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2008/12/31

今年もお世話になりました

今年もお世話になりましたhappy01

ブログを通じてお目にかかることが出来た人、
メールでのコミュニケーションが始まった人、
そのほかにも、いつもブログに足を運んでくれる人。
皆様に心から感謝申し上げますm(__)m

IPのチェックをたまにしますが、ホントに多くのところからアクセスを頂いて、恐縮しております。
リモートホストをここでは書くつもりはないですが、某県教育委員会の指導課からのすごいアクセスや、拙著と競合するかもしれない本を出版した某社からのアクセスには、生徒の表現を借りれば、「ビミョー」でしたsmile

来年は、やりたいと思うことが出来ました。ちょっと英語教育から離れるかもしれませんが、自分のポジションは変わりません。

皆様にとって、来年が良い一年になりますように、

そして、

より多くの人が幸せに暮らせるようになる一年になりますように。

組田幸一郎




分かる援助

 ようやく年末。現在、担当している生徒も順調にいけば、あと2ヶ月少々のお付き合いになります。うれしいやら、寂しいやら。
 彼ら・彼女らによって、ずいぶんと私も育てられました。また、少しは進路に影響を与えられたのではないかという自負もあります。おおきな声を出さなくても、語りかければだいたいは分かってもらえるし、授業中も寝ている生徒はほとんどいないし、授業前には着席しているし、ということは、うれしい限りです。

 英語力についても、それなりにつきました。

 おそらく、教員が想像しているよりも、「高校ではしっかりと学校生活を送りたい」という思いの生徒は多いはずです。誰も、自分の居場所である学校で、自分の存在感(アイデンティティ)は持っていたいもの。そのためには、1日のうちの大半を占める授業が分かることが、大切になってきます。

 「英語は最初から始める」といっても、アルファベットから始めることはしません。その理由は2つあります。ひとつは、「高校生としてのプライドを大切にしたい」ということ。もうひとつは、「必要に迫られて、初めて必要性に気づく」ということです。

 高校生は高校生ですから、学力にかかわらず、中学校の最初と同じようなことはしたくはないという思いがあります。また、いくら試験で点数が悪くても、アルファベットを全く書けないということはほとんどありません。bとdを間違えることはあるけど、t と i とを間違える生徒は見たことがありません。

 ただ、スペルと音声とが一致しなかったり、文法が分からなくてして、音読が出来ず、試験に取り組めず、英語が分からなくなった生徒がほとんどです。だったら、ここを突破口にしようと、思いました。
 また、イヤなことをするのであるから、テンポもよくしていきたい。「分かりたいならガマンしろ」というセリフではなく、「ガマンさせないテンポ」を心がけました。

 例えば、1年次に行った『短文で覚える英単語』は、次のように学習をしました。

  • Perhaps, he may change his mind.(例文8)

 まずは、1つ1つの発音から。パーハップス、ヒー、メイ、チェインヂ、ヒズ、マインドと、1語1語でListen and Repeatをします。声が小さいところ、ストレスが微妙なときには、もう繰り返します。
 そして、SVは何? 動詞のグループにはアンダーバーを、名詞のグループには□を、などなどを行いました。
 今になって思えば、英語の基礎教材を行った上で、この作業に入った方がよかったですね。英語の基礎教材はこちらです。スタートの時には、基礎教材のまとめもなく、『短単』で基礎作りをしていました。
「kisokyozai.pdf.pdf」をダウンロード

 生徒の考えさせた上で、黒板で答え合わせ。その後、音読をして、筆写。筆写は、時間がかかりますが、意味の分かった英文を音読して、筆写すると、定着するということを体験させるためには、必要です。特に、スタートの時に、「こうすれば分かるんだ」と実感を持たせたいと思っていました。

 この作業を1回につき例文4つほど、進めていきます。そして次回に小テスト。分かったと感じられた生徒は、小テストでも学習をしてきます。もちろん、学習しない生徒もいる。でも、意識をするのはあえて、学習してきている生徒にします。2:6:2の法則からいえば、学習する生徒を見ることで、中間層が学習するようになり、結果的にしなかった生徒も、学習する方向に引きずられるからです。

 とにかく、意味の分かった英文を、音読して、筆写して、暗記すれば、自分たちにも英語が分かるようになるんだsign01という思いを生徒に持たせることが、最初の一歩です。認知カウンセリングでいうところの、「意味的認知」を体験させなければ、先に進みません。

 

2008/12/29

学習意欲のきっかけ

 新学習指導要領案について、いくつかの出版社や編集者の人と話をすると、各社各人によってとらえ方が違うようですね。
 私の興味があるところは、「コミュニケーション英語基礎」なので、そこについての疑問も含めた感想を。

1.目標

  • 英語を通じて,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育成するとともに,聞くこと,話すこと,読むこと,書くことなどの基礎的な能力を養う。

全く問題はないですよね。この目標は大賛成です。

2.内容

ということで、早い話が、中学校の復習をしっかりしろ、、、いやはっきり言えば、中学校で分からなくなったら高校生に、もう一度、勉強をやり直しなさいということですね。はい、これも全く問題はないと思います。

3.内容の取り扱い

  • 中学校における学習との接続と「コミュニケーション英語Ⅰ」における学習への円滑な移行のため,主に身近な場面における言語活動を経験させながら,中学校における基礎的な学習内容を整理して指導し定着を図るものとする。

ここで、少し、待てよ、、、となる。

 コミュニケーション活動という言葉が一人歩きしているのではという雰囲気があるけど、これを見ると、やっぱりそう思う。コミュニケーション=身近な場面=道案内や学校の中での会話、という図式が成り立っているのだろうか?

 「今の若者はコミュニケーションスキルがない」とよくいわれるけど、これって、「道案内やがっこの中での会話が出来ない」ということじゃないですよね。となると、学習指導要領で使われている「コミュニケーション」と、日本語の一部として使われている「コミュニケーション」との間には意味的な違いがあるということになります。

 また、日本に住む私たちにとって、英語はあくまでも外国語(外語)であり、第二言語ではありません。となると、身近な場面で使うなど、エヴァ風にいうなら「ありえないワ」となります。
 その上、周囲に見せるような=外見的なコミュニケーション活動をしなければならない、という強迫観念にも似た気持ちが教師サイドにあるんじゃないかなぁ。

 生徒にとって学習意欲のきっかけは、「分かる」という感覚を持てることです。これは、断言できる。「興味を持つ」なんていうのも、「分かる」ことが前提になります。この「分かる」という感覚を、どうやって持たせるのか、ということが英語学習のスタート地点では大切ではないでしょうか。
 だいたい、英語の教員はもともと、「分かる」感覚を、ごくごく自然にもてた人が多いので、この感覚をあまり気づかないのかな。いや、学習指導要領の作成に加わったといわれるあの先生や、この先生は、気づいていないのかもしれない。みなさん、英語エリートですから。
 英語の教員の力量がいくら高くても、「分かる」ということの軽視や、そういう生徒の気持ちに共感できなければ、溝は開いていくだけです。溝が開いていけば、自己否定された感覚になり、「自分が悪いのではない。悪いのは生徒(時には現場)だ」という妙な理屈をこねくりまわすようになる。

 せっかくね、目指すところは似ているのに、方法論で誤解が生じて、結局、目指さなくなっていくのって、もったいないと思いませんか。

  • 主に身近な場面における言語活動を経験させながら

というのは、生徒に、英語学習へのイヤイヤ感を取り除くための工夫なのかもしれないが、こんなものは必要ない。分かる感をまずは持たせることがまずは初めの一歩です。

2008/12/25

社会民主主義的教育

 昨日は恒例の教室のペンキ塗り。Xmasイブを彼女と過ごしたい!という男子のみ集めて、ペンキを塗ってきました。教室から机やイスなど、全てを出して、養生をします。マスキングテープを使ってペンキが付かないようにして、ようやくペンキ塗り。ローラーと刷毛を使い、約3時間で教室がきれいになります。
 その後は、ワックス掛け。本来は樹脂ワックスを使いたいのですが、学校にないので、あるワックスを使います。水性なのですぐに飛んでしまうのですが、仕方ないか。。。教室が1回なので木目タイルなので、ポリッシャーを使う必要もないので、今までよりは楽でしたね。
 昼食に、若者6人と、近所の食堂へ。そこで、閉店を知り、かなり落ち込む。ここのお母さんの暖かさで、どれだけ救われたことやら。昼間の入りが悪く、明後日が最終日らしく、残念でなりません。

 ブログの中で、「新自由主義的教育」ということばを使ってきました。よく使われる「新自由主義」は、Wikipediaにリンクを張っておきますが、「新自由主義」は、競争により、正しい方向に進むという「競争万能主義」という意味で私は使っています。競争を一回戦から勝ち進んでいったものは、巨額の富を手に入れましたよね。どこかの政治家から「私の息子です!」とさえいわれたホリエモンも、この新自由主義の申し子だったと、森永卓郎氏はいっています。(ホリエモンは「新自由主義」の申し子だった

 教育の世界でも、競争をすれば、学力が上がっていくという哲学を持っている方が少なくなく、そういう人たちの思想に対して、成績の高い子どもにはさらに高みを目指していこうという思想に対して、「新自由主義的教育」ということばを私が勝手に使っています。
 確かに、ライバルとの競争を通じて、自分を高めていくことは大切なことです。量販店だって、近くにライバル店があるほど、お客さんの入りが多いことはよくあります。英語の単語だって、暗記の得意な生徒にとっては、中学校で1000語だろうが、2000語だろうが、そんなにハードルは高くないかもしれません。
 ただ、一度でも、その競争から脱落してしまうと、再び追いつくことは、容易なことではないでしょう。国立や有名私立と呼ばれる学校には、新自由主義的勝者が集まってきます。

 その一方で、平等を重んじて、「不平等がないように」という思想もあり、これを「社会主義的教育」と私は呼んでいます(勝手にですけど)。学習的能力のあるなしに関わらず、不平等がないようにという、平等性を軸にしています。
 学力検査(いわゆる高校の一般入試)の問題でも、使用されている教科書の中で、1つでも使われていなければ、注釈が出てしまいます。その結果、注釈を見れば、Top-DownのTopが出来てしまうという妙な現象が起こることさえあります。1つの例として、千葉県の昨年度の入試問題をご覧下さい。注釈のある語句をマーカーすると、マーカーだらけになります。これは、千葉県だけの特別なのではなく、どの都道府県でも同様です。(作問者はがんじがらめの中で、大変でしょうね)

 この両者の狭間で、中学生に何が起きているかといえば、「教科書だけやればいい」という現象のようです。ある中学校の先生の話しでは、生徒が欲しがる単語集は、教科書準拠のものらしく、それを使えば、辞書を引く必要もなく、教科書の単語が分かるとのこと。それを欲しがるようです。だって、入試では、教科書以外の語句については脚注があるのですから、学ぶ必要はないということは、中学生の論理からすればとても自然なことです。

 文法項目については、学習指導要領で定められているので、注釈のようなものはありません。しかし、使える単語が決まっているのだから、並べ替えなどで文法を尋ねようとしても、その単語の範囲でしか尋ねられないという苦悩も作問者は感じているはずです。これは、過去の入試問題を調べたときにそう思いました。

 競争は確かに大切ですし、平等性も大切ですけど、生徒の成長を主軸にすれば、どのような「主義」がいいのでしょうか。そう、その中間の「社会民主主義的教育」しかないと私は思っています。ある程度の競争と、ある程度の平等を大切にする。そして、物足りなさを感じている生徒にはフォローを行い、遅れがちな生徒に対するバックアップも行う。そんな「大きな学校」しかないと思っています。

 そのためには、どうしても教員数を増やさす必要がある。増やせないというなら、何かの仕事を減らさないとならない。この二者択一となります。教員数も増やさず、仕事も減らさずというのであれば、「大きな学校」はありえません。

 一部の家庭(しかも少なくない家庭)の教育力が失われているという共通認識が、国家としてあるならば、「大きな学校」しかありません。もし、ないならば、「小さな学校」のままで構いません。

 これらの共通認識、これからの学校のあり方の議論なくして、教育論議などかみ合うはずもありません。現在の教育論議の不毛さは、こんなところに起因しているのではないかなぁと、えらそうに思うのでありました。

2008/12/23

Excelと英語との違い

人間は、幸せになるために生きている。

 昔の同僚の先生のことば。

 では、今から20~30年前の中学生や高校生は幸せだったのか。あの頃の、凄まじいほどの受験戦争。受験に落ちて、自殺をする同年代のニュースがよく聞こえました。あの時に、日本人は何を学んだんだろうか。

そして、ゆとり教育。

 分からない生徒をできるだけ減らしていこうとした。そして、生きる力をつけていこうと考えた。でも、理念はあっても、方法が見つからず、以前に比べると易しくなった教科書(英語については総語数もへったのでは?)を使うようになった。その上、少子化(200万→120万)なのに、大学の定員も増えた(約40万→60万)。

そして、学力低下論争が始まる。

 子どもを取り巻く環境が20年前と同じであれば、かつ、20年前の私たちが幸せだったというのであれば、時計を戻すことも有効な手段に違いない。

でも、環境は変わっている。

 20~30年前の中学生や高校生、「スクールウォーズ」の時代は、手放しで本当に良い時代だったんだろうか。校内暴力の全盛期だった頃、そんなに理想的な世の中だったのかな。

 もっといえば、今までの英語教育が間違っていたというならば、英語の達人はなぜ生まれたのだろうか? 

 教育を考えるとき、私たちは「幸せ」という物差しを忘れてはいないだろうか。学力を伸ばすのは、誰のために伸ばすのだろうか。子どものために伸ばす? では、学力が伸びることと、子どもたちが幸せになることの、関連はどこにあるのだろうか。(私は学力をつけても仕方がない、といっているのではないですよ)

 国家として、この日本という国にくらす人が幸せになっていくのかというグランドデザインの一部として、根幹をなすものとして教育はあるのではないだろうか。国家が、市民の幸せを考えず、新自由主義的教育を取り入れることは、社会格差を固定するシステムになりはしないか。経済で失敗したのに、教育で導入することに、教育者としての矜持はないのだろうか、あの人たちは。

 学校の教員としては残念だけど、これからは、塾がさらに幅をきかせる時代になるのでは、という危機感がある。大学生のアルバイトも含めた講師が、専門家である教師よりも信頼されるようになる気がする。
 英語と数学で受講する中学3年生が多いことは、どうしてだと思うのか。こういう「学力低下」を宣伝文句にして受講生を増やそうとしているところもあるようだけど、ともかく、「英語が分かる」とはどういうことなのか、もう一度、専門家と呼ばれる人たちは考えた方がいい。「分かる」感がない限り、英語を作り出そうとか、生み出そうとか、聞き取ろうなんていう気持ちが溢れるはずがない。

 私はPCが嫌いです。Excelが便利なものだとは分かっていますけど、必要に応じて使っているだけです。マクロは、よく分からないので、ないものとして考えています。関数だって、必要なものだけ学ぼうとして、不必要なものまで学ぼうとしません。

 私にとってのExcelと、中学生や高校生にとっての英語、どこが違うんでしょうか。Excelは、私のようなずぶの素人だってその恩恵をうけることは出来ます。誰しもが、SEを目指す必要なんかないのですから。

とある会社の業務連絡

とあるパーティの主催会社から業務連絡の話を聞いた。

  • 全員が、このパーティでほぼ全員の人とお話が出来るようにしなさい。また、食事の分量も増やすこと。しかし、特別予算は認めません。

あちらこちらで、

  • 内気な人が多い会場なのに、どうすればいいだろうか

というまどいの声が多数あり。
 しかも、限られた予算だというのに、パーティで使われる料理の数は増やせともいってきている。これに対しても、

  • 参加者は満腹で食事をあまり召し上がらないのですが。。。

という声もあり。
 どうも、今までのパーティ責任者が怠けすぎているのではないかという批判や、参加者が甘やかされているのではないかという周囲からの批判があるらしい。参加者は、参加することに積極的な人だけではなく、なんとなくきている方々もおられる。また、参加したはいいが、パーティを終えて帰るとき、濃い霧にどうすればいいのか分からない人もいる。ともかく、いろんな人がいるのに、参加者を十把一絡げで主催会社は考えているらしい。
 ある会場の責任者は考えた。確かに、主催会社からの業務連絡は正しい。でも、正しいからといって、実現は可能なのか? そんな正論を徒然なるままに考えてみよう、と。。

  • 財務省は、日本は財政赤字を3年以内に0にすべきだ。
  • 医者は、全てのガンを治すべきだ。
  • 行政は、ゴミの焼却施設の場所を必ず見つけるべきだ。
  • 政治家は、全ての国民が満足する政策をすべきだ。
  • 英語教師は、全ての生徒が英語が使えるようにすべきだ。
  • 警察は、全ての犯罪者をすぐに逮捕すべきだ。
  • サッカーのフォワードは、シュートを必ず決めるべきだ。

 こうして正論を並べてみると、目標に向かって、歩んでいる人は少なくない(のだろうと、信じたい)。でもさ、主催会社からの業務連絡のようなことをいわれると、「マジ、ムカツクゥ」と、ある主催者は述べていた。

 こんな話を聞いていて、自分の子どもにはパーティの主催者にはならないように、教育したいと思っている主催者が多いことを残念に思うだけでなく、もっともだと思うようになってきた。そして、そんな場所でのパーティ参加者に申し訳ない気持ちも強くなってきた。

 派遣労働者を増やし、弱肉強食という新自由主義を導入したといわれる小泉・竹中政策以降、世の中は「べき論」が横行しているような気がする。「べき論」では、解決しないことの方が圧倒的に多いけれど、振りかざす側は「正論」という宝刀を持っている。しかし、この宝刀、誰も幸せにはしない。あ、幸せにするのは、新自由主義で恩恵を受ける人がいたか。

 さてさて、このパーティ会場、どうなるでしょう。『ブラックジャックによろしく』に出てくる精神科病棟のドクターのように、「何もしない」ことが選ぶ道、にならないようにしたいけど、どうなるだろうね。

 あ、これは、コンカツか異業種交流か忘れたけど、パーティのお話です、念のため。

2008/12/20

学力の向上

 どうも落ち着かない。というのも、新学習指導要領の話題となれば、「もっと難しい教科書を」という、声しか聞こえてこない。だいたい、難しい教科書を使えば、生徒の学力が高まるという単純な頭脳しか持っていないのか、あの人たちは。そして、競争をすればするほど、生徒の質は高まっていくという幻想から抜け出せないのか、あの人たちは。
 直接のリンクが消えているので、こちらをどうぞ。

 早い話が、日本の教育の進路に大きな影響を与える人の考え方が、現実では成立しなかったということ。ナントカ再生会議のメンバーとしてご活躍遊ばされていた奥様のお子さまが、暴言の数々を振りまいて、芸能ニュースを賑わしているが、それと同じようなばつの悪さを感じているのではないだろうか? あ、でも、感じないかな。

 評論家のいう教育論には悪意がないけど、それが否定される段になると、悪者を捜していく。「中学校の教科書を難しくしました、高校の教科書を難しくしました、でも生徒の学力は思ったよりも上がりませんでした。考え方や政策は間違っていなかったのですが、それを実行できなかった学校(教員)が悪い。だから、教員の研修をもっと強化し、免許更新制度を厳格=免許を更新しないケースを増やしなさい」となることは、容易に想像できる。

 中学校の教科書はどうなるか。1200語とは、並べるだけなら簡単だけど、これで本文を作り上げていく作業は、間違いなく難しくなる。で、どーしても難しい単語を使わざるを得なくなる。で、それを避けるために、課末の問題や、アクティビティで新語がさらに増える。900語の今だって本文以外での新語があれほどまで多いのに、さらに増えるってことですよ。(このことではいいたいことがたくさんあるけど、とりあえず今日はスルー)

 そんな教科書を使えるのは、国立や有名私立など、ごくごく一部の学習意欲・能力・環境に恵まれた生徒が中心となるだろう。大多数の生徒は、あまりの単語数の多さや教科書の厚みに圧倒されて、さらに英語が嫌いになったり、苦手になっていくのではなかろうか。

 この想像があっているなら、日本という国の将来が不安に思えてしまう。

 日本はこれから少子化の流れは、ストップすることはない。つまり、将来の労働者人口は減っていくのだから、お隣の韓国のように通貨危機=日本売りをされないためには、全体的な労働者の質を上げなければならない。1%の労働者の質を上げるのと、80%の労働者の質を上げるのと、どちらが生産性が高くなるかといえば、後者であることは、火を見るよりも明らか。

 では、今回の改訂は、どちらを意識しているというのか。間違いなく、前者である。これは、優秀だと自分たちが思っている人たちが、自分たちの同じ匂いのする大人を作りたいと思っているのかな?

 それとも、ごく一部の優秀な労働者を作り上げて、他の多数の生産性は「自己責任」という名の下に無視して、残りの必要な労働力は、海外からの移民に頼ろうというのだろうか。

 日本が現在の経済を維持するためには、「今後の労働者の質」を高めるしかない。「底上げ」てきな教育が行われなければ、質は高まらないのに、そういう政策が行われているのかといえば、私にはあまり感じられない。

 教員として、底上げを行うための手段は、生徒の生活への援助(できる範囲が限られているけど)と、学力の保証しかない。
 生活への援助が必要だからこそ、生活保護の手続きに保護者と役所にいったり、奨学金を探したりすることもある。進学となれば、教育ローンの種類を説明したり、日本学性支援機構(ここは、名前に偽りはないか??)の奨学金を紹介したりもする。そして、家庭内でのトラブル(「トラブル」という言い方でくくるしかないけど、かなり深刻なケースも少なくない)での話を聞き、勇気づけもする。これらすべて、生活への援助である。(どーでもいい話だけど、私たちの免許状の更新を認定される大学の先生方には、私はこういうことを質問するつもりでいる。教育の現状についての講義もあるようですから。)
 生徒が安心して教育を受けられるために、貧困を生み出す政策をやめて、大学の学費を少なくするべきでしょう。土壌がしっかりしない土では、美味しい野菜など作りにくいと同じだと思うんだけどね。

 学力の保証であれば、学力がついていない生徒を見ていない人が、学習指導要領の政策に携わっていたり、教科書の作成に携わっていないことはないか? 往々にして、こういう人たちは、「学習したことは1度で定着する」という哲学を持っているのではないかと感じてしまうことがある。もちろん、すぐに定着してしまう生徒もいるだろう。しかし、多数はそうではない。
 だったら、教科書の検定をやめて、こちらがふさわしいと思う教材を使わしてもらいたい。平易なもので、のべ語彙数が多いものを使いたいよなぁ。

 教師の研修を増やしたり、難しい内容で分厚い教科書を使わせたりするよりも、教員が自分たちの仕事に誇りを持って、創造性を活かせる方が、学力を伸ばせるだろうと私は思うんですけど、こんなことをいうのは、少数派なんでしょうかねぇ。。。

2008/12/16

パーティ主催者としての教師

 年末になると思い出すことがある。それは、当時の男性時にはありがちの、年末の家事の「戦力外通告」をされて、居間に追いやられた亡き祖父と父との会話。当時、父はアジアに凝っており、このままでは中国や韓国に日本が抜かされるのではないか、という話しを祖父にしていた。すると祖父の言ったことは。。。

  • 日本の人口は韓国よりもよっぽど多いんだから、心配する必要はない。国の活力が違う。

ということだった。何を根拠にしていたのかは分からないが、「日本は全体の半分が全力を出せばいいけど、韓国は9割以上でなければいけない」といっていた。

 あれから30年。今の状況を見ていると、祖父の慧眼を感じる。その一方で、これだけのペースで進行している日本の少子化をもし祖父が見たら、なんというだろうかなぁという思いもある。(身内がいうのも何だが、哲学者のような人でした)

 お隣の韓国は、学歴社会がすさまじいと聞きます。ソウル大学に入るために、夜遅くまで図書館で勉強したり、家庭教師をつけたりと、勉強をする高校生も少なくないし、富裕層の子どもたちは小学校から海外に留学したりと、まさに大阪府知事の主張する、「義務教育までは平等に扱う。その先は定員があってずっと競争。それが世の中の仕組みだと自覚しないと」という仕組みなんでしょうね。

 で、現在の韓国がどういう状態になっているかは、通貨ウオンを見れば分かります。これから、どうなってしまうんだろうか??

 日本の少子化の原因を考えれば、すぐに少子化が解消されるとは考えられないでしょう。少子化の大きな原因といわれる経済構造については素人なのでえらそうなことは書きませんが、少子化である現状の教育については、私は非常に不安を持っています。

 これからの日本を支える=これからの労働の担い手としての子どもたちの数が減っているのですから、以前よりも、労働力としての「質」が大切になってくるわけです。ではその「質」は、マクロで考えたとき、競争という軸で本当に伸びていくのだろうか。ごくごく少数の、有名私立や国立の中学校や高校に進学する人たちというミクロでは伸びているかもしれませんが、平均という視点では伸びていかないのではないでしょうか。

 どのような競技だって、「底上げ」や「裾野を広げる」ことは大切です。それに取り組む人口が増えれば増えるほど、競技力は高まってきます。その一方で、学力について、「底上げ」や「裾野を広げる」ことに、どれだけの大人が関心を持っているのでしょうか。ことばだけの偽善はいらない。実行する大人(主に教師)と、サポートする大人(政治家や世論)が、どれだけ関心を持ち、行動をしているのでしょうか。

 競争と底上げは二者択一、二律背反するものではなく、共存するものだと私は思っています。底上げをするためには、「自分にも出来た」という達成感がどうしても必要となる。出来ないときには、人間は自分を異邦人と感じるもの。パーティで話す相手がいないときのあの感覚を思い出してみましょうよ! あれと同じ感覚を授業中に持っています。
 最初から、大勢の人と話さなくても良い。隣の人とまずは話しをすることから始めます。そして、徐々に話をする人を増やしていく。口べたで、人見知りをするひとなら、全員と仲良くする必要もないし、話題の中心となる必要もない。人には得手不得手があるのですから、自分の出来る範囲内を最大限に広げようとすれば良いだけでしょう。でもね、その人なりに、「このパーティに来て良かった」と少しでも思え、「また、来ても良いかな」と感じられればいいでしょ。

 パーティの主催者を教師と考えるならば、「また勉強しても良いかな」「また、授業を受けても良いかな」と生徒が感じられることを目標にしたっていいわけですよ。基礎学力はそれについてくるものであり、その先を学ぼうと思うためには、まずは「また~してもいいかな」という感覚がベースとなります。だれしもが、英語の達人をめざすことなんて不健康だしね、だいたいが。

 その感覚を持てたら、今度は目に見える形での達成感が必要となってきます。それが、試験の点数だったり、検定試験だったりします。田尻悟郎先生が雑誌『英語教育』で、1学期の中間考査の点数は高めになるように設定すると書かれたのはこの理由のためでしょう。また、「高校生にもなって英検3級ですか」といわれようと、生徒に英検を勧めるのはこのような理由です。

 だってね、英語熱がこれだけあることを考えれば、他教科に比べて、英語は受け入れてもらえるはずです。(でも、これだけ英語嫌いが多いことはどうしてなのか、教科書製作サイド(文部科学省も含む)や英語教師は自問自答しなければいけないのでは?) 学参のコーナーに行ったって、英語のコーナーはいちばん広い書店がほとんどです。(どうして金太郎飴のような参考書が増えてきたのかなぁ)

 底上げをしていくために必要となるのがやはり、お金です。大学まで、学費の無償か、もしくはそれに準じる程度の低い金額にはならないだろうか。高校3年生の担任として、上級学校に進もうとする生徒たちと、金策を考えることは1つの仕事です。奨学金という名の借金は必要ない。高校以降でかかるお金を低くする一方で、進級や卒業のハードルを高めた方が、社会にとってはプラスになると思うんだけどねぇ。

2008/12/14

就職や専門学校などの進路の難しさ

 どこまで続くのだろうか、この経済危機。「労働者」という立場になると、「人」ではなくなるというのだろうか。経済のことはずぶの素人なのでえらそうに言えることではないけど、ここ数年の日本の経済政策は正しかったのかな。このごろは、右か左かだなんていうことは、たいした意味は持たなくなってきている。日本という国のありかたを、弱肉強食の国家にしていくのか、それとも、市民が「人」として生きていける国家にするのか、そちらの軸の移っていると思うのは、素人の幻想なのだろうか。

 同僚だった地歴の先生が、「不況のときに財閥は大きくなり、中小は小さくなる」という言葉は説得力を持ちます。ワイマール憲法を持った第一次世界大戦後のドイツでさせ、ヒトラーが誕生しました。そうならないように、しっかりと意識を持っていかないと。

 それにしても、奨学金の希望者が増えています。奨学金には一種という無利子と、二種という有利子との二種類があります。よくわからないことが、一種に通過しなくても、二種はかなり借りることが出来ます。これって、どうしてなんだろうか。それでなくても、高校以降の学費は高くなるだから、せめて一種の充実化は出来ないものだろうか。

 生徒の進路先で専門学校や就職が、私にとってはいちばん難しい。これは、教員にとってもそうかもしれません。というのも、ほとんどの教員が専門学校に通った経験がないし、私企業で働いた経験がありません。いやぁ、やっぱり、経験がないことを「指導」するのって、難しいですよね。
 名前の通った企業だったり、福利厚生がしっかりしていたり、ということで、初任のころに大手スーパーのDに生徒が就職をしました。しかし、そのDがどうなったかは、皆さんご存知の通りです。2年間、授業で担当をしていたので、その生徒が就職先としてDを考えていることに話をされたときに、「あれだけの大手だったら大丈夫じゃないの」と答えてしまったことはいまでも後悔しているんですよね。
 大手だったら株価もチェックしたいし、会社四季報の読み方も知らないと、本当の就職指導は難しいのかなぁ。。。

 専門学校は、生徒の性格を考えることがあります。例えば、ハードがしっかりしている大規模学校がいいのか、先生方との人間関係を重視して小規模学校がいいのか、そういうことを判断しています。
 また、「なんとなく」や、高校3年生になって分野を決めた生徒には、できるだけ希望する分野以外の学校も見学させています。専門学校は就職と直結しているので、専門学校見学=その分野の仕事見学に通じることにもなります。だから、希望する分野の学校と、全く違う分野、ちょっと離れた分野と3つの分野を見学させます。

 専門学校は、評判の悪いところも実際にあります。D(T?)なんてそうだよねぇ。(上の大手スーパーのDとは全く関係がありません) ここは、不祥事がマスコミに取り上げられていなかったっけ?
 クラスの生徒がその専門学校を希望していたので、3者面談のときにお話しをしました。結果的に彼は大学進学になり、とある中堅校へ進学することになりました。

 生徒の進路希望で困るのが、「声優」「俳優」や「犬のトレーナー」、「イルカの調教」、「ショップ店員」などなど、実現が難しかったり、正社員採用が少ないもの。とくに、「ショップ店員」は、こだわりがあるようで、「Aはいいけど、BやC、D、Eは嫌だ」というケースも少なくなく、難しいですねぇ。

 大学に進むというモラトリアムであれば、その中での修正はきくけれど、ダイレクトに就職や専門学校の場合には、生き方まで生徒が考えなければならないこともあります。そこが、難しさなのでしょうか。もちろん、何も考えずに決定してしまう生徒もいるのでしょうけどsweat01

2008/12/13

品詞を教える

 期末考査も終了。就職や専門学校を進路とする生徒が多かったり、大学や短大に推薦で進む生徒が多かったりする学校では、この時期の授業はどうしても集中力をなくす傾向があります。その結果、テストの結果もボロボロになることも少なくありません。

 ちとショックだったのは、並べ替えの試験で、

  • good a player

と、書いている生徒が多数(1/3程度)いたこと。いやぁ、、今まで俺は何を教えてきたんだろうか??って自己嫌悪。
 少々イヤミになるかもしれませんが、今の生徒に対してはある程度の援助は出来たという自負はあります。入試の倍率も1.1倍未満(これは公表している数字なので問題なし)であり、英語の成績もかなり低い新入生でした。全員ではないけれど、そういう生徒たちが英語の授業を通じて、「分からなかったことが分かる」という気持ちを持ってくれた、つまり、「自分にも出来るんだ」という気持ちを持ってくれるようになりました。そのことについては、付いてきてくれた生徒に感謝をしているし、自分でも満足している部分もあります。
 でも、反省事項も少なからずあります。そのひとつがこの"good a player"です。

 おそらく、goodを形容詞ではなく、動詞として考えているのだろうな。いや、もっといえば、品詞など考えずに、リズムだけで、フィーリングだけで考えているのでしょうね。だから、"a good player"も、"have a dog"も同じタイプのコロケーションだと考えている。やはり、品詞はしっかりと教えなければなりませんね。

 通じるか通じないか、という問題だけであれば、good a playerだって通じるはずです。でも、応用は利かないし、英文を読めなくなってくる。通じればいいということばは、「なんとなく読み」「フィーリング読み」を助長することになりはしないか。

 品詞も、品詞から教えていくのではなく、コロケーション単位や短文を提示する中で、機能的に教えていくほうがいい。品詞から授業を始めても、引かれるだけなので、まずは「分かる感」を持たせてから、帰納的に教えていく。

 英語力が伸びた生徒は、例外なく、品詞が分かっている。放課後の学習の中で教えたことだったのですが、授業の中でも、もっと扱うべきだったと反省しています。 

2008/12/10

公募制推薦

大学の公募制推薦も全て終了。

第一志望で合格したものも、公募制推薦で不合格で、AOで合格したものも、それぞれの大学で来年の4月から充実した学生生活を送ってもらいたいものです。

全ての結果が出て、教師という仕事の責任の重さを改めて痛感しました。

ブログも明日から復活予定です。

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