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2007/02/25

200本目のブログ

 久しぶりの休日。朝から、原稿書き。何度もメールを見ないふりをして、申し訳ございませんでした、Kさんm(__)m

 詳しくは書けないことなのですが、この頃、本当に私たちの仕事の内容が変わってきたなぁと感じています。「生徒や保護者が変わってきた」という人はいますけど、私はもっと根本的な問題があるような気がします。生徒や保護者が変わるのは、何かそこに原因があるのです。その原因が分かったとしても、私たちが直面している問題の解決には直接的には結びつきません。しかも、その原因の解決は私たちだけでは無理です。
 感情と理との狭間で、例外を認めないようにしつつ、必要な例外を認めるというさじ加減は難しいものです。どんな例外を認めて、どんな例外は認めてはいけないか、多くの教員が感じることが多いでしょう。
 不登校の生徒は、「どうして学校に行けない?」といわれても、自分でも理由が分からないので、「理由を作る」ケースがあるようです。それは、英語がどうして嫌い?と生徒が聞かれたときに、理由を作るのと同じです。
 生徒が課題を抱え、自分でも分からない理由を尋ねられたときに、教員を悪者にすることは多くあります。そんな時こそ、保護者の方は学校に行って話をしてもらいたいものです。「保護者が悪い」「学校が悪い」と意味のない中傷を重ねても、何も生み出すことはないんですけどね。

 文部科学省が若手官僚に1年間の現場研修を求めるそうです。これは、すばらしい政策ですね。「不毛な議論」が少しでもなくなるといいものです。ただ、できれば1年ではなくて4年(最初の1年は副担任、次の3年は担任)の研修の方が実り多いものとなるでしょう。どうでしょうね、1年ではなく、4年間というのは。

 自戒を込めて書きます。つまらない見栄はその人を窮屈にさせていきます。成功するときもあれば、失敗するときもある。全力を尽くして、成功を目指していくのは当然ですが、失敗するときもあります。多くの医師は「手術が成功するかどうかの最後は、患者が治りたい意志があるかどうか」といいます。これは、生徒も同じです。「勉強するかどうかは、生徒が分かるようになりたいという意志があるかどうか」という面が大きいのです。もちろん、相手は若者ですから、全てを押しつけるのは酷です。ですが、手を打った上で、最後まで努力を続けて、あとは私たちは待つしかないのでしょうね。在学中に分からなくても、卒業後に分かってくれればいいじゃないか、先日の同窓会でそんな気持ちを持ちました。
 結果を求めて行動すると、つまらない見栄が生まれてくる。目標を持つことと、結果を求めることとは違うのですね。

 ゴア元副大統領のインタビュー記事が読みたくて、久しぶりにAERA Englishを購入。(「獄窓記」の山本譲司さんもそうだったけど、もう一度、政治の世界に戻って欲しいと思う人はなぜか戻ってくれないものですね。) 
 その後の記事で、『「これだけを続ける!」勉強法』を見てみると、それぞれの人が違う方法で英語をマスターしたのだなぁという記事。自分で勉強をしていくときに、自分のスタイルにあった方法をいっているのだろうが、中には「自分のにはこれは無理だなぁ」というのも散見されました。
 結局、自分のスタイルとは、試行錯誤しながら見つけていくのであって、試行錯誤の「結果」を記事にする意味とはどこにあるのかなぁ。そして、英語にはお決まりの「ドラゴン桜」の竹岡弘信先生。気になったのは、動作動詞と状態動詞のところ。この両者を指して、

「日本語では両者の区別はあいまいですから難しく感じるかもしれませんが、ほとんどの動詞は、常識の範囲で区別がつきます」

とある。この両者の違いを教えるのは、実はなかなかに難しいものです。「常識」とするのではなく、何か工夫があると参考になったのになぁ。時制の名称を変更したらどうでしょうか?って思うんですが、どうなんでしょう。

2007/02/24

星の王子様はいずこにおられる!?

 試験範囲が終わったこともあり、今日は星の王子様の復習。レッスンのCDを聞いてから、フランス革命から19世紀までの簡単な説明をしつつ、visible vs invisibleの自分なりの解釈を、夏目漱石の『草枕』とリンクさせました。欲 vs 無欲 のような2者択一はなかなか当てはまらず、私たちは欲の面も持っている、無欲な面も持っている。そのバランスが大切なのではないだろうか。授業を行いつつ、Thomas Moreのユートピアも読み直しておくべきだったとちょっと後悔。ただ、そこまで深入りすると、思想的な問題にも入らなければならないし、東洋的なユートピアとの違いも説明しなければならないし、触れなくてよかったかな。

 欲 vs 無欲   ウソをつく vs ウソをつかない   ねたむ vs ねたまない 私 vs 公、、などなど私たちには多くの物差しがある。エゴグラムのそれぞれの値のようなそれぞれのバランスによって私たちの価値観や生き方、行動方法が決まってくるのではないだろうか。「ほどほど」ということばは、行き過ぎた価値観にはほどよいストッパーになるのだろうけど、この頃の日本では忘れられた言葉かな。

 授業のまとめというか、批評的な投げかけというか、裏テーマというか、まぁそんなことを行ったのだが、生徒は想像していた以上に真剣に聞いていてくれました。ありがとう。「受験に関係ないからいいよ」という生徒でなくてよかったなぁと心から思いました。自分のことは棚に上げておいて、教育についてもっともなお言葉を下さる有識者の方よりも、よっぽど他者の理解ができる人間です、私の生徒は。

 大人社会というのは、欲の世界であり、ウソが満ちあふれ、妬みがあり、「私」の傾向があるのではないでしょうか。そのような中で、大人社会に「利用」されている子どもたちは不幸な時代に青春時代を過ごしているともいえます。携帯電話もしかり、アルバイトもしかり、化粧やファッションもしかり、いろいろなところで高校生が「対象」として考えられている現状は悲しいことですね。大人が本当に子どもを育てるのであれば、消費者として考えることはもう少し控えた方がいいのではないでしょうか。そして、「あなたならどうする?」「あなたはどう考える?」という投げかけをしてみてもいいでしょう。
 たとえその時に期待しているような答えが返ってこなくてもいいでしょう。(答えを期待するというのも何だけど;苦笑) その投げかけが、若者の心の中に残り、いつかは動くような問いかけをして、それを子どもたちが受け止めてくれると信じることが大人の役なのでしょうけど。

 勉強も、学力をつけることだけを目的にしているなら、学力がついたらその先には何があるのでしょうか? お勉強ができるようになったその先は、幸せが待っているのでしょうか? そんな問いかけを、私たちは答えとして持っていてもいいのではないかなぁ。

 そろそろ異動の時期ですね。大学入試に汲々としない学校は、こんな大らかな授業も可能です(もちろん、毎回じゃないですよ!) そういう先生は、幸せ者ですね。
 自分の頭の上は、座るイスによって変わるものです。自分で課題を見つければ、それなりに楽しいものです。

2007/02/22

音読カード、召還!

 以前のブログにも書いたことですけど、10人のうち、無条件で仲がよくなれる人(=ウマの合う人)は何人いるでしょう? その一方で、無条件で仲良くなれない人(=ウマの合わない人)は何人いるでしょう?答えは前者が2人、後者が1人です。7人は状況によって関係性が変わってきます。ウマの合わない人はたった1人なのに、その人に目がいってしまい、7人との関係がぎくしゃくしてしまうケースも少なからずあります。
 これは、対教員も同じ事です。「あの先生、ヤなヤツだったよね」という印象が強すぎるって事はないでしょうか? そうすると、他の7人のことまでそういう目で見てしまうものです。

 この頃、授業では意識して音読をさせています。というのも、中学校の時に音読を徹底的にさせられていた(していた、ではない;苦笑)生徒は、英検の2次試験の練習は上手なんですよね。スムーズに英語が出てくる。また、高校1年生のはじめから、こちらの指導を信じてくれて音読をしてくれた生徒もある程度は上手に読める。
 その一方で、音読をしてこなかった生徒は上手に発話できない。「音読をしてこいよ~」といわれて、音読した生徒としていない生徒では、インタビューテストで明らかに差があります。

 中学校の教科書が手に入ったので、中学1年生の教科書を音読させました。時間を計ったところ、30分以上かかった生徒が半分(苦笑) うーん、ホントにこれでは英語そんなに好きじゃない、ESSになってしまうぞ!とちょっと自嘲気味(^^;; 1年生の今の時期に気がついてよかったなぁ。
 そういえば、去年の卒業生はちょうど今の時期に、「中学校の教科書音読100回マラソン」ということで、かなり音読させたっけ。中学3年生まで100回を完走した生徒はいなかったけど、中学2年生を50回程度まではみんなで音読しましたよね。「教科書を自宅で音読しなさい」といっても、音読をする習慣がない生徒はしない傾向が強いということをすっかり忘れていました。。。昨年度に英検合格ラッシュも、2次試験に全員が合格したことも、土台にあったのはこの音読だったんだよなぁ。もう一度、音読の指導についても自分の中でまとめておかないと。

 試験範囲も終わったので、数回の授業では既習の範囲をとにかく音読にあてます。筆写の宿題を生徒はする習慣がついてきたので、あとは流れに任せるとしましょう。

 今日は卒業生が在校生に体験談を語るということで来校します。卒業以来、会っていない教え子たちもいますので、今から楽しみです(^^) ある意味、卒業生とは「戦友」のようなものです。目的を共有して、それ目指していきます。そういう彼ら、彼女たちとの交流が教員にとってのいちばんの喜びです。この喜びは担任をしなければ、分かりにくいものかもしれませんが。

2007/02/21

おいちゃん、それをいっちゃぁ、お終いよ

次の記事を見てください。

http://www.chunichi.co.jp/00/sya/20070219/eve_____sya_____009.shtml

やはり教員養成系学部の人気が下がってきているようです。公務員人気が高いというのに、どうしてこうなってしまうのか、もう一度考えてもいいのではないでしょうか。願わくば、来年以降は倍率が高くなって欲しいのですが、記事の冒頭に書いてあることが大きな原因であるならば、高くはならないでしょうね。とにかく残念です。この頃の「世論」の中には、教員を「機械」「装置」としか考えていないものもあります。真面目に反論すると、「だったら教員をやめればいい」といういつもの、「決めぜりふ」。思考停止が好きな人がいるようです。

世の中、多くの人が「多数派」に属したいのですね。確かに少数派はつらいものです。同時通訳の先駆けの國弘正雄先生は、「少数派にいると厳しいんだ。でもね、英語で死ぬとはjoin the mojorityというんだ。最終的には人間は多数派に入るんだよ」と話されていました。でも、現世では多い方が力を持ち、常にその少数の対象は変わってきます。時には郵便局だったり、時には医師だったり、現在は教師だったりと、少数の対象は政策や(作られているのではないかと勘ぐられる)世論によって変わってきます。寄らば大樹の陰、でしょうか。これって、学校のいじめの構造に似ていませんか? 学校も社会の一部ということです。大人が自分たちの事を棚に上げて、「傍観者もいじめと同じだ」といったところで、それが心に響く言霊となるのでしょうか。誤解なきようにいえば、私は「だからいじめは、認められる」とは考えていません。とんでもないことです、いじめは。しかし、自分たちのことを棚に上げて、子どもにだけ正義感を要求することを偽善と呼ぶのではないでしょうか?

クラスの生徒が言っていました。「自習って、自分のペースで勉強できるから、たまにはいいよねー」と。確かにそうだなぁ。主体的な学習とは呼びきれないかもしれないけど、それなりに主体的な学習だ、自習は。総合的な学習は、本来主体的な学習を目指してあるものではなかったっけ? それがどうして、現在、バッシングの対象となっているのだろうか? 主体的というと自由放任と勘違いをする人がいますが、本来はそうではないでしょう。一定のルール(規制)の中で、自分のなすべき事を実行することが、主体的な学習なのでしょうが、どうも振り子が振れすぎてしまってはいないでしょうか。

学力不足、現在の子どもたちは学力が低下している、と言われています。確かにそういう一面もあるのでしょうが、では「もっと勉強しろ!」「学校の授業をもっと増やせ!」といっている人の中で、どのくらいの人が勉強をする小中高校生を過ごしたのでしょうか? バブルに踊っていた人は、ゆめゆめ、「勉強しろ!」「今の若者は!」なんていう人はいませんよね。ビーバップハイスクール世代の人で、「完全なツッパリ」になれなかった人が、そんな事なんていいませんよね。授業が多いと文句を言っていた人、自分が卒業してから土曜日が休みになることを羨ましがっていた人は、まさか自分たちのこどもに、授業時間数を増やせとはいいませんよね。
 じゃぁ、誰がいっているのでしょうか? 受験戦争で自殺をした若者がいたときに、世間はどんな反応をしていたのか? 何事もベストなシステムなどないのですから、失敗をしたら、それをどう改善していくかを考える方がよっぽどプラスであり、いつまでもノスタルジーに浸っていては、創造的な教育などできないと私は信じて疑いません。

 現在の子どもたちは、子どもたちなりに閉塞感を持っています。そりゃそうでしょ。大人がうれしそうに働いている姿がどこにあるのでしょうか? 子どもは親を映す鏡、学校は社会を映す鏡です。

 さて、明日の授業でSilent Springの最終回。締めの言葉を考えて、今宵は寝ることにします。

大幅改訂。

2007/02/17

音読は難しい

 久しぶりにまとまった授業。入試の準備や後処理のため、なかなかまとまって授業が出来ませんでした。こういう日が続くと、生徒だけでなく、こちらもペースが狂ってきます。今週はまとまった授業が出来たせいか、木曜日はかなり充実した授業が出来ました。
 英文のリスニング→単語の意味→新語の音読→リスニング→内容読解・チャンキング→ターゲットの文法(It ~ that 構文)を使った英作文→本文のコーラスリーディング→バズリーディング→心の中でのシャドイング→本文の筆写。後から考えると、充実したというか、詰め込みすぎというか(苦笑) ただ、こういうときは、生徒の集中力も増すから不思議なものです。

 英検の1次試験の結果が来ました。今回は、ESSの生徒は全員が一時はパス。それだけでなく、授業のみで頑張っている生徒も何人か合格して、なによりです。M君は中学校の時に、まぁ、、、、という点数しか取れなかったのにもかかわらず、今回は42点。入学直後での試験が26点だったので、16点アップです。授業の課題だけやっていて、これだけ点数が伸びるのだから、生徒を勇気づけつつ継続すれば、結果は後からついてくるものですね。もちろん、全員が伸びるわけではないけど、一部の生徒が伸びることで、それを見た生徒が後についていくもの。生徒間でプラスのフィードバックがあると、教師が楽になります(笑)

 ということで、2次試験の練習をしてみると、困ったことが。全くといっていいほど、声が出ないし、Speakingが出来ていない。うーん、困ったなぁ。聞いてみると、音読をほとんどの生徒がやっていないということ。
 思い起こせば、去年の卒業生は中学1年生~2年生の教科書を数十回、暗記させたなぁ。やはり今年もそこから入っていこう、と思いK社にTel。編集部のIさんに「中学校の教科書を…」とお願いすると、「部数が多いので…」と言われてしまいました(^^;; でも、トライして下さるということだったので、良い結果になることをいのりましょう。

 子育てと生徒育ては同じ。いちばんたいへんなときはすぐに忘れてしまいます。音読をするというとても面倒なことを生徒にさせるときにはその教材のレベルを考えないといけないことを、すっかり忘れていました。それなのに、今までは「この教材を音読しろ」と難しい教材を課していたなぁ。すみませんでした、生徒諸君。

2007/02/12

ETだって、英語を話したんだぞってか?

 久しぶりに自分のサイトに来ました(^^;; 

 ようやく3月に出来上がる「高校英語へのステップ」の初校を編集者のKさんに戻しました。いつものルノワールで待ち合わせをして、ざっと訂正箇所の説明を。時間のあるときに書いていたので、問題部分の日本語のぶれを中心に直しました。それ以外にも、英語で気になったところをいくつかチェック。いわゆる「ネイティブチェック」(proof-reading)でも、訂正されない英文があったり、逆に訂正されちゃった英文(微妙ないい方;笑)があったりで、「ネイティブ信仰」をしすぎてはいけないと、痛感します。人間関係がしっかりとできて、日頃からコミュニケーションを取れている人にお願いしないと、思ったようには進みません。
 書名は「Impact 34」を編集者のKさんとしました。34レッスンなので、34ですが、どうしてImpactか? 私とKさんとの共通の趣味をご存じの方は分かるでしょ~(笑) (もちろん、それがメインの理由じゃありません)表紙は黄色が上で黒の山型、なんてどうだろうといったんだけど、それじゃやりすぎかな?(^^;; 
 内容は、現場での使いやすさを追求しました。あくまでも、学習する習慣がない中3高1が使えるように、その生徒たちが取り組みやすいように、そして一冊である程度はできるように、というものです。表紙ができましたら、アップします。

 前回のブログでも書いたように、動機付けについて、どうもそれが「逃げ込み場所」になっているというような気が。それは、教員側からも、保護者側からも出てきます。そのせいかい、「やる気が出来ない」ということばが絶妙な正当性を持った学習しないで構わない理由になっていませんか? 自分が今までに考えてきたことの否定にもつながるのかもしれないけど、「動機付け」ということばが、段々とイヤな響きを私の中で持つようになってきています。
 「やる気にさせるのは教員の仕事」というのは、確かにその通りだろう。しかし、全てを押しつけられても、困ってしまう。マズローの三角形ではないけど、自ら学習を始めるというのが自己実現だとするならば、その前提となるものはなぜリンクして問題にしないのだろう。(欲求の満足度は、個人次第なのだろうけど、その基礎となるものは社会的な尺度があるはずですが、それはあえて脇においておきます)
 動機付けは、授業の組み立て方、教え方のスキルがあって初めて考えられるものです。組み立て方や教え方の哲学なき動機付けは、それは評論家の戯れ言に過ぎません(きっぱり)。こんなことに、現場の教員が振り回されてしまえば、混乱するだけでしょう。
 以前にも書いたように、分からないことはツマラナイ、分かることは面白いのです。分からせる工夫をして、そして壁にぶつかり、それでも諦めずに考えて、そして動機付けを考え、自分なりの結論を分からせる工夫にフィードバックさせて初めて、動機付けを考える意味がでてくるのです。「こうすれば、勉強するようになる」というのは、要素の1つに過ぎず、それが全てを構成するはずなどないのです。

 英語教育史を専門で勉強したわけでもないので間違いも多いでしょうが、「使える英語なら生徒は勉強する」という「動機付け」が、明文化されてなくても日本文化的である「空気」の中にあったのではないでしょうか。「自分たちは、使えない英語を勉強してきた。だから、使える英語を勉強させよう。使えるって何か?もちろん、話せることですよ」という世論=空気が英語教育に対してなかったでしょうか?

 第二言語としての英語で、「使う」という目的があれば、大きな動機付けはいりません。しかし、外国語(外語)としての英語で、「使う」という目的がないから、どうしても動機付けを考えざるを得ない。アドラー心理学を借りてくるならば、私たちの行動は目的に重きが置かれています。(以前に理由ではなく目的、と書きましたが、理由も完全にシャットアウトしているわけではありませんでした。) その目的がないために、人工的な英語空間を作ったり、雰囲気作りをしているのではないか、と私には思えてしまいます。しかし、教室や学校を出るとやはりそこは、日本です。ディズニーリゾートをでれば、現実の世界があるのと同じ、かな?(笑)

 動機付けを考えるなら、教室の中だけを考えても、無理でしょう。日本のシステムから考えていかないと、学習への動機付けは「結論」などでません。万が一その結論が出たところで、私たち一介の英語教師が変革できることなど、小さいわけです。ともかく、私たちは安易に動機付けに逃げ込めば、英語教師としてのスキルを磨けない危険性がある、と自省も込めて、本日のブログはお終い!

2007/02/03

宝物を玩具にするなよ!

 久しぶりに自転車で学校へ。3ヶ月ぶりかなぁ。暖冬だし、天気のいい日に、自転車に乗ると気持がいいですね。でも、風が強い日も、雨が降りそうなときも、寒いときも暑いときも、長い距離を自転車でやってくる生徒には立派ですね。「この頃の若いモンは…」という人も、生徒のその姿を見ると、感覚が変わるのでは?

 シドニー・シェルダンが亡くなりましたね。89歳だそうです。高校の時に『ゲームの達人』のビデオを借りて、3部作を1日で見たことをよく覚えています。内容は分かっているのに、初めて原書で読んだときは興奮しながら、ページを先に進めました。あの筆力は見習いたいものです。

 国公立大学の2次試験の出願状況では、教員養成学部が減っているそうで。職場としては、公務員人気があるのに、教員の採用がこれから増えていくというのに、どうして減っているのでしょうか。履修ナントカで教育に対する人気が減っているという人もいるけど、ホントにそれだけなのかなぁ。
 知り合いの医者が、「自分の子どもに、医者なってもらいたいと思っている医者は減ってきている」と話していたけど、自分の子どもに教師になって欲しいと思っている教師はどのくらいの割合なんだろうか?

 先日、とある会社のHさんと1時間ほど情報交換。教育学を研究されていた彼に、「日本の教育の哲学は何なんだろうか?」と問いかけると、「戦後民主主義でしょう」と即答。地域が子どもを育てていた寺子屋の否定から始まった明治時代と大学で勉強したっけ。それをベースとしてきたのだろうね。「戦後民主主義の中で、こうすれば誰しもがある程度の生活を維持できるというが、否定されてきた。そのため戦後民主主義のシステムの1つであった学校も、社会の実情に合わなくなってきているのでしょうか」
 哲学がないと、こういうときに困りますね。時流を判断することも大切だけど、そればかり追いかけていたら、根無し草になってしまいます。毎日、学校で自転車でやってくる生徒に申し訳ないですよね、それでは。

 授業は、「沈黙の春」にようやく入りました。内容に入る前に、レイチェルカーソンの人となりの紹介。失礼ないい方をすれば、一介の海洋学者だった彼女が大資本や権力を相手に、危険なものは危険だといい続ける勇気は、今の私たちにも求められているのでしょう。このままいくと、「沈黙の春」だけでなく、「沈黙の○○」がいたるところに出来上がりそうな危機感が。
 教科書にあるレイチェル・カーソンの写真を見ながら、食物連鎖の話題や化学物質の話しをしっかりと聞いてくれる生徒に感謝です。準備していった甲斐がありました。ありがとう。

 ESSは、ここ一ヶ月ほど、疲労ムードが。うーん、少し休息をとらないと、いけないなぁ。まるで、「逃げ馬のジョッキー」の気持ちです。ディープのように、後方一気とはいかないので、前々で進めながら、時にはペースを落とさないと、最後まで持ちません。どのように休息をとっていくか、そんなことを考えましょう。

 これもまだ、自分の中でまとまっていないのだが、「動機付け」ということばが、イヤらしく感じるようになってきました。というのも、「動機付け」ということばに、英語教師としての課題を棚に上げて、逃げ込めてしまうからです。多くの場合において、多くの人が「その通り」というフレーズは、逃げ場所になるものです。

 題名がまだ決まっていない、中学校の復習教材の初校が文英堂のKさんより。今からミスドで校正してきます。「高校英語へのステップ。○○基礎英語」としたいのだけど、何かよいタイトル(○○の部分)はないでしょうか?もし、良いアイディアがあれば、書き込みやメールで、お願いします。m(__)m

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