大人の都合
初めての同窓会あり。20年ぶりに会う友人たちは、変わっている人も少なからずいました。髪の毛や、腹回り。。。でも、当時のことを話していると、あんなにイヤだったこと、あんなにムッとしたことも全て良い思い出となっています。もともと、学校とは、そういう場所なんだろうなぁ。昔はよく思えるものです。
その学校もずいぶんと変わってきたのか。
数値目標や、学校選択制といった、民間の視点というか、競争の視点というか、そういう要素が入ってきて、変わってきたのかな。ふと思うときがある。「改革」というのであれば、それは成果が出なければいけないのだが、その結果が出ないと、「改革」を実践している現場がいけないとなり、「改革のための改革」、「改革のための改革のための改革」と、際限のない「カイカク病」が進行していく。
最初は、そこで働く先生方がプレッシャーを受け、次に児童や生徒がプレッシャーを受けていく。先生方は閉塞感を感じ、生徒との付き合いだけが、「救いの時間」となる。しかし、児童・生徒がプレッシャーを受けると、「救いの時間」が「気重な時間」となっていく。
教育とは何かということを、薄っぺらい哲学でしか考えられない、民間神話の信者には分からないでしょうが。
ついに、ここまで来たか、という思い。現場の先生方はどう思っているのだろうか。
数値目標は、その集団にとって望まれる正しい方向性を持っている。というと、、、
- 自治体の学力調査で正答率を95%
- 3年で英検、漢検の各3級に60%
- 辞書引きを500~1000のことばを調べる
- 不登校、いじめを0にする
などなど、全て正しいことになる。これらの目標は、全て間違った方向なのかといわれれば、間違った方向ではないだろう。
でもね、、、。
学力が上がることは、目標ではなくて、結果なのではないか。
資格を取ることは、目標ではなくて、結果なのではないか。
辞書を引くことは、引くことが目的ではなく、分かろうとうする欲求なのではないか。
不登校にも多くの原因があり、大人の社会の中では激しいいじめが存在するのではないか。
もちろん、私も英検の取得は積極的に生徒に勧めているけど、しかし授業は英検取得を目的とはしていない。
不登校を減らすために、担任の先生は、家庭訪問や家庭連絡をさらにすることになるだろう。これって、その家庭に対して、子どもや保護者に対してすごい大きなプレッシャーになる。それで、家庭内にトラブルが生じることさえある。それでもいいの?
人間の成長には時間が必要だということを、どうして理解してもらえないのだろうか。
もし、目標を明確に出すのであれば、担任や部活動の顧問、教科担当が1人1人の生徒と話しをして、個別的な目標を出すしかないのだろう。それには、それが可能な時間的な確保を行うしかないのだろうなぁと思う。(1年に2回は必要かな) でも、これって元々は、先生方との雑談を通して、行われていたんじゃないかなぁ。単にそれが、明文化されなかったり、数値化されなかったりしただけなのでは?
教育が、人間の成長の援助だとすると、その本質は昔からそう大して変わってはいないでしょう。であるならば、数値目標のなかった(俺が知らなかっただけ?)昭和時代までの教育は、どーしようもない、ひどいものだったことになるの、、、かな?














本当に求めるものは評価しづらいものですよね。
市川伸一「学ぶ意欲とスキルを育てる」に測りにくい力として下が掲げてあります(p19)
測りにくい力
(学んだ力)
読解力,論述力,討論力,批判的思考力,問題解決力,追求力
(学ぶ力)
学習意欲,知的好奇心,学習計画力,学習方法,集中力,持続力,(教わる,教え合う,学び合うときの)コミュニケーション力
では,測りやすい力とは? 上記の本にあげてあるのは,学んだ力としての「知識」「(狭義の)技能」です。
先日拙ブログで書いた,将来必要と思われるけれども,高校で身に付けていない(可能性が高い)力は上の測りにくい力に入るかなと。そこで考えられるのは,Queenslandはようやるな,ということともっと授業をよく考えとなということ。いやはや大変ですね。しかし,最終目標はこれらを英語でできる生徒を育成することかなとやっぱり思います。(できるんだろうか・・・?(^^;)
http://d.hatena.ne.jp/karishima/20081028
Posted by: karishima | November 09, 2008 at 11:49 AM
☆karishimaさま
コメントありがとうございます。
絵の価値を、値段で考える方法が正しいと考える人は、「知識」「技能」を数値にしたがるのかなぁとコメントを拝見して、ふと感じました。
Posted by: 倫太郎 | November 09, 2008 at 06:53 PM