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2010/06/26

No Jeering!

なんだかバタバタの一週間。にわかサッカーファンになったのですが、TVがうちにないので、結果を知るのみ。デンマーク戦は早起きをして実家に行こうと思っていたら、起床したらすでに勝利していました。おめでとう、日本代表!責任のない外野からドーノコーノいわれ続けた岡田監督の心境はどんなものだろうか。

英語1の授業は相変わらずWord3000から始まり、ペアを3回作り、それぞれ制限時間50→40→30秒で問題を出し合う。(どんな教材でも、自分のテイストに合わないところは仕方ないのだけど、コロケーションの出来不出来が気になるものですね。) 問題を出し終えてから、書き取り作業。日本語を聞いて、裏紙に英語を書いていきます。いままでは、間違った問題はチェックさせてお終いだったのですが、小テストでseriousをsiriousと間違える生徒が多かったので、間違った単語はその場で2回ずつ書き直し。コーヒーは熱いうちに飲め。

教科書はLesson4の「お姫様とエンドウ豆」。セクション1の半分を全体で勉強してから、このお話しの起承転結を英単語1語ずつで書かせ、「王子様が求めるお姫様像」を形容詞1語で考えさせました。もちろん、グループ学習です。英語はコミュニケーションなのだから、授業中に思考を通じてコミュニケーションさせることは必要ですよね。(って、押しつけがましいか)
おそらくこの話しを日本語で読んでも、この理想のお姫様像は難しいと途中で判断して、本文を終えてから考えさせることに。

1クラス、金曜日に話しが終わったので、「お姫様像」をグループごとに1語で書かせたところ、patient, delicate, delicacy, nobleness,などなど様々な形容詞が出てきました。正直、こちらの想定外の答えも出てきたので、1つ1つ、その意味を確認しながら、「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」というお得意の話。自分のイメージするお姫様増がそこに出ているのではないかと話すと、男子が妙に納得。一方、女子は「けっ」という反応(笑) 恋をしているときは相手の欠点も長所に見えるし、嫌いになれば長所も欠点になるものです。ゆったりと落ち着いた人でも、「にぶい」といわれるし、神経質も「繊細だ」といわれるもの。冷静に相手を見ることは難しいんだよね、と最後は英語の授業なのかどうなのか分からない締めとなりました。なんだか、文学っぽいか?

久しぶりのクラス通信。放課後、PTAの関係で来校していた保護者から、「『たいまつ』を楽しみにしています」といわれ、「子どもがクラスが大好きで、来年、クラス替えしたくないとっいっています」。モヤモヤがキレイに無くなりました。ありがとうございます。こういったひと言で、ガソリンが補充されてしまう私は単純なのでしょうか。ありがとうございました。

Writingで受け持っている生徒に「中学校3年生の教科書を音読したら」とアドバイスをしたところ、しっかりと続けています。50回以上も音読してか ら、疑問に感じるところもあるようで、「中学校3年生の教科書をバカにしていました」と苦笑していました。やっぱり、音読は大切だよね。
ということで、文化祭明けから、英語の苦手な生徒に声をかけて、早朝学習をしようかと計画中です。週2回で、1回は「英会話・ぜったい・音読」の音読大会、もう1回は「短文で覚える英単語」の暗唱大会。両方出ても構わないし、片方でも構わない。30分という短時間で、集中させたいものです。

2010/06/19

表皮の古い角質

前任校で9年間、同じ学年を受け持っていた畏兄のT先生と久しぶりに電話。野球部の名監督として名高いT先生なのだが、どうもヘルニアになってしまい、薬に頼っているとのこと。ならば、、、ということで、いつもの大澤先生を紹介しました。その先生も一発で痛みが取れたとのことです。さすが、「名医」。感謝の電話をいただいたときに、「Tさんの痛みが取れるかどうか、心配だったんですよ」というと、「絶対に、そんな風に思ってなかったでしょ(笑)」とT先生。はい、その通りです。大澤先生なら治せると思っていました。長い付き合いになると、社交辞令も分かってしまいます。
オリンピック自転車競技のチームの支柱であった I さんも「あの先生は本物だよ」と大澤評。このブログをご覧になって訪れた方も多いようですが、みなさま、お加減はいかがでしょうか。

念のため、もういちど、リンクを張っておきます。特に、競馬好きのあなたは、先生と話が合うはずです。

 この大澤先生の目的は、「患者さんの痛みをとること」です。「ここがつらいので、お願いしたい」と予約の連絡をすると、「それはつらいなぁ。全力を尽くすよ」といって、こちらの痛みを取り除いてくれるように施術してくれます。

 少し強引ですけど、その一方、英語の教員の目的って何なのでしょうか。基礎学力をつけること? 偏差値を上げること? 有名大学に進学させること? 英検やTOEICで高い級やスコアーを取らせること? いつか前にブログに書いたものと同じことになってしまいますが、この目的って何なのでしょうか。
 政治の課題と同じように、教科としての英語の課題で言われていることはすべて間違っていません。単語数を増やせ、構文を覚えろ、長文を読ませるようにする、発音を良くする、リスニング力を高めろ、ライティング力を高めろ、などなど、すべて間違っているわけではない。それぞれの先生に興味がある部分があるので、発音に力を入れる人がいれば、語彙指導に力を入れる先生もいる、またまたライティングの実践を重ねている先生もいる、などなど、先生の数だけこだわりがあるといっても過言ではありません。政治課題であれば、優先順位の付け方に色々なパワーが働くのでしょうが、英語教師であれば、順位の付け方はその先生のこだわりであったり、思想であったりします。
 そんな実践の中で、すばらしい取り組みがあれば雑誌に掲載されてみたり、中には世に問われるべく書籍化されたものもあります。自分と距離がある視点であれば、素直に共感できることも多いですが、近いものだと、共感できないことが多いのは、私の人間の小ささでしょうが(^^;;

 英語教師として、How to teach Englishという取り組みが中心となっている風潮に、どうしても入りきれない部分が私にはあります。ううん、英語教師としてというよりは、教員としてといいかえられるかな。
 卒業生から、連絡が来ました。「せっかく入学した大学なのだけど、学費が払えないので大学を退学することになるかもしれない。何か手立てがないだろうか」というメールが彼からありました。父子家庭の生徒でしたが、父親の収入も一定あったので、大学進学時に、あまり経済的な問題を気にすることは、ありませんでした。
 また、退学した生徒からも電話がありました。「大学を辞めちゃったんだよね」と、大学4年の10月に彼は退学をしたのです。大学3年生から経済状況が悪化して、夜のバイトを始めた彼は、結局は昼夜逆転の生活になってしまい、単位もあやしくなってしまい、残り12単位で辞めてしまったのです。母子家庭であった彼の方には、少し経済的な懸念はあったのですが、専門職である母親が「せっかくのチャンスだから」といって、進学を許可してくれたのです。
 2人とも、元々はたいして英語学習に身を入れていなかったのですが、高校入学後に一念発起して勉強を始め、学力がついていきました。そうなればもちろん、生徒も私も欲目も出てきますから、大学を薦めます。専門学校(2年間)を志望していた2人の生徒は、4年生大学に進むことになりました。

 こういうことを書くと、必ず2つの批判をいただきます。一つ目は、「奨学金があるだろう」というもの。もうひとつは、「そういう生徒だけ見ていてはだめだ」というものです。

 奨学金については、ご存知のように「教育ローン」です。住宅ローンに苦しむ私たちであれば、大学卒業と同時に数百万円のローンを若者が背負うことの苦しみは容易に想像できるでしょう。ただ、この問題は、私たちが何かしようと思っても、解決できるものではありません。

 後者については、確かにおっしゃることはその通りです。目の前の生徒の家庭が裕福だというケースもあるでしょう。実際に、教員の収入よりもはるかに高い家庭だって五万とあるわけです。でもね、私は「そういう生徒だけを見よう」といっているのではありません。誤解しないでね。そして、「そういう生徒」が視野に入らない人は、いろいろな場面で「そういう生徒」が増えていく傾向はないでしょうか。予習をやってこない生徒、英語力がどうしても高くならない生徒、部活動に集中して授業がおろそかになってしまう生徒、などなど、自分が許容できる学習者(ときには理想的な学習者)以外は、目に入らないことはないでしょうか。

 前者はローンを抱えている人は理解してもらえるでしょうが、後者が理解してもらえないケースは多いかもしれません。特に、オピニオンリーダー的になっている先生方は、私たちのような普通の教師がやっている以上に授業の準備をして、熱意を持って授業に取り組み、研究・自己研鑽に取り組んでおられることは百も承知しております。しかし、私はどうしてもそういう先生方、許容できる学習者の範囲が狭い先生を尊敬する気持ちにはなりません。そう、教師としての格が高いとは思えないのです。

 先ほどの2人の卒業生からの連絡を受けて、自分自身の取り組みは自己満足であったのではないかと考え込んでしまいました。おそらく2人とも、専門学校であれば、学費はなんとかなったかもしれません。でも、大学(それなりに「有名大学」です)を薦めてしまったために、本人も家庭も結果的に苦しんでいます。辞めてしまったら、「大学で学んで自分の人生を切り開こう」なんて話していた私は、嘘つきです。もしかしたら、専門学校で学んだ方が彼らにとってはプラスだった可能性だって少なくはないのです。

 より偏差値を高く、より点数を高くすることを第一義に考えば、それは大学入試を考えることにもつながります。大学に合格すれば、学費が発生します。学力が上がり、偏差値も上がっても、大学入試にこだわらない先生はどれほどいるんでしょうか。ほとんどいないのではないかな。(私もこだわりを持っていました、と告白します)

 つまり、偏差値を上げる、点数を上げることだけに拘れば、結果的にその家庭の経済力を超えてしまうようなことを、強いることさえあるのです。うまく乗り切れなければいいですが、乗り切れなかったときは、進路指導をした責任は私は感じてしまいます。(ちょっとナーバス過ぎますか)

 やはりね、英語教育にとって、学力を上げることのみを考えるだけでは、どうしても広がりに限界があるのではないでしょうか。これだけを考えていると、単語地獄、構文地獄、長文地獄、リスニング地獄といった、無間地獄に陥ってしまうことだってありませんか、ほら、ここにも、そこにも。その地獄から這い上がれない生徒は、「自分が許容できる学習者(ときには理想的な学習者)」ではないわけですから、視野から外れてしまうのです。ブロイラーのような学習に耐えられる生徒はどのくらいいるのでしょうか。

 それよりも、英語教育を通じて、生徒がどれだけ人間として成長することが出来るのか、という視点で考えたほうが私は生徒にとっても、そして教員にとっても有意義なことだと思います。生徒の成長を通じて、私たち教師も成長できるのですから、お互いにwin-winの関係性を保つことも出来るし、それに大学至上主義になる必要もないわけです。結果的に大学に進むかもしれないけど、それが目的ではない。「英語を勉強して、ヘンサチ70を超えたけど、でも大学に進まないよ~」という生徒がいたら、「そっか。自分の人生を自分で決められるのに、英語の学習が少しでも役に立ったら良かったね」と素直にいえなければ、私たちはは自分のために授業をやっていることになりませんか?

 教育の本来の目的がかすんでしまったとき、どんなに素晴らしい実践だろうが、考え方だろうが、手あかにまみれているものです。人間の手あかは、金と権力を目の前にしたときの人間の弱さに似ているものがある。自分の手あかに気づくように、外の空気と卒業生とのつき合いは大切にしたいものです。

2010/06/09

正しいことvs間違っていないこと

ヘルニアの原因は、「アンダーかオーバー」。これは、ある整形外科の先生のお話でした。「重たいものを持ちすぎた」とはいわれることはあるけれど、「適度なウエイトさえかけすぎない」ということも、ヘルニアの原因の1つになるそうです。適度から離れたとき、この痛みはやってきます。「腰痛と違うんですか?」と尋ねられましたが、レベルが違う痛みです。突き刺すような痛み、気力を全て取り去ってしまう痛み、そんな痛みは不適切なウエイトからやってくるそうです。

同僚の先生の話を聞いていて、親として気をつけようと思ったこと。その先生のお子さんはもう30近くなのですが(なんと名前がリンタロウさんで、愚息と同じく勝海舟からとったそうです。)、中学校の時にベネッセの「『チャレンジ』をやりたい」といってきたそうです。そこで、彼は「やりたいなら、やっても構わないけど、自分でお金を出すか?」とまず聞いたそうです。リンタロウ少年は、少し時間をおいて、「自分でお金を出しても、やりたい」と答えたので、「分かった。ではやりなさい。もし、1年間続けられたら、お父さんがお金を出してあげるけど、途中でやめたら自分でお金を出すんだよ」といったとか。

親にとって「待つことは」はとても大切なことです。自分が必要だと思ったからといって、子どもに強制的に行わせることが、必ずしも大切なことではありません。もちろんね、広い意味での「しつけ」に関わることは、強制的にでも行わせることは大切だと思います。「手に心がついてくる」ということもありますから。でも、人生や生き方に関わることは、強制したら、逆にそこから離れてしまうものです。もしくは、自分で選択できない、そう自立できない人間になってしまいます。

それなのに、大人というか、指導者的立場には、なかなか分かってもらえないことが多い。「これが必要だから、○○をやらせる」という親と会うことが少なくありません。「女の子なんだからピアノをやらせないと」「将来のために英語くらい」「情操教育のためにお絵かき教室など」「やっぱり、算数は○○式でしょ」などなど、ときどき(しばしば?)見聞きします。子どもは小さいときには、親の喜ぶ顔を見て本人も頑張りますから、「うちの子はピアノが大好きで」なんて親としてはホクホク顔です。でもね、そんな20年後の家庭には、使わなくなったピアノがあるわけです。ウチにも妹のがありました、ハイ。

その一方で、今の子どもたちに対する「批判」もある。「自立できない」とか、「自分から行おうとしない」など、そんな文句を言われる。でも、冷静に考えればそりゃそうでしょ。子どもが自分で何かを始める気持ちが成熟する前に、「これをやりなさい」とやらせたら、自立もしないし、自発性も育めません。最後に背中を押すことは必要なときもあるかもしれませんが、最初から背中を押していては、歩く方向性は見つけられないものです。「何かをやりたい」という飢餓感なくしては、自立はしないものです。自然の摂理からいえば、親は子どもよりも早くこの世を去るわけですから、自立させることがいちばんの仕事なのに、逆に依存させているようでは、ダメなのでしょう。


とまぁ、、子育ての話しをしましたが、、、。

ふと、学校のことを考えてみました。
もちろん、最後の居場所である「家庭」と、家庭と社会とのトンネルである「学校」とは役割が違うことは重々、承知しています。甘えが100%許される「親子関係」と、パブリックな要素が含まれる「教師生徒関係」とは違うことも、了解しています。

「学力を上げるために○○という取り組みをする」というのは、教師の視点から見れば間違ってはいないことです。単語力を増やすために単語テストをしてみたり、構文力を高めるために構文テストをしてみたり、リスニング力を高めるためにリスニングの指導をしてみたり、などなど、「○○対策」をすることは、間違ってはいません。英語力を高めるために、そんな指導があるわけですから、間違ってはいない。でも、飢餓感が与えられない。

でも、無条件で正しいとはいえない。「間違っていない」ことが「正しい」といえ、飢餓感が与えられるためには、2つの条件がある。

1つめは、それが授業でも取り入れられているか。授業で取り組んでいれば、その取り組みは正当性があります。もう1つは、生徒と信頼関係が結べているか。この2つがない限り、「間違っていないこと」は「正しいこと」にはならない。その上で、「もっと!」と思わせるように、生徒を一杯一杯の状態にしないこと。「もっと!」がなければ、飢餓感は得られませんから。

「間違っていないこと」は対外的なPRや、自分に対するいい訳になってしまうもの。それよりも、「正しいこと」を行いつつ、生徒に飢餓感を与えるということも必要なんじゃないのかな。そして、「間違っていないこと」「飢餓感の欠如」が跋扈していませんか、世の中には。

確かに、不安になる。あれもやらなければいけない、これもやらなければいけない、そして生徒には競争させなければいけない、なんていう気持ちに流されてしまうときもあります。でも、人間関係を結ぶことのできるあなたなら大丈夫。そして、他者を信頼できるあなたなら大丈夫。もっと、自分自身を信頼できれば、もっと大丈夫。

昨日の第81期棋聖戦五番勝負では、羽生善治棋聖が初戦を制しました。素晴らしい!飛車を捨てた一手に感動。名人防衛戦も4連勝。以前にも貼りましたが、名人のインタビューをふたたび。

2010/06/05

たいまつ

  • ガソリン切れ。こういう時もあります。

色々とあったので、家族で外食へ。格安回転寿司の撤退した跡地にできたハンバーグとステーキのお店に行くと、卒業生2人と会う。1人は現在の高校、もう1人は前任校。教員にとっての喜びというか、達成感というか、やりがいというか、そんなものを味わいました。

「人は、権力と金を前にすると、どんな人でも変わるものです」とは、大手銀行で活躍してきたとある保護者のことば。どんな崇高な理念を持っている人でも、どんなに人柄がいいといわれている人でも、簡単に変わるというケースを何度も見てきた経験は嘘ではないでしょう。実際に、自分の身の回りでも、そういうケースもあります。
かといって、自分1人で始めた事業であればともかく、拡大していく中で、人に任せなければならない、そう、権力も金も。優れた経営者は、人に任せつつ、その人を変わらせないためにも、厳しいこともいえば、チェックもするし、そして、何より人を引きつける。それが、カリスマ性というものです。

一方、教員のいいところは、金とはあまり縁がないところだと、私は思います。いくら働いても給料は変わらないし、いくら働いても権力とも結びつかない(選択ができる)。だから、理念の中で生きて、純粋さを大切にできるんですよね、仕事に対して。もしこれが、金や権力に結びつくようであれば、なかなかたいへんな世界になりますよぉ。
「教師は世間知らずだ」と批判されることもあるけど、世間とは金と権力が渦巻く場所であって、海千山千の猛者が多く活躍し、勝ち組も負け組も辛いところです。でも、学校は違う。自分らしさを考えることができ、自分がどのように生きていくのかということを見つめることができる。そんな純粋な世界だからこそ、卒業生が社会の中で疲れたときに、思い出せる場所なんじゃないかな。

このポイントに、教師としての仕事の達成感をどのくらい感じられるかどうかで、現場で踏ん張れる先生かどうかというリトマス試験紙になると思う。教室は、その先生の社会的地位のステップアップの場所なのか、それとも、卒業生に将来、思い出してもらう舞台となるのか、そこには、その先生の生き方が現れる。

前者を選ぶ先生を私は批判しないが、もし選択するのであれば、「生徒のため」といいつつ、「自分のため」の行動をしない方がいいよね。教師は正直でなくっちゃ。私みたいなヘタレ野郎で、権力を追い求める覚悟も意欲もない人間は、後者に徹した方が有意義な教員人生を送れるでしょう。どちらの生き方も人間が選ぶものですが、定年を迎えた日にどんな生き方をしてきたかの精算は行われます。

ガソリン不足の中、授業の日記だけ。

1Dでは、分詞の後置修飾、および関係代名詞節と接触節。関係代名詞では、「足跡V印」の練習から始まり、主格、目的格について学ぶ。その後、主語が関係代名詞節で修飾されている文を取り上げる。

  • The first thing that I needed was seven years of experience treating trees.

関係代名詞節を[  ]で囲ませると、半分以上が次のようになる。

  • The first thing [ that I needed was seven years of experience treating trees ].

そこで、学級文庫の「これでわかる基礎英語」のp.28を1人の生徒に20秒間だけ読ませたところ、「なるほど」といって、正解を導くことができました。(^_^)V 英語の苦手な生徒がすぐに正解を導けたので、驚いた雰囲気だったので、その種明かし。最初から教えるのではなく、ワンクッションおいた方が印象に残りますから。
そのあと、ざっと説明した後置修飾の文を参考書で自分たちなりに、解説をさせつつ、参考書の使い方、調べ方の学習。また、辞書については、causeが含まれる文Japan(...please tell us about the things which cause problems for trees in .)を取り上げて、「名詞」「動詞」の両方がある語について。基本中の基礎かもしれませんが、品詞をしっかりと意識させたいのです。時間がかかりますが、実際にやってみたほうが学べますから。

1Cでは、ALTの前でダイアローグの暗唱。特別教室で待機しつつ、自分の順番が来たら、別室で発表します。本日が最初なので、暗唱をすること・ALTの前で発表をすること・ALTと初めて接することなど、いくつもの目標がありますが、暖かい眼差しでいつも生徒を見てくれるALTのD先生に心から感謝m(__)m 終わった後の、悔しそうな様子や、満足げな様子が試運転の成功を物語っていました。アンケートなんか採らなくても、生徒の様子を見ていれば分かるものです。

2010/06/02

May all your dreams come true!

答案返却の一日。本来であれば、試験の復習をしたいのですが、なぜかピンポイントで授業がつぶれているので、答えのチェックでお終い。ちなみに、自分のホームルームは、健康診断と重なって、本日まで実質短縮授業。

答案返却後の残りの時間で生徒に伝えたこと。

  • 自律的学習者になりましょう
  • 自己を知る

という2つ。前者は、「この部分が分からないのだけど、どうやって調べればいいのか」ということ。「参考書と辞書で調べておきなさいね」というだけでは、調べられないケースも少なくないので、その参考書と辞書の使い方から。

treatで「他動詞」「自動詞」の違いを学習した後に、"Birds fly." "Dogs run."の動詞が自動詞であることの確認。そして、"He is running a company."のrunはどういう意味かを辞書で調べさせました。「経営するでしょ!」と教師側からみればwet blanketだが、生徒側からはちょっとしたアピールか。ここで、目的語の話しとなり、文型の復習。
その後、分詞の後置修飾を調べるためには、どのように参考書を使うかという演習。目次ではなく、索引を引かせました。やっぱり、目次から入り、「どこか分かりません」という生徒も少なからずいます。索引で調べるためには、品詞を知らなければならないし、文法用語も必要になってくるのだということを伝えました。辞書や参考書を使って、自分で学習できる学習者になりましょうという企画。ちなみに、明日も続きます。

自己を知るとは、英作文(ライティングではない)で、自分の思うようなことがなかなか書けないことを知りましょうということ。前回の考査で、「30語以上」というのにもかかわらず、30語書けなかった生徒も少なからずいました。また、分量は書けていても、何を書いているのか分からないもの、テーマとは違うことを書いているもの、などなど、「書きたくても書けない」「言いたいのに言えない」という体験を通じて、「自己を知る」ということです。
答案返却のあとだったので、この話はすっと入っていったようです。

あと、もう一つあったのですが、これは生徒とのヒミツ(笑)

さて、話は全く変わりますが、「第3回山口県英語教育フォーラム」の開催が決まったようです。

日時: 2010年10月23日 (土)
10:00 ~ 17:00頃 (予定)
会場: 山口県山口市内
主催: 長州英語指導研究会
協賛: 山口県鴻城高等学校,ベネッセコーポレーション

講師:

大津由紀雄(慶應義塾大学教授)
柳瀬和明(日本英語検定協会顧問)
加藤京子(兵庫県三木市立緑が丘中学校教諭)

相変わらずのtmrowingさんのパワーと人脈には脱帽。みなさん、ぜひともお話しを伺ってみたい方ばかりです。

妻が、加入している某生活クラ○とトラブルあり。理念を前面に出している組織でも、必ずトラブルがあるのだろうが、生徒だけなく、こちらも「自己を知る」ということが必要なのだろう。ワーキングプア対策だとか、生産者の所得を守るだとかいう前に、アルバイトをしなければならないほどの給与で雇用している契約社員を減らすことの方が、生活クラ○の理念に近いのにね。その一方で、専務サマの給与をもっと上げようという動きがあることは笑止千万。これじゃまるで、悪質な新興宗教と同じじゃないのかな。他にも文句はあるんだけど、今日はここまで。あ、この部分でのコメントはいりませんので、念のため。

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