しができるといって、ホニャララを目指したように、なんかあるんだろうなぁ。なんだろ(笑)

元に戻って、困難な状況の時にどうすればいいのか。
目の前の生徒に対して真剣に接して、生徒に必要なサポートを行っていくしかないのだ。目の前の対象(集団も含めてね)は、この世界で唯一の対象であるのだから、他者の方法がピッタリあてはまることはない。もっと上手くいくかもしれないけど、真似事はたいてい失敗するものだ。
しかし、成功した人に限って、自分の真似をさせたがる人のなんと多いことか。それが思い上がりになっていることを、成功した人は気づいていないのが悲劇なんだろうけど。

彼らが、自分の方法論が上手くいかなかったときの、最後のいい訳は「英語教師が悪い」である。優秀なリーダーは、自分の「部下」という実行部隊を悪くいわない。その部下の能力が最大化するように方策を立てるからだ。

「英語教師が悪い」といっている人は、自分が独りよがりの論理を展開してるだけか、優秀なリーダー(オピニオンリーダー)ではないと、宣言をしているだけなんだよ。そんな人に、マジメに付き合う人は、エネルギーの無駄。時代は省エネ。

2010/09/08

もし英語教師が・・・

試験前最終日の授業。英語Ⅰもライティングもギリギリ終了でした。ライティングは、先日、受動態でドツボにはまってどっぴんしゃん。ごめんなさいねm(__)m 私自身も後味の悪い授業でした。
英語Ⅰは、なんとか順調。分詞の形容詞的用法では、「現在分詞は『~している』。過去分詞は『~られる/される』」という中学校レベルの復習をしてから、それぞれ動的イメージと静的イメージに発展。その後、飾り語が1語の時は前→後ろ、2語以上は後ろ→前ということを、例を提示して説明して問題で確認。飾り語には波線、飾られる語には下線を引いて、→で修飾関係を示して、全て大きな□で囲みます。面倒な作業だけど、こういう作業を重ねつつ、音読や筆写などの作業の延長線上に、スラスラ感があるんだよねとあえて雑談風に話しておきました。授業内で真剣に話した方が良いもの、授業内で雑談風に伝えた方が良いもの、HRで伝えた方が良いもの、クラス通信に書いた方が良いもの、どれを選ぶかは、教師の勘。当てずっぽうではなく、空気を読む勘です。この勘は、経験でしか育つことができないんですけど、早く伝えた方が良いと思ったり、正しいことだと思ったりしてあわてると、微妙なときほど失敗するものなんだよね。
現在分詞の後は関係代名詞。あえて、接触節ではなく、関係代名詞を提示しているのに、「省略しました」という生徒がいたので、そこは指導。先走るのはやめましょう。授業は徐々に、前任校のスタイルに戻ってきています。もう少したったら、まとめてみたいものです。

本日は、床屋談義ならぬLL準備室談義で、K先生と「共通理解」という言葉のいやらしさについて話す。今はやりの「挙党一致」と似た意味を持ってはいないだろうか。「共通理解」を言い出す人は、「自分の主張を全体の方向性にしよう」という気持ちを持つ人が多いのではないだろうか。同じような方向性を持った人がいたら、「多数決」(といっても、3~4人が普通なんだろうけどね)となり、その人たちの方向性が「共通理解」という言葉で言い換えられる。つまり、「共通理解を考える場」は、多数派の人たちの方向性を認めるための場に過ぎない。板書や説明まで共通理解というなら理解できるけど、相手が納得できないのに、全体として方向性を決めようということは、単なる思い上がりだということが分からない大人がいることは、どうしてなんだろうか。正面から文句を言えないような言葉は警戒すべきだよなと思う。

もし、その人が正しいことをしているのであれば、理解など求めなくても、自分の方法を相手に押しつけなくても、それは注目したり、真似をしたりするひとは出てくるのですよ。その「正しいこと」というのは、授業のテクニカルな部分だけではなく、その先生の人間性、はっきりいえば、「教師の格」も重要な要素になります。格のない人の技術を学びたいなんて、まずない。

本当に共通理解を持とうと思ったら、自分の今までの経験や、疑問なしに正しいと思っていることを捨て去る覚悟が必要でしょう。その覚悟なしに、自分の方法を押しつけようとしたり、小手先のちょっとした変化のみであれば、それは共通理解という言葉は嘘っぱちに過ぎないわけです。

共通理解を持とうが、持つまいが、信頼関係のないところでは、意味のある協同作業はできません。信頼関係は築くのは難しいけど、なくすのは一瞬。さてさて。

明日は「塾」。といっても、私が教えるのではなく、生徒です。英語関係ではありませんし、教育関係でもありません。全く関係のない分野で学ぶことも良いものですね。塾の予習のため、今から女子マネドラで気になるところをもう一度、読んでみます。「もし英語教師がドラッカーの『マネジメント』を読んだら」どうなるだろうな。

2010/09/03

信頼感だよね

授業も開始。まだ多少の痛みが残るとはいえ、去年のこの時期の、立っていられないような痛みがないと思えば、助かります。

英語Ⅰは7月の授業スタイルを徐々に変化させています。リスニング→Q&A→新出語句はいつもの通り。その後、「過去と英文は振り返らない」を合い言葉に、1~2分程度で本日の英文を読み、自分がまとまりとして認知できる英語の固まりにスラッシュを引かせます。「『答え合わせ』はしない」と伝えると、ホッとする顔が。その後、解釈をしてから、全体読み→個人読み→対面リピート→重ね読み→追いかけ読みといういつもの5パターンで授業は終了。
そうそう、授業で使用しているWord3000も稼働中。ペアを隣→前後→斜めの3パターンで、50(40)秒→40(35)秒→30(25)秒で、口頭で問題(コロケーション)を出し合う。答えられなかったコロケーションは、テキストを見て確認して、閉じてから答える。制限時間以内に答えられた場合には、シールをパートナーから1枚進呈。締めに、私が日本語で問題をだし、生徒が英語をノートに書きます。少々、コロケーションにもう少し、統一感があるといいんだけどなぁ、この単語集は。

ライティングは、ライティングというかグラマーというか、時制の復習。過去形と現在完了形との考え方で、「恋は終わったら引きずるか、引きずらないか」で過去形と現在完了形。高校3年生だから、こんなことを聞けるんですね。もちろん、生徒を選びますので、ご安心を(笑) それにしても、「引きずらない」という生徒が多いですね。「先生はどっちですか?(笑)」と逆襲されたので、「幼稚園の時に好きだった女の子を今でも覚えているよ」と切り返しておきました。こんなたとえ話ができるのは、高校3年生だからですね。高校1年生だと、授業にならなくなりそうです。

昨日の夜、卒業生2人から携帯に電話が。おそらく、4~5年ぶり。いちばん、手のかかる代の生徒だったなぁ、彼らは。今になって思えば、こちらがいちばん、鍛えられた時期でもありました。朝のSHRでは、教室にいる生徒が1桁という日が普通だったような時期でした。転勤する時期にはそういうことはありませんでしたが、赴任したときには、いろんなことがありました。
今月の土曜日に、3人で会いましょうよということになり、今から楽しみ。ちなみに、彼ら2人は「非常に手のかかる生徒」でした。ここには書けないことをたーくさんしてくれた(苦笑)
でも、人間的には信頼できる生徒でもありました。不適切な行動はしたけれど、相手をだますとか、自分の利益だけを考えるというような、人としての不適切な行動をすることはありませんでした。ちなみに、2人とも専門学校を卒業してから、広い意味での営業職にずっと就いています。「今の俺の姿をみたら、先生驚くよ」というので、ぜひとも驚かせて下さいな。
彼らとの電話の後、大澤師グループのメンバーとなった畏兄のT先生に電話。彼らと会うときに、一緒にどうですか?と聞くと、「喜んで」とのこと。あの時から10年以上がたって再び会うのも喜びです。ちなみに、T先生は地歴の先生。つながりがあるのは、言葉ではなく、心の中か。

まぁ、この頃、いわゆる英語教育に距離感が出てきてしまいましたけど、その距離感は2つの要素から出てきているのだなと思います。

1つ目は、人間としての信頼感。
もう1つは、方法論としての違和感。

後者のみの人とは、英語教育の話しが噛み合わなかったとしても、一緒に飲みたい。おかれている環境が違えば、方法論が異なるのは、北海道の人と沖縄の人との、冬の時期の過ごし方がことなることと同じことですから。
しかし、前者のグループとは、飲みたくない。人間としての信頼感をもてない人とは、たとえ方法論が同じだったとしても、胸襟を開いて会話などできない。

しがらみが強くなり、しがらみで生きていこうとすると、前者と必要以上に付き合うことになり、自分がなくなるか、自分が失われていくものです。その人たちとの「共通理解」というルールの押し付け合いは、疲れるんだよね。コミュニケーション能力の低い私にとっては、「しない」という結論のみです。

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