« 2009年12月 | トップページ | 2010年2月 »

2010/01/31

王様の耳には届かないだろうけど(笑)

「追跡 A to Z」を見る。自宅にテレビがないので、実家で録画をしてもらい、それを見ました。ご覧になった方も少なくないかもしれませんが、テーマは日本人のコミュニケーション下手について、です。番組では、海外の例を取り上げつつ、サッカーの本田圭祐選手のコミュニケーションスタイルを興味深く見ました。自分のいいたいことをはっきりと言うが、相手によって表現方法を変えていく細かな気遣いや、サッカー以外での人間関係作りは、日本文化に育った人間ならではの巧さなのでしょう。

「自己主張」というと、自分の考えをはっきりと述べたり、時には相手を論破して自分の正当性を証明しようとしたりする人もいるかもしれませんが、俳優の松田美由紀さんが松田優作のことを次のように話しています。

  • 「「自分の意志を貫く」というのが現場をグチャグチャにしちゃうとか破滅的になることだと誤解している人もいると思います。優作はそういう意味では全然破滅的じゃなかった。現場に入る前はモメることもありましたけど、入ったらそうならないように努める人でした。(週刊文春2009/12/03「阿川佐和子のこの人に会いたい」)

もちろん、監督やプロデューサーが彼の家から裸足で逃げ出したエピソードも書かれているので、「意志を貫く」ことはあったようですが。

本田選手にしても、松田優作にしても、一緒に働いている人たちと共通の目標があります。勝つことや、良い作品を取ることという、全員を無条件でつなぎ合わせる目標です。しかし、教育の場合にはなかなかこれが見あたらない。理念としては一致することもあるのだろうけど、各論や方法論になると、こだわりが出てきて、一致しにくいのです。

方法論としてクローズアップされることもある学習指導要領にしても、ほぼ10年ごとに改訂されています。つまり、10年ごとに変化があるということで、2013年からの指導要領だって、いつまで続くか分かりません。科目も大幅に変わりますが、それだって永遠に続くわけではないわけです。もちろん長く続くかもしれませんが、もしかしたら、想像以上に短命かもしれません。
戦時中の教育が敗戦を境に変わってしまったとき、児童生徒はどう感じたでしょうか。先生方の教えることが変わったわけです。教育というのは、人と人との関わりの中で行われるのですから、終戦と同時に教える内容が変わってしまうのは、児童生徒にとって大人に対する不信感が生まれたでしょう。
当時は憲兵がどこで見ていたかどうか分からないので、命の危険があったかもしれませんが、今はそれはないですよね、少なくとも英語教育に関していえば。

話しがまた変わってしまったけど、「表現力を磨く」という目的をシンプルに考えれば、それは相手の行動を変えたり、集団の方向性を決めたりという結果のためでしょう。「俺の歌は上手いんだゼ」と外れない音程でいくら歌っても、自己満足に過ぎないこともあります。それよりは、濱田朝美さんの路上ライブの方がグッと心に来ます、わたしには。どんなに技術があっても、魂のこもっていないものは、なかなか相手に伝わってくれないこともあるのです。頭のいい人たちは論理やエヴィデンスで変わるかもしれませんが、私のような普通の人間にはそれだけでは、どうも心に入ってこないのです。
やはり、教師的リベラルアーツが必要かもしれないけど、何を学ぶかはやはりその先生次第になりますよね、ここでも(苦笑) でも、この多様性がいいんだと思うんだけどな。

教養とは思いやりです。思いやりの気持ちなくして、コミュニケーションなど出来ないと私は信じて疑いません。その方法論については、今までの繰り返しになるので、4月から新しい生徒と実践したいものです。

2010/01/30

リベラルアーツ

東京新聞2010年1月30日の「本音のコラム」は中谷巌氏の「リベラルアーツ教育」。リベラルアーツ教育の必要性を説くのは、新自由主義から決別したからなのだろうか。ネット上には掲載されていないので、最初の1段落を引用してみる。

  • 戦後日本の教育にもっとも欠けていることの一つは歴史や哲学、文化や倫理などのリベラルアーツ教育ではないだろうか。

そして、リベラルアーツ的素養がないために氏が恥ずかしい思いをしたことや、企業人がリベラルアーツを食いつくように学ぶということをベースに、このことを通じて、日本(人)というアイデンティティを得て、自分たちの生き方を確立していく。これが、グローバル化に成功する近道なのではないか。。。。というようなことが書かれています。

話しは全く変わりますが、少し前に事業仕分けで活躍した人のことを「必殺仕事人」にかけて、「仕分け人」なんて呼んでいましたよね。中村主水が主人公のあの仕事人です。仕事をされてしまうのは、本当に悪人です。視聴者が仕事に共感を持ってしまうほど、悪人なわけです。(ここが、ゴルゴ13と違うんだよね) 弱者の恨みを晴らしていくのですから。

人は「ウマの合う人」「ウマの合わない人」「状況によって対応を変える人」が2:1:7の割合でいるといわれています。この「ウマの合わない人」を英語教師的思考で考えてみます。

職業的なこともあり、いくら「ウマが合わない」ということでも、「仕事人」の存在をお願いしたくなるような人はいません。ほら、東の人も、西の人も、えーーーー!?と思うことはあっても、その存在を否定したくなる人は私はいません。教員という仕事を選んだ人は、やっぱり根っからの悪人などほとんどいないのでは?

でもね、どうしてもおちょくりたくなる人はいます(笑)。自分がやっていることに、疑問を持っていない人(表面的にそう見える人)はどうしても、おちょくりたくなるsweat01 批判じゃないんですよ。そういう人は、自分たちの信念に従って、私なんかよりもよっぽど一生懸命に使命感を持って研究や仕事に取り組んでいるのでしょう。でも、「自分は正しい」という思いが強すぎてしまう、そう、遠藤周作が辟易するような人を見ると、どうしてもおちょくりたくなる。とってもアツイ人たちなんだろうけど、20代ならともかく、教員を10年以上続けている人や、オピニオンリーダーがそうしていると、どうも背筋がモゾモゾっとしてくるのです。そんな中には、ちょっと聞きかじった知識で自分の知らない世界を堂々と述べちゃう人がいるじゃないですか(笑) 「コミュニカティブ原理主義者」というか、「会話原理主義者」「ディベート原理主義者」なんて、そんな傾向があるような気がしますが、これは気のせいか?

この国にはたくさんの人がいて、いろんな人がいます。だからこそ、1人の意見があまりにも大きくなってしまうと危険性があるから、チームでの活動が大切になってくる。ところがチームとなると運営が出てくるので、どうしても共通理解が求められる。その共通理解をあまりにも厳格にしようとすると、発言力の強い人のことばが「共通理解」として強制されてくる。そこには閉塞感が生まれる。もし生まれないとしたら、同じような人ばかりの集団であり、もろい集団なんでしょう。

だから、です。「これが正しい」という人を見ると、どうしてもおちょくりたくなる(笑) あなたは自分の世界が本当に正しいとお考えなのですか、と。ちなみに、私はそこまでの自信はありません。だから、いつも怖いし、はっきりと断言することに恐怖を感じます。世の中の全てのことを、仙人のような中立的な意識で全て理解しているのであれば、「これが正しい」と断言することも可能かもしれませんが、私には出来ません。
おちょくりたくなるけど、それが権力を目指しているのではなく、純粋に自分の考えを追求したいという人には親しみを感じもします。(英語教育を通じて、たとえ些細であっても権力の道を歩く人は私は心底軽蔑しますが。)

そこで、最初の中谷巌氏のコラムです。彼の見方が多くの人に受け入れられるとしたら、英語の授業でリベラルアーツを行ってもいいんじゃないですか? だって、国際化というかグローバル化の手段としての英語を求めるというのなら、リベラルアーツはまさに同じ目的を持った手段ではないですか。

法律ですべての細かい部分まで決めることは人間の世界ではできないので、「裁量」があります。この「裁量」をどのように使うかはその先生次第です。どれだけ「正しく」裁量が使えるかは、その人のリベラルアーツ次第なのでしょう。教師的リベラルアーツが学べる経験をした人はいい先生になるものです。

2010/01/25

私待つわ、いつまでも待つわ♪

「民間神話」といわれますが、私の身の回りに起きた、「民間」でのお話し。

知り合いの先生を紹介してもらいたいということだったので、紹介したところ、全くその人からは連絡がいかなかった。少し気になっていたので、連絡を取ったかどうか確認をしたところ、「もう必要がなくなった。相手への連絡をお願いしてもいいですか」というレスポンスに驚き。彼は誰しもが知っている民間会社に長くいた方です。

もう一つ。こちらも、知人同士の商売のお話し。顧客をAさん、販売元をBさんとします。Aさんは、知人で顧客になってくれる可能性のある人をBさんに紹介しますという連絡をとったところ、Bさんからはメールの返信もなし。Aさんから不満の連絡があったので、Bさんに確認したところ、「1月末までに連絡があるとメールにあったので、待っている最中です」だって。「連絡をいただき、ありがとうございました」ぐらいのメールを出すことも出来ないのか。ちなみに、Bさんは、誰しもがしっている某出版社のオエライさん。

その一方、色々な学校の先生からメールをいただきますが、こういうことは全くありません。資料を送って欲しいという連絡があり、その返信をすれば、必ずお礼のメール、しかも型どおりのメールではなく、色々とお話しが発展していきそうなメールをいただきます。それ以上のメールを差し上げるのも失礼かと思い、それ以上の返信はしませんが、お互いに気持ちよいコミュニケーションがとれます。ホント、英語の先生のコミュニケーション能力は高いですよね。気持ちよく、やりとりが出来るのですから。

こうして考えてみると、コミュニケーションとは、辞書の"the process by which people exchange information or express their thoughts and feelings"(Longman)とか、"the activity or process of expressing ideas and feelings or of giving people information"(OALD)、という定義に加えて、"with consideration"という要素が含めた方がよりよいと私は思っています。

1人1人が人格を持ち、生活を持ち、生きているのですから、お互いに思いやり(=教養)を持って意思の伝達をしてこそ、人間なんじゃないかなぁ。

「実践的コミュニケーション」とは天下の学習指導要領でもいわれていることだ。でも、だったら実践的コミュニケーションとはなんなのよ、という定義はいまいち私には理解できないこともあります。

たとえば、弁の立つ人はディベートでは強いかもしれないが、饒舌になりすぎると、逆に信頼されない危険性がある。一方、口べたな人は、自分の思いが上手に伝えるのに時間がかかるかもしれないが、逆に信頼されることもある。おそらく、両者にとっての「実践的コミュニケーション」とは、全く違うものではないかな。

『家栽の人』にこんなシーンがある。別居中の妻のところにいた息子を、父親が連れて行き、2人で車で生活をした。彼は離婚調停時に、桑田判事に「息子さんと一緒の生活はどうでしたか?」と聞かれ、「はあ・・・。すみません口べたでして・・・」と口ごもってしまう。その後、判事は次のようにいう。

  • 口べたな人は口べたのように話せばいいんです。(第7巻「ティランジア」)

相手のパーソナリティを責めるのではなく、しっかりと待つのです。

ここで、再び英語の「実践的コミュニケーション」に話しを戻すと、コミュニケーション活動を行うときに、口べたな生徒はどうすればいいんだろうかと私はいつも思います。「どうにかして、コミュニケーション活動に参加できるように、事前にサポートする」という模範解答もあるかもしれないし、実際に、それが生徒にとって大きな財産になることもあると思います。
その一方で、口べたであることを受け入れるということ、もっといえば、無視するのではなくて、口べたであることをそのまま受け入れて、見守るというのはどうなんだろうか。しかし、授業には制限時間がある。1人の生徒が発話するまで、何分も待っていられないというのも真実であるし、そこまで待たれたら、口べたな生徒は辛くなるだろう。人それぞれ得手不得手があるのですから、全ての人が自分と同じように得意というわけではないんです。
自己表現活動もしかり。自分語りをしたがる人は、あまり私は信用しない(だから、自分のことを信用してないんですが;苦笑)。好きな動物でも、家族のことでも、食べ物のことでも、話したくないことだって人間はあります。することに拒否感を持っていたり、苦手な生徒もいるわけです。(もしかしたら、トラウマを克服させようと努力したり、人間性を変えようと努力しているのかもしれませんが) そういう生徒という人間を受け入れることと、準備をして活動に参加させるということとに、どこで一致点を見いだすのかは、その先生の哲学です。

誰しも、思っていることを適切に話すことができ、自分を語れるだろうというのは、幻想ではないでしょうか。そういうことが上手な人は、それを生かせばいいけど、苦手な人のことを受け入れた上での「実践的コミュニケーション」という技術を見直す必要がある。思いやりの気持ち(=教養)をもったコミュニケーションが、「実践的コミュニケーション」だと私は思います、なんだか抽象的な定義になってしまいますが。「誰しもがスムーズに話せる」とか、「誰しもが、自分のことを上手に発表できる」というのは、他者のことを考えていないか、もしくは人間を知らない人の論なんだろうね。

「待つ」というのは、教師にとって大きな技術です。いいたいこと・伝えたいことはたくさんあるけど、あえて、ボールを投げかけて、待つという作業はとっても辛いことです。○になるか、×になるのか、相手の反応を期待しつつ、自分が見極められているのですから、辛いことです。でも、相手を受け入れつつ、待つことは生徒の成長を促す「実践的コミュニケーション」として、非常に有効な手段なのですよ。

(一部加筆訂正)

2010/01/22

ストラテジー

ふぅっと一息。ヘルニア(師はヘルニアではないというが)が一段落ついたと思ったら、今度は違うことで、新しい世界に突入。世界は広いものです。

授業も実質的に終了したので、10人の両手両足を借りてもあまりある今年度の反省は先送りにして、色々と気になったことを少しずつ書いてみます。

以前にも紹介しましたこの本。とても面白く読みました。

  • 寺島 隆吉著『英語教育が亡びるとき』(明石書店)

寺島先生が書いてあることにはとても説得力があるし、第2章は本当に、心底、共感しました。その上で、ちょっと気になったところを、あえて「ケチ」をつけてみます。
少し下火になったとはいえ、必ずホッととなるであろう話題の「英語の授業は英語で」という理念ですけど、これに対抗するいちばんの方法は、ブログであろうが、研究会であろうが、口にしないことだと思います、もし反対するのであれば。これは逆の立場になってみると、分かるかと。たぶんね、推進している人は、孤独感というか、浮き出ている感を感じますよ。それと、使えるものは何でも使うということです、もし反対するのであれば。正面から受け止めない方が、より戦略的です。

そう考えると、第3章に書かれてあることは、例の理念を実行しないのに十分なほどの「言質」となっているのに、それを批判しちゃダメです。これは、月間『英語教育』(2009年5月号)の記事で、菅正隆氏や田尻悟郎氏など英語教育界のリーダーが、『「言語活動を英語で行う」という指導要領の指示を文面通りに受け取っていなかった』ということに対する批判です。この時期の『英語教育』は、職場で読んでいたので、この号が手元にないのが残念ですが、寺島先生の受け止め方がその通りなのであれば、そのままスルーしちゃいましょうよ。そして、現場の先生はオエライ、ホニャララ主事が授業に来て、「あなたの授業はなっとらん!英語でやってないじゃないかpout」といわれたら、この号を取り出して、話せばすむことかと。ぜーんぶ、英語で授業をしたい人はすればいいけど、それが効果的だとはいえないと思うのであれば、この号は絶対に保存しておいた方がいいっすよup

もう一つは、底辺校に対する記述。私の経験では、ここで書かれているほどたいへんな状況だとは思えません。もちろんね、たいへんといえば、たいへんですよ。いろんな事件は起きるし、特別指導はいくらでもあるし、警察沙汰だってあるし、保護者と連絡が付かないことだっていくらでもあるし、生活の援助もしなければいけないことだってあるし、ともかく、ブログには絶対に書けないことも含め、いろんなことが、いくらでもあります。
でもね、私は面白かった。最初は大人に対する不信感の眼差しをこちらに向けてくる少年が、徐々に人間関係が出来上がり、勉強が分かるようになると、変わるんですよ。授業も成立するし、オイタもしなくなってくるし、自分たちの課題を教員に話してくれるようにもなってきます。だから、そんな捨てたもんじゃないんですよ。そういう部分も書いて欲しかったな。

しかーーし、です。以前に、進学校しか経験したことのないホニャララ主事サマが、「底辺校で授業が成立しないという人もいるけど、アルファベットが書けるようになったら、それはそれで学力の向上と考えられる」といっていました。こういうことを聞くと、無性に腹が立ちます。そう、身内をけなされたようなムカツキです。やったこともないのに、よくもまぁ、そんなことをいえたものだのぉ、、、と。せいぜい、3~5年程度の1校の経験で、「ワタクシも理解できました」という人もいるけど、無理ですから。10年はやらないと分かりませんよ、えらそうにいいたいのであれば。
おそらく、そんな人が多く寺島先生の周りにいるんだろうなぁと、勝手に解釈をしています。だからこそ、底辺校も捨てたもんじゃないよぉと書きにくかったのかもしれませんが。。。

それはともかく、英語教師を元気づけてくれる1冊です。私は読んでいて、勇気づけられました。

2010/01/10

板子の下はなんですか?

この頃、毎日訪れるブログの紹介から。

ご存じ、鎌田先生のブログです。医師としての活動だけでなく、スキーや地域の活動など、仕事以外のことも大切にしている鎌田先生ってステキですね。もしこれが、医師としての仕事に専念し、アツクなりすぎていると、輝きすぎてしまい、読んでいて疲れてしまうでしょう。でも、ほどよく輝く鎌田先生が私は好きです。アツクなりすぎていると、イタく感じちゃいますから。

前々回のエントリーに書いたことの補足。

「英語を通じて、生徒の成長を援助」をどう考えているかということを。クラスとして考えたときに、標準偏差の小さいクラスです。「出来る生徒だけ分かるようになればいい」と「肉食系英語教師」の一部が言っていますが、反・新自由主義者の私はこの考え方に大きく反対します。生徒同士が相互協力して理解を深め、得意な生徒には気づきを、苦手な生徒には納得をさせられるような授業をすすめていきたいものです。「あの先生は出来る生徒だけしか見ていないよね」といわれたら、教師として失格の烙印を押されたものと私は思っています。一部だけ良くなったって、それは全体にとってあまりプラスにならないものです。今の社会を見ていれば分かるかと。

得意な生徒にはダメだしが必要かも。「自分、こんなに出来るんですよ~」という生徒が思い上がっていたら、「まだまだだよ」というダメだし、そして「だから、何なの?」という価値観の否定も必要だと思いますね。偏差値が60ある、65ある、70ある、だから何?という気持ちが私にはあります。ただね、教員にもいるでしょ、「今年はトーダイに何人合格させましたよー」とか、「医学部に何人合格させましたよー」「有名大学に何人合格させましたよー」という人。もちろん、公のためという志を持ち、そういう大学に合格したのなら、是非とも応援したい。しかし、たとえば成績がいいから医学部、というのであれば、それはどっか間違っていないかい? 色々なお医者さんと話して、ずいぶんとそう感じました。イヤな医者(人間)にならないためにも、「成績がいいのは分かった。で、君はその能力をどのように他者のために使えると思う?」という問いかけが必要かと。

その他には、いままでの記事に書いてきたので細かく書きませんが、苦手な生徒は「分かる」という気持ちをもてることで、自尊感情が高まっていくものです。

教科書にしても、学習参考書にしても、私はこういった哲学をベースとして、生徒の価値観を揺さぶりつつ、英語の理解が深まっていくものがいいと思います。だって、教育基本法の第1条(教育の目的)には次のように書かれているんですよ。

  • 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

人間の成長を望んでいく空間である学校の中で、法律論が入りすぎることは私は違和感があります。しかし、そういう土俵で話をしたい人、そうせざるを得ないと考えて、正当化している人は、どれだけ教育基本法を読み、実践しているのか、私は大いに疑問です。その授業、教育基本法第1条に合致していますか?

2010/01/07

王様の耳はロバの耳!

久しぶりの授業。午後の会議までは腰の痛みも小さく、快適な授業ができました。座ったままの2時間の会議は腰には悪いですよね。ちなみに、現在8時半ですが、腰痛がひどくなってきたので、妙な表現はご勘弁を。

本日はライティングのみ。3年生は授業時数に余裕がないので、変則的な試験と今回はなりそうなので、まずはその説明。ライティングの教科書なのだが、「本文」があります(これは、多くの教科書もそうかな)。11月に仕入れたコピグロスを少々アレンジ。1分間で7文の本文を読ませます。その後、プリントでの1文が1行なら10秒(2行なら20秒)時間を与えその文を暗記させます。その後、プリントを裏返しにさせて、それを再生させます。このとき、1行につき20秒。ちなみに、プリントはあえて、逆に印刷しておくことで、裏返しにしたときに、スムーズに書けるようにします。これは、anfieldroadさんの勉強会で仕入れた小技。結構、使えます、ハイ。

ウォーミングアップが完了した後に、ライティングというか、英作文。途中から担当した生徒のニーズに合わせることの難しさを感じた1年でもあったので、とことん、ニーズに合わせようと決意しているのです。

この本を参考にしつつ、使えそうな表現をピックアップしながら、英作文。時制について模範解答が納得できないところがあったので、ALTに確認したところ、やはりおかしいとのこと。それとも、そういう時制があるのかな?

それはともかく、この本の最初のターゲットに「英語を学ぶために海外に行く学生が増えてきている」という表現がある。この時には、"More and more students go abroad to learn English."とか、"The number of students learning English abroad is increasing."が模範解答として示されているのですが、圧倒的多数の生徒が後者を書いていました。どうも、この表現が過去の教科書で出ていたようで、それを覚えていたのですね。前者の解答が多くなるのではと思っていたので、これは意外でした。その他にも、覚えてもらいたい表現を使って英作文を書き終了。
2つの作業とも、集中して勉強して何よりです。英作文(あえてこう呼びます)の準備にALTのサポートを頼める今の状況は本当に助かります。

こう考えてみると、教科書の英文はやはりしっかりしとしたものでなければ、いけない。暗唱に耐えうる英文だったり、作文に耐えうる英文でなければ、教科書としては及第点はもらえないのでしょう。はたして、あの教科書には及第点はもらえるのか?

ネタバレ注意なので、詳しくは書けないのが残念ですが、自信を持ちきれない人がリーダーとなると、手の及ぶ範囲にプレッシャーをかけてくるのですねー。自分の考え方に一片の迷いもなく、これこそ最高だぜとマイケルジャクソンばりにやるのであれば、プレッシャーをかける必要などありますまい。清志郎が聞いたら、どんな歌にするだろうか。「東の芝の~」とあの会社のことを歌ったけど、今回は「○って、△える大学の~」とでも歌うんだろうかね。

2010/01/03

勇気づけられる記事

東京新聞で、勇気づけられる記事をいくつか。元日と本日(3日)の2日間で、読み応えのある記事に出会えたことに感謝します。

  1. <共に生きたい>(1)子どもを支える
  2. 常識革命<1>『救える命』を助ける ホームレス診療16年
  3. へこたれない人々 「日本一ヘタな歌手」 重度の障害のある演歌歌手、浜田朝美さん(28)  

詳しくはそれぞれの記事をクリックしてご覧いただきたいのですが、「1」は、行政や学校でサポートしきれない生徒に対する基礎学力の援助の取り組みです。「2」は、医師によるホームレスや無保険者に対する医療援助。「3」は記事がアップされていないので、簡単に紹介すると、800gの未熟で生まれた彼女には呼吸困難があり、四肢の障害で五歳の時に一級の障害等級を受けました。そして、二歳で両親が離婚、中学生の時には言語障害が発症し、高校時代に悪化しています。親類からは「あんたなんか、生まれてこなければ良かった」といわれ、仕事で疲れ切った母親からも悪態をつかれることもありました。特別支援学校の高等部を卒業後に過ごしていた施設で入所者が虐待を受けているのを見て宮崎から離れることを決め、九州から東京に単身でやってきて、三八回のオーディションを受けました(全て失敗)。そして路上ライブを始めたという女性です。医師からは余命一年と医師から宣告を受けており、マイクを握ることもままならない状態でも、時には数時間の路上ライブを行っています。

 専門的な営みというものは、徐々に深みを増してきます。そして深みを増してくると、サロン化する危険性もはらんできます。専門家による、専門家のための、専門家による営みになる危険性が大いにあります。もちろん専門性を深めることは人間にとって大切なことです。しかし、多数がそちらにすすみ過ぎ、専門家ではな人に還元されないと、サロン化が過ぎてしまうということです。「ガン」という病気を専門家が深く研究して、その成果を患者という一般の人に還元することで、サロン化はしません。さて、英語教育はいかがなもんでしょうか。

冬休みの課題図書と位置づけて読んでいますが、著者は「英語教育をサロン化してはならんだろう!」という思いを私は感じています。

お勉強が小さいときから得意で、周囲から期待されている子どもも幸せなのかもしれない。でもね、少しでも多くの大人から関心を持たれ、人間的なつながりを持ち、自分が生まれてきたことを必然だと思え、自分は愛されている存在なのだと実感できることを人間としての土台として、「読み」「書き」「そろばん」という基礎学力が獲得していくことこそ、生きていく力なのではないかと私は思います。別に勉強が人よりも出来なくてもいい。勉強が出来る人が幸せとは限らないし、政府のホニャララ委員になることが幸せとは限らない。英語が出来れば国際人になれる、必ず幸せになれるなんていうのは、おとぎ話みたいなものかもしれませんから。
「英語教育にもの申す」なんてエラソーなタイトルですが、突き詰めるまでもなく私は英語教育にはあまり関心はありません。英語を通じて、生徒の成長を援助したいだけです。

話しがそれてしまいましたけど、自分がいつか行いたいなと思っていたことが江戸川区で行われていることに勇気づけられました。そして、「国境なき医師団」に代表されるような医師としての使命を持った医師はいるのだから、教師にも同じような活動があってもいいのではないか、とも思います。
教師をリタイアした人々(時には現役の教員)が、通塾できない生徒にボランティアで学習を教え、その生徒が高校に入学した後には「後輩」に勉強を教える。そして、学校にしにくい相談をそこで保護者はざっくばらんに話しをする。そう、ちょっと飲みながらがいいかもしれませんねbeer 学力が上がる云々も大切かもしれませんが、子どもたちが地域から大切にされているということを実感し、保護者も気軽にヘルプを求めることが出来る、という私たち市井の人々の営みのデザインを描くとしたら、教師の役割は大きなものになるでしょう。

専門性を突き詰める英語教育があるのは当然のことですが、それが「普通の人々」に還元されるようにするのもまた、専門家の仕事なのでしょう。

2010/01/02

ヘルニアから学んだこと

ヘルニアから学んだことを備忘録的に。まだ完治はしていないのですが、朝、立ち上がることも出来ずに強力な痛み止めを使用していたときの痛みを10をすると、現在は1以下です。もちろん無理は出来ませんが、歩くことが出来るようになりました。イスに座れるようになりました。布団から、普通に立ち上がれるようになりました。寝返りを打てるようになりました。気力も少しずつ戻ってきました。郵便ポストが赤いのを許せるようになりました(これは、経験者しか分からないかもしれませんが;笑)。

今回のヘルニアは、多くのことを教えてくれました。「寝たきりのお年寄りの気持ち」といった「当事者」の感覚から、整形外科医から鍼灸、整体(カイロ)など「援助者」の姿勢のことまで、身をもって体験してきたわけです。

信頼できなかった援助者からまずは書いていきます(笑) 整形外科医と鍼灸、および整骨院の人でした。一人目は整形外科医。彼はレントゲンを撮って、「悪いところがなさそうなので、とりあえず、痛み止めを飲みましょうか」といいました。今になって思えば、彼はヘルニアの可能性を考えたのでしょう。そんな検査をしていましたが、確信は持てなかったのでしょう。もしヘルニアであれば、3ヶ月で痛みが引くことも少なくないこと、そして最初の1ヶ月がいちばん痛みが強いこともあり、「とりあえず」と使ったのでしょう。しかし、患者側からしてみると、この痛みの原因の見立てもいわず、「とりあえず」という言葉を使った医師に対して、不信感を持ったのはいうまでもありません。
二人目の鍼灸師。この整形外科の後に行きました。彼は先ほどの整形外科医のことを、「痛み止めを服用したところで、対処療法ですよね」といい、鍼の治療をすすめました。しかし、全く良くなりません。おそらく10回程度、通ったのですが、全く回復の兆しもありませんでした。その後、彼がいったことは「もう少し、私に治療させてもらえませんか」ということです。ちなみに、1回あたり5000円。彼が試行錯誤しているのが私にも分かりましたが、患者側は試行錯誤している相手にお金を払い、そして先行きの見えない治療を続けてくるのです。もちろん、彼も「ヘルニア」とはひと言もいいませんでした。
3人目はちょっと専門的な肩書きを持った柔道整復師。紹介をされて行ったのですが、こちらも全く良くなりません。ヘルニアの場合、臀部の傷みの場所が変わることがよくあるのですが、「痛みが移動することはいいことだ」といい、なかなか痛みが引かない私に対して「治るはずなんだけどなぁ」とボソッといってきました(笑)。「はず」といわれても、困るんですよね、こちらも。。。

一方、この人たちに出会えて良かったと思ったのは2人。一人目は、知人の義理のお兄さんである整形外科医。貴重な昼休みにわざわざ電話を下さり、1時間以上も丁寧に対応をしてくださいました。彼は今の状態に対して、具体的にどのようなことを行えばいいのかのアドバイスをくれました。そして、「ガン以外の腰痛は必ず治ります」という安心感を与えてくれたのです。
そして、究極の1名は、心理学の先生に紹介された療術者。整体(カイロ)でもなく、とある療術をしてくれる先生でした。オカルト大嫌い、整体不信感を持っている私でしたが、藁にもすがる思いで東京まで行きました。驚いたことに、彼の1時間の施術で、足が上がるようになり、普通に立ち上がれるようになったのです。数日後に施術を再び受けたら、イスに座れるようになりました。足を引きずらずに歩けるようになりました。彼はこういいます。「私は施術しているときがいちばん楽しいんですよね」「5回も6回も、患者さんに足を運ばせるようじゃダメなんですよ。本来は1回で治さなければいけないんです」。決して偉ぶることもなく、痛みが取れるという実感を持たせてくれるのです。
お二人に共通しているのは、相手に安心感を与え、専門家としての矜持を持ち、そして高い技術・知識を持っていることでした。「はず」という言葉を使うこともありませんでした。(「はず」という言葉を使う人は、「現実<机上の空論」という図式でものを考えがちな、自信を持ちきれない人が多いハズです。ほら、GTEC通信のとある号で、短いインタビューで5回も「はず」を使っている英語教育オピニオンリーダーさえおられるじゃないですか!)

もしかしたら、自分はずぅっっと痛みが取れないんじゃないか、手術をする必要があるんじゃないか、手術をしても再発するんじゃないか、などなどネガティブになるものです。足が自分のものだとは思えないほど、切り落としたくなるほどの気持ちにもなりました。
しかし、本当の専門家・技術者のちょっとしたひと言でこちらの気持ちも楽になり、そして希望がもてるようになったのです。

自分のことを振り返ることできた良い体験でした。

うーん、でも早く完治しないかなぁ。。。

2010/01/01

給付型の奨学金の検討を進めて欲しい!

今年もまた1年間が始まります。早く完全復活したいものです。ホントに。

「子ども手当」を巡って色々な意見が飛び交っていますが、子どもの教育費と(英語)教師のモチベーションについて考えてみたいと思っています。

昨年の4月に異動して感じたギャップに予備校や塾に通っている生徒の割合があります。実際に通っている生徒は多いせいもあり、通学してくる生徒にクリアファイルや消しゴムなどを渡す「営業」はよく見る光景です。今まで、見たことのなかった光景です。家庭の経済力と学力との相関関係については、実感できるときでもあります。

基礎学力の徹底(学力向上)に反対する人はいないでしょう。学力がついて、成績が上がれば生徒や教師、保護者など誰しもが喜びますし、自信につながります。確かにそうなのですが、学力がついても「出口」のところで解決の出来ない課題に直面したことのある先生も少なくないでしょう。もし今から書くことに良いアイディアがある方がおられたら、ぜひとも教えて欲しいものです。(ちょっと攻撃的かな;笑)

生徒の学力がついたとします。偏差値が40だったのが50になったとか、英検で2級が取れたとか、TOEICのスコアが伸びたとか、なんでもいいのです。とにかく、学力がついたとしましょう。そうなれば、生徒も学ぶのが面白いし、教師も教えるのが面白くなってきます。保護者も保護者面談や三者面談でウキウキと来校できます。
そして、1年生が2年生となり、3年生になり、進路を迎えたときにその壁が現れます。そう、大学にかかる費用です。合格が決まった直後に数十~百数十万円。大学4年間のトータルで400~600万程度がかかります。成績がある程度良くなって、大学に入れそうになったとしても、金銭面で大きな壁があるのです。

家庭にそこまでの費用が払えないとき、皆さんはどうされますか。奨学金をすすめますが、日本の奨学金はご存じのように借金です。「アルバイトと奨学金」とすすめますが、アルバイトを多めにすれば大学での勉強が疎かになり、奨学金を多めに借りれば卒業時に多大の借金となります。大卒の22歳の青年が400万円の借金を返すのは至難の業です。それでも奨学金をすすめますか? 返せなかったら金融機関のブラックリストに載っけるぞといっている、理事の2人が文部科学省からの天下りである日本学生支援機構の奨学金を迷いもなしにすすめられますか。

「だったら国立に行け」という声もありますが、国立に入る地理的条件、成績的条件など満たせない場合もあります。いや、その方が多いでしょう。ちなみに、国立に通ったとしても4年間で300万弱がかかります。

そのため、進学を断念する羽目になったり、進学してからもお金の問題で勉強に集中できなかったりする学生がいるのです。こういう経験をしたことのある先生も少なくないはずです。私も何度も、どうすればいいのか分からない時間を過ごしました。

夢を目指して勉強に励むって、こういうときに空虚なことばになりませんか。

こんな例もあります。

ある生徒が、昔からの夢だった保育士を目指していました。しかし、この不景気で父親がリストラにあい、家計は母親のパートと祖母の年金で生計を立てていました。成績が優秀だったその生徒は短大への指定校推薦が取れそうなものの、経済的な問題で進学を考えていました。担任は、生徒が必要とする進学のための資金と、保育士の給与を考え、就職という選択肢も与えました。自分の夢を目指して、勉強を重ねてきた生徒に就職も考えさせるということは、担任としては辛いことだったようです。結局、その生徒はとあるスーパーに就職をしました。

学力をつけるという目標があったにしても、そこから先の部分は、経済力のあるなしで、色々なことが変わってきます。学力をつけ、名の通った大学に入学させるという物差しで対応できない現実もあり、そういう物差しが多くある環境の中では、世の中でいわれている英語教育(A)とは違う英語教育(B)があるのです。(A)が本流で(B)が亜流だという感覚を持つ人がいれば、それは教師としてあまりにもモノを知らないだけです。(A)には(A)の英語教育があるように、(B)には(B)の英語教育があるのです。でも、あまり日の当たることはないだろうけどね。もちろん、先ほどの生徒たち、アルバイトを多く行いながら大学に通ったり、保育士を希望していたのにスーパーに就職したりしたことが、人生にとってプラスになることもあるでしょうし、実際にそうなって欲しいと願っています。しかし、教員として出来ることと出来ないことの壁の前で無力感に苛まれ、授業の充実=学力の向上のむなしさを感じてしまうこともあるのです。これって、甘えとはいえないでしょう。
上級学校で必要とされる金額は、高校で10円単位で節約するだけではどうしようもない金額なのです。それほど高いのです。
生徒の学力が伸びた、そして上級学校にすすみ自分の希望したことを学習したり、希望していた夢を目指したり出来る足場が出来た。しかし、経済的な問題で進学しても辛い問題が目に見えていたり、時には進学を断念せざるを得ない。この「矛盾」を抱えていくことは、辛いことですが、捨ててはいけない。捨てたときに、教員のモチベーションは下がるし、それを見た生徒は辛い思いをします。

私は以上のような経験や体験で、民主党が進めている給付型の奨学金の検討が、実現されることを心から願っています。

« 2009年12月 | トップページ | 2010年2月 »

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
フォト
無料ブログはココログ

おすすめ