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2009/11/29

お疲れさま、みなさん♪

「第2回 山口県英語教育フォーラム」のため山口へ。その前日にトラブルがあったのですが、なんとか金曜日のうちに解決できたので、土曜日から2泊3日、anfieldroadさんと男二人長州の旅(研修?)に行けました。

土曜日のお昼過ぎに宇部空港に到着。そのままレンタカーで秋芳洞へ。携帯の電源がなくなっていたので、パーキングのおじさんに5分間ほど充電させていただき、写メの準備完了。若者のようなことをして後悔することになった自分が残念(^^;; そのあと、秋吉台へ。高校の修学旅行以来だったのですが、「こんな風景だったかなぁ」という気持ちになりました。年とともに見える風景は変わるものですね。「限定」という2文字に弱いので、「限定」のアイスを購入したのですが、寒いときに食べるアイスはとにかくおいしい。様子等は、anfieldroadさんのサイトにありますので、どうかご覧ください。

フォーラムでの先生方の取り組みについては、ひとりひとりの先生方の発表の行間に私は興味がありました。生徒の顔も分からないし、先生と生徒との関係もよく分からないし、学校の雰囲気も分からないのですから、発表を聞いて理解しようとしても、自分の経験や感受性というバイアスがそこに組み込まれます。だから、その先生が何に力を入れて、どのような先生なのかということを私は知りたかった。生徒を引きつける何かがあるのですから。生徒にとって分かる授業、力がついたと実感できる授業は「居場所」であり、これは技術的な問題だけではなく、生徒との人間関係によって螺旋階段を登っていくようなものです。やはりそれをかいま見るためにも、その先生の発表のことばの様子や表情などをじっくりと観察したいと思っていました。
英語教師のための研修会は多くありますが、実りあるものにするためには2つの要素が必要です。1つ目は、方法論を持っている講師。その方法論は借り物ではなく、たとえアイディアは他者のものであったとしても、それを自分のものにしている先生方の発表は、思想や信条を超えて受講者に伝わってきます。
もう1つは、受講者のメタ認知。講師の先生の話しをダイレクトに受け止めるだけではなく、その上で、自分の授業の中で何を取り入れられるのだろうか、というメタ認知があれば、授業でいかせるものです。

その他におもしろかったものは、英語教師として実績をあげておられる2人の先生の方法論が、同じではなかったことです。当然なんですけど、この当然のことがコミュニカティブ原理主義者にはどうして理解できないのかなぁと、会場から遠く離れた空気のことを考えざるをえませんでした。自分なりの筋が通った方法論があれば、それはそれでいいわけですよ。絶対にコミュニカティブじゃなきゃいけないとか、ディベートしなきゃいけないとか、訳読しなきゃいけないとか、そんなことないわけです。生徒を引きつけるオーラを持った先生は、それなりの授業ができるんですよね。これは、医学の世界と違うところ。
教育改革という、素人に毛の生えた人によるカイカクが、あっちこっちからプレッシャーになっているのだから、発表を批判的に見るのではなく、創造的に見ることが私には教師に力を与えてくれることだと思います。求道者としての部分も必要かもしれないけど、お互いに支え合い、疲れたときにはバカを言い合い、精神的につながりを持ち合えるような関係は、ネット上だって出来るはずです。この頃、英語教育に興味が無くなってきたことも、こんな風に思う原因の1つでしょうか。

諸事情があり、ブログの更新も滞るかもしれませんが、気長にお越し下さい。

あ、そうそう、12月恒例オフへの参加をご希望される方、お気軽にご連絡を下さい。英語教師だけではなく、だーれでも問題ありません。保護者の方でも、学生の方でも、出版系の方でも、問題ありませんので、12月3日の夜8時頃までに私までメールを下さいな。場所は、渋谷の青山学院大学のすぐ近くです。会費は4000円。あまりアルコールの消費が少ないので、今回は料理に力を入れてもらう予定です。
(現在のところ、大学生1名、20~40代の英語の先生方数名がお見えになります)

2009/11/19

おいらの鼻は高いゼ

体調も相変わらず一進一退。もどかしさが募るばかり。本当に困ったものです。。

為末大選手の5%理論を聞いて、色々なことがストンと心の中に落ちるようになっています。英語教育についても、それは同じです。現在の半分のトレーニングで95%のパフォーマンスは達成できるという理論のことです。

スポーツに限らず、教科教育でもそれは同じことではないか、と私には思えます。半分の力で95%の学力は十分につくのではないか。いや、為末選手によれば日本人はトレーニングのしすぎだから1/3で95%は達成できるかもしれないようだけど、英語教育もそれと同じようなものではないか、となんとなく思えます。(それこそ、なーんにも「エヴィデンス」がないけどね)

前回のエントリーに書いたように、音読やシャドイングが出汁になり、そこに暗唱や多読、単語の暗記が加わっていけば、95%までは達成できるのではないかな、と私には思えます。学力は、生徒の能力という「A」と、教師の指導力をαとしたときに、到達度=Aαという形で捉えられるのだろうけど、もう一つ変数(β)が入るのではないでしょうか。

「先生」という職業はこだわりの職業でもある。こだわりがなければ、熱心に指導などしないだろうし、その道のために自分の休日を削って研修会に出かけたり、書店巡りをしようとしたり、mixiで熱い議論を行ったりはしないでしょう。
英語教育なら、先ほどの出汁である要素がある程度含まれていれば、お互いに差異について激しい議論を行う必要は私はないと思うのだけど、こだわりのことだけに、その細かい部分がどうしても「許せない」という意識を持つ人が熱心な人に限って多い。やれ、構文をしっかりやれだの、やれコミュニカティブじゃないだの、やれディベートを行えだの、やれドラマ教育だの、それはそれで別にいいのではないかと私は思います。差異がなければ楽しめないし、他の人と違いがあるからこそ、こだわりを持てるんだしね。「自分は他の人とは違う(違うこだわりがある)」という思いを持っている英語の先生は多いでしょ、私も含めて(苦笑)
でも、授業研究の出席者はやホニャララ主事の中には、この差異が許せない人がいる。(私はその人たちを「こだわり原理主義」と呼びたいsign01) この「こだわり原理主義」の目指すところは、そのこだわりの純血主義なのかと思えるほど、細かいところまで差異を認めたがらない。でも、本人はそのこだわりが真実だと思っているので、差異は個性ではなく、誤りだと思ってしまうところが悲劇に俺には見えるんだけどなぁ。

先ほどの5%理論と強引につなげてみると、95%の到達の、残りの5%がその先生のこだわりなんですよね。そして、その5%のために、半分~2/3の労力をかけていると考えるのは誤りでしょうか。いやね、もちろん、感覚として半分~2/3ということです。この感覚を信じてもらえないと、教育は土台が無くなってしまいますから。

先ほど、生徒の到達度=Aαにもう一つの要素と書きましたが、それは学習意欲(β)です。

この学習意欲がつくのは、100%の正しいアドバイスではない。

  • 英語はこれからの世の中で必要になる。
  • 英語は受験で大切である。
  • 英語を勉強しなさい。
  • TOEICは社会に出ると必要になる。
  • 勉強は君たちの仕事である。
  • 英語を学ぶと世界が広がる。

などなど、正しいアドバイスで、その人の琴線に触れる何かがありますか。タバコは体に悪いから吸うなよ、酒の飲み過ぎは何も生み出さないよ、パチンコはお金の無駄だよ、○○なんてしたらダメだろ、と正しいアドバイスを聞いて、「目から鱗だ!私は生き方を変えよう」なんという大人はぜっっっったいにいないでしょう(笑)。それを未成年である生徒に押しつけるのは偽善以外のなにものでもないのでは?

そうすると、βはなにかなぁと思ってみると、こだわりをもって授業に取り組もうとする先生の姿勢だったり、生徒の課題に対して共感して一緒に歩む先生の姿勢ではないかなぁと思うのです。でもね、こだわりの議論に深入りすればするほど、βが無視されてしまうのが悲しいところです。そして、βのおかげで、生徒の学力が伸びているのに、それをα(教師の指導力)と誤解してしまうので、何も生み出さない議論(攻撃?)が生じたり、教師の思い上がりを生み出されたり、するんじゃないかな。

教師の思い上がりから生まれるものとして、有名大学に何人合格させる!とか、英検2級に何人合格させる!とか、TOEICでの平均点を600超える!とか、そういう数値目標が出てきます。そして二言目には、「この生徒は有名大学に合格した」という「有名大学」病がでるからおもしろい(笑) このとき、すでに思い上がりが始まっていると考えて、私は間違いないと思う。

だってね、「こうすれば、学力が伸びるはずだ」という思いを持つとき、それはβではなくαに依存しているわけですよ。生徒の学力を面積で考えるなら、αという高さも大切かもしれないけど、βという長さも重要な要素です。βは生徒に底力であるのに、面積だけをみて、αと思いこんでしまったら、天狗さんになってしまう恐れがあるんじゃないかなぁというわけです。もちろん、αの95%は半分以下の努力で到達できるという前提を信じてくれれば、ですけどね。

2009/11/14

賢者の言葉、愚者の戯言

 恩師の訃報を聞き、山形へ。あの先生と出会わなければ、私は教壇に立つことはなかっただろうな。学生に対しては優しい眼差しを持つ一方で、権力に対しては批判的であった生き方は、時には辛いものだったろう。学部長室に子どもを連れて遊びに行ったとき、部屋の中で走り回る子どもを注意する私を「まぁまぁ、子どもは元気なのがいちばんだから」、そして持っていったおみやげを、「これ、事務に渡していいかな。いつもお世話になっているから渡したいんだよ」など、気遣いの人でもあった。「日本の教師に訴える」というむのたけじ氏の著作を紹介してくれた先生であり、不登校や引きこもりの少年・青年が集団で生活する場所でのボランティアを紹介してくれた先生でもあった。闘病で今まで苦しまれたとのこと。もう闘う必要はありません。石島庸男先生のご冥福をお祈りします。合掌。
 告別式では、地域教育文化学部の学部長の那須稔雄先生の弔辞が胸を打つ。故人に対する思いがあふれていて、こみ上げるものがありました。文部科学省からの一方的な、「教育学部廃止」の方針を受け、いかに対応するかという苦難を乗り越えてきた裏側を知っているので、弔辞の行間に感じるものが多くありました。その一方で、文部科学省からの天下りとして赴任あそばされ、学長選挙で負けたのにもかかわらず学長に就任するというよくわけのわからん結城章夫氏の弔辞は、故人の略歴を中心としたもので、氏は弔辞の意味を理解されていないのではないかと思えてしまった、私には。それとも、文部科学事務次官まで上り詰められた方だから、一般人と見える世界が違うのかも。

話題転換。

英語の専門家による本を2冊購入。

読んでいて、おもしろい。

何がおもしろいかといえば、英語の学習方法は、その人その人によって違うということです。単語の覚え方ひとつにしてもそうです。前者は「英語→日本語」という順番で重要語彙を書いているのに、後者はその逆です。前者は訳文を読み、英文を読むという順番なのに、後者は英文を読み、日本語にします。

また、設問にしても前者は日本語を本文の英文から抜き出させたり、英文のサマリーを日本語で書いてあり、その空欄を日本語で答えさせたりもします。(これって、靜本で批判されている手法だった気がするんですが、手元に資料がないので、不確かだけど)

その一方で、共通するものもあります。

シャドイングです。小倉本には音読が入っていないけど、第1回目のシャドイングはテキストを見ながらなので、それを音読としてとらえるならば、音読とシャドイングです。みそ汁でいうところの「出汁」は音読とシャドイングなのではないのかなぁ。

10月28日の「一進一退」での自分なりの答えが見えてきました。また次回にでも。

2009/11/08

匠の技

毎日新聞に興味深い記事を発見。

いわゆる底辺校での実情が表に出てこないのは、「ウチは、底辺校ですよ」となかなか言いにくいからです。「ウチは、進学校ですよ」と胸を張っていう先生や生徒は多いけど、その逆はまず聞いたことがありません。
だから、匿名での報道になる。「○○高校は東京大学に毎年20人以上の合格を出す歴史と伝統があり、有名大学進学率は95%を超える」とは学校名を出して報道されることがあるかもしれないけど、「××高校は、中退率が20%以上という状態を10年以上もる続けているが、卒業する生徒の就職率は95%を超える」とは学校名を出されない可能性が高いんじゃないだろうかな。
その結果、底辺校での実情はなかなか表に出てこない。理解してもらえない。これは、教員だって同じようなものかもしれない。

このような問題意識を青砥恭先生はお持ちだったのだと思う。だから、実際に現地に足を運び、聞き取り調査を行ったのだろう。

  • 青砥さんは全国的にみて中退率の高い大阪府でも元生徒への聞き取りを実施。その結果、多くの子が中退後に希望する仕事や条件の良い職に就けず、高卒資格の 必要性を感じていることが分かった。簡単な計算に加え歯磨きなどの基本的な生活習慣も知らずに育った子や、シングルマザーになった子もいたが、その多くは 親が生活苦に陥り、子どもを支える能力や意欲のない家庭で育っていた。(同記事より)

こういうことを感じていても、教諭という立場であれば、それをいうことは憚られる。駄文を重ねている私にしても、実際に書くときはかなり事実と状況を変えて書いているけど、はっきりとは書けないこともあるので、この先生が書かれたことは、それなりに意味があるだろうな。

このブログには大学からのアクセスがかなり多くあります。全体の1/4は大学からかな。もし、教諭を希望する学生の人が見ていたら、ぜひとも最初の10年間は底辺校で勤めてもらいたいと思う。1校では分からないことが多すぎる。最低でも2校、10年以上の勤務をすることで、社会・家庭の中での「先送りされてきたこどもたち」の実情が分かるのではないかなぁ。

そういう生徒が先のことを考えずに中退してしまった後に後悔をしたり、自暴自棄に徐々になっていく状態を経験した上で、それでも中退をさせるようなクラス運営をしていくのか、それとも中退をできるだけさせないようなクラス運営をしていくのか、という2通り分かれていく。後者を選べば一見するとクラス運営は楽になるかもしれないけど、前者を選ぶと、一歩間違えるとクラスがアナーキー状態になります。そうならないように、上手に生徒と適度な緊張関係を持ちながら、手綱のコントロールをしていくのが「匠の技」です。(体罰もいらないし、怒鳴ることもいらないし、でもコントロールできるようになります。)

20代の時からお世話になっているある先生は、この「匠の技」のレベルがとにかく高い。生徒にすぐに信頼されるようになるし、どんな生徒ともコミュニケーションがとれる。(これは、英語の先生が好きな「コミュニケーション能力」ということばと、ちょっと違うのかもしれないなぁ) 
学校名も公表して、その実績を訴えることの出来る学校にも間違いなくたいへんさもあるし、「日の当たる」が故の辛さもあるでしょう。その一方で、自分の力ではどうにもならないことが多すぎるという辛さを生徒も教師も持つ学校には、また別のたいへんさがあるものです。その場でも英語教育が行われているわけですよ。

生徒が自律的に学習をするのが苦手な場合に、教師の力量差はいちばん出るもの。そう、95%への到達がとてもたいへんなところです。10%の達成率もあれば、50%、90%など先生によって差が出ます。(断言ね、これ)

2009/11/01

Kの悲劇

親になって初めて分かることもある、とはよくいわれることではありますが、これは真実ですね。理性ではなく、感情として理解できるようになってくる。その感情を乗り越えて、再び理性で判断するようになるのだが、また感情となり、理性となり、、、とこの繰り返し。最初から高みにのぼることの出来る人もいくらでもいるでしょうが、私はらせん階段を上るようにあがるしかないのですね。

テレビでは「結婚詐欺」のあのニュースが流れているようで。テレビのコメンテーターの中には「教育のあり方」ということばをキーワードにする人が多かったな。教育というのは信頼されているのか、信頼されていないのかどっちなんだろうか、ホントに。

教育基本法を見ると勇気づけられます。この基本法には教育の理念が入っています。(純粋な意味での教育の理念を持たない坊ちゃん内閣で変更されたのが悲しい限りだ) 教育は簡単には結論がでないし、機会仕立てのようにすぐに結果が出るものではありません。その畑には、どんな種なのか分からないものがあり、一定の肥料を与えながら、個別の種にあった肥料をまいていきます。でも、1人の農夫だけではうまくいかない。

実際の畑と違うところは、この種はお互いに協力することで高めあうことができるし、想像もしなかったような美しい花を咲かせることもあります。お互いの生存エリアとのバランスを上手に取りながら、自分たちの花になればいいんですよね。それが、本来の学校のあり方だということが、教育基本法の理念だと私は理解しています。何が起こるのか分からないし、抽象的な目的でなければ、その人間が人生を歩む上で糧となるような具体的な成果が現れないところが、塾や予備校とは異なるところ。彼らは具体的な目標を持たなければ、ニーズに合うことが出来ないし、企業体としても成功することが難しいからです。

この頃の教育の悲劇は、学校の塾・予備校化も大きな原因だと私には思われます。これは、勉強をしっかりと教えるかどうかというのではなく、抽象的な目標が「悪」とされ、具体的な目標が「善」となっている状況です。前回のエントリーで書いたように、95%の授業達成などほとんどの教員にとって難しくないことだろうから、勉強を教えること自体は難しくはない。しかしそれをやれ数値目標だの、具体的な成果はどうなっているんだ、というような営利を目的とした企業と同じ物差しで、これから何が起こるか分からないという可能性を信じていく教育を計ろうとしたって無理筋だとあっちの人々は分からないんだろうか。

具体的に書いてみます、はい、あの人たちのために。私は、自分が受け持った生徒がいつか「自分は幸せだな」と思えるような援助がしていきたい。(これに関して異論のある人は、この先は読まないで下さい。) その幸せという概念は、1人1人違うのかもしれないけど、「自分は他者と関わりを持っている」という気持ちがベースに必要なことは「世界幸福度調査」からだって明らかです。
だから、もしアッチ大学に100人、こっち大学に50人という数値目標があるとしたら、その大学に入れば幸福になれるという信念があるんだろうか。
英検2級に100人、TOEICの平均が600点以上なんていう数値目標があるとしたら、それをオーバーすれば幸福になれるという信念があるんだろうか。

おそらく、こういう数値を掲げておられる学校や個人は、その裏には何か教育的な信念があるに違いない、、、と私は思いたいわけです、はい。もしないとしたら、それは、機能的な意味での学校の塾・予備校化ですよね。(名古屋では教育委員会に塾の経営者を入れる案があったようだけど、これを大差で否決した議会に私は敬意を表したい)

有名大学に行けば幸せになれる、勉強が出来るようになれば幸せであるというのは幻想でしょう。いつもながらのエリクソンを出せば、勤勉性は大切だけれど、その結果は高くなければならないということはなく、どんな結果であれ受け入れることがより人生を豊かにしてくれるのにね。

「有名大学」に入学した人が、幸せと感じ、周囲から尊敬されているか、という調査でもあれば、数値目標の本当の是非が分かるかもしれないね。このサイトを見ている、有名大学出身者の皆さん、幸せですか?尊敬されていますか?

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