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2009/10/28

一進一退

相変わらずの調子ですけど、一時よりは良くなったかな。悪いときは、集中力や気力が起きないのは普通になってしまったので、そういうときには横になるしかありません。ホント、ナマケ病としか見えず、自分の人間性がそのまま出ているようです(苦笑)

さてさて、ちょっとおもしろい記事があったので、そのご紹介。オリンピック選手の為末大氏の「侍ハードラー」の次の記事です。

詳しくはリンク先をご覧になって欲しいのですが、このことを為末選手は次のように述べています。

  • これはつまり普段のトレーニングの半分程度の強度で、95%の効果は得られているというもので、残りの5%、これを後の半分で追いかけているというものです。日本はオーバートレーニング気味と言われていますから、3分の1程度で95%に到達していると思われます。

これは、英語教育でも同じことではないかな。5%の部分であまりにもゴチャゴチャしすぎているように思えるのは、私のひがみなのだろうか。

例えば試験。定期考査や実力テストでは「妥当性」と教えられ、私もそこを意識してやってきたつもりです。英語の先生方と話すときには、さも試験にとっての妥当性は必要不可欠なものだという態度をしました。でもね、心の中では「妥当性がなければ正しい評価など出来ないということは、本当かな」と思うことも何度もありました。

多くの学校でそうなように、私が経験した学校も今まで全て共通問題です。テスト作りはその先生の感性がでるとろこでもあるので、私はまず「この問題をやめて下さい」ということはありません。(今までで2回程度かな?) 感性というか、学習観がテストでは現れるので、自分では考えもしなかった問題が出たり、時には靜本では大いに批判されている問題も出てきました。

でも、どんな先生がどんな問題を出そうと、だいたい生徒の成績(順位)は一定しているような気がします。もちろん、偏差値を出しているわけではないので細かい数字は分かりませんけど、「いつもの通り」という順位で、勉強した生徒は伸びるし、しなかった生徒は伸びていないし、という当然のことがほとんどでした。

本当に、妥当性って深く追求しなければ95%に到達しないんだろうか?

もう一発いっちゃいましょう。

英語力とその点数は一致するのだろうか、という疑問が私にはあります。

例えば、英検です。ご存じのように、英検の1次試験は「合格」「不合格A」「不合格B」「不合格C」の4段階に分かれます。試験自体を山にたとえるなら、「合格」は65%、「不合格A」は55%というような段階に到達できたかどうかというイメージを持つ人が多いかもしれませんけど、私にはそう感じられません。
頂上の部分は人によって様々ですけど、どれだけ虫食いがあるかというイメージなんです。合格した人は、頂上の部分は90%前後で、虫食いが25%あり、不合格Aの人は頂上部分が85%程度で虫食いが30%ある、というようなイメージです。
ご批判があるかもしれませんが、不合格Cの人は、頂上の部分は70%以上はあるような気がします。(あくまでも皮膚感覚ね) 

不合格Cの人は、自分の頂上が40%程度しかないと思ってしまうので、やっても仕方がないよね、と思ってしまう。千と千尋ではないけど、「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで」という面は必ずある。だから、どんなに苦手な生徒でも、youngという発音はほとんど出来る。一度、記憶した単語は「どっかで見たことがあるな」と思える。

自分がこのことを忘れたとき、どこかで学習者に対して冷たい視点を持っている。

話しがそれてきたけど、基本的な指導方法がしっかりとしていれば、95%はOKなのではないかと私は思うのですが、これは思い上がりなのでしょうか。例えば、新出語句では発音をするとか、音読をするとか、重ね読み、追いかけ読みをするとか、などなど、巷でいわれている作業をこなせば95%は大丈夫なのではないだろうかなぁ。

その一方で、名人と呼ばれている人たちは、50%の力を使って残りの5%を大切にしてる。為末選手が「競技観」というように、ここで「英語教育観」が出てくる。

私ですか? 私は残りの5%は英語にはあまりこだわっていません。それよりも、教育だったり、教育相談だったり、そちらにこだわるようにしています。(教育の研修が幅広いことは、マイミクの皆さんはお分かりいただけると思いますが;笑) これは自分の人生観があるきもします。
多くの生徒が高校を卒業したら英語を勉強しなくなるのであれば、どこまで英語にこだわるか、と考えてしまいます。もちろんね、1つのものにこだわりを続けて、そこから得ることだって少なくはないことは十分に分かっています。哲学を得ることだって分かっています。
その一方で、その道を極めたから、哲学を得られないケースだって知っています。相撲の横綱が全て人格的に優れているわけではないでしょう。

とまぁ、いろんなこだわりを持つ先生がいた方がいいと思うのは、生徒も多様だからです。それなのに、5%にこだわりを持つべきだ、という風潮が英語教育の中のあっちの人たちが大きな声で言っているのが私には腹立たしい。遠藤周作風にいえば、正義を振りかざした偽善です。1日1度は、鏡に顔をうつしたいもんだね。

2009/10/17

お知らせ

毎日、たくさんのアクセスをありがとうございます。

今年の8月から体調が思わしくありません。完治するまでには、数ヶ月間かかると医師に言われております。(命に別状があるようなものではありませんので、心配はしていません) 

痛みのために集中力や気力が今まで以上になくなってきているので、当分の間、ブログの更新が出来そうにもありません。それに伴い、コメント欄も閉鎖いたします。

皆さま、どうかご自愛下さい。

2009/10/11

おもひでは誰でもぽろぽろ

台風一過。低気圧が近づくと痛みが出る人がおられますが、その気持ちがよーーーく分かった台風です。痛みは人に分かってもらえないのものですねぇ。

さて、前回の続き。このブログは私が感じたことを書いているだけなので、他の人に共感してもらうためだったりとか、それを利用してなにかしたいだたりとか、というわけではありません。自分の考えをまとめるために書いているだけです。もちろん共感してもらえるのはうれしいですが、共感してもらえなくてもあまり辛くはない。同じ見方ばかりでは面白くないし、原理主義に陥る危険性があるので、懐広くいるつもりです、権力や立場を利用して自分を押しつけようとする人たちに対して以外は。ということで、気楽にコメントも書いて下さいな。

最初からデカイ話題になりますが、人生の目的とは、死を迎えたときに「生きてきて良かった」と思えることです。(この結論が異なる人とは、議論を出来る素地もないだろうなぁ。懐の問題ではありません) 「安らかな死に顔ですね」というのは、その人の人生が成功であり、浅田次郎が自分に理不尽な体罰を与えた教師に殴られているときに、「悲惨な死に方をするように」と願ったことは、人生の目的が成就するなという思いの表れです。
生まれて、幼年期を迎え、学童期があり、アイデンティティを確立し、などなど、エリクソンのライフサイクルはこの目的に向かって、どのような課題を乗り越えるかを人生の時期ごとに明確にしてくれました。

そういう哲学の中で学校を考えてもいいのではないかなぁという批判が受験戦争の激しい時代にはあったのでしょう(って、よく分からないけど)。受験戦争に勝ち残ったものが、「官軍」となり、勝てなかったものが「賊軍」とされるのは、おかしいということ。そして、勉強が出来ること自体が善の価値を持つものではないということ。ここで、「ゆとり」教育が始まるわけです。(と、私は理解している) あ、いけない、また話しが横にそれてきた。

他の教科教育についてはよく分からないけど、英語教育は理想的な学習者を対象として考えてきたことが中心だったのでしょう。だから方向性が偏ってきた。原理主義が横行してきた。勉強が出来ない生徒のことは「見えない存在」としての存在であった。

ここに矛盾が生じた。

「学童期」(小学校の高学年から中学生くらいの時期)では、勉強や部活動など、何かのことに打ち込むことが大切な時期です。ここの課題を終えた後には、アイデンティティの確立という課題が待っています。

学校での勉強が理解できた生徒は、自分自身をじっくりと見つめる時期が必要となってくる。本来であれば、ゆとりとはこの時期に必要になるものだった。一見すると無駄に見えたり、何も動いていないようにしか見えないけど、でも精神世界の中は大きく動くための時間を確保することがゆとりだったんだろうな。
いわゆる「進学校」が勉強だけでなく、部活動が盛んなことが多いのは、「学童期」の課題をクリアして、自分に自信を持っているからなんだろうなぁと皮膚感覚センサーは教えてくれます。

その一方で、この「学童期」の課題をまだ超えていない生徒も多い。「底辺校」の生徒がそれにあたる。この課題を超えることが出来なかったきっかけは、学校でのちょっとしたものだったり、家庭でのことだったり、教師との人間関係、友だちとの人間関係など様々です。しかし、どんな原因だったにせよ、課題がクリアできていないのは事実です。だから、次のアイデンティティの確立にストレートに移行することが出来ず、パワーをもてあまして、問題行動が起こす生徒もいる。さらに自分自身に対する信頼性を失い、パワーが全く見受けられない生徒も少なくない。だから、「底辺校」では勉強に力を入れていないだけでなく、部活動も盛んではない。
彼らのいちばんの問題は、勉強という課題をクリアしていないことだ。家庭問題などのきっかけはあくまでもきっかけであり、切り離した方がいいと思うんだけどね。

本来、教育というのであれば、前者の生徒にはアイデンティティの確立の援助を行い、後者の生徒には学習的な援助を行うことが大切だと思うのは、こんな理由からです。

しかし、実際はどうなんだろうか。

前者は「大学進学」という数値目標までこさるほど、学習に重点を置いている。(学習自体が悪いといっているのではないですよ、念のため) 一方、後者では学習が軽く見られている。

どっかで矛盾していないかい? 

2009/10/09

堅実なギャンブラー&浪費癖のある節約家

相変わらず腰痛との戦い。先日の検査でその理由も分かったのですが、ちょっと長期戦になりそうだな。ただ、いちばん心配していたことではなかったことと、原因が分かったということで、自分を納得させないといけないなぁ。皆さまも、健康には留意されて下さい。

この腰痛になってから得たものは、やはり弱者の視点の再確認です。腰痛になって、何をするのも苦しくなった。速く歩こうとしても歩けない、座ろうとしても座れない、思っても出来ないということの苦痛。そして、気を遣われることに対する申し訳なさと、自分自身に対するイライラ。ともかく、かくありたい自分と、現在の自分とのギャップに苦しんでいるわけです。

いつもながらの我田引水をするいくと、思春期とはまさにこういう時期ではないでしょうか。勉強もできるようになりたい、スポーツもしたい、自分を思いっきり出したい、などなど、かくありたい自分の理想像を持つ一方で、思うように勉強が出来ない、スポーツもスタートになれない、自分をうまく表現できないと、不器用さがあります。こういう時に、「自信を持って取り組もう」とか、「やればできる」という偽善的な愛、いや自己愛に満ちあふれたアドバイスを大人や教師はすることがある。これは断言しましょう。大人は子どもを愛したり、大切にしたりしながら、実は自分自身を愛している行動がよくある。(「おもひでポロポロ」の主人公、タエコはそれで苦しんだんだよね)

人生って、矛盾に満ちあふれているものだと私は思います。ちょっと古いドラマだけど、「探偵物語」(主演・松田優作)の人気があるのも、矛盾と向き合う仕事である「探偵」が主人公でなかったからではないだろうかな。彼の元に来る仕事は、人間の哀しさがベースとなっているものばかり。日常生活の中で、誰しもが隠している矛盾は、ちょっとしたきっかけで顕在化する。私もそうだし、あなたもそうだろう。でも、その矛盾を矛盾として向かい合うと、深刻になりすぎて不幸になるから、ユーモアでそれを受け流していく。
矛盾の中で生活していれば、疲れてくる。疲れてきたときには、自分で解決するための哲学を持っていればいいが、持っていないと誰かに頼りたくなるものだ。

そう考えると、出身校を「母校」と呼ぶ理由って何となく、理解できてきます。人生の節目の時、自分が疲れたとき、あの当時と変わらない先生や建物がそこに存在している。世の中に出て、自分が成長過程の時に、そこにいくことによって安心が出来るし、ホッと出来る。漁師にとっての母港と、卒業生にとっての母校とは、音が同じだけでなく、性格も似ているのだろうな。

だから学校には無駄が必要になる。潜水艦のような合理性の固まりはではなく、ゆったりとした空間という、理性という物差しだけでは計れない精神的なゆとりが必要になってくる。どんなに学習指導要領を細かくしようと、この母校を生徒の心の中に作り上げる営みは、明確に書けるはずがない。

暴力的な言い方になるかもしれないが、学校の持っていた大きな機能の1つはこの「母校」だったのではないかな。

その安心感の中で、生徒が成長し、教師も成長していく。その時にはたとえ成果が出なくても、大人が自分に真剣に向き合ってくれた、そして自分に期待をしてくれたという思いは、これからの人生での糧になるだろう、、、、と教師は信じていくしかないんだよね。そして、この思いは、往々にして独りよがりにはならないものだ。

この「母校」の感覚を持って、英語教育は考えたいな。英語教育を独立させて、それだけで考えるのならば、予備校と変わらない。予備校は成績を上げるという、いわば父性的な役割を担っている。成績は目に見えるものだから、数値目標にはぴったりである。偏差値を10あげたとか、○○大学に500人合格したとか、いくらでも数字に表せる。いってみれば、父ちゃんの給料みたいなもんだ。

でも、母親の愛情は数字に表せない。1日に何回だっこしたとか、頭をなでたとかで、その母親の愛情をはかる人はいないだろう。数字に表せないから、数字に表せるような父性的な方面に踏み込んだとき、この愛情はどうなっているのだろうか。もちろんね、両立させている先生だって、多くいると思うよ、ホントに。でも、成績成績と大きく騒ぎ、やれ小テストだ、やれ模擬テストだ、やれ補習だと、父性的な方向に重心をうつしすぎると、長い目で見たときに生徒には「母校」の存在価値が薄まるかもしれない。でも、数値目標としては大成功になっているところがもどかしい。
いちばん残念なのは、数値目標合戦に入ることが出来なかったり、達成できなかった生徒だろうな。こういう生徒のフォローも考えない英語教育は、「教育」という言葉を使うことができるのだろうか。林竹二の「学ぶとは何かが変わることだ」という言葉が頭から離れない私は、どうしても違和感を覚えてしまう。

こんな矛盾を抱えながらの学校も社会の縮図ということかな。ってことは、ユーモアも必要だ。そんなユーモアはmixiの中で、思いっきりだしていますが、何か?w

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