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2009/02/28

無料ダウンロードと奨学金・教育ローン

 ラストスパートが始まりました。今はただ、卒業や進路実現を祈って、サポートするだけですねぇ。
 「連語で覚える英単語」のファイルをチェックしていたところ、スペルミスがかなり見つかりました。新しいバージョンをアップするだけでなく、フリーの「ダウンロードコーナー」を作りましたので、ご興味のある方はこちらへどうぞ。教材を購入しなくても、こちらでダウンロードされて、印刷してご活用ください。その方が生徒の経済負担も減りますから。(こんなことを私が書くと、怒られるかもしれませんがsweat01;笑)

 この頃、大学進学を希望していても、金銭的な問題がネックになる生徒が増えています。教育ローンについても、リンクを張ります。もし必要があれば、ご覧下さい。

公庫や銀行での貸し付けの審査が通らないときには、社会福祉協議会の奨学金(なぜかあまり知られていない)があります。こちらの審査は公庫や銀行とは違うようです。詳しくは、お近くの社会福祉協議会までご相談下さい。ただ、審査に1ヶ月程度の時間がかかることもあるようです。日本学生支援機構の奨学金は入学後ですが、これらは入学一時金で活用が出来ます。

このページは、二月末日までトップにくるように設定してあります。

2009/02/24

根拠のない「はず」

小学校での英語の授業について、問題提起。

そうだろうなぁと納得。小学校の英語も、そして全国学力テストも、何か共通したところがある気がします。

  • 小学校からやれば、英語が分かるようになるはずだ
  • 学力テストをすれば、我が子(我が地域)は平均点よりは高いはずだ

という根拠のない「はず」と、根拠のない「高得点(できるようになること)」。この2つが共通点のように感じるのは、私だけでしょうか。

この2つの根拠のなさは、現実(結果)がその期待値(「はず」)とが乖離しているケースが多々あるわけです。「結果を公開しろ~」と開示を求め、開示してみると、「あれ?? ウチの地区は結果が低いじゃねーかよpout」とか、、小学校から英語をやれば誰でも苦労しないで、英語ができるようになると思っていたのに、英語嫌いになり、「あれ?? 小学校からやればできるよーになるって、誰かがいってたじゃねーかよpout

ちょっとそれるけど、「日本人は中学・高校と6年間も英語を勉強しているのに、日本人は基礎的な英会話が出来ない」とか、「読み書きは出来るけど、話す聞くはできない」という、根拠というか、現実とは全く違うナントナクの空気を根拠として、とんでもないことを「確信」としていた人たちも多かったですよね。(これは、いまだにそうかな)

そして、子どもの学力(学歴)を、「アクセサリー」として無意識に感じている保護者って、多いんじゃないかなぁ。その「アクセサリー」が存在だけで価値があり、そのままの形を大切にしつつ、磨き上げていくのではなく、「プラチナに違いないはずだ」という根拠のない「はず」になっていないものかなぁ。小学校の保護者の中には、小さいときから塾に通わせて、勉強をさせている人もいるみたいだけど、それより自然の中で遊んだり、家族で遊びに出かけたり、家のお手伝いをさせたり、などなどの方がよっぽど価値があると私には思えてきます。

話を元に戻しますと。。。

根拠のない「はず」が明らかになったとき、どうするか。

  1. 自分の「はず」という根拠が間違っていた
  2. 「はず」は正しいのだから、教育活動をしている学校が悪い

この2つのどちらかを選びます。そして、多くの人が選ぶのはもちろん後者。

後者を選ぶために、あらたな「はず」がまた出来上がってくる。

  • 東京のどっかの中学校のように、学校が塾と提携すればいいはずだ。
  • 教科書を難しくすれば、もっと英語が出来るはずだ。

この2つなんて、多く思われているのでは?

いやぁ、ホントに、塾の先生の方が教えるのは上手ですか? 学校の先生だって実力の高い先生はいくらでもいますよ。それに、塾に行けば学力が上がるという根拠はどこにあるのだろうか? 少なくとも、担当している生徒を見ている限り、塾に行っている生徒の学力が高いとは思えませんが。。。それよりも、自分たちで学習をする気持ちを持っている生徒の方が成績は高いものです。しかし、学習をする気持ちの育成は、「塾と提携」よりも重要視していないのではないかな? もちろん、口先で「重要視している」という人もいるだろうけど、具体的にどうしているんですか。「他者のための学び」という感覚なしに、真の意味での学習意欲など高まらないと私は思っています。
「塾信仰」の人たちは、「カネを払うことで解決」という感覚がないと断言できる人はどれほどいるのだろうか?

中学校の教科書が、週4時間実施にともなって、1200語レベルになるとのこと。これも、単語レベルという絶対的なものがあって、その1200番目までが使用されるという誤解をしている人が多くないかな? 現在の900語レベルだって、「こんな単語が使用されているの?」というものが多くあります。
その上、900語でアップアップしている中学生が多いのに、1200語にしたら、そういう生徒はさらに増えるのは火を見るより明らか。

900語レベルで総語彙数(総単語数)が増えるような教科書、新出語句が課末には出ないで、本文だけで処理できている教科書を作った方が、全体として考えたときにはよっぽど力がつくだろうに。

確かに、一部の有名私立や国立中学校に通う中学生は1200語レベルだって対応できるだろうけど、私の子どものような普通の子どもにとっては900語レベルで内容を厚くした方が良い(と私は思っています)。

ナントナクの雰囲気、根拠のない「ハズ」で教育が壊されていると私には思えます。そして、一連の教員バッシング、「これは学校でやってください」というあれもかれも押しつけられる仕事の増加と、目の前の生徒とが必要としていることのギャップ。これに疲れてしまっている先生は多いでしょう。その上、私たちは10年ごとの非正規雇用になってしまったしね(笑)

ともかく、根拠のない「はず」を追い求めている限り、いつまでたっても、学校は苦しむだけです。これは、児童・生徒にとっても不幸なことは言うまでもありません。

2009/02/15

這えば立て、立てば歩めのナントヤラ

 授業がなくなり、ガクッと疲れが出てくる。これだけ連続で担任をしていると、疲れて当然だよと同僚のA先生から。ここで充電しないと、次の学年を持つときに息切れしそうなので、しっかりと電池をためないと。

 県内のスーパー進学校からやってきた同僚のK先生からは、「仕事内容が違うねぇ」といわれる。
 進路相談といっても、「偏差値を上げるよう勉強する」というアドバイスとその援助だけで良かったのが、進路意識を持たせ、場合によっては進路費用の計画の相談を行い、時には就職や専門学校と自分たちが経験したことのない道筋の「指導」を行わなければならないようね、とK先生。確かにそうなんですよね。例えば、美容師を育成する専門学校には「御三家」と呼ばれる3つがある。でも、どうしてそれが「御三家」と呼ばれるのか、どうしてその「御三家」がいいのかが、よく分からない。しかし、「良い専門学校」を求める生徒に、ある程度のアドバイスを求められるのが、キツイ。
 同窓会などで、卒業生の話を聞いたり、実際に見学に行った生徒の話を聞いたりして、自分の中でイメージを作っていくしかないんだけど、これが自信が持てるようなものでもないわけです。就職もしかり。

 進路決定率を上げればいいだけなら、今の時代、そんなに難しくもありません。でも、そこに自分たちの人生を考えさせるという作業を入れた上で、進路を考えさせるとなると、難しい作業になってくる。数値で目標や達成を教育の中に持ち込んでくる人は、1つ1つの作業の中に含まれる「たましい」「言霊」を無視してはいないだろうか。
 「親になるのは簡単だが、親であることは難しい」ということに同意できる人は、教育の中での数値目標の愚かさに気づくことの出来る聡明さを持っている人なんだろうけどね。

 卒業をしていく学年は、それまでの周りの学年に比べて、英語力は伸びました。これは間違いない。スタートを考えれば、なおさらです。
 でも、突き抜けるところがない。これは、色々な理由を想像しているんですけど、自分の力ではどうしようもないこともある。仕掛けや授業展開など、教員という範囲で最大のことをやったとして、イメージするような突抜が可能なのか。

 「自己尊重意識が持てるような学び」という原点から、「他者のための学び」というポジションに成長していけるかどうかという観点で英語教師として考えたときの突き抜けと、英語力向上という観点での突き抜けとは、どこに接点があるんだろうか。

 これから英語を使わないだろうという生徒にとって、英語のコミュニケーション能力の育成など、どれほどの魅力があるものなんだろうか。「将来海外に行ったとき」「仕事で使うかもしれない」なんていう、偽善的な強者の論理はいらない。「韓国に行って、どれだけ英語を使いますか」「看護師になって、英語を使いますか」という問いに対して、どんな答えが用意されているのかなぁ。

 そう考えると、英語の授業を通じて生徒に求めたいものは、「生徒の成長」なんですよね、私にとって。そうすると、また原点に戻り、「分からないものが分かった」という感動を持ってもらいたい。「自分にも出来た」という気持ちは、大きな財産になりますから。

 「分からないものが分かった」ということが喜びであれば、それが次の「分からないもの」を分かろうとする原動力となるハズであり、それが自発的な学習者の育成につながるハズなんだけど、つながっていないのは、こちらのグランドデザインの失敗か、それともそれ以外の要因があるのか。

 ここで、また先ほどと同じ場所に戻ってきてしまう。

 元同僚のT先生の奥さんが歯科衛生士なのですが、「上手な歯医者は一緒に働かないと分からない」と話していた。下手な医者でも口の上手な先生は人気があるし、上手な先生でも口べたな人は評判が悪いことがあるそうです。
 これは、教員も同じかもな、対外的な評価に関しては。ナントカ先生や、カントカ先生なんていう著名な方は、まさに「口の上手な下手な医者」かなぁ。

 いけない、話がそれた。

 教育という観点での突き抜けと、英語教育という観点での突き抜けとの接点はどこにあるのだろうか。 

2009/02/14

他者のために学ぶ

 目がチカチカ、咳がゲホゲホ。卒業への学年会議が終わり、まずはホッとする。とはいえ、卒業まであと3週間近くあるので、緊張は続きます。
 先日、偶然に見たテレビ番組。

久々にテレビに見入ってしまいました。以前、我が家にも振り込め詐欺から電話がかかってきたことがあったので、祖母と2人で見ていました。

 振り込み詐欺グループの幹部(候補)として、日本を代表する私立大学の学生や、西日本のスーパー進学校を卒業したメンバーが出てきました。前者は逮捕され、その友だちにインタビューをしたところ、次のような主旨のコメントが全員!(13人か14人だった気がします)からあったようです。

  • 犯罪を犯したことは悪いけど、お金が欲しいという気持ちは共感できる。

そして、後者の人物は、高校卒業後に医学部を目指すが、3浪しても入れない。その高校の卒業生は東大や医学部に入る生徒が多い。だから彼はこう考えたらしい。

  • 友だちよりも、優位な立場に立ちたかった。

うーん。。。とふと考え込んだ。そして、マガジン9条で堤未果さんと森永卓郎さんとの対談を読んでいると、森永氏がアメリカの投資銀行に勤め、自宅にシェフを呼び料理を作らせるような20代で3000万から2億ほど年収を稼いでいる「お金を右から左に動かすだけ」の仕事の若者について、次のように語っている。

お年寄りを騙してお金を得ようとする振り込め詐欺、そしてお金が欲しいという気持ちに共感ししまう現実、3000万から2億もの年収を得ているのに寄付行為すら嫌がる若者。全て「拝金主義」という一本の糸でつながっていないでしょうか。

もちろん、そういう若者の家庭環境もあるでしょう。でもね、思春期の中学校や高校で、どのような教育が行われてきたのか。もっといえば、どんな言葉の投げかけを教師が彼らにしてきたのか、どうしても気になってしまいます。

学力を伸ばすことは、もちろんいいことに決まっています。でもね、どこかで、「学力さえ上げればいい」という偏った雰囲気ってないでしょうか。「他者のためへの学び」という哲学を教師が持たず、「学力向上」(「英語力向上」)だけをいうのは、進学校であればあるほど、私は違和感を持ちます。

ナントカ大学へ数十名合格させた、ホニャララ大学へ100名以上合格した、なんていう予備校や塾のような看板なんて、つまらないことだという気持ちを持つスーパー進学校の人たちはいないんだろうかなぁ。人間は社会的動物なのだから、「他者のために生きる」「他者のために学ぶ」という意識を持つことは、幸福のためには必要だと思うんだけど、それは数値目標になりませんからね。数値目標神話の延長線上に拝金主義があり、それは利益を第一義とする民間神話にたどり着き、悲劇を生みだしている。

一方、「中堅~底辺」の学校は、「学力向上」をもっと考えても、なんの問題もない。達成感を持ち、自分たちにもここにたどり着くことが出来るんだ!という思いの中で、社会的責任感を生徒が持つようになっていくことは、社会の中にとってもプラスです。

少し話題がそれますが、家裁の調査官の方からこういわれたことがあります。

  • 鑑別所に入ったからといって、生徒を退学させて欲しくない。退学したら、その少年は社会の中で居場所がなくなってしまう。

なるほど。学校の論理としていえば、鑑別所に入ったほどのことをした生徒を在学させておくことは、バランスを考えるとつらいものがあります。(特に私立高校の中には今でも、バイクの免許取得のみで退学させるところもあります) その一方で、学校も社会の一部として考えると、少年の「居場所」という役割もある。このバランスが難しい。

学力向上と心の教育、社会的システムとしての学校と教育を行う学校、いろんなバランスが教師には必要となってくるのだけど、そのためには教師は哲学者でもなければいけないのかもな。哲学者がいなくなった学校に残るのは、何なのだろうか。もしかしたら、哲学者などいらないという雰囲気があるのかもしれないなぁ。

「かんぽの宿」の一連の報道に驚くばかり。あの郵政民営化って、誰が得をするシステムだったのだろうか? 民営化されてから、夜遅くなっても配達をする人がいるし、先日などは投函してから1ヶ月以上たって届いた郵便物まであった。いったい、誰がどこで得をしているのか。

を読むと、ウームと考えさせられる。

何でもそうなのだろうけど、変えればいいというものではない。必要なことは、「他者のために」という哲学なんじゃないかな。英語力向上もいいけれど、そんな視点も必要だと思うんだけどね。

こう書くと、「心の教育」「ボランティア活動」という人がいるけど、そうではなく、教師自身が哲学者としての自分を持つ必要があるんじゃないかなぁということです。哲学者は、文部科学省から言われようと、組合の運動方針が何であろうと、教育委員会がなんと言おうと、曲げないところは曲げないもの。教師が行政職になったら、そこに教育は存在せず、100年の計の「計」自体がなくなります。

全て従順になる人間は、エセ哲学者にはなれても、本当の哲学者にはなれないものです。

こんなこと、授業を受けている生徒は全てお見通し。彼らがいちばんの教師の評価者です。

<追記>
 ここでいう「哲学者」とは、「長屋の哲学者」のことです。「ご用聞き」では教育など出来ないのに、「ご用聞き」を求めるような風潮であったり、自分と同じ考えに対して「ご用聞き」になるようでは、ダメだと私は思っています。

2009/02/10

バクテリア

 英検のサイトが更新されているsweat01 ちょっと気恥ずかしいですが、もしよろしければご覧下さい。

 いつもながら、内田ブログに納得する。こちらをどうぞ。

  • http://blog.tatsuru.com/2009/02/07_1629.php

氏のブログは引用して構わないということなので、少々長めに引用します。

  • 大学のような人的資源「だけ」がほとんど唯一の駆動力であるシステムにおいては、「教師のやる気」をどうやって恒常的に高揚させ続けるかということがマネジメントの基本である。
  • ところが、大学教育に参入してきた“ビジネスマン”たちの中に、「大学という特殊なシステムにおいて教職員のパフォーマンスを継続的に高止まりさせるにはどうしたらいいのか?」というふうに問いを立てる人間はみごとにひとりもいなかった。
  • 彼らは「どうやって教職員を脅し上げ、萎縮させ、従順にさせ、馴致させるか」ということばかり考えてきた。
  • そうやれば「給料分の仕事はするだろう」と思ったのである。
  • たしかに、そうすれば多くの人は「給料分の仕事をする」ようになる。
  • けれども、それは同時に「給料分以上の仕事をしていた人々」からフリーハンドを奪うことを意味している。
  • 教育の現場は「給料分以上の仕事(場合によってはその10倍、20倍分の仕事)をする人々」が一定数恒常的に存在することで保っているということを忘れてもらっては困る。
  • そういう人たちがまったく自発的に「給料分の仕事をしない」教職員(もちろん、たくさんいる)の不足分を補う以上のことをしているから教育現場は回ってきているのである。

確かにそうだよなぁ、と納得。

 以前にも書いたけど、亡き父のバクテリアの話しを思い出した。ゴミの減量化をライフワークとしていた彼は、生ゴミの処理をバクテリアの力のみを使って行おうという「BH-5」を作りました。(結果はぜんぜん売れなかった;苦笑) 
 温度によって活躍するバクテリアは変わるようで、低温を得意とするもの、高温を得意とするものがあるということです。ところがその中で、どの温度帯でも働かないバクテリアがいるとのこと。早い話が、怠け者のバクテリア。

 効率を上げるために、この怠け者クンたちを抜いて、働き者のバクチャンだけで分解させたところ、確かに急激に分解能力はあがったsign03

 しかし、それはつかの間の出来事で、なぜか、それまで働いていたバクテリアが急に働かない現象が起きたそうです。つまり、その集団で役に立たないと思われていたバクテリアは、他の仲間を「その気にさせる」という役割を持っていた、ということでした。

 人間の集団とバクテリアの集団と、何が違うのだろうか?

 すぐに「民間では」という人もいるけど、教員だって規則で定められている仕事をしている人が99.9%以上でしょう。勤務時間前に出勤し、授業を行い、校務分掌を行い、会議に参加するなど、これは給料分の仕事。

 でも、これだけでは学校は回らない。

 担任は誰が受け持つのか(とくに「教育相談の宝庫であるクラス」)、部活動は誰が受け持つのか(自分が経験したことがなかったり、土日も活動する部活)、仕事量が多い校務分掌は誰が受け持つのか(特に教務だよね)などなど、+αの仕事です。

 この+αの仕事を受け持つことと、やり遂げることは違う。受け持つだけなら、「苦難に耐える」気持ちを持てばいいだけだからね。
 それに、担任もしないで、あーだこーだいう人だっている。(これで、担任のストレスは大きくなって、なり手が減っていくんだよね)
 仕事をしっかりと行って、ご出世の足がかりとすべく「実績」を重ねる方だっている。とても目立つところに現れます。(ナントカ主事に好きになれない人が多いのはこんな理由かな?)

 でもね、学校現場は、目立たないけど、こんな+αをやり遂げる人が多いから成立しています。荒れている学校は+αをする先生が少ない。明るく、荒れていない学校は多い。この違いだけです。もっといえば、生徒が学校に対して覚めているのは前者、愛校心を持っているのは後者の学校とさえいえるのでは?

 保護者の立場からすれば、確かに学校に言いたいことはある。でもさ、どんな名医と知り合えても、人間は必ず病気もするし、死を迎えます。同じように、学校にユートピアを求めても仕方がないでしょう。要は、生徒の幸福のために、援助を惜しまない先生がどれだけいるかが大切なことだと私は思うんですけどね。

2009/02/05

形容詞? それとも、名詞?

 連語で覚える英単語とにらめっこの毎日。「基本語」とは何なのだろうと迷っていました。JACET8000やSVL12000、各辞書の「難易度」とは、どれほどの妥当性があるんだろうか。誰か、この比較をしているものがあれば、教えて下さいm(__)m 単語に色がついているわけではないので、1000語レベル、2000語レベルという単位もどういう基準なんだろうか。

 こういう教材を作っていると、自分の英語力のなさが身にしみます。最後になって、「形容詞化する名詞」で迷いました。その一例がspring。辞書によって、用例がかなり違います。

  • 形容詞 「春の」 spring rain(春雨) <ジーニアス英和大辞典 初版>
  • 名詞 「春」 spring rain(春雨)  <ジーニアス英和辞典 第4版>
  • 名詞 形容詞的に「春の」 spring flowers(春の花) <オーレックス英和辞典 初版>
  • 名詞 「春」 spring break(春休み) <ウィズダム英和辞典 初版>

 これだけ、違うんですねぇ。。。頻度によって「名詞」→「形容詞的に使われる名詞」→「形容詞」と変わるのかなぁと思いつつ、さらに深いことを知りたくて、tmrowingさんに連絡。とてもフォローして下さったことに心から感謝。

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こちらは、ご講演をお願いした國弘正雄先生。この時は、お話の「ジャブ」だったのですが、ここから、「國弘節」が炸裂しました。その時の写真をとらなくて、残念!

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こちらは、ペンキを塗った教室。ペンキできれいにすると、全体的に明るくなるし、ゴミが減ります。
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2009/02/01

対話によるコミュニケーション

 久しぶりに千葉県松戸市まで学習会へ。といっても、英語関係ではなく、教育相談関係を中心とする学習会です。講師は、いちばんたいへんな状況でそれなりに実績をあげ、現状を嘆くのではなく、希望を持って現場の教員を励ましてくれる方々ばかり。今は高校教諭を辞めてしまったW先生のお人柄がこの基礎を作ったんですよね。(教育相談関係の研修会には、英語の教師はほとんどいません。)

 今回の講師は千葉県内でカウンセリングルームを運営されているM先生。「最高の人生の見つけ方」という映画を通じて、人生の意味についてのお話です。内容については触れませんが、英語教師として感じたことを。

 M先生によれば、人間関係には次の3つがあるそうです。

  1.  対 話 :相互承認の関係。言語化。
  2.  暴 力 :他者へ承認の強制。行動化。
  3. ひきこもり:他者からの承認からの逃避。症状化。

この3つは移行が可能であり、2→1となったり、2→3となったり関係は変わりますが、いちばん安定しているのはもちろん1の人間関係です。自分の存在感を相手に強要することもなく、そして相手からの承認を不必要と考えることもなく、お互いに言語による対話を行える関係が大切です。

 振り返って、我らが英語教育はコミュニケーションを声高に訴える唯一の教科でもあります。国語では「日本語でのコミュニケーション能力の育成」なんていいませんし、地歴科でも「歴史との対話!」なんていいません。コミュニケーションを訴えかける教科は英語のみです。

 となれば、英語教師にとって、上記の人間関係ではどれを大切にすべきかといえば、もちろん「1」でしょう。コミュニケーション、コミュニケーションという人ほど、生徒指導的な場面でも対話によるコミュニケーションを大切にしなければ、一貫していません。だって、お互いに対話を大切にし、相互承認の関係を作り出すことが日頃からない限り、授業の中だけで作ろうとしたって無理なことですから。

 学習会の中で小学校の先生が、「遊びを通じて、相互承認できる基礎が出来上がる」ということを話されていました。そして、この相互承認は共同体の土台となるものです。たしかに、この「土台」が欠落しているケースもありますよね。ゲームや携帯などとの「対話」は得意でも、、生身の人間とのコミュニケーションが苦手な生徒は多くいますから。

 話しがずれましたけど、コミュニケーションということをいうのなら、相互承認がクラスの中で日頃からなされなければなりません。そして、この相互承認がクラスという共同体を作り上げ、児童や生徒、それぞれがクラスの中で「居場所」を持てるようになります。

 いちばん小さな共同体は、家庭です。そして、次に地域です。

 共同体としての機能を家庭や地域が作れていない場合、学校がその共同体を作っていくしかありません。これは、「べき論」ではなく、将来の「希望」を考えたときに、学校がするしかない現実があるだけです。(この作業に対する行政の無理解には怒りがこみ上げるだけです。)

 クラスを1つの共同体として見たときに、一人一人が居場所をその場に見つけ、相互認証を出来る機会を確保し、学校の授業が成立してきます。(これらの作業は、補完的な関係です) だから、学校を予備校的な授業、つまり、教科的な伸長のみを大切にすることから、私は離れた方がいいと思うんだけどねぇ。

 本当に授業が上手な人たちは、間違いなくクラス経営も上手な人です。これは、断言します。自分の担任する生徒との人間関係も成立できない人が、優れた授業など出来るはずはない。だから、授業に逃げ込んではいけないし、同じような理由で、クラス経営に逃げ込んじゃいけないよね。車の両輪であり、どちらか片方では成立しないんだから。

 海外での教科教育は知らないけど、日本の学校というシステムの中で教科教育を考えるならば、教科教育を単独で考えたところで空に浮かぶ花を追い求めるようなものです。単に教科を教えることが学校の役割ではなく、課外活動などで児童生徒の成長の援助が日本の学校文化なのですから。
 アンケートを過信しちゃいけませんよ!特に高校生になれば、しっかりと社交辞令は書けるようになりますから(笑) たまーに、「私は生徒にこんなに慕われていますよ~」なんてアンケートや寄せ書きを出す人もいますけど、そんなことを根拠になるとは限りません。10人の試験点数の標準偏差みたいなもので、意味があるのかないのかはっきりとは言えないのでしょうが、強い根拠にはならないでしょう。

 国家を大切にしようとか、国家に騙されるなという軸ではなく、自分たちがいるその共同体を大切にして、さらに発展させていこうという軸が大切なんでしょうね。

 東京新聞杯(GⅢ)では、アブソリュートの勝利。GⅠで139連敗の経験を持つ田中勝春ジョッキー鞍上です。単勝しか当たらなかったので、夜は立ち飲み。

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