現実の課題
ようやく一段落。とはいえ、ホッとする暇もなく、新たな課題はやってきますが、向こう側からだけの課題はそれほどストレスにはなりません。生徒のことを、離れてみると底上げはプは難しいし、近づきすぎると巻き込まれてしまうし、適度な距離と感情とが、教員には必要だなぁと、毎年、いや毎日、感じます。
話しは全く変わります。
國弘正雄氏が、「日中韓の人々がコミュニケーションを取ろうとしたら、何語を使うか。理想的には、それぞれのことばを使えることが理想だけど、現実的ではない。やはり英語しかない。『中間言語』としての英語だ」と話されていました。もちろん、本来の「中間言語」とは違う使い方だ、と断った上でです。
確かに、現在の教育方法や、社会的な基盤を考えたときに、英語を使ってお互いにコミュニケーションをとれるようにすることこそ、いちばんの現実的な方法でしょう。中国語やハングルを学ぼうと思っても、英語の学習ほどには教材も指導者もそろっていませんから。
手前ミソですが、生徒の学力を伸ばすという方法を考えたとき、「中間言語」的=いちばん現実的な教育機関とはどこでしょうか。学校、塾、家庭教師、通信教育、などなど、どこがいちばん現実的な場所になるのでしょう。
私は学校しかないと思っています。そのサポート的な存在として、塾や家庭教師、通信教育があることは、それはそれで意味もあるでしょう。でも、料金や指導者を考えたときには、メインになるべきは学校です。(教師を取り巻く課題はあるのでしょうが、それはまた別の問題です)
現実的な方法とはいいようですが、それに対する「改革」もまた言語の世界ではあります。、英語帝国主義的な考え方に見られるように、現実そのものに対する批判的な見方から、その現実を上手に行えるために小学校から(時には入園前から)英語を学ばせるべきだという、現実の骨格の構築まで、様々です。
学力向上という意味での教育も同じ面があります。学力の高い生徒がいる高校では進学を重点的にさせたり、英語や理科に特化した高校を作ることによって、さらに伸ばそうとするなど高校のグランドデザインの変更の試みから、学力向上は学校には任せておけない!やはり塾だ!家庭教師だ!通信教育だ!という骨格の再構築まで、こちらも様々です。
ところで、学力向上とはどのようなことをいうのでしょうか。(学力とは何かという命題についてはあえて無視すると…)
学力の高い生徒を伸ばせばいいの?
底上げをしていけばいいの?
という最初の分かれ道があるのかな。現在は、もちろん前者の流れ。社会と同じように、高校でも格差を作ろうとしているのでしょう。(いつか、この問題提起は行いたいなぁ)
話しを戻します。
学校の現実が、生徒の能力に見合った学力をつけていないのだという仮定をするならば、それを阻害しているものは何なのでしょうか。教師の質? クラスサイズ? 社会の変容? 教材の質? その他のこと? そこを冷静に判断しないで、魔女狩りをしたところで「冤罪」を産むだけでしょう。














国弘氏の中間言語、という使い方は初めて聞きました。
中に介在する言語、という意味でしょうか。
毎日新聞に杉並区立和田中の前校長の記事が出ていて、夜スペだの、土テラだのの試みは、
全て家庭が教育力を失っているならば、なるべく長く学校に
留めよう、という考えから生まれたものだと
発言していました。
私もその考えにはかなり賛成です。
昨夜他の家族が帰らないので、息子と2人近所のサイゼリアで夕食を食べましたが
手頃な価格のせいか、中学生同士、高校生同士のグループが目立ちました。
この子達は夜の8時9時まで家に帰らず
友達と夕食を食べている、ということですね。
以前からそういう噂は聞いていましたが、
やっぱりそれは好ましくないでしょう。
ましてや平日の夜から。
第一家庭学習はゼロってことですしね。
なんとか学校がそういう風潮に歯止めをかける存在であって欲しいものです。
Posted by: せつこ | June 25, 2008 at 11:44 AM
☆せつこさま
コメントありがとうございます。
件の中学校のことは、長くなってしまいますので、ここでは申し上げません。
私も、打ち合わせでファミレスにいたところ、9時半まで高校生が話しをしていました。こういうことがいい思い出にもなるし、今の大人も違った形で遊びをしていただろうし、オンとオフとの区別をすること、自分たちの安全を守ることを教えることが必要なのだろうなと私は感じています。
Posted by: 倫太郎 | June 25, 2008 at 09:23 PM