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2009/09/28

Thank you for your kindness!

 10日ぶりの整形外科。実は今朝から腰痛がぶり返してしまい、全てを先生に話したら怒られました(苦笑) いわく、医師も手術をしたくしてしているワケじゃないのだから、そんな技術があれば使われているはずだろう、というもっともなお話。逆に、そういう民間療法で、どれだけの人が手術をせざるをえなくなっているかを考えてもらいたい、と真剣に言われてしまいました。信用しているドクターということもあり、色々と考え直しました。なんでもそうだけど、簡単な道はないということか。

 それはともかく、前回の続きを。といっても、同じ内容を切り口を変えているだけの気がするけど、蟷螂の斧としたいという気持ちです。

  • 現在、もっとも求められている教養とは何ですか

突然、生徒に尋ねられた。どうも、AOか推薦入試での課題らしい。そこで、祖父の昔の言葉を使って、答えた。

  • 現在も何も、教養とは思いやりではないのか

そこで、納得してくれた様子がいいですね。確かに、犯罪にはならないけど、思いやりのない様子がいくつもで見られませんか?経済的な弱肉強食をよしとする市場原理主義者のような大きな問題を言っているのではなく、もっと小さいことです。
 電車の中で携帯で話をしている人、駅のホームでタバコを吸う人、お年寄りが目の前にいても席を譲らない人。

 もっと「小さなこと」もある。

 道を譲られてもありがとうと言えない人、コンビニのドアを後ろの人のために開けておけない人、相手のあら探しばかりしている人などなど。
 よく見かけるのは、私だけではないでしょう。「昔は~」なんていうつもりはない。だってね、これらは全て、大人のやっていることなんですよ、現代の。

 大人のミーイズムに手をつけられない現状で、子どもの学力向上を考えることは、宮崎アニメの主題でもある子どもへの期待と考えるのなら、納得できる。でもさ、ホントに、それだけなのかなぁという考えてしまうのは、私が天の邪鬼だからなのだろうか。
 自分の偏差値が上がるための智の吸入であれば、そこには流れを伝える文化の空気は入らない。いわんや、○○大学に何名が入学したとか、××大学に何名を入学させるとか、それを実績や目的とするのであれば、こんなに悲しい教育はない。きっぱりと断言しちゃいますけど、そこには心というものは存在しない。心のないものを目標としている中で、心を育てるというのは、不可能じゃないのかい。

 もちろん、自分も高校時代そうだったように、こんなきれい事だけで通用しない現実もある。偏差値の上下に一喜一憂して、第一志望の学校に合格することだけが目的である受験生だって、いくらでもいる。もちろん、それを否定するつもりはない。

 でも、学校がその流れに乗ってもいいんだろうかなぁと疑問に私は思います。自分の可能性を広げていくため、人生を切り開き他者のために生きていこうという思いの中で学びをはじめ、結果的に学力が上がることを考えるのが、学校のスタンスでもあっていいのではないかなぁ。。。

 家庭教育では人生について、そして予備校では学力について、という明確に分けられると思う。そして学校はこの中間に位置し、人生の幸せについて考えるとき、人のために生きるためには力が必要で、その力を得るためには学力が必要になってくるというスタンスを持ち、学力向上を考えるとき、その学力を伸ばすことでどのような人生を歩みたいと考えているのかというスタンスを持ってきたのではないかなぁ。

 英語教育の過熱化の1つの理由は、競争にあると考えています。このくらい成績を伸ばした、こうやって英検に合格させた、こうやって大学に入った、などなど、英語は広い意味での実用性を持つので、競争するにはもってこいの教科です。
 そして一部で原理主義化するほど深まってきた一方で、この競争からはみ出した層については見えない存在にされてきた。これって、大きな問題だと思いませんか。だって、いやしくも○○教育という言い方をしているのに、半分程度の生徒を見えない存在として無視してきたのですから。これは、学校間の問題だけではなく、もしかしたら、1つの学校の中でもあり得る話しかもしれないな。「『この生徒がいなければいい』と思ったら、その流れに巻き込まれているってことだよ」というW先生の言葉は気持ちを込めて聞きたいところです。

 PISA2003でも2006でも必ず話題になるフィンランド。この国で大学進学実績という考え方はあるのかなぁ。聞いたことがないのは、俺が知らないだけかもしれないけど。

 大学の教育学の先生からこんなことを最初の講義でいわれた。

  • 大学に入学してから、受験生と同じように勉強をしている人はいますか。・・・あら、いないんですね。君たちの学びの仕方は、どこか間違っていたと思いませんか。

ふぅ。耳が痛いな、いつ思い出しても。うん? 心か?

2009/09/26

ウサギとカメ

 腰痛が再発。あまりにも辛そうに見えたのか、同僚の先生から上手な整体を教えていただき、施術を受ける。「全部、元に戻しておいた」という師からいわれたら、寝返りは打てるようになるし、足に力は入るし、うーん、まさにマジック。終わってから、そこを訪れる有名人の写真をいくつも見せてもらうのだが、プロのスポーツ選手やオリンピック選手まで、ブラウン管液晶の中でしか見たことのない顔の数々。
 「医学部のある○○大学の選手が、医学部の先生と来るんだよ。MRIまで持っているのにな」
 筋肉が固まっているので1週間ほどは痛みが取れないといわれたんですが、今までいたかった足でケンケンが出来るし、伸びも出来る。1週間後が楽しみだなぁ。

 生徒から、「ベネッセのテストではじめて115点取りました~」とうれしそうに報告を受けました。今まで、100点にすら遠く及ばなかったのに、一挙に成績が伸びたとか。すると隣にいた生徒も、「アタシも…」と同じように教えてもらう。長文問題が解けるようになってきたことが、いちばんの大きな成果のようです。
 彼女たちがいるクラスは、選択の関係で、英語が得意という生徒が少ないクラスなのだが、今までに学習した経験があまりないため、どうにかしたいという思いが強くありました。そこで、□や( )を付けることから始まり、スラッシュを付けさせ、あとは音読。細かい定義はなんだけど、いわゆる音読や重ね読み、追いかけ読みとしているうちに、長文が解けるようになったり、発音が良くなったり、リスニングが分かるようになったりと、ともかく力もついているようで何よりです。

 とまぁ、自己愛的な内容はともかく、2回目の成人式を先日迎え、残りの人生を父が他界した年齢をゴールに考えてみると、自分にはあと何年が残されているのかなぁという思い、そしてその延長線上には、人生の中での幸せとは何なのかという思いが、頭を横切っています。エリクソンを持ち出すまでもなく、「生きてきて良かった」と思えるように年をとるためには何が必要なのかなぁという思いでしょうか。

 お金はありすぎても幸せになっていない人がいくらでもいる。とくに遺産相続の血みどろの争いを見たことがあるけど、それまでの人間関係を変えるほどの攻撃力がある。ありすぎる資産を巡って、離婚があったり、兄妹の縁が切れたりというケースもあったな。NHKドラマにもなった「ハゲタカ」を見ていると、無機質なお金は人を不幸にさせる気がする。
 その一方で、なければないで、困ってしまうのもこのお金である。お金がないために進路を考え直すケースもいくらでも見てきたし、そこにつけ込もうとする人たちもいるのが現実だ。奨学金を借りて上級学校に行っても、返済がどうしても難しいというケースなどいくらでもある。その上、日本学生支援機構は、返済が滞ったら金融機関のブラックリストに載せるというしね。
 と、考えてみると、お金という軸で幸不幸が決まるとも思えない。

 では、学歴(≒有名大学への進学)が物差しになるのか。となると、有名私立・国立中学高校に入学し、東京大学に進学した人がいちばん幸せになることになる。研究者になったり、エリートサラリーマンになったり、起業したり、高級官僚になったりと、そういう人生がいちばんの幸せなのだろうか。(少なくとも、有名中学高校や有名大学に進むと、親は幸せに思う) あまり実例はだせないけど、周囲の人や、マスコミで取り上げられている人を見ていて、必ずしも幸せそうには見えない(これは、俺の物差しとの違いかもしれないけど)。
 その一方、高校を中退した保護者は、子どもに対して高校卒業を、そしてできれば大学への進学を勧めるケースが多い。これは、自分の最終学歴が中学校なために、辛い思いをした(している)からだそうだ。面談をしていると、こういうケースが多くある。大卒で入社した社員は、研修としてブルーカラーの仕事を行うが、半年から1年でホワイトカラーの仕事に就く。だが、自分はずっとブルーカラーの仕事で、給与も低いし、大きな仕事も回ってこないということを何人もの保護者から話された。
 と、考えてみると、学歴という軸で幸不幸が決まるとも思えない。

 そうすると、学力を上げる=偏差値を上げる=有名大学へ合格をするためのフォローをする、という図式に授業が組み込まれていないかと不安に思うことがある。実際に、進路実績といえば、東京大学が最初に紹介され、国立有名私立大学にどれだけの人数が合格したか、そして指定校推薦にどれだけ有名な大学の枠を持っているかを、web上で紹介している高校も少なくない。いや、進学校と呼ばれる学校では圧倒的多数だろうな。もちろん、これは学校への満足度は別のところにあるが、数値化できないから、数値化できる進学実績を前面に出しているだけかもしれないけどね。

 人生を豊かにするために、どうして勉強をする必要があるのか、という哲学がない限り、結局は偏差値競争に巻き込まれてしまう。偏差値競争に巻き込まれたとき、運のいい生徒は自己を見つめ直すきっかけになるかもしれないが、そうでないと他者を見ることのみで学習の動機付けにする。競争が動機付けになっては、長い目で見たときの学習にはプラスにはならない。
 ウサギとカメは、ウサギは常にカメを見ていたが、カメはゴールを見ていた。強者の油断を戒める話しといわれるが、私には見つめる視点の寓話に思われる。

 何を見つめて、そしてウサギのような脚力をつけるか。この2つが揃ってはじめて、学校の役割になるのではないかなぁと私は思います。

 英語の脚力をつけるためには、まずは単語sign01 と我田引水をして拙著をPRします(笑) ちなみに、広島大学の柳瀬陽介先生のブログにも紹介されました! 

2009/09/20

「フレーズで覚える英単語1400」でお寄せ頂いた感想(1)

左にもリンクを張った「フレーズで覚える英単語1400」。自分でいうのも何ですが、なかなかの会心作です。

ご感想をいただきましたので、紹介させていただきます。

 

フレーズがタイプ別にまとまっているので、すっきり頭に入りそうな感じです。
フレーズであっても、動詞+名詞とか、形容詞+名詞とかが混在していると、すっきり頭に入ってこない感じがするので。

 あと、完成道場は復習に役立ちますね。英文読解道場も、良いと思います。

 CDも英日、英語だけのところがあって、書き取りができるようになっているのですね。いろいろな工夫があって、とっても学習者思いだなあと感じました。
(関東・高校英語教師)

正直、教材を作っていて、こういうフィードバックをいただけるのは、うれしいことです。ご覧になった方で、ご感想・ご批判をいただければ、紹介していきたいと考えています。

また、この本の確認テスト各章の最後にありますが、より細かいテストが無料ダウンロードコーナーからダウンロードできます。ご活用下さい。

sign03 いま、amazonはキャンペーン中で、送料が無料となっております。この機会に、一冊どうぞ。

コミュニカティブ原理主義

腰痛から学んだこと(学んでいること?)。
痛みを感じる→不快を感じる→治そうと努力をする→なかなか完治しない→痛みと同居する
というような「あきらめ」に近い気持ちも持つようになってくる。しかし、その一方で、どうにか早く治らないかなぁという思いも強い。

  • 理論や理屈はどうでもいいから、治してもらい、再発しないような手だてを教えて欲しい

という思いは、私の願いです。鍼灸に行った後に、整形外科で受診をしたところ、「エヴィデンスがないところで診断を受けてもダメだ」といわれた。確かにそうだろうけど、お前はレントゲンが読めなかったろう。つぎにAKAに通ってみたら、「良くなるはずです」の一点張り。ウーム、困ったものだ。挙げ句の果てには、○○会という腰痛の会があって、そこは初診料で2万円もかかるとか。ウーン、色々とあるんだね。
 でもね、どこの場所でも「良くなった」という人がいることも、これまた不思議な現象。どうしてかは分からないけど、「合う合わない」で言い切っていいのか不安はあるけど、でも実際に治っている人がいる。エヴィデンスがあろうとなかろうと、治っている人はいくらでもいるわけだし、エヴィデンスがあったところで、治せない人はいくらでもいる。

なんで、こんな話しを書いたかというと、英語教育もこれと同じじゃないかなぁと思うからです。

ちなみに、私は授業で英文和訳はほとんどしません。だからといって、英文和訳を否定するつもりもない。授業でディベートなんて取り入れようとなんて、思わない。かといって、ディベートをする人を否定するつもりもない。同じように、ドラマ教育を取り入れようとは思わないけど、それを否定するつもりもない。

それぞれの、専門家としての自負のある先生がいるのだろうから、授業としてのアウトライン(リスニングをして、内容を理解して、音読をする)というものさえあれば、肉付けの部分はその先生方が信じるようにやればいいという思いがあります。

  • 生徒の学力を、生徒のために高めたい

という思いが基本にあれば、私は問題ない思う。

その一方で、学習指導要領に強制力を持たせたことをいいことに、コミュニカティブ原理主義とでもいうような、「正しいのは自分たちだけだ」という人たちがいて、その声が大きくなってきている。そして、自分たちの原理を広めるために、政治的な動きさえ、結果的にしてはいないか? 教育が政治と関わりを持つことは、政治の側からでも、そして教育の側からでも失敗することが多いのは、歴史を見ていても分かるものです。

一部のこの原始主義者は臆病者だろうと私は思っている。だから、批判を許せない(「許さない」のではない) だから、権力に頼りたがる。そして、群れる。しかもその群れ方が、水虫のように組織防衛をするのが不思議だよな。閉ざされた中でだけ、増殖していく。自分たちが浮いた存在であるということは、100も承知しているんだろうか。

だから、自分の地位をエラくしようとする。そして、私が最初にいった整形外科のドクターのように、「エヴィデンスもないところじゃ、ダメだ」ともっともらしいことをいうものだ。しかし、お前は治せなかっただろうという批判は、当人には入らない。

臆病者でなければ、もっと懐の広い考え方になるのではないか。コミュニカティブの教授法でのみ学力は伸びるものでもないだろうし。だいたい、國弘正雄や伊藤整、福原麟太郎など、コミュニカティブな英語学習でもしていたというのか。となると、あの原理主義者にとっては、英語の達人と呼ばれる先人の英語力は目指すところではないというのだろうか。

臆病者でなければ、自分たちが行った「失敗」も明らかにすればいいじゃないのか。成功したときには大きな声で発表するのに、失敗したことは、なーんにも外に出てこない。自分たちと意見が違う人を排除する論理で進む組織は、どこがあるかのぉ。歴史を見てみればいい。ロクな組織はないぞ。

患者は、腰痛が治ったかどうか、の1点でしか判断しない。どんな立派な診断も、理論も関係ない。極端な話し、無資格の人だって治してくれるなら、お願いしたいものだ。(ブラックジャック先生がそうだろう!)

さて、これからの英語教育は、原理主義がさらに強まっていくのでしょうか。そして、原理主義者は組織防衛のために、その原理から外れる人を批判していくのか。

原理主義の先にあるのは、純血主義ともいうべき、不健康な組織です。不健康な組織は、基本を忘れたときに、基本を意識しなくなったときに、権力と手を結んで生まれてくるものです。

私は雑木林の中で過ごしたいと思っていますが、なにか?(w

2009/09/17

心のバイアウトは不可能さ♪

ついに「フレーズで覚える英単語1400」が書店に並ぶ。発売初日に、新宿ジュンク堂で「面だし」(目立つように表紙を向けて置くこと)をされていると編集者のKさんから携帯に連絡。しかも、写メつき。翌日にはブックファースト新宿店で同じように置かれているとのこと。こちらは写メなし。順調に紹介されているようで、何よりです。 

夏休みのオフ会で、anfieldroadさんのひと言が気に掛かっていた。

  • 教科書をリスニングさせても、生徒は予習をしてきているから、純粋にリスニングにはならない。

なるほど。予習をしてくる生徒というのは、存在するんだよな、ということ。当然といえば当然なんだけど、それを忘れていた。あまりにも、どっぷりつかりすぎてしまったということか。考えてみれば、「予習」という言葉をずっと忘れていたので、やっていないということを前提に授業をしていたのは、良かったのか悪かったのか。現実的だったのか、迎合的だったのか。

「進学校」と「底辺校」というくくりは、私もいままでしてきたけど、そのくくりは地域や人によって違うだろう。(って、今更いうのもなんだけど;笑) 学校というくくりで見るだけでなく、授業という単位で見るならば、「予習をしてくる生徒がどれだけいるか」というのが、1つの物差しになるのではないかな。

高校生という地点を基点として、左に予習をしてこない、右に予習をしてくるという方向を作る。高校1年生の時のクラスの雰囲気がどのようなベクトルか、その方向と強さがが、まずはその教室(学校)のカラーになる。それと、授業では学習をしようとする雰囲気があるかどうかというベクトル。この2つのベクトルの足し算が、授業を作り上げていく。
そして、このベクトルがいちばん動くのが、高校1年生の4月です。左から右に移ることもあるだろうし、もしかしたら右から左に移るかもしれない。

「分かる」という感覚、「分からない」という感覚、そのどちらを持つかで大きくぶれるもんだよね。

となると、「分かる」という感覚を生徒が持てるように生徒を促すことが、1丁目1番地になる。この住所は、安心感にも通じる。では「分かる」感覚とはどのような感覚なのか、その感覚を持たせるためにはどうすればいいのか、という視点で授業を見ることも必要。
「和訳なんて作業、時代遅れで、そんなの現代の英語教育じゃないぜ」と宗教的なまでの排他的態度で臨んでいるホニャララの人は、日本語で確認したいという生徒の欲求を否定するというのだろうか。それとも、日本語を介さずにパラフレーズで内容を理解させられるとでも思っているのだろうか。

例えば、漢文を古文にパラフレーズする、古文を「舞姫」(森鴎外)のような文章でパラフレーズしたところで、私は理解できない自信がある。(きっぱり) 

「生徒の視線に立ち…」というフレーズにイライラを感じるときもあるけれど、自分の感覚を絶対的なものとして、和訳を大切にしようという意見を掲載した雑誌の編集者に抗議の電話をかける感覚は私には全く理解が出来ない。これじゃ、自分への批判記事を差し止めようと会社のお偉いさんに電話をかけた、どっかの副知事と同じレベルだよな。

とはいえ、そんなイライラを感じるだけの人生では面白くないもの。その場で、頑張っている先生方のご活躍を拝見すると、こちらにも活力がわき上がってきます。そのような先生方が集まるイベントが、11月に山口県で開催されます。

講師として登場される3人の先生は、いずれの先生も興味深そうです。私も今年は行く予定にしています。

2009/09/13

モモクリ3年カキ8年、英語教育6年か。

 7月から苦しんできた腰痛も徐々に復活の兆しか。鍼灸もダメ、マッサージもダメ、AKAもダメ、とダメダメづくし。気が乗らないけど、色々と悪い予想をしてしまい、整形外科へ。ようやく2つめの整形外科で、こちらが納得できる説明を受け、薬を飲みました。
 そして、かわせカイロプラクティックへ。半信半疑のまま、千葉から町田まで通ってみて、本当に良かった。それまで、歩くこともままならず、板書も出来ない状態だったのに、痛みも8割程度はなくなったことに、自分でも驚き。本当に、河瀬さん、ありがとうございました<_o_>

 9月以降の授業は、それまでとは全く違うようになってきました。いわば、靜本の影響をかなり受けている内容。というのも、とにかく、長文を読むスピードが遅すぎるので、それをアップさせたいということ、そして、英文の暗唱を生徒がしたことがないので、その暗唱をさせるという2つの狙っています。

 相変わらず新語の提示はコロケーションです。

  • stimulating lives:刺激のある生活

という提示を最初にしておき、下線を引いたstimulatingの説明として、”making you feel more active”という英語の説明(これは、ロングマンのサイトからほぼ引用)を提示します。新語を(無理矢理にでも)10ほど提示し、英語での説明はそのうち7つ。説明の7つのうち、5つは極力短いもの、1つはちょっと長め、最後の1つはかなり長め(例 : <rule> an official instruction that says how things must be done or what is allowed, especially in a game, organization, or job)といったようにして、得意な生徒も飽きないように。
 これをペアワークをして、7つを○×でお互いにチェック。もし言えないときには、プリントを10秒ほど見て、再び挑戦。出来れば○、出来なければ×。△はなし。

 その後は、本文の暗唱。「スラッシュリーディング」が優れていることは重々承知の上で、これはある程度、そのレベルの英文を扱える学習者ではないと難しいのではないか、と思っています。ギリギリの学習者にスラッシュリーディングやチャンクの概念を教えるのであれば、□や(  )という名詞や前置詞のまとまり、[     ]という節を体感させた上で、そのまとまりごとにこちらから提案し、それを暗唱させた方がいいのではないな。
 ということで、次のように暗唱をさせます。

  •  その結果/ 人々は動物園に行きたいとは思わなくなりました / 動物が送っているように見える / たいくつで不幸な生活を /  小さな檻で
  • As a result, / they didn't want to visit zoos / where the animals appeared to be leading / boring and unhappy lives / in small cages.

というように、短いと思われる範囲で、暗唱大会。こちらも、出来なければ10~15秒の時間を与え、再チャレンジ。ペアになってお互いに出来を確認していきます。どうにかして、これを11月までの3ヶ月で体感から体得に移行して、受験に間に合ってもらいたいものです。1年という時間は、なかなか短い、ホント。。。

 発音は、sとz、tの発音だけはこだわり、それ以外は目をつむっています。

 本日は最後にPR。「無料ダウンロードコーナー」に原稿をおいてあるフレーズ集が文英堂から発売されることになりました。

次のような特徴があります。

  • 名詞+名詞、形容詞+名詞、動詞+名詞、句動詞(+名詞)の720の組み合わせ
  • 1冊で1320の単語と、80の句動詞がマスターできます。
  • 同じ単語は2回使用せず(品詞が違う場合には別語としてカウント)
  • CDは、英語→日本語
  • 各章の確認問題は、英語→日本語、日本語→英語、ディクテーションの3つが用意

早ければ、水曜日から書店に並ぶ予定です。よろしければぜひとも、ご覧下さい。また、内容についてのご批判もいただければ助かります。

2009/09/05

ロマンチシズムとリアリズム

腰痛からようやく復活の兆し。
実はブログの更新が滞っていたいちばんの理由は腰痛でした。座っていられない、立っていられない、とにかく何をしても痛いだけ。夜も熟睡できない日が続き、腰痛に苦しむ人の気持ちがようやく分かりました。

スポーツ整形で有名な病院と提携している整形外科では異常がないといわれて、それなのに薬を出すということに納得できず、薬を拒否(笑) その後、近所で評判のいい整形外科で、ようやく理由が分かり、その説明をしっかりと受け、今後の治療方針の説明を受け、全て納得。昨日までは辛かったのですが、ようやく復活の兆しです。

学力云々も少し、時間をおいてしまったので、自分の中の熱も冷めてしまいましたので、またいつかの機会に(といって、ないかもしれないけど)。

教育の世界は「性善説」で成り立っています。生徒に対しても性善説、同僚に対しても性善説、上司に対してはよく分からないけど、ともかく性善説が前提となっています。これは、教育という営みを行う上で、とても大切なこと。必要とされたり、期待されたときに、私たちは今以上の力を出すことが出来る。失敗したとしても受け入れてくれる環境があればこそ、次の成功体験へとつながっていく。

ところが、この性善説は、ロマンチシズムとつながると、甘くなる。やはり、人間が集まっていくときには、リアリズムも必要になってくる。性善説の中で、ロマンチシズムとリアリズムとがバランス良く同居していくのがベストなんではないかな。

例えば、「次ぎにこの生徒は成し遂げるだろう」という期待値だけで生徒に任せるよりも、「やってくれるだろう」というロマンチシズムを持ちながら、「前回の経験の良かったところ、改善できるところ」を考えさえるメタ認知の能力を養うことも大切だ。

授業でもそうじゃないかな。単語テストやナントカテストなどをすれば、生徒の学力は向上するという命題にしても、「はず」ではいけないと私は思う。「はず」の延長線上には、マンネリがあり、最終的にはやめるにやめられない状態が待ち受けている。そういう状態で、効果があると思うことを行おうとしても、「やめられない状態」が反撃をしてくる。

疫学調査のように、「この単語テストをしていれば、単語力はここまで伸びた」とか、「この構文テストをしていたら、こんなに読解力が伸びた」と調べられないところに、ロマンチシズムの入り込む余地がある、いわゆる「はず主義」が入り込む。生徒が学習するのは、その単語テストだけではないし、その構文暗記だけではないからだ。

「今の若者は学力が下がった」といわれるけど、これは「昔の若者は学力が高かった」という前提があるのだろう。(ホントかどうかは分からないけど) では、大学受験が熾烈を極めていた現在の35-40歳の人たちのどのくらいが、学校で単語テストを受けていたのか、構文テストを受けていたのか。

もっというならば、英語で英語の授業を受けたり、コミュニカティブな授業をしてきたというのだろうか。

さらにいえば、戦前の旧制高校の生徒は、CDもテープレコーダーも、なーんにもなかったけど、どうしてあれほどまでに英語が出来たのだろうか。

別にね、英語を使う時間が無駄だとか、コミュニカティブな活動が無意味だといっているのではないんですよ、念のため。

学力向上を考えたときに、過去のことを全否定するかのような流れに対して私は疑問を感じているだけです。また、何かやれば、効果があるということもよう、理解が出来ないときもあります。
しかも、性善説という悪意のない中で作られる流れに、どうもついていけないのです。過去にやっていたことを否定するのではなく、そこに何かを加え、よりよいものにしていく方が、現実的ではないかな。性善説でいくのであれば、「生徒は学習を自分たちでするようになる」という(時には根拠のない)信頼をもっと持ってもいい。「生徒は勉強しない」と嘆く暇があるならば、成功体験を感じさせることによって、勉強するように流れを作る仕掛けをしたいなぁ。「勉強しないから」といって勉強を押しつけても、結局は勉強しないのが多数派ですよ。そういうリアリズムも必要です。

河合隼雄氏がいうように、100%正しいアドバイスなど、なんの説得力もないのですから。「タバコをやめなさい」「本を読みなさい」「夫婦は仲良くしなさい」と100%正しいアドバイスを聞き、「目から鱗だsign03」とその瞬間から変わる人なんていません、絶対に。みんな変わっているけど、そうできないから苦しんでいるわけで、それは生徒も同じことです。「勉強はしなくちゃいけない」って思っているのですから、性善説の世界の住人として、それは大切にしたい。

話しが横にそれちゃいました。

ホンの数年間、英語学習へのモチベーションが低い生徒の多い学校で、英語の授業を英語で行った先生の話を聞きました。それは大変な作業だということは分かった上であえていうと、そのような授業で、学力が向上したという科学的な証拠がない限り、英語で授業を行ったという自己満足になっていないだろうか。もっといえば、他の先生よりも、生徒の学力がよっぽど伸びたという証拠でもない限り、今までの流れを全否定して、自分のやり方が正しいと声高に主張などしない方がいいと思う。それに、ホンの数年間の実践なんて、偉そうにいわない方がいい。そこで、担任を2まわり、3まわり持って、はじめて分かることがあるものです。

例えば、しっかりと読解をする。そしてそこに音読の作業を入れるだけでも、授業は改善してくるけど、読解のスタイルを得意とする先生に、音声中心の授業をなんていっても、そう簡単には出来ないだろう。それより、音読だったら取り入れることが出来る先生が圧倒的に多数だ。音声を授業に入れるということは、本来はこういうことだったんではないかなぁ。

そんな授業しかできないなら辞すればいい、という声もたまに聞くけど、多様性を失った世界は、宗教的に先鋭化したり、横風に弱いんだけどね。それでもいいのですか。

将来、英語教育の「政治力」を持っているあんな人や、こんな人も、もしかしたら影響力を失うかもしれない。その時、新たに中心になった人たちが、「インターネットで、英語を読んだり書いたりすることが多い。だから、読み書き中心の授業を展開していこう」という流れを作り上げたとしたら、また振り子が逆に振れたとしたら、猫も杓子も読み書きになってしまうんだろうか。

だからこそ、時流に流されることなく、生徒の学力にはこのことが大切だ、という信念が教師には必要なんじゃないかなぁ。でもさ、政治的に力を持ちたがる人は、流れを作りたがるから、困ってしまうんだよねぇ。

流れを作りたがる人は、宗教的な精神をお持ちか、自分に自信がないかのどちらかなんだろう。自分に自信がなければ、何らかのバック(政治力か)にすがりながら、メインストリームになろうとするのが世の常です。本当に自信のある人は、評価者は生徒だということを分かっているので、別にメインストリームなんて求めないし、そして結果的にだけど、たくさんの同志が出来てくる、そう勝海舟のように。

リアリズムの考え方がないから、どうしても全否定から始まるのかもしれないけどね。

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