« 2010年4月 | トップページ | 2010年6月 »

2010/05/27

Weaning!

明日で第1回考査も終了。授業とのデッドヒートを繰り広げている1日は長いのに、考査中の期間は短いのはなぜ? 空きコマの1時間は短いのに、試験監督の1時間は長いのはなぜ? 寒いときは濃い系のお茶が飲みたいのに、暖かくなると「おーいお茶」が飲みたくなるのはなぜ? 坐骨神経痛が治らない人が多いのはなぜ? と、色々ななぜなぜを、同じ部屋のK先生とお話し。

tmrowingさんと久しぶりに電話でお話。なんだかホッとしました。ありがとうございます。そして、昔の同僚の先生からも、メンタルヘルス関係の問い合わせあり。恩師でもあるO先生につないだところ、O先生のお人柄と総合力にホッと出来たという電話もあり。その他、ここには書けないこともいくつも含め、むのたけじ氏ではないけど、「人間は人の間を耕す」という言葉が実感できます。人と人との間が耕せることが、人間なのですよね。逆に、耕せなければ、人間になりきれていないということかな。この「人間」と「人」との違いは、林竹二先生の定義であてはまるのでしょう。

自立した人間になるためのトレーニングとして、生徒が「自立した学習者」になれるような方法も必要かも。
というのも、お世話になっている大工さんの話しが離れないからです。いま、若い大工さんの多くは、階段を自分で作ろうとせず、メーカーに「階段セット」を発注するそうです。自分で行えば、刃物も研ぎ、採寸もし、そして自分の労力が増えますが、満足したものができ、自分の技術が上がります。しかし、今ではそれが面倒だということで、やらず、「墨つけ」ができない職人さんが増えてきているとのことです。いたれり、つくせり、なんですね。ちなみに、建前の時に高い場所に登るのも60過ぎの大工さんが多いとか。。。

なんでも、やってもらえれば、それは楽です。

これは、生徒も同じこと。あれをしてもらい、これをしてもらい、分からなくなったら聞く。確かに、一見効率もいいし、してくれる学校側も「面倒見がいい」というように見えます。そうですよね、「これ、どうすればいいんですか?」「それは、●●なんだよ」と、時間の節約にもなりますから。

これで、中学校や高校を上手く切り抜けて、念願の大学に入ったとしましょう。そして、念願の企業に入ったとしましょう。職場で、「この企画をプレゼンしなさい」といわれたとき、同じことがいえるでしょうか。「それは、☆☆という風にすればいいんだよ」と面倒見よく教えてもらえるでしょうか。「この商品を、売り込んでこい!」といわれ、「どうやったら、売り込めますか?」「どこに、売ってくればいいんですか?」と尋ねたら、「自分で考えろ」のひと言でお終いになるでしょう。

そう、墨付けを行わず、メーカー発注の階段を作る大工さんは、技術が低いので、応用が利かないのです。
一方、昔ながらの親方は、「やり方を一度説明して、やって見せて、あとは大工が自分で試行錯誤して覚えていく」とのこと。うまくいかないことも多いようですが、でも徐々にできるようになっていきます。でも、たいへんだし、怒られることもいくらでもあるとか。

教師は、生徒との関係は「メーカーと大工」なのか、「親方と大工」なのか、どちらを希望するのでしょうか。もちろん、学校としての方針もあるでしょうが、少なくとも授業ではどちらの立場を取ろうとするのか。

約2ヶ月の授業を終えて、正直、驚くことも多くあります。「このスペルは書けなければ、ダメだろ」なんていう単語は、枚挙に遑がないほどです。secretやroadも含めてねsweat01

そこで、第1回考査までは、音読の仕方や英文の読み方の基礎を中心に据えてきたのですが、それは「1つの学習モデルの提示」でした。これからは、参考書の使い方や、辞書の引き方を学んでいきます。参考書であれば、「さくいん」と「もくじ」の違いを理解していない生徒は多いんです。なかには、「さくいん」という存在を知らない生徒もいます。辞書は電子辞書はできるだけやめてもらいたいと伝えたのですが、半分以上は電子辞書。ちょっとがっくり。

まずは、学習モデルを生徒に提示して、体験させる。その上で、分からない英文を見つけたときに、そのモデルのレールに乗って、自分で調べてみる。参考書や辞書を使って、取り組んでみる。その「試運転」の中で、自分が使いやすいようにそのモデルを自分なりに変え、自分の方法が確立するもの。(モデルを提示するから、教師の役割は大切なんだよね。)
そのモデルをどう提示するか、どう体験させるか、そして生徒の失敗を見つめ、必要なときを判断して介入することができるか。これが、「教科教育力」であり、これはそのまま、「担任力」にもつながります。授業が上手な人は、担任を上手にこなせるということは、こんなことが理由じゃないかな。「担任力」がある人は、「教科教育力」と平行するけど、「教科教育力」先行の人は、「担任力」よりも、「教科」が行きすぎてしまうことがあります。そんな人があつまると、同人誌の編集部になってしまうのが笑えない状況か。「担任力」の基礎には愛情があり、「教科教育力」の基礎には学力があるような気がするのは、私の穿った見方だろうか。

ケンシロウも「愛」の人でした。

2010/05/23

リフォーム

 久しぶりに同期3人で飲み会。相も変わらず15年間のおつき合いが続いていますねーとお話しを。ブログには書きたいけど、書けないことや、昨日の「格」のお話しの続きで盛り上がる。

 喩えではありませんが、ビデオテープがHDDに進化していく過程で、誰も「このHDDは最高だよ。ビデオなんて時代遅れだよ」なんていうグループが、ビデオを使っている人を仲間に引き込もうとなんてしていなかったわけです。「これ、便利かもしれない」という流れが出来て、「自分もやってみたら、こっちの方が便利だったよ」という人が少しずつ増えてきて、HDD全盛になってきたわけです。便利な方がいいわけですから、妙な小細工など必要ないのです。
 ところが、これが自分たちが便利だと思いこんで作った商品は、市場からは淘汰されていきます。支持がなければ売れませんから、残念だけれども、なくなるしかない。その方向性が「支持されなかった」ということが分かることが、唯一のプラスポイントかもしれません。
 多くの先生や生徒にとって「使える!」と思われれば、仲間を増やそうとあーんなことや、こーんなことをしなくてもいい訳です、ハイ。正しいことを行っていると思うのであれば、小さな声でいえばいいわけです。すぐにその正しさが理解してもらえなくても、その先生の勤務校が変わったり、問題意識が変わったときに、理解してもらえるものです。それを待てずに、ニンジン(だと本人たちは思いこんでいる)ぶら下げて、「こっちのグループにおいでよ」というのは、「バッグ買ってあげるから、デートしようよ」といってキャバクラで嫌われる、鬼イタ客と同じレベルに俺には見えるんだけどね。

 これからの授業展開について、考えたこと。授業中にライティング的な要素を取り入れていきたいので、それをどうしようか。理想をいうと、予習してきた生徒は非常によく分かり、ちょっと予習してきた生徒は分かり、予習してこなかった生徒も参加できるような授業がいちばんだと私は思っています。もちろん、予習してきて欲しいけど、それが出来る生徒が多くいる学校もあれば、してこない生徒が多い学校だってあります。学習習慣の問題もあれば、家庭的な事情もあるわけですから。学習習慣の問題である生徒は、少し予習をしたら分かるようになったという実感を持たせることが、その後に長く続く予習のモチベーションになるのでは。そして、予習をしてきたら、授業中のアクティビティがさらに楽しめたというような体験をしてきたら、もっと予習のモチベーションになる。
 「予習をしてこい」というだけで、授業展開のサポートをしてもらうのではなんだかなーと思うし、してきてもらっても、それを活かせなければさらに意味がない。最終ゴールは「英語で要約」と考えているのですが、そこまでのステップをどうしていこうか。実質半年ちょっとの授業の中で、どうやって展開していこうか。考査期間中に、少し考えていきたいものです。

2010/05/22

教師の格

ようやく試験範囲終了。仕事に追いかけられ、デッドヒートを繰り広げていましたが、なんとか一歩先にゴールイン。突然の健康診断で授業がなくなったのは、辛いものがありました。

この頃、「格」について考えます。

3月に田尻悟郎先生の講演会に参加したときに、先生のお人柄に引きつけられました。「この先生に習ってみたかったな」という思いというか、「この先生に子どもの先生をしてもらいたいな」という思いです。もちろん、自分の周りにもいます。「この先生に、自分のこどもの担任をしてもらいたい・学年主任をしてもらいたい・教科担当をしてもらいたい」と思ってもらえるような先生もたくさんいます。仕事のイロハを教えてくれたS先生、前任校で学年主任をしてくれたT先生やS先生、前任校の現2学年主任のS先生、数学の魔術師のT先生。あ、英語の先生が誰もいないsweat01

英語だったら、内輪ネタになることがマイナスになることを承知の上で、tmrowingさんやanfieldroadさんにもお願いしたいものです。

誰もが、生徒に対して暖かい眼差しを持ち、成長を期待しつつ、待っていてくれる。生きていくための矛盾を受け止めて、真摯に自分を振り返っていることが共通しています(って、こんなことを書くのは生意気だね、ワタシsweat01)。

それと、みんな勉強の出来ない生徒を大切にしています。それだけ人間的な懐も深さもあります。勉強が出来なくても、少しでも生徒の学力を高め、自尊感情を伸ばすようなことを考えています。

教師の格とは、こういう全てのことが積み重なって、内面からにじみ出してくるものではないかなぁと思います。もちろん、こういう「格」は私の感じる格であり、違う価値観の格もあるのかもしれない。

私たちがどんなに同僚をだまそうと、だませないのは生徒です。彼らは「格」をすぐに見抜いてきます。(私たちもそうだったでしょ!;笑) 怖いことに、「格が低い」と思ったにせよ、表面的にはフレンドリーです。(私たちもそうだったでしょ!;笑)

そんなことを考えていると、またブログの更新が遅れちゃいそうです。。。

2010/05/13

Don't monkey with it!

色々な意味で一山乗り越えたというか、元の道に戻れたというか。久々に、すがすがしい気持ちで授業に望めました。

ということで、相変わらずのWord3000より。15分かかっていた取り組みも、生徒も私も試行錯誤しながら、ようやく10分まで短縮をすることが出来ました。4人組を作り、隣、前後、斜めでそれぞれ制限時間を50秒、40秒、30秒にして「日本語→英語」の口頭でのペアワーク。出来たら、シール。その後、裏紙を使って、実際にスペルを書いてみます。書けそうで書けないスペルが多く、believeをbeliveと書く生徒も1割以上。読んで意味が分かればいいという意見もあるようですが、いわゆる3000語レベルまではそれじゃいけないと私は思うんですが、ハードルは高いのでしょうか。

教科書は、予習プリントを渡して、名詞の□や前置詞の(   )、およびSVを全てプリントに書き込むことを課しています。高校生活が始まり、新しい勉強や部活動に一杯一杯の状況なので、そこは十分に考えた上で、最低限度の予習。そして、授業中では1文1文をパワポを使って説明した「配付資料」を渡して、5分程度で各自が確認。そして、4人組になり、お互いに分からなかったところをシェアして、それでも分からないときには私に聞いてくるようにさせています。本来であれば、TMをコピーして渡せればいいのですが、ちょっとねぇ。なにせ、ask ~ to doを第4文型として捉えている教科書ですから、MagicHatは。

内容確認をざっと確認してから、1回リスニング。2回目は心の中で重ね読み。その後、一斉読みを行い、2回の各自読み、声に出しての重ね読み、Read & Look upを行い、追いかけ読みという一連の流れもようやく出来上がってきました。その後に、anfieldroadさんの音読シートを使い、音読と暗唱。日直の書くコメントを読んでいても、「英語の時間は、みんなが集中して音読をしていた」とよく書かれていますが、本当に集中して音読しています。今まで徹底的な音読や暗唱を経験したことのない生徒が多いので、5~6月までは音読や暗唱を何度も行い、その有用性を体で理解してもらいたいと思っています。

MagicHat2の教科書を読んでいて驚きました。アフガニスタンが話題に出てくるのですが、教科書を読んでいるとアフガニスタンは安全にいつでも遊びに行けそうな国ですねぇ。問題となっていること、例えば女性の権利を擁護した人を宗教裁判で死刑判決を出してみたり、増え続ける民間人の死者(2009年には2500人以上!)、日本人が誘拐されて殺害されたり、外務省が退避勧告を出していたり、、などなど、全くそんな雰囲気も行間からさえ見えてきません。

アフガニスタンを話題にするなといっているのではなく、光のあたっているごくごく一部を取り上げて、それを教科書にするというその感覚が私には分かりません。

この教科書のファンの先生に採択理由を伺ってみると、「英語で授業を行いやすいから」ということですが、私にはとうてい納得できない。誤解を恐れずにいえば、このような内容を1つのレッスンにしている教科書を教材として選ぶことは、教師の良識の問題になると私は思っています。同僚が、ask ~ to doを第4文型とすることについて質問をしたところ、「これは第4文型である」と昨年度に回答をいただいたようですが、そんなことよりもこのアフガニスタンの記述には私は納得できません。私たちは教育活動の一環として英語の授業をしているのに、なぜか教育活動が脇に置かれている空気とたまに出会うことは、私の誤解なのだろうかなぁ。

教育活動というのは、競争ではありません。市民社会の構成員となるようなトレーニングを受けるという社会的な側面と、人生を満足して生きていけるという個人的な側面との2つが大きな柱でしょう。

自分たちのコンプレックスともいえるようなノスタルジックな思いを子どもに押しつけつつ、競争を促してもっと上へ、もっと上へという尻叩き競争の行き着く先はどこなんだろうか。バベルの塔か、イカロスの翼か。好きになれば人は自然と学ぶようになる。お尻を叩かれているだけだと、叩かれなくなったらやらなくなる。

昔、中学校の時にある競技でかなりの実績をあげた生徒がいましたが、高校では行いませんでした。その理由を尋ねたところ、「中学校の時には、その競技のために全てを犠牲にしてきたから、高校では自分の時間を大切にしたい」ということでした。彼は、中学校では部長も務め、県大会でも5本の指に入る選手でした。でも、この生徒にとってその競技はどういう意味づけを持っていたんだろうか。

何度も書いていますが、「成功体験」の積み重ねが私は大切なことだと思います。出来なかったことが出来るようになる、分からなかったことが分かるようになる、そんな体験が、壁にぶつかったときにでも、それを乗り越えていけるような力になるのでしょう。そういう活動をしていけば、自然と学力はついてくるのですが、生徒を信じ切れないときには、競争の原理にどうしても入りたくなります、ハイ、私のことです(^^;;

「生徒を信じて」ということを私たちは好みますが、授業で信じられないようでは、なんのための教員免許なのか。それこそ、更新制度だって必要になっちゃいますよ。都合のいいときには「生徒を信じて」といい、都合が悪くなると「競争は社会の原理だ」という二枚舌を使ってはいけないと肝に銘じないと。
生徒の学力上昇は、その生徒が幸せに生きていき、社会に貢献できるための基礎力となる彼らの財産です。決して、大学合格の数字ではないのですから。数字を考えたとき、尊大な自尊心や、つまらんプライドが芽生えてきてしまうものです、そう、私の心の中には。

2010/05/09

お日様の力

すっかりご無沙汰。色々と考えることもあり、少しの間、更新も遅いかもしれません。「昔は~」というノスタルジーに陥るのではなく、何が問題の本質なのかを考えるとき、自分が受けた四半世紀前の学校教育と比較するかもしれません。

この頃、考えていることの1つ。「学校教育ってどこで変わったのだろうか?」ということです。本日の新聞によれば東京都は予備校にお金を払い、受験対策を行うとか。昔と比べて、進路指導・学習指導が手厚くなってきました。進路指導と大学進学指導との差が私には分からないのですが、自分自身がこの年になっても生き方に迷うときがある(迷いっぱなしである、といった方が適切です)のに、人間としての生き方を考えるという意味で「進路指導」という言葉を使うなら、なかなか自分のことをさらけ出す以外に私は「進路指導」がよく分かりません。ともかく、進路指導=大学進学指導は昔に比べてサポート体制が充実してきています。

放課後の補習に始まり、進路指導のデータ類の豊富さ、実際の大学見学への手はずなど、自分の時にはなかったような気がします。(俺が気づかなかっただけなのかな) 18歳人口が約200万人で、大学の定員が40万人だったあの頃こそ必要だったのかもしれないのに、現在のように18歳人口が約120万人、大学定員が60万人の現在の方がなぜか充実しているのです。当時は「地域一番手」の高校の平均の進学先が「日東駒専」でしたが、それが今では「MARCH」になっています。そう考えると、「努力が報われる時代」だからこうなってきたのかもしれません。

それに加えて、「大学」ということを知らない家庭も実際に少なくない数を体験しました。大学という存在は知っていても、大学の難易度ということに始まり、教員免許状などの資格取得や学費、卒業後の進路などご存じでない親御さんも少なくありませんでした。昔、とある公立大学に男子生徒が進学することになりましたが、父親は子どもが大学に行くことに不満でした。わけのワカラン大学に行くくらいなら、早く働けとこぼしていたようです。でも、正月にそんな話しをしたら、親戚から「あの大学に行けるなんて、すごいじゃないの!」と驚かれて、息子の進学する大学をおぼろげに分かったことがあったそうです。ちなみに、その公立大学は高崎経済大学。このエピソードを教えてくれた卒業生は、笑いながら分かってくれました。また、時には「大学に行くと、高額商品を買わされたり、資格を取るなんていうことで、さらに高いお金を支払わされるなど、大学にだまされるんじゃないか?」と真剣に心配をする親御さんもいました。「高額商品」ということで、ノートPCを少々高めの値段で買わせる大学の噂を聞いたことはありますが、マルチ商法ではありませんから、安心して下さいと話しました。ちなみに、その生徒の進学先は明治学院大学。

一方、大学側の対応もずいぶんと変わってきた気もします。昔のように左うちわで受験生が集まる時代ではありませんから、広報活動に力を入れます。校外学習で大学見学をしたところ、たった数十人のために学長が挨拶をくださり、、小グループに分けられ校舎案内を丁寧にして下さった後、「カフェテリア体験」で全員がカレーをご馳走になるというサプライズまでありました。中には、「おみやげ」として文房具を下さるところまであります。全入の時代ですから、あの手この手でPRするのでしょう。

でも、果たして本当にこれでいいのかなぁと思うこともあります。

卒業生が3年目に転勤して、経理の部門に入りました。そこで、「3年目なのだから、経理ぐらいは分かるだろ」といわれたのですが、彼はそれまで経理の経験はありません。そこで、書店で本を買い、自分で経理を学び始め、分からない部分は先輩にフォローしてもらいながら勉強をしているそうです。最小限度の制度的なサポートは必要ですが、それ以外は人間関係の中で学んでいくという(これこそ、実践的コミュニケーションですかな)ことが必要になってきます。人間の成長にとって、至れり尽くせりではなく、最小限度の組織的なフォローと場を共有する人との情報交換の方が必要なのかもしれません。

大学にしても、本来的なPRというのは、資格や就職ではないよなぁ。同じ学校でも満足する人もいれば、不満足な人もいるというのは、施設といったハードではなく、そこで同じ時間を過ごす人とのつながりで、数値化できるものではありません。偏差値も入学するまでは大切な要素なのでしょうが、入学した後はその中でどんな人間関係を構築できるかの方が満足度は高まるのでしょう。

「そもそも論」になりすぎることを考えつつ、人生とは何なんだろうと考えてしまいます。常に上を目指していく人生というのではなく、あるがままを受け入れる人生に私が惹かれるからかもしれません。なんだか、今日も上手くまとまりませんね。あるがままを受け入れてから、初めて見えることもあるんではないかな。そのためには、促成栽培のための肥料よりも、お日様の力を信じることが必要です。

次回は「実業と教育」について考えていることでも。

« 2010年4月 | トップページ | 2010年6月 »

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
フォト
無料ブログはココログ

おすすめ