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2010/07/25

舞踏会の夢(2)

朝食後、ウトウトとしていると、夢を見ていた。また、田中氏が現れてきたのだ!

別室で息を潜めていた田中氏だが、もう一度、勇気を振り絞って踊ることにした。今までと同じことをしたってダメなんだから、発想を変えてみよう。自分の服を考えるのではなく、女性のニーズに応えられるようと、彼は考え方を変えたのだった。

よく見てみると、女性も踊りたくて来た人ばかりではない。踊りなんて嫌いで嫌いで仕方がないという人もいるし、友だちに誘われてという人も少なくない。踊りが上手になりたいという人もいるけれど、適当に踊れればいいや、なんていう人もいる。

自分でよしと判断した服を着て、なんとか踊ってもらえることになった田中氏。相手は、ステップがあまり上手ではなかった。周りに気づかれないように、ステップを教えると、彼女はとても喜んだ。「このステップが出来なかったんですけど、自分にも出来たって驚きですっsign03」と驚く彼女。その評判を聞きつけ、今まで踊っていなかった女性も、踊って欲しいと言ってきた。

ちょっと楽しい田中氏。

自分の服を見ると、ズボンの裾が長すぎるな。見栄を張って長いものを買ってしまったけど、短くした方が相手は踊りやすそうだ。

踊りの休憩中、のどが渇いていそうな女性に、田中氏は飲み物を持っていった。とても喜ぶ彼女。実際に、踊っているだけが舞踏会ではないのだな、と田中氏は気づいた。

そんなことを繰り返し、相手にニーズに応えつつ、出来るだけ実践的踊りやすい服を田中氏は自分で服を作り上げていったのだ。もちろん、舞踏会で彼と踊りたいという女性は徐々に増えていった。

そして、ふと、仕立て職人を見てみた。

実際に踊ったこともないのに、どうしてあそこまでエラそうに、踊りとはなんぞや、魅力ある踊り手とはなんぞや、と言えるのか不思議に思えてきた。最初は、ははーーっと彼らに平身低頭していただけだったけど、冷静に見てみると滑稽に見えてくる。そして、踊り手の中に、腰巾着のように彼らにくっついている連中が、情けなく思えてくる田中氏。

自分の話しをよく聞いてくれる仕立て職人と田中氏は会うことができた。仕立て職人としての技術と、踊り手としての矜持とがコラボすると、どれだけ魅力ある踊り手になるか、田中氏は分かるようになっていった。

あ、あ、あつい。。目が覚めた。あ、夢だったんだ。。。

今からリアル倫太郎とスーパーに行く約束があるので、今から出かけます。暑い日が続きます。みなさま、どうかご自愛下さい。

舞踏会の夢

とある舞踏会での話し。昨日の夢です。

女性にダンスを申し込んでも、断られる田中氏がいた。あっちで申し込み断られ、こっちでも断られ、そして彼は考えた。

うん、色々な女性と踊っている、あの男の真似をすればいいんだ、、と。

まずはジャケットを同じものを着てみた。やっぱりいちばん目立つものだから、ジャケットを真似てみる。同じものを購入してみたんだけど、ちょっとダブダブ感があるけど、これで女性のハートをゲットだぜ!(ポケモン風)と彼は信じて疑わなかった。

結果は撃沈。誰も田中氏に振り向いた人はいない。

次にズボンの真似をした。撃沈。
靴の真似をした。撃沈。
髪型も真似をした。撃沈。

そこで、田中氏は自分を袖にした女性にどうして踊ってくれないのかを、勇気を出して聞いてみた。

  • 服があなたに合っていない。
  • 服に気を取られているけど、着ている人のことも考えたらどう?

田中氏撃沈。

そんなとき、洋服を作っている職人がやってきた。彼らは、洋服作りしか経験がなく、実際に踊ったことはないのだが、妙にエラそうなのだ。新しい洋服を世に出して、多くの人が着てくれたら、「匠ランキング」が上がっていく。自分のデザインした服を男性陣が着た結果、どうなるかは、彼らの知っちゃことじゃないのだが・・・。

「女性の言葉なんかに気を取られても仕方ないですよ。ほら、こんな服を着てみれば、舞踏会で注目されること、間違いなしでっせ!」

あちらこちらで、演説をしていく仕立て職人。そして、藁にもすがる思いで、その服を買おうと努力する男性陣。

いくらやっても、踊ってもらえない人には、「努力が足りないんですよ。ほら、もっと高級な服を買わなきゃダメですよ!」とハッパをかける。成功した一部の人を出してきて、「ほら、この人たちなんて、モテモテですよ」といってくる。

いくら努力しても踊ってもらえない田中氏は、徐々に無力感に苛まれてくる。俺、たぶん、踊ってもらえないよな、、、って。

すると先ほどの職人が罵声を浴びせてくる。「舞踏会に来ているのに、踊らないとはけしからん!。それじゃ、踊り手として失格だろ!!」

傷つく田中氏。そして、周りを見てみると、自分と同じように傷ついている男性陣が多くいた。相変わらず、仕立て職人どもは、あーでもない、こーでもないと、後から入ってくる男性陣にものを売りつけようとしている。

あ!! 仕立て職人の一部が、王様と結託して、「この服を着なければ、踊ることはあいならん」といいはじめたではないか!! 

その服があれば、踊れるハズだよ。踊れなければ、お前たちが悪いんだ!と、その職人は言っている。

田中氏は、ついに疲れてしまい、隣の部屋に移った。ここで息を潜めていれば、ガミガミいわれることもないだろう。何せ、舞踏会の終了まではいなければいけないんだから。。。その部屋をよく眺めると、自分と同じようにひっそりと座っている人が、踊っている人の何倍、何十倍いることに気づいた。

彼らが、自分たちの思ったような服を着て、自分たちらしさを出せることができれば、もっと舞踏界全体は楽しいものになるのにね。職人のドレイだけが、舞踏会で楽しそうに踊っているのを見て、田中氏はそんな風に感じた。

女性は楽しく踊っているのか? 職人やドレイは、「楽しく踊っているよ」といっているけど、田中氏には、ぜーんぜん楽しそうでもない女性が、楽しく踊っている女性の、何十倍もいるように思えた。

やな舞踏会だなぁって思っているときに目が覚めた。寝苦しい夜だったね。

2010/07/20

潮時?

 久しぶりのブログ更新。神経を使う仕事を2つしていたので、余裕がありませんでした。

 今月の『英語教育』の特集と「リレー連載」にもの申す、、とえらそうにいってみる。

 まず、特集のタイトル、「大学入試が変われば英語教育も変わるのか」は古くて新しいテーマではあるのでしょうが、「大学入試が(強く)関係ある学校に関してだけどね」というサブタイトルが私には見えます。見えない人には見えないし、見えすぎる人には見えるサブタイトルです。
 当然のことだけど、大学入試を意識する高校生ばかりではない。18歳人口を120万人と仮定して、大学に進学しない生徒は約50%なので60万人。進学する生徒の4割以上は推薦やAO入試なので、その数の合計は約25万人。一般入試で大学に進学する生徒は、120万人-60万人-25万人=35万人となるわけです。全体でいえば、約30%。1/3のにも達しない生徒にとっての英語の授業が今回の特集なわけです。大学入試が授業に影響を与えるとしても、それによって直接、影響を受けるのは1/3にも達しない、「少数派」であるという現実を見つめなければならないでしょう。確かに推薦やAOでも、センター試験を課すところもあります。でも、一般入試が欠席が多かったり、成績の芳しくない生徒の「受け皿」になっている現実もあることを考えれば、全体像を見るときには、あまり考えなくていいでしょう。

 約20年ほど前には、18歳人口が200万人、大学の定員は40万人でした。(短大の定員が今よりも多っかたけど) あの時に「大学入試が変われば、英語の授業が変わる」と騒いでいた人もいたのでしょうが、大学に入学した高校生は1/5です。
 そして、大学は定員を増やし、高校生はどんどん減少していった。当然のことだけど、1/5しか大学に入学しなかった時代から、希望者は大学に入学できる、「大学全入」とよばれるような、1/2の高校生が大学に入学する時代へとなった。そうしたら今度は「大学生の学力が落ちている」としたり顔で主張している恥ずかしい顔がありませんか、ほら、、高校の先生に対して、「大学で通用するような学力を高校時代につけさせて下さいネnote」なんて、高校の先生に丸投げしちゃうほら、ホニャララナントカなんていう、えらーい先生まで出ちゃう始末である。(彼を信奉しているような現場の教員までいるのも、悲しい現実)
 意識ある研究者もおられることは重々承知していますが、常に日の当たるところしか見ていないような研究者は、自分たちの肩書きが恥ずかしくないのか? 教育全体を見つめて、その中に存在する英語教育という意識がないから、目の前の学生の学力が下がったから、これは○○がわるいんだ、これは××が悪いんだ、▲▲をカイカクしなければいけないと常に、場当たり的なことを、その肩書きで堂々と主張することに、不安や恥ずかしさを感じないのか?

 高校の教員でも、大学入試をバリバリにしていこうぜという信念があるならば、それはそれで、一生懸命にその道を進んでいけばいい。あれも出来た、これも出来た、本校の英語教育のレベルは高いんですよ、大学よりもよっぽど高いですよ、という実践をすればよろしいと思う。いや、これはイヤミでなくてね。実際に、ニーズはあるのですから、そういう学校はそのニーズに応えればいい。そういう先生方は、授業の準備も十分になさっているし、自己研鑽も絶え間なくなさっておられる。私は尊敬しています。

 でもね、そんな学校は全体の中では少数であり、もっと多くの違った学校があるのです。しつこくは言いたくないけど、大学に行きたくても行けない生徒もいれば、最初から行こうとすら思わない生徒もいる。だからね、「自分たちは英語教育を作り上げている」と行間から滲んでくる雰囲気はどうしても私には耐えられないのですよ。(まぁ、俺が耐えられなくても、世の中の大勢には関係ないでしょうが) 自分が正しいと思うことを主張するのであれば、小さな声でも十分に伝わります、正しいならネ。

 学校とは、家庭と市民社会とをつなげるトンネルのようなものです。自由がきき、ワガママがいえる家庭から、社会の一員として活躍することが出来るようにトレーニングすることが学校です。英語教育は教育活動から独立していると思っている人と共通の言葉を私は持ちませんが、英語教育を通じて、社会の中で生きていく力を高めていくのかという視点が関係者にもっとあってもいいのではないかなぁ。社会の中で生きていくために、そんなに英語って必要でしょうか。もちろん、必要な人はいるでしょうが、全体の中の割合からいったらどれだけだろうか? ユニクロ?楽天? そんな大企業に勤めている人なんてごく少数でしょう。全事業所の99.7%を占める中小企業で必要でしょうか。必要ないでしょう。それでも、「英語が出来ないと、社会で通用しないよ」といいますか? もちろんニーズはあることは分かりますが、圧倒的多数は必要ないのです。「社会に出て必要になる」という「社会」とは、いわゆる「大企業」と同義語ってことですか?

 大学入試が変われば、変わる英語教育もあるかもしれないし、あることも当然のことだと思う。しつこくなるけど、そういう学校はそういうニーズに応えればいい。でもね、それとは違う物差しの学校にも英語教育はある。後者の方が、数としてはよっぽど多い。
 学力を上げるのは、大学入試のためであるとすれば、私たちは大学入試の奴隷じゃないですか。教育基本法の第1条の「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」とある。そして第9条には、「法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない」ともある。

 教員としての喜びは、生徒の成長だと思うんですよね。人の成長とは、学力が高まることだけなのですか。教育の中の英語教育と書いたけど、これは、「英語教育を通じて、生徒の成長を援助する」ということです、蓋し。学力向上を通じて、どれだけ教養(=他者に対する思いやり)を生徒が持てるようになる援助を行えたかが、英語教師として目指すところ何じゃないかな、、、、と控えめに小さい声で、ブログに書いてみる。

 あ、リレー連載についても書きたかったんだけど、それはまた次回に。

(7/21に大幅加筆)

2010/07/07

「隠れて会っていますよ!」

1年ぶりのバリウム検査。ウーン、泣けてくる。検査を終えてから、牛乳1リットル、ウーロン茶1リットル、レモン水500ml、それに緑茶など、水分をとにかく補給というか、流し込みました。amazonで注文をした「医龍23」を読むことを楽しみに、この検査も無事に終了。結果も無事であることを祈っています。

「医龍」は名言がたくさんあります。23巻でいちばんグッと来たのは、次のひと言。

  • ヒューマニズムだけで伸びるなら、誰でも名医だろうが。

学校の先生も同じこと。「生徒の立場に立って」「生徒に寄り添って」というだけで「名教師」になれるなら、誰でも名人になれるでしょう。その気持ちを土台として、技術を身につけていかないと、「教師」になれません。技術にばかり偏って土台を忘れてしまうと、レインジの狭い教員になってしまいます。
やらないというならば、やれないというのであれば、どうすれば「やるのか」、どうすれば「やれるのか」という地点に戻らない限り、歯車は狂ってしまうままなんですよ。

本日の授業。3年生のWritingでは、時制の総復習(ロイヤル英文法的に12種類)を行ってから、助動詞の総復習。shallとshouldの意味的関連性を話してから、助動詞の過去形についての学習をしました。教科書のcouldとwas able toとの違いにちょっと首をひねりつつ、演習というよりは講義形式になった1時間。まぁ、生徒がこちらの話しを聞いていてくれたので、よしとする、、、していいかな。。(苦笑)

英語1は、まずはいつもの、Word3000より。本日のコロケーションは違和感を感じなかったので、満足です。こういう時には、楽しくできるのですが、困り切って作ったのか、いい加減に作ったのか分からないコロケーションがでていると、がっくりきますねぇ。
本文の内容については、ほぼ100%変更。中学校から高校の「分量ギャップ」にも慣れてきたので、リスニング→オーラルQ&A→新出語句の学習→リスニング→Q&Aという導入から始まり、本文を要約させました。(その要約した文章を、私のアドレスにメールで送ることが宿題)
初めてということもあり、要約だか全訳だか分からない文章が私の新しいメアドに届いています。こちらをコピーして、エクセルに貼り付ければ、生徒の要約の伸びが見えてくるかなという期待をしています。2クラスで携帯を持っていない生徒は2名だったので、1名は自宅のPCから、もう1名は手書きのメモを提出するように伝えて終了。こういう時、携帯の普及は便利ですね。

それにしても、MagicHatの語の選択はよく分からない。

  • show her the door
  • invite her to sleep over

なんていう使い方は、1年生のこの時期に必要なんだろうか。その前のレッスンがあまりにも基礎的だと思ったら、今回はあまりにも「応用的」。ともかく、来年度から教科書が変わることには感謝しないといけません。

来週から、朝学習も始まります。苦手であったり、苦手意識を持つ生徒を募集したところ、2クラス82名のうち、30名以上が参加しそうです。 「短文で覚える英単語1700」と「英会話・ぜったい・音読(標準)」をそれぞれ、週1回のペース(両方行えば週2回)で年内一杯を目処に行います。
正直、想像していたよりも人数が多いことにびっくり。それだけ、苦手意識を持っている生徒は少なくないんですね。生徒の力がどれだけ伸びていくのか、楽しみでもあります。強制的に行わせるのではなく、自分が選んだものは、誰しも逃げないで行うものです。そんな仕掛けを作って、サポートを行うことも教師としての技術なんですよね。

本日は七夕。3年生の女子生徒に、「雨だから、織り姫と彦星が会えなくて残念だなぁ」というと、「きっと隠れて会っています」。禁止されても、会いたいときは会うものですから。ロミオとジュリエットみたいにね。

2010/07/05

人はlogicでは動かない

文化祭の代休。つかの間のほっと一息。

ワールドカップでは、日本代表が残念ながら敗退。そして世の中は参議院選挙になって、、いるのかな。。。ここでは、政治的なことは避けているのですが、「ディベート」能力が高いといわれている民主党の枝野幹事長の失言が目立つという記事を見つけました。そうそう、論争上手といわれている菅直人総理大臣も支持率の低下が目立ちます。

それを見ていて、感じたこと。

『正しいことを言えば、相手はその対応をする』というのは幻想である

私たちは、どんなに正しいことを言われても、自分がその気にならなければ、「あなたのいいたいことは分かった。でも、自分はそうしない」となります。いくら論理が正しかろうと、人間の行動を決めるのは論理ではないのですから。何度もいうように、「タバコは辞めなさい」「勉強しなさい」「本を読みなさい」といわれて、「目から鱗だ。今からすぐに実践するよ」という人はいません。ディベート信者の人は、喫煙者に対して、タバコの害を伝えれば、禁煙するとでも思っているのだろうか。勉強の大切さ、読書の重要性を伝えれば、行動すると思っているのだろうか。(そんなおめでたい人はいないだろうけどね)

もちろん、仕事で、不本意ながらの行動をすることもあります。でも、その不本意の行動は、命じる人の人格を尊敬していれば仕方なく受け入れます。一方、権限(権力)で強いられる場合にはモチベーションが低くなります。

どんな正しいことでも、相手の人格を尊敬できない限り、私たちはスルーしちゃうものなんですよ。生徒の反応など、まさにその通りです。

ちょっと話がそれましたが、そう考えると、ディベートは実践的コミュニケーションではないといえませんか。そこから何も生み出さないのですから、いや、場合によっては人間関係を悪化させるわけですから、「実践的」とはいえないでしょう。
もちろん、論理的思考や4技能を身につけさせたいというのであれば、指導法の1つとしては優れているのでしょうが、あくまでも指導法の1つとしか私には思えません。
「実践的」というのであれば、答えのでない異なる意見を、みんなが納得(了承)できるような形でまとめ上げていくことの方が、本当の実践的コミュニケーションだと私には思えるのですが、それは素人の戯れ言でしょうか。

ディベートと文学と何が違うのかなぁと思ってしまいます。両方とも「実践的」ではありませんから。ただ、「心を育てる」なら、文学の方がよっぽど優れているでしょうし。

「この人のいうことならちょっと試してみよう」と思ってもらえない限り、どんな立派な政策をいおうと、どんな立派な指導法で授業をしようと、支持は得られないということなのでしょうが、「上の立場」にいるひとたちは、ここに気づかないのはどうしてでしょうか。「あの先生、好きだから勉強するよ」という思いを小さいときに持ったことのない人はいるのかな。

理屈(理論)が身に付いた上で、感情に訴えかけることが、相手の行動を変えることにつながると思うのですが、どんなものでしょうか。

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