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2006/12/29

塾の前に、携帯では?

 数日前から首に痛み。寝不足が原因だろうと思いつつ、いつもの整骨院へ。鍼灸で多少回復し、キネシオテープを張ってもらい、痛みがずいぶん和らぎました。若くはないのだなぁと少し寂しい思い(苦笑) その後、相方に頼まれた買い物を済ませ、自宅に戻り、そのまま病院へ。年末・年始と働く医療関係者には本当に頭が下がります。

 教育再生会議も、いつの間にやらマスコミに大きく出なくなってきた。教育という深い営みを、どのように考えていくのかという人間観・教育観が見えてこないせいか、あまり議論にも関心がなくなってきました。「成果主義」で人間はより働くようになるということは幻想ではないだろうか。一歩、いや一万歩譲って、それが正しいとしたときに、それで社会が良くなるとでも思っているのだろうか? 勝ち組、負け組という言葉が市民権を得るようにまでなった社会で、多くの人が幸せになったのだろうか? 高校にいると、この「格差社会」を見ることになる。

 さてさて、その会議の中で、どうも塾の規制というアイディアがあったらしい。( http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/K2006122302480.html )勉強の出来る生徒が塾に行くことを規制しようというもので、それは補習塾は構わないというものだったようだ。この提案者や賛同者は、世の中にある塾のうち、どれを規制すべき塾と考え、どのくらいを補習塾と考えているだろうか。それは、ちょっと脇においておくけど、どうして塾の規制を考えたのか?

 以前に、携帯電話について冗談めかしてブログに書いた。あれを書いた理由は、生徒との話しの中で、パケット料金定額ということで、70数万円分も一ヶ月に使った生徒がいたことがきっかけだった。70数万円ですよ! 5人の女の子との会話で、最低で10数万円、最高でその金額でした。
 今学期末に同じような話しを他の場所でしたときに、聞いていた1人が、「○組の女の子は100万円を超えているよ」という話を聞いてさらにびっくり。どうやったら、100万円なんて使えるんですか??
 一部の会社は、学生には割引で使わせるというのは果たしてサービスか? 逆に、携帯中毒者を増やしているだけではないか? ボケーッとしたり、ニヤーっとしたりするような顔でメールをうったり、着信音を聞くと嬉々として携帯を出す人たちに違和感を感じる俺が変なのかなぁ。
 東京新聞(2006/12/29朝刊)によれば、福岡県筑前町で起きたイジメの調査委員会では、「いじめ克服への提言」では、「子供同士が相互に理解し合う人間関係を築くことが出来るよう、コミュニケーション能力を高める指導を学校に求めた」そうだ。これは、まさにその通り。メールという便利なものは、相手を傷つけることを気軽に書けてしまうのだ。
 「安全のため」というのであれば、学校内での携帯の使用は禁止、高校生までの携帯はメール不可、発信は自宅を含めて2件まで、なんてしても、大丈夫ですよね。
 教育再生会議の皆さま! インパクトのある提案でしたら、塾の規制なんかよりも、携帯の規制の方がよっぽど、インパクトもあるし、拍手喝采だと思いますよ!

 さきほどの記事によれば、野依氏は「我々は塾に行かずにやってきた。塾の商業政策に乗っているのではないか」と訴えた」そうだ。これって、そのまま携帯に当てはまりませんか? 「我々は携帯電話をもたずにやってきた。携帯電話会社の商業政策に乗っているのではないか」と。

 英語といえば、実践的コミュニケーション能力の育成が大きな目標の1つです。この実践的コミュニケーションを阻害するものを、常々、実践的コミュニケーション能力の育成を叫ばれている英語教師こそ、大きな声を出して携帯の禁止を訴えませんか?

2006/12/23

コミュニケーション in 人間社会

 病院でのクリスマス会。病棟のフロアー、部署ごとのスタッフが出し物を行っていました。患者は、自分のフロアーの医師や看護士、看護助手の方が出てくると、うれしそうにしています。
 外来の待合所は200人を超える患者とその関係者で埋められています。途中で疲れたり、「お目当て」の順番が終ったりすると、帰る患者も多いのが病院らしいですね。点滴をしたまま見に来る患者、車椅子を押される患者、ベッドに寝たまま体を起こして見る患者、そしてその家族。人間とは、社会的な生き物だということを、ふと感じました。多くの人々の中で私たちは生きているし、また、生きることが本来の姿なのでしょうね。
 同じ病室の患者さんは、「クリスマスなんて雰囲気じゃないよ」といっていましたが、それをどう捉えるか。コンピュータのように、言葉通りに捉えるのか、その言葉の裏にあることを考えるか、それこそ、その洞察こそがコミュニケーションなのではないでしょうか?

 強引に英語教育に話題転換。教科書(中学校や高校)のダイアローグで違和感を感じることはありませんか? 全ての人が、親切で、優しく、邪気のない「理想的な市民」です。ですから、自分を守るために、偽悪家になることもなければ、ウソをつくこともありません。"Will you help me?"といわれたら、必ず"Sure!"と答えるような人ばかりです。これって、あまりにも現実とかけ離れていませんか?

 実際のコミュニケーションとは、どんなもんでしょうか? ある日、昼食を食べに行くことになったとしましょう。あなたはラーメンを食べたいけれど、相手はお寿司を食べに行きたい。自分と相手とを完全に満足させるようなお店は、まずありません。こんな状況で、私たちは生きているのです。
 相手の主張も大切にしつつ、自分の主張も大切にするにはどうすればいいか。相手が後輩で信頼関係あれば、「俺がご馳走するから、ラーメンにしようぜ」といえる状況もあるでしょう。その逆もあります。しかし、対等な友人関係な時に、「昼食は何を食べに行く?」「お寿司が食べたいから、回転寿司に行こうよ」といわれ、"Sure!"と素直な気持ちでいえますか? 自分が我慢すれば、関係は悪くならないから、、、という気持ちがありませんか?
 その一方で、「昼食は何を食べに行く?」「お寿司がいいな」「でも、俺はラーメンが食べたいから、ラーメンに行こうよ」と行ったとき、相手は心から"Sure!"というでしょうか?

 思春期では、どのようなコミュニケーションが生徒同士で行われているか、教科書に携わる人は分かっていますか? コミュニケーションのトラブルで、どのようなことが多いか、知っていますか? その延長線上に、何度かここで取り上げた「携帯問題」があるわけです。
 自分の意見も大切にしつつ、相手の意見も大切にしていく、assertiveな態度が必要になってくるのですが、なかなか、現実は難しいものです。こんなことを書いている私自身、トラブルもありましたし(苦笑) 

 よく言われる道案内なら、登場人物が尋ねる人は、道案内のためにそこにいるわけではなく、どこかに移動する最中だったり、商売の最中だったり、忙しいわけです。その時に、どのように尋ねるか、断られたときにどう対応するか。逆に聞かれて、急いでいて断るときにはなんというか。こういうことは、実践的なコミュニケーションではないのでしょうか? ビンゴゲームやALTとのゲームなんかよりも、よっぽど実践的だと思うんですけどねぇ。
 うがった見方かもしれませんが、中学生や高校生に対して、理想像を押しつけている部分ってありませんか? 道を尋ねられたら、素直に答えよう! 友だちから助けを求められたら、助けてあげよう! そんな理想像がこんな「コミュニケーション」の基礎にあるような気もしますが。もし、そんな生徒がいたら、世の中に出て辛いでしょうね。だって、「世間知らず」って言われまっせ!(笑)

 人間は、社会的な生き物なのに、人間関係は大きなストレス源です。この矛盾をどう考えるのか。「ストレスを溜めないで!」なんていう偽善的なアドバイスからは私たちは離れる方がいい。そうではなく、どのようなコミュニケーション、どのように人間関係を構築すれば、ストレスがなくなるか、という方がよっぽど実践的じゃないですかねぇ。

2006/12/15

勇気づけること

 期末考査完了。そして、採点も終了。これからは、担任としての仕事が中心となる時期です。採点をしていて、「珍解答」を楽しみました。「傑作」は、「地雷を棒で取り出す」と答えるところ、「地雷を棒でつっつく」と答えたYさんの「作品」です。「それじゃ、爆発するだろ!」と突っこみを入れながら、×をつけました(笑)

 今回は、うちのクラスは平均点が69点と、他のクラスよりも10点以上も高い点数でした。先生方はお分かりでしょうが、平均点は40点を切ることと、60点を超えることは結構、難しいことです。平均点が70点近くあるということは、いわゆる「底上げ」があることの証明で、もし赤点の生徒が3~4人いると、なかなかここまで平均点はあがりません。「珍解答」を楽しみ、テストの出来映えにニヤッとし、よい時間を過ごしました。

 2学期に、生徒に「典型的な○○高校の生徒」の話をしました。「典型的な○○高校の生徒」とは、「入学時には勉強しようとするのだが、だんだんとしなくなる。そして、転退学者はの人数は1クラス、卒業後、進路未定が1クラス、大学や短大、専門学校、就職を第一希望でクリアーするのは3クラス、なんとなく上級学校が2クラスという進路になる」と今までの「歴史」を伝えた後、「今年の1年生は違うなぁと1学期は思った。欠席をする生徒が少ないし、学習はしっかりするし、人の話を聞ける生徒だと思った。しかし、2学期に入り、「典型的な○○高校の生徒」になりそうで、心配だ。あなた達なら、今までのその流れを止められると思うんだけどなぁ」と話をしました。
 すると翌日、教室後方の黒板に、「「今までの流れを止めてくれると、私たちに期待をしてくれているのだから、「典型的な○○高校の生徒」にならないように、自覚を持とう」と書いてありました。昔であれば、それだけでホロッとしてしまいましたが、中堅と呼ばれる年代になった今は、その書き込みがどうなるか、に興味を持ちました。誰かに消されるか、イタズラ書きがないか、などなど、生徒の「本気度」を見てみたいという気持ちが多かったのです。
 結局、この書き込みは一ヶ月の間、そのままの状態で、期末考査の直前に消されました。(考査の前には、環境整備ということで、考査関係以外のことは全て消すため)

 よくいわれる生徒指導の欠点として、マイナス面の生徒指導に重点を置くということがあります。「あれはダメ、これはダメ」のように規制に中心をおくものです。一方、プラスの生徒指導とは、生徒の適切な行動に対して、その行動を勇気づけるものです。前者は親や教員は得意ですが、後者は下手ですよね。「この程度ができて当然」、「これはやって当然」という気持ちでいると、適切な行動を当然のことだと感じ、それを勇気づけることもなく、結局はその行動が消えてしまう可能性があります。
 一方、不適切な行動に対しては「ダメ」という言葉が頻繁に投げかけられ、子どもたちは勇気づけられるのではなく、規制されることが中心となります。
 大人だってそうでしょ。子どもをお風呂に入れたときに、奥様から「こうやって子どもをお風呂に入れてもらえると助かるな。その時間で、食器が洗えたよ。ありがとう」と感謝されるか、「えー、どうして今日は子どもをお風呂に入れられないの? それは、あなたの仕事でしょ。ちゃんと入れてよ!」といわれるか、どちらの方が気持ちがいいですか?
 何度もいうように、私たちは「正しいことをいわれたから、適切な行動をするわけではない」のです。ただし、相手を支配するために褒めたり、自分の思うような行動をさせるために我慢を強制させたりすることは、勇気づける対応ではありません。ある意味、いちばん最低の指導ですね、これは。

 振り返って、授業はどう行われているでしょうか? いちばん楽なことは、生徒のせいにすること。「やってこない」「勉強しない」という不適切な行動に関心をおくのではなく、「今日は、○○君がやってきた」「△△さんが授業で集中していたね」と、適切な行動に注目する方がよっぽど効果的なのです。

 先日、小論文のプログラムの関係で、某社の方がお見えになりました。その方は、「伸びる学校は、教員が生徒のせいにしない」と話しておられました。御意。
 ただし、これはとっても疲れる作業です。セルフコントロールも必要だし、期待をしてもそれが返ってくるとは限りません。だから、弱音や愚痴をこぼすことだって必要です。

 来週は、担任としての仕事が中心となります。今年のラストスパートです。 

2006/12/11

不規則変化動詞活用は中1からどうだろうか?

 娘がほぼ、99をマスターしました。どうも、自分の99を披露したくて仕方がないらしいようです。「7の段をいうよ」「4の段をいうよ」など、ともかく、何度も繰り返しています。まだ練習中の時には、「7×3=21,7×4=24。。。」など、不安定なときもありましたが、マスターすると親としてはホッとします。これからの算数や数学では、99を覚えてないと、学習しにくいでしょうかから、ともかくホッとしました。

 この99はリズムで覚えているようです。「シチサン21,シチシ28」といった言いやすさで覚えているようです。言い過ぎを承知でいえば、意味のないリズムを覚えて、それが意味を持ってくるように私には思えます。意味をあまりもっていなくても、年齢が若いときにはそれを覚えられるものですね。
 これが、思春期を超えてくると、意味を持たないと覚えられなくなってきます。その代表格が元素記号では?「スイヘーりーべ、ボクのフネ」のように、強引にでも意味を持たせないとなかなか覚えにくいものがあります。だから、高校の数学で学ぶ正弦定理や余弦定理は語呂合わせがないので、その公式を直接覚えるのではなく、その定理を証明して(=納得して)から覚える必要があるのでしょうね。

 英語でこのリズムで覚えるものといえば、不規則変化動詞の活用ではないでしょうか? 1つ1つを納得して覚えるのではなく、「スピーク、スポーク、スポークン」と覚えていく。これを、理屈で覚えようとしたら、たいへんです。だから、修行のように何度も音読したり、書き取ったりしながら覚えていく。この不規則変化は、分詞の形容詞的用法だけでなく、受け身、現在完了、過去完了でも使われて、英語学習の基礎ともいえます。

 不規則変化動詞の活用表を学ぶのは中学2年です。13~14歳。うーん、ギリギリ思春期というか、思春期でないというか、微妙なところですね。理屈で覚えた方が良い年齢といえばいい年齢だし、リズムも可能といえば、可能だし。
 ということで、この不規則変化動詞の活用表を中学1年生で覚えるとはどうなのでしょうか? リズムで覚えやすい時期に、リズムで覚えていくのは、いい方法だと思うんですけど。不規則変化表を見て、「これ、何?」といわれても、「ともかく、何度も声に出して読んでみよう」というと、いいかもしれません。 
 「中1ではまだ、過去形を学んでいない」「早すぎる」という批判もあるかもしれませんが、過去形を学んでから不規則変化動詞の活用を学ぶのではなく、学んでから「これが、過去形なんだよ」という教え方でもいいのではないかと私は思います。というのも、高校生で、この不規則変化動詞の定着率、かなり低いですよ。平気で、come-comed-comed, make-maked-makedとする高校生は、全国にどのくらいの割合でいることやら。これが出来ないために、現在完了も、受け身も、分詞の形容詞的用法も、過去完了も説明の段階でイヤになってしまうのです。だから、出来るだけ早いうちに、この表を覚えてみませんか?

 ビンゴゲームや、買い物ごっこや、道案内といった「コミュニケーション活動」よりも、よっぽど「実践的コミュニケーション」の基礎につながるでしょう。

2006/12/10

残念なこと、うれしいこと

 2学期の授業も全て終わり、期末考査となりました。今回は考査を作ることもないので、ちょっと一休み。でも毎回ながら、試験は担当者ごとに作った方がいいのか、それとも統一であった方がいいのか、葛藤はします。地歴・公民や理科では担当者ごと。本来であれば、試験問題を決めてから、授業を考えたほうがいいんだろうなぁと思ってはいるのですが、実際に授業の中での「気づき」もあります。どちらかベターな方ではなく、ベターな部分をピックアップしていくことが、ベターに近づくのでしょう。

 1年生を持ち、授業時数にして約80時間。今のスタイルになり、40数時間。英語力を増進させることを私はメインの目的にはしていません。中学校まで、「英語が分からない」「苦手教科は数学と英語」という生徒が多いので、まずは授業に対して積極的な気持ちを持たせることがメインです。そして、積極的な気持ちを持てば、「英語が分かった」となるような授業展開をし、その結果として英語力がアップすればいい、という「皮算用」ができあがります。

 2学期は共同で授業を理解しようとすることがテーマです。授業中に手を挙げて、分からないところを質問しようとしても、あれはなかなか勇気のいる作業です。でも、友人になら簡単に聞けます。その友人も分からなければ、ほかの友人に聞き、その人も分からなければゴチャゴチャしてくるので、私からそのグループに行き、事情が分かります。このグループはある程度は定着してきたのですが、流動的な人間関係だと難しい状況も出てくるのですね。ウーム、と思うことも何度もありました。

 教える側としては、「これは、理解できてくれているだろう」と思ったことが、分かってくれていないと、ガクッときます。最近あったことは、

  • There is(are) ~の意味が分かっていない。確認をすると、「分かりません」という生徒もいて、自信ありげに「そこには、~がある」と答える生徒もいる。
  • threat of landminesのthreatを「脅威」ではなく、「驚異」と理解していた。2学期の後半に、地雷についての授業をしてきたのに。

 いくらでもあることといえば、あることなんですけど、今年の1年生には特に期待しているので、ちょっと残念でした。
 メインの目的である「積極的な授業態度」は、ひいき目かもしれませんが、かなり出来上がってきています。しかし、それが学力に結びついていません。いちばんの目的が達成してくると、次は「立て」次は「歩め」とどうしてもこちらの要求が高くなっていくものですねぇ(苦笑)

 その一方で、他の生徒からは、「単語集でやった単語が教科書で出てくると、すぐに分かってうれしかったよ」とも言われました。彼女たち(2人)は、中学校時代には英語がいちばんの苦手教科だったそうですから、こちらのシラバス通りに学習してくれている生徒はそれなりに学力がついているようです、「それなりに」の程度も問題なんですけど(^^;; また、夏休みの課題として作った冊子の残部をほしがる生徒もいて、予算の関係でぴったりしか作らなかったと話したところ、本当に残念がっていたことも、うれしかったことの、ひとつです。

 こう考えてみると、私は本当に生徒に恵まれてきたなぁという正直な思いがあります。授業を通じて、落ち込むこともあるけれど、それ以上にパワーをもらっているようです。

2006/12/08

「いじめ」対策にマニュアルがあるのか?

 気がついてみると、ブログの更新頻度は落ちているし、英語とは関係のない話ばかりだし、といつものクセが始まったようです(苦笑) 右だの左だのといえていた時代は、上だの下だのがあまり激しくなかったときのような気がします。それと同じように、英語教育についていろいろと考えられるのは、根本的な問題で揺すぶられないときですね、私にとっては。
 先日、兄貴ともいうべき他校の先輩教師(体育)と話をしていると、自分たちの感覚はおそらく少数派ではないかという結論でした。その少数派としては、やはり根本の問題から英語教育を見つめる必要があるのではないか?と思っています。

 いじめの問題をマスコミ報道が連日といっていいほど、流されています。中には、その信憑性も怪しいような報道も少なくありません。マスコミの教育報道ほど、表面的で、なおかつ恣意的に流されるものは珍しいのでは? 警察や役所ほど、マスコミにとって「有益」な情報を発信するわけでもないし、それに対して抗議することもないだろうし、書きやすいのでしょうね。

 それはともかく、イジメへの「適切な対応」とはどのようなものがあるのでしょうか?(これは、あくまでも高校教師の視点です。小学校や中学校で必ずしも当てはまらないことを最初に申し上げておきます。) イジメの定義とはいろいろとあるようですが、「当人たち同士では解決ができない問題」と広げた意味で考えてみます。

 学校内で生徒同士でのトラブルがあると、教師はどうやってその情報をキャッチできるのでしょうか? 休み時間や掃除の時のちょっとした様子の変化に気づくこともあります。しかし、こういう変化の発見は男子なら簡単ですが、女子だととにかく難しい。女子のグループでは、イジメの対象が変わりやすいという、いわば「イジメが発生しやすい集団」というケースがあるからです。この「病んだ集団」で、イジメを解決しようと思っても、その表面だけで解決しようとしたら、必ず失敗します。その集団自体に問題があるわけで、「イジメはいけない」と100%正しいアドバイスをしたとしても、ほとんど役にも立たないのです。そうではなく、その集団の中にある、「病巣」を生徒が解決できるようにサポートをしない限り、解決にはならないわけです。

 もう一つの情報のキャッチ方法は生徒からです。「A君とB君とがケンカしている」「C子がグループの中で孤立している」という情報は、生徒から担任に話がやってきます。もちろん、生徒から信頼されているときだけですが。
 以前にも書きましたように、生徒はよく教師を見ています。この先生は、建前だけなのか、ハッタリの人なのか、信頼できるのか、などなど、そのパーソナリティを観察しています。そして、信頼できると思う教員に対しては、いろいろな話をしてくれます。太郎クンと花子さんが付き合ったとか別れた、なんていう話から、家庭のこと、生徒間の人間関係までいろいろなジャンルが話題となります。(ここで、教師側は「聞く技術」が必要です。せめて、初任者研修でアクティブリスニングは研修した方がいいでしょう。)

 タイトルの方向にブログを持っていきますと(笑)、この「信頼」をいちばん得やすいのがわかりやすい授業だと私は思います。今まで分からなかった英語が分かった、自分に力がついてきたと思ったら、その援助をしてくれた人には信頼をしてくれます。一方、いくらいい人でも、授業が分からなければ、所詮それまでになってしまいます。そして、授業だけに拘っていくと、いつか「向こう側の住人」になってしまいます。
 授業には、その先生の人間性が表れるものです。どのような力をその授業を通じてつけてほしいのか、何を目指して授業が行われているのか、授業研究はどの程度行っているのか、などなどが表れてきます。授業こそ、最高の生徒指導なのでしょう、きっと。

 生徒にとっても、自分のプライベートなことや友人関係のことを伝えてくるというのは、そこに安心感があるからです。分かる授業とは、信頼感に裏打ちされた安心感がベースにあるもので、それは普段の生徒との人間関係の中でも表れてくるものだと私には思われます。

 人間関係にはマニュアルがないのと同じように、人間関係のトラブルにもマニュアルはありません。大人の世界でも人間関係のトラブルはあるのですから、子どもの世界にあるのは当然のことです。そのこじれた関係を担任がサポートするとしたら、必要なことは普段からの観察に裏打ちされた指導であり、そしてその担任の活動をサポートする周囲の協力体制ではないでしょうか? 

 これから先、教師の能力給が導入されそうです。その時に、数値化できないこのような「教師力」はどのように評価されるのでしょう。管理職を目指されている先生は大変ですね、ホントに。 

2006/12/02

授業の「裏テーマ」

 先週末に教科書検定の結果をいただきました。とりあえず自分の担当したところでは大きな問題もなかったようで、ちょっと一安心σ(^^) 途中から入ったので、それまでの流れとのバランスの兼ね合いを考えつつ、カラーをどう組み込んでいくかが課題でしたけど、とりあえずはホッとしました。
 昨日は、編集部からメールをいただき、他の先生のヘルプを。少し気になっていたところだったので、いらぬお世話かとは思いつつ、代案を考えていたのですぐに原稿を提出。少し日本語の微調整が必要でしたが、それは電話の打ち合わせのみでOKでした。
 夏休みに訪れた韓国で、韓国の会社とアメリカの会社とではMSメッセンジャーを使った打ち合わせをすることがあると聞きました。確かに、簡単な打ち合わせであれば、メッセンジャーを使うことで、ことも足りることもあるかもしれませんね。ただ、文字だけだとどうしても誤解を生じてしまうことがあるでしょうから、相互信頼がどうしても必要になってくるのではないでしょうか。

 2学期の授業も残すところは来週のみとなりました。まだ終わったわけではありませんが、長い2学期でした。途中、連溶菌に感染したこともありましたが(^^;;、とりあえず今学期のゴールが見えてきました。そこで、2学期の授業で感じたこと。
 私たちは、3年を1クールとして仕事をしています。ですから、どうしても3年前の1年生(=今年の3月に卒業した生徒)との比較になります。思い出は美しく思えるものですから、差し引いて考えることが必要かもしれませんけど、日本語の力がさらに低くなっている気がします。教科書に出てきた単語の意味を学習しても、その日本語訳の意味が分からない単語が増えてきました。「脅威」「内戦」「抽象的」という単語は日本語にしても分からない生徒が半分以上。(もっと多いかもしれません) その上、漢字が書けない。「ご存知(ご存じ)」、「犠牲」「解放」などなど、書けない生徒が多くなってきています。以前にも書いたように、これはやはり携帯の影響が大きいのではないでしょうか? かなり気になるところです。携帯電話そのものだけでなく、携帯に費やす時間があまりにも大きいために、本を読まなくなっているのでは?(本とは、マンガも含めてですが) 活字と離れた生活をしているような気がします。mikamamaさんが下さったコメントで紹介してくださった朝日新聞の記事ではありませんが、携帯電話の使用をもう少し考える時期が来ていると私は思います。
 1クラスだけ持っている3年生のクラスは、教科書の内容がとても興味深いので、生徒曰く「英語+総合的学習の時間のような授業」です。2学期の「裏テーマ」を「生きるということ」におき、日本の昔話と西洋の昔話とを対比しながら文化論を重ねてみたり、エリクソンの発達段階の視点からアイデンティティを考えてみたりなど、内面に訴えかける授業を心がけました。進路もほとんどが決まり、英語に対する興味関心が低くなっている生徒が多いので、その生徒たちも授業に参加しつつ、英語の学習をしていかせるための方法です。おそらく、こういうことは、単語や構文、英語の読み方などの「技術」の習得に重きを置く学校ではできないでしょうね。そんな学校に疲れた先生は、ぜひとも受験とは大学受験を中心としていない学校に来られるといいですよ。汲々としなくても、自分の教育観を試すことができますから。もちろん、その中で英語を学習したいという生徒もおりますから、そういう生徒をのばすことは楽しいですし。

 自分へのご褒美として、昨日は同じ町内会の方と2人で近所で忘年会。日本に住む人なら誰しもが知っているような会社に20数年勤めていて、その部門でトップポジションに勤めていた彼の話には説得力がありました。安定を捨てて、自分が行いたかった仕事を始めたその方は、「『心の中にある本来の自分』と『自分の仕事』との間に乖離があったので、『本来の自分』に近づけるようにしました」と話されていました。
 企業の方の視点と、学校での視点とに差があることは当然なのですが、学校の視点で生徒は社会で生活を続けられるわけではありません。進路指導において、「学校の先生は、就職させることを目的としているかもしれないけど、就職する生徒さんや雇う企業としてみたら、その人物がその会社でどんな風に成長するのかという視点が大切だ。そのために、企業研究をもっとするべきではないだろうか?」というアドバイスをいただき、確かにその通りだなぁと感じました。「会社四季報」程度はやはり目を通さねばならないのですね。

2006/12/01

人間観の難しさ(教員志望のY君へ)

 今日の「Drコトー診療所」を見ていて、思ったこと。末期癌で余命を宣告した患者の容態が良くなり、手術で完治するという内容です。そこで、主人公のコトー先生はなぜか落ち込みます。患者に対して、「余命を宣告したということは、あなたの命を私はあきらめていた」と謝るのです。ドラマの中では、そのことは「奇跡なようなものだ」と表現されるほどの回復ぶりとして描かれています。

 これは、高校の教員でも同じ事があるし、自分もそういう面があるかもしれないと思ってみていました。「この生徒は学校を続けることが出来ないだろうな」と思ってしまうが、最終的にはしっかりと卒業して、立派な社会人になっていくケースを何度も見ました。こちらも、真剣に接していればいるほど、感情も入ってきて、その延長線上に「もうだめだ」という気持ちを、自分の思い通りにいかないことに対する思いにオーバーラップさせるわけです。

 その一方、医師(教師)が、どんな状態でも奇跡が起きるもの、奇跡を起こして当然だと思われていたらそれは身が持ちません。奇跡はほとんどないという科学的(冷静)な気持ちを持ちつつ、奇跡は起こることもある、という希望を最後まで持つことは難しいことです。周囲からのサポートがなければこれは無理な話です。コトー先生では、診療所の事務長や患者本人や家族からのサポートを受けながら、手術が行われます。

 一旦、その奇跡を起こして、「あの先生なら不可能を可能にしてくれる」と過度に期待を受けたとき、失敗(多くのケースにおいて、失敗の方が多いケースにおいて)は許されなくなってしまうような状況では、医師(教師)も働くことが出来なくなってしまいます。繰り返しになりますが、科学的(冷静)な判断力の中で、命の幸を願いつつ、全力で行動をすることがいちばん大切なのでしょう。そこには、信頼される必要があるし、時には法律では白黒がつけられないケースすら出てきます。

 何度かブログでも書いたアドラー心理学の入門書を読むと、その考え方などの能書きの前に、人間観という問題がかならず書かれています。アドラー心理学が人間関係の心理学だからかもしれませんが、人間をどう考えるかという土台を抜きに成立をしないのでしょう。(これは、コーチングでも同じ事です。) 
 少し話題がそれますが、「誉める」ということはいいようですが、相手を支配するため(相手が自分の思い通りの行動をするようになるため)の「誉める」ことは慎まなければならないのでは? 教師と児童生徒、管理職と教諭のように、立場が違えば、その立場を大切にすることは必要でしょうが、立場は人間の価値ではありません。立場的に指導者であっても、それは人間としての指導者を意味するのではないことを、教師は考えた方がいいのではないでしょうか。人間は自分で考え、判断し、行動していくものです。それが、反社会的でなければ許容されるものなのでしょう。その考えを奪い、判断を強制し、行動を規制するようであれば、そこに正常な人間関係など築けるはずもありません。お金でつながった人間関係のおぞましさは、今をときめく裁判の泥沼を見ていると本当に感じますね。

 「生徒(児童)の成長を信じること」は教師にとって必要なことですが、根気のいる作業です。(これから始まるであろう成果主義なんてものには、受け入れられないことに違いありません。)私たちにはとっさの判断が迫られるケースがあり、そのたびに、私たち自身の人間観も尋ねられます。時にはAさんに対する対応と、Bさんとに対する対応とに故意的に違いを持たせることもありますし、法律的にはグレーゾーンのことさえあります。もちろん、時には失敗することもあります。というより、失敗して、生徒がフォローしてくれるケースの方が多いかなぁ、俺の場合は(^^;;。

 人間をどうあなたは見るのか?と常に尋ねられます。普段のことば遣いが面接のふとした瞬間に出るのと同じように、あなたの人間観は生徒に対するときだけ変えられるものではありません。「強者」にこびへつらうものは、「弱者」に対してこびへつらうことを望むものです。「強者」の意のままに動く「偉大なるYESマン」は、「弱者」が自分に対して「偉大なるYESマン」になることを望むものです。
 以前にも話したように、私たちは必ず最後の時を迎えます。その時に持っていけるものなどない、そんな宗教家にも似た人間観を持ちつつ、「俗世」で生活をしていて、その中で生きている人たちと接する仕事なのではないでしょうか、教育とは。どこを自分の居場所として、どのように他者と関係を築きながら生活をし、どんなことを他者にすることが出来るのか、そんな人生を生徒が送ることが出来ることこそ、「心の教育」なのではないかなぁと私は思っています。世間で「教育」に関する会議があるようですが、その人たちの人間観とはどのようなものなのでしょうか私には今ひとつ分かりません。
 レスキュー隊は、自分の安全が確保されなければ、その場には行きません。「ミイラ取りがミイラになる」ことは正しい救助にはならないのです。そのためにも、自分の立ち位置を常に確認すること(これは、同僚やスーパーバイザーに相談(グチ?;笑)がいちばんですね)を忘れなく。

 「千と千尋の神隠し」は最後のシーンで、主人公の千尋が10頭の豚から自分の両親を捜せといわれて、その答えは「ここにはいない」→「答えがない」ということでした。あの映画は女の子の成長を表していて、大人になることは、答えがないこともあるということを知ることだと、私は勝手に理解しています。
 他者に対する人間観も、同じです。答えがないケースもあります。その中で、他者とどのように協同していくかは難しく、いまだに私にとっても大きな課題の1つです。

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