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2007/01/28

自分の頭の上の蝿を追え!

 以前に仲の良かったALTから、日本に戻ってくるという、うれしいメールを受信。彼は拙著の無料音声ファイルを録音してくれた人で、初版の英文の校正をしてくれたALTだった。彼と会わなければ、私も英語教育は、今よりも興味もなかっただろうという、いろいろな意味での恩人なので、再開できることを楽しみにしています。

 授業時数をこれから増やしていくという案が出ているけど、授業時数を増やせば学力が本当にあがるのだろうか? 詳しくは、http://rintaro.way-nifty.com/tsurezure/2006/09/post_a9a5.htmlを参照して下さい。PISA2003での順位を気にしているなら、私たちはPISA2003で優秀な成績を収めたフィンランドに学ぶべきではないだろうか? 受験戦争が過激なら韓国でも、フィンランドには勝っていない。 授業時数を増やすよりも、義務制では20人学級、高校では25人学級を目指したらどうなんだろうか? 学級活動の重要性を考えたら、一部の授業での分割のような方法は使うのではなく、少子化が進み空き教室が出来るのだから、今こそ少人数ではないだろうか? それとも、教員の数を増やすことは、小さな政府には合致しないから無理かなぁ。ともかく、マンパワーがなければ、限界はあるということです。

 この頃、「聖職としての教師」という論調を様々なところで見ます。確かに、教員の不祥事はありますよね。教師の不祥事はいいことではないが、誰がおこしても不祥事はやはり問題なわけです。
 何度かブログにも書きましたが、自分たちの中のユートピアを学校に押しつけていないか、と疑問に思うことがあります。みんなが仲良く過ごし、規律が守られ、不正は全くなく、子どもは素直で勤勉で、まさに文武両道、というユートピアです。しかし、学校もやはり社会の一部です。社会を映す鏡です。社会がユートピアなのに、学校がそうでなければ大問題です。しかし、社会の現実はどうでしょうか? 周囲の多くの教員は、社会からの「防火林」として全力を尽くしているように見えるのですが。「教師は世間知らず」という批判をいうのであれば、それはユートピアにいるからだとは思われませんか? 

 ただ、教員が考えなければいけないことは、あなたを信頼している、尊敬している生徒を裏切るような行動をしてはいけない、ということではないでしょうか。「信用失墜行為」の責任は、まずは児童・生徒に対してなされるものだと私は思います。私たちが医者にかかったときに、その医師の人間性や力量を感じるように、児童・生徒も教師の力量を感じています。その上で、彼らは「先生~」と話しかけてきて、時には高度なプライバシーに招き入れることがあります。その根幹ともいえる児童・生徒の信頼を裏切ってはいけないことは、火を見るよりも明らかです。その意味では、親も子どもの関係と同じです。

 生徒に、「勉強しろ」というのであれば、まずは教師が勉強をしなければなりません。「本を読め」というなら、本を読まなければなりません。これは、親も全く同じ。自分が前向きに学ばずして、誰がその人のいうことを聞くのでしょうか? 聞く人などいないでしょう。

 イギリスで小説が生まれたことは、産業革命と大きなつながりがあるようです。産業革命で、市民が「経済的余裕」と「時間的余裕」、「空間的余裕」(自分のスペースを持つこと)という3つの余裕を持てるようになり、本を読むという精神的余裕につながっていったのだとか。

 まずは、自分の頭の上の蝿を追った方がいい、今日のT新聞の某大学の学長の記事を読んでいてそう思いました。

2007/01/22

井の中の蛙大海を知らず、されど天の高さを知る

 今日は4時間授業。3年生は試験範囲も終わり、あとは週末からの考査を残すのみ。裏テーマも一通りの完成をしたし、あとは生徒がそれをどう受け止めてくれるのか、というだけです。その裏テーマの最後の問いかけに選んだのが、「幸せとはなにか」でした。男子生徒は、モノやカネが多かったのに対して、女子生徒は「友人」や「家族」と答えていたことに、精神的な成熟さを感じました。

 1年生は、単語のテストをしてから、そのまま教科書。今日の授業はなぜかしっくりと行かないなぁと自己嫌悪。こういう日もあります。

 先日、tmさんに紹介していただいたB社の方が学校に来られました。その会社のテストについて話しをしているのかで、「実用的な場面の設定」という話題になりました。そのテストは、2つの特徴があり、1つは「実用的な場面の設定」ということでした。
 しかし、この「実用的な場面」というのは、学習指導要領的には喜ばれるかもしれないけど、現実的な問題としてどこまで有効なんだろうか、と話しをすると、担当のAさんは妙に納得してくれました。そして、「失礼なことを聞くようですが、どうして英語を勉強しているんでしょうか?」と古くて新しい問いかけを。(これに対して、自分なりの答えを持たない限り、底辺校(進路多様校・課題集中校)で英語を教えることは苦痛以外の何ものでもないでしょうね。) 私なりの思いを伝えると、Aさんは納得してくれたようで、ちょっとホッとしました。
 その後、他の種類のテストの「分析用紙」についての感想。内容については、ちょっと秘密にしておきます(笑) 教員の悪い癖である、「欠点の指摘」が教育業界に広まっているのか、それとも、大人が子どもを見るときにあるのか。大切なことは、「欠点の指摘」ではなく、「克服するための提案」なんだろうけどねぇ。

 3月に、中学校の英語の総復習の問題集を出すことになりました。その内容のことで、先ほどとは違うB社の編集者のKさんにメールを。問題を作ったのに、解答を作り忘れるという始末に我ながらウーム。昨晩、なんとか作り終え、メールで脱稿。ホッとしていると、向こうの会社のメールサーバーが不具合らしく、受け取れないと連絡が(苦笑) 仕方がないので、編集者のKさんのhotmail夜に送信。

 この1年間の自分の授業を振り返って考えると、特に特別なことをしたという実感はありません。しかし、当然のことをしっかりと行えば、結果がついてきますね。「山が動いた」といって、自分が何をやったのか考えてみると、ホントにごくごく、普通のことだけ。普通のことを、しっかりと行うことは、大切なことですね。

2007/01/20

語彙とチャンクと発音

 今年度の授業にあたって、肝に銘じたことは、「生徒は、英語に対する好奇心=興味関心=学習意欲はある。しかし、今までの体験でその意欲が傷ついている」ということ。字面だけを見ると、生徒を甘やかしているようにも見えるかもしれないけど、そう考えることのは強者の論理です。なんか面白そうだなぁと思っていたのに、なかなか自分は理解できないという時間が3年間もあれば、「得意になるように勉強しなさい」と100%正しいアドバイスを受けたところで、それが生徒の心に響くはずはありません。そういう思いに共感をしつつ、学習をしていくという一線は譲らず、学習をすることで英語が分かるようになる=達成感を感じられるようにしてこそ、生徒たちは学習をしてくれます。

 そこで、1学期は語彙の獲得を重視し、センテンスレベルでチャンクという考えを理解させ、1語1語の発音を大切にしました。

 語彙の獲得に使ったのは、「短文で覚える英単語1700」(うーん、ホント、PR記事みたいだなぁ;笑) この4月にはCD付きがなかったということで、サイトに貼り付けてある音声をCDに焼き、情報コースの先生と生徒に協力をしてもらい、生徒の人数分のCDコピーをしました。
 8. Perhaps, he may change his mind.
 まずは、一語一語の発音から始めます。パーハップス、ヒー、メイ、チェインヂ、ヒズ、マインドと一語ずつのリピートです。単語の連結させることはなく、一語一語を発音します。(認知レベルを音声化)
 次にチャンキングです。 (Perhaps), he may change his mind. このように、チャンキングをすることで、認知レベルを意味に深化させます。というのも、「助動詞の後は動詞の原形」と呪文のように覚えている生徒がいたとしても、実際の文のレベルではmay changeが動詞のチャンクを作っていることが分からない生徒もいるのです。(もちろん、呪文すら覚えていない生徒が大多数でしたが) 意味のまとまりを作ることで、それまでは、Perhaps / he / may / change / his / mind.と6つに分かれていた文が、Perhaps, / he / may change / his mind.と4つと減少します。
 チャンキングをさせる効果は、こちらの想像以上でした。この作業で、単語と単語とが意味的なつながりを持つことに気づき、例えば助動詞と動詞のように、セットとして考えられる関係が分かるようになっていったのです。そして、これは主語と動詞という要素を意識することにもつながりました。

 発音に関しては、Japanese Englishを「推奨」しました。細かい発音にこだわり意欲をそぐよりは、だいたい出来ていればいいじゃないの、といういい加減さです(^^;;。私自身があまり自信がないこともあるのですけど(笑) あくまでも、発音は認知レベルを、画像から意味へとつなぐ手段として割り切りました。

2007/01/18

教室というドラマ舞台

 再生会議が、「ゆとり教育」の見直しの提案をしている。「ゆとり教育」の是非は脇におき、その逆ともいえる「詰め込み教育」を目指すのか、それとも「ゆとり教育」でも「詰め込み教育」でもない、「第3の教育」を目指していくのだろうか。人間は年をとると、昔のことを美しく感じるようだ。昭和30年代が一部でブームになっているけど、ホントに昭和30年代がそんなに素晴らしい時代だったのだろうか? 教育も同じ。受験戦争で自殺をする高校生がいたことを思い出しているのか? 教育とは人格の完成を目指している。人格の完成があれば、自分を大切にして、他者も大切にすることが出来る。→ みんな幸せになれる、というものだと私は勝手に理解している。学力の低下は大きな問題だけど、それ以上に児童生徒がアイデンティティーを獲得していく援助方法という機軸も教育を考える上で必要なのではないかなぁと、私は勝手に思っている。ある病気を治すことだけを考えて治療をしていても、その副作用として他の病気を引きおこしては意味がない。
 学力低下は確かに大きな問題だ。しかし、学力があれば、今の日本で人間は幸せになれるのだろうか? 学力がなければ、幸せな人生は送れないのだろうか? 以前に勤めていた高校の卒業式では、卒業生の半分以上が泣いていた。担任の先生が転勤すると、離任式では涙を流す生徒が少なくない。生徒の満足度は高い高校だった。しかし、学力的には決して高いとはいえない。学力論議を聞いていると、もちろん私も生徒に学習をするように促してはいるのだが、この高校のことをいつも思い出す。生徒にとっての学力とは何なのだろうか?
 自分の子どもも含めて、今の子どもたちが大人になったときに、本当に幸せな人生を送れるのかなぁという漠然とした不安がある。「勝ち組」の悲劇をニュースで聞くにつれ、その思いは募っていく。児童や生徒に健全さを求めている側が、健全でないとしたら、それはマンガそのものではないか。

 教師は聖人君主であってはいけないと私は思っている。酸いも甘いも知っている人間が、答えのでない課題に対して、畏れと謙虚さを持ち、お互いの人格を尊重しつつ活動していく空間が教室ではないだろうか。担任をしていると、多くの家庭状況を目にする。そして、自分の物差しでは理解できないことも、受け入れなければならないこともある。そういう人間的な部分と、許してはいけないという価値観とのバランスを上手にとりつつ、児童や生徒の幸せを考えていけることが大切なのではないだろうか。

 話しが横にそれたけど、教育が政争の具となれば、こんなに悲しいことはない。

 昨日の続きを書こうと思ったけど、それはまた次回にでも。

2007/01/17

山が動いた!

 前回の記事に多くの方からコメントやメールをいただきました。ありがとうございます。また、拙文にリンクを下さった柳瀬先生、ありがとうございましたm(__)m

 先日、行われた学研の基礎学力テストが戻ってきました。その結果は、昨年度の同じ結果に比べると、明らかに山が左から移っています。

0611test

 もちろん、教えている教員によって明らかな差があれば話しは別ですが、1クラスだけが突出しているだけで、他の6クラスはほぼ「ドングリの背比べ」状態。つまり、学習してきた内容がそれなりに良かったと考えることができるのではないでしょうか。

 今年の1年生は、今までとは学習の方法を変えてきました。それまでの流れと違うことを行うことを快諾してくれた同僚の先生方に多謝。とはいえ、これで満足することなく、進んで行かねば。

今年、新たに変えたことを思いつくままに書いてみると、、、。

  1. ブリッジ教材を使わない
  2. 1学期は語彙の獲得を重視、チャンクを徹底、1語1語の発音
  3. 夏休みの宿題はオリジナル
  4. 2学期は語彙獲得のスピードを緩め、教科書の重視

と、4つの特徴があります。ブリッジ教材を使わない理由は簡単。ブリッジ教材の意味が見つけられなかったからです。本校に入ってくる生徒は、英語が苦手です。そういう生徒が、中学校を卒業して、高校に入学してくるまでに、独力で数十ページのブリッジ教材を出来るとは思いません。
 では、今までどうして使われているのかといえば、それまでの流れがあるからで、それにもしかしたら、教師側のエクスキューズがどこかにあるのかもしれません。前者は日本的な文化だし、後者については常に私たちは自省することが要求されるところです。「ここまでやったのに、生徒は出来るようにならない」「チャンスを与えたのに、生徒がやらなかった」という、エクスキューズ=100%を生徒のせいにするという落とし穴として私たちの前に、大きな口を開けて待ち受けています。その落とし穴にはまらないように、学習の1つ1つに意味づけを確認していくことが、大切なのではないでしょうか。

 グラフの結果を生徒に伝えました。「ほら、やっぱり出来るんだよ、あなた方は。この調子で、もう少し学力をつけていこう」というと、ちょっとうれしそうな顔が(^^) 「勉強は裏切らない」と繰り返してきたこともあり、自分たちの学力が伸びていたことは、生徒にも自信になっていたようです。

 冒頭のグラフの偏差値ですが、学研の偏差値は、「基礎学力テスト」だけで算出されるようなものではないようで、他のテストも参考にされているようです。そのため、偏差値の上昇は「3」程度ですが、もし「基礎学力テスト」のみの偏差値ならば、もっと大きな差がついています。

2007/01/10

医療と教育

 ブログの更新を長くしておりませんでした。新年から何ですが、5日に父が他界いたしまして、なかなか余裕がありませんでした。ご心配をお掛けしてしまい、失礼しました。また、メールでお気遣い下さった方には、この場をお借りして御礼申し上げます。父は、とても珍しい病でした。入院していました、癌センターでも7例目という珍しい腫瘍です。2年以上に及ぶ闘病生活を送り、11月の初旬から入院しておりました。

 ドクターやナース、助手の方々の動きを見ていて、教師としてずいぶんと学ぶところがありました。箇条書きにしてみると、、、

  • 聞き上手が患者や家族を安心させる。アドバイスを求めているようで、聞いてもらいたいだけのこともある。
  • 病気と立ち向かうのは、患者と家族である。そのサポートを医療スタッフが行う。
  • 他人だからこそ、冷静に判断できる。過度の感情移入は、冷静な判断力を奪う。
  • 最後まで、手を抜かない。
  • 全ての可能性を提示して、その判断は患者や家族に委ねる。
  • ケース(事例)を持つことで、最善の判断が出来る。
  • 明るいことは、安心感を与える。
  • 仕事が出来るだけでは、医療は出来ない。しかし、仕事ができなければ、医療はさらに出来ない。

他にも色々と感じることがありました。この経験を最後の父の形見として忘れないようにしないと。
 また、医師やナースのオーバーワークもかなり気になりました。医師は、手術をしてから外来を担当し、その後また手術、そして家族との面談と、これではいつか「金属疲労」をおこしてしまいます。確かに、患者サイドからすれば、手術や面談は必要なことでしょうが、医師自身の研修の時間も確保しなければ、それこそ「使い捨て」となってしまうでしょう。これは、ナースも同じ事です。国会議員も使い捨てだそうですから、一般国民はさらに使い捨ての時代なんでしょうかねぇ。

 「ガンセンターは赤字がすごいから、閉鎖が検討されているみたいだよ」と何人もの知人から言われました。「小さな政府」を推進する立場では、赤字の施設は存続の見直しがなされるからでしょうか。しかし、いくら赤字であっても、必要な場所というのもあるはずです。規制緩和の名の下に、それを推進する人たちの利権がからんでいることも、ずいぶんと学びました。カネ持ちだけでなく、一般の国民も高い水準の医療を受けられることは、そんなに悪いことなのでしょうか?

 マスコミは虚像を作る天才です。父の病の権威という医師の手術を受けた人がいましたが、あまり評判は良くなかったですね。父の主治医は、マスコミには出ていないようですが、本当にブラックジャックでした。マスコミに取り上げられなくても、その場で全力を尽くしている医師こそ、信じられるものですね。

 もう少し落ち着きましたら、ブログの更新も10月までのようにしていきますので、もう少々、お待ち下さい。

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