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2006/11/26

ESSの2学期

 何度も書いたようにESSといっても、英会話が目的のサークルではありません。このESSを作ったのは数年前なんですが、現在の勤務校では、放課後の学習は所詮「補習」にすぎず、それ以外に部活動を持つことが当然のような状態でした。(これは、現在も同じなのでしょうが)
 「放課後の英語学習会」といっても、週に3-4回は活動を行っています。もちろん、そのときだけでなく、生徒には予習や復習、宿題を課していますから、その負担は活動時間以上です。なにせ、英検3級に達していない生徒(時には4級すら持っていないケースも多い)に、英検2級の取得を目標としていますので、それなりにハードワークになります。
 この「放課後の英語学習会」は、それなりにハードなのにもかかわらず、生徒は生徒で調査書に書かれる「部活動」はなくなってしまいます。

 今年度は、「この生徒たちは伸びそうだなぁ」という生徒も少なからずいるのですが、徐々にメンバーは一人抜け、二人抜け(^^;; 現在は、必ず出席するメンバーはたった2人になってしまいました。また、他の部活動と掛け持ちで学習しにきている生徒もいるのですが、なかなか出席率も低いので、これからが心配です。
 ただ、その2人が順調に伸びてきているので、ここからが勝負です。2学期に学習した内容は、

  • (火曜日) 英単語ピーナッツ銅メダルコースと文法の学習→その文法を使っての英作文
  • (水曜日) 「アメリカ口語教本初級」(SectionⅠのみ)
  • (金曜日)ALTが水曜日の学習内容をパラフレーズなどしながら、All English Lesson
  • (土曜日)水曜日の学習の音読、書取、ディクテーション、オーバーラッピング、シャドイング

です。残っている2人が私のクラスにいることもあり、火曜日の単語は、いつ聞かれるか分かりません。休み時間や掃除の時間など、目があったときにその週の学習した単語を聞くようにしています。
 火曜日の文法学習は、授業で学んだ文法のファーザープラクティスとして、授業と関連づけられるようにしています。独立して教えるよりも、授業と関連づけたほうが、定着もしますからね。

 今週は、英語の苦手な生徒を集めて、放課後にESSのメンバーが「家庭教師」をすることになっています。教えることによって、「気づき」をもてるようになることが目的です。さらにいいことに、私の補習の「代行」をしてもらえるところも、素晴らしいところなんです(笑)

2006/11/23

ナメクジには、鷹の視界が分かるまい

 かなり長いこと、ブログを更新しませんでした。自分自身の体調の不良もあったのですが、身内の手術もあり、なかなか「死」と向かい合った時間でした。そして、身の回りのことで起きていることへの閉塞感もあり、ブログまで気持ちが回りませんでした。身内の手術は、お陰様で成功しました。

 医師という仕事はすてきですね。かっこいい。教師にも色々な人がいるのと同じで、医師にも色々な人がいることを今回の身内の病気は教えてくれました。確かに、ウームと思うような医師もいるのも確かです。しかし、医師という仕事はすてきだし、それに真剣に関わっている医師はかっこいいものです。手術を終え、家族に説明をして、その5分後にその医師は外来へと向かいました。患者や家族の疑問に対して丁寧に答え、分からないことに対して、どんな些細なことでも教えて下さいました。こういう説明は、保険の点数にならないのにもかかわらず、患者や家族の不安感を出来るだけ取り除くことは、やはり医師としての責任感からなのでしょうか。
 患者を救う医術というのは、患部のみを見るのではなく、患部も体の一部として見つめる総合力や、患者のそれまでの人生を受け入れることなんだなぁと思ったものです。患部を直して、他のところに深刻なダメージを与えるのではダメだし、時には患者や家族が「死」を受け入れられるよう、医師として死をどのように考えるのかという哲学も必要となってくるのではないでしょうか。

 「死」を目の前にすると、自分が守ろうとしていることが、いかに小さいことなのか、感じてしまいます。そんなときに、テレビ東京の「カンブリア宮殿」という番組の「再生請負人が語る企業の赤信号~あなたの会社は大丈夫か?~」を見ました。産業再生機構で活躍されている3人の方と村上龍さんや小池栄子さんとのやりとりがこれまた興味深い。「一度限りの人生なんだから、生きがいを大切に」「人間という存在を洞察することの難しさ」という企業の「再生請負人」たちの言葉には含蓄があります。お金や名誉や地位ではなく、「生き方」=「哲学」が人間を幸せにするということを、仕事を通じて感じたんだろうなぁと私は勝手に理解しました。

 現在の勤務校で、たいへんお世話になった先生(定年ですでに退職)が、「昔の校長は哲学者だった」と常々仰っていました。母校の当時の校長も、確か、大学は哲学科出身だった(ような気がする)。人間に対する哲学を持っていないと、教育は往々にして間違いをする。技術や結果だけを求め、哲学がない人はどこか薄い人間性の印象がある。人徳者と呼ばれる人たちは、哲学を持った人なのだろう。

 こう考えると、どうしても教育の「成果主義」の不条理がクローズアップされてしまいます。教師にとってのいちばんのうれしい「成果」は、生徒が卒業時に伝えてくれる「ありがとう」です、私にとっては。 成績をどれだけ上げた、国立大学にどれだけ入れた、なんていう「成果」もすごいとは思いますが、そこにはどのような哲学があるのでしょうか? それとも、世の中は、教育に哲学を求めてはいないのかなぁ。教育にというより、哲学自体を求める余裕が社会にないとしたら、悲しいことですが。

 コメントを下さる柳瀬陽介先生のサイトは「英語教育の哲学的探求」という名前は、技術的な探求ではなく、哲学的探求というところに味があります。英語教育という言語教育に携わるものは、コミュニケーションを考えるのであれば、ディベートも大切なのかもしれないが、それ以上にアサーションも大切にした方がいいのではないか? コミュニケーションとは、表面的な情報の伝達ではなく、相手の立場を大切にしつつ、自分の主張をどのように伝えていくか、という点こそ、いちばんの「実用的コミュニケーション能力」のはずです。(うーん、「はず」を使ってしまいました;笑)

 教育が単なる情報の伝達であれば、生徒は本を読めばいいわけです。インターネットで情報を得ればいいわけです。私たちの仕事は、その情報にどんなαを加えるかということが、大切なのではないでしょうか。

2006/11/17

Shame on You!

 まだ木曜日だというのに、かなりぐったり。こういうときもあります。帰宅後にテレビをつけると、教育問題をテーマにニュース報道が。そこで、キャスターというか司会者というかの、相変わらずのその話題(ニュース)の流れに乗る発言(コメント)にさらにぐったり。すぐにコトー先生に変えました。

 いじめ問題がクローズアップされています。表面的に「いじめ問題」といっても、根っこの部分は少し変わってくるのでしょう。いじめられる生徒が転校生だったり、発達障害を持っていたり、時にはいじめる側の後ろにBPDの生徒がいたり、などイジメのきっかけとなる要因は変わってきます。そして、イジメがきっかけとなり、不登校や引きこもりなどを引きおこします。
 現場の先生方は実感としてお分かりになるでしょうが、本当にイジメは分からないものです。男子のトラブルは非常に分かりやすく、解決も直線的にできることが多い一方で、女子のそれはなかなか分からない。本当に分かりにくいものです。時には、保護者すら「ちょっと変だなぁ」と思う程度のことさえあります。だから、こういうときは、保護者や担任の「勘」が大きな武器となります。
 BPDの生徒がからむイジメは解決が本当に難しいでしょうね。これも、実感として高校の先生は感じて下さるのではないでしょうか。事情を聞いた後で、リストカットをしたなんていったら、なんてニュースでは流されるのでしょうか?
 ちなみに、数年前になりますが、BPDの生徒に巻き込まれたことがあります。夜中に1時間おきにかかってくる電話、今のように番号ディスプレーがありません。当時、長女の出産の時期と重なったために、切るわけにもいかず、困りました。携帯のメールにも「死ね」や「クソ野郎」と書かれて、それが夜中にやってきます。電源を切り、朝に電源を入れるときの恐怖感はいまだに忘れません(^^;; 当時の携帯は発信元が分からず、とにかく何も証拠がない状態でした。真剣に、自分の教師適正すら思い悩んだほどです。

 そんな時に、教育相談の専門家のW先生に「いじめの構造」を教えもらい、ホッとしました。今になって思えば、そのグループにはBPDの生徒が2人いて、その2人に踊らされた「実行部隊」がその周囲にいたわけです。その時のパワーはこちらを鬱にさせるくらいは、簡単なものでした。

 自分がこういう経験をしたことがあるので、イジメを受けている生徒はとても恐怖に満ちあふれたものであろうということは、容易に想像できます。地上100mのビルの上から下を見下ろすときの感情を感じているはずです。

 とある中学校では、「死んではいけない」というテーマで授業を行っているそうですが、困っていることは、ネットによる非行少年のつながりだそうです。現在の学校の範疇を超えている部分、保護者ですら見えないものに、いま困っています。

 教育基本法が衆議院を通過しました。現在の教育基本法をどうして変えるのか私にはとうてい理解できません。現在の教育が抱えている問題は、教育基本法にその原因があるわけではありません。変えることに費やすエネルギーを、どうして目の前で困っている生徒のために使うことが出来ないのでしょうか? 法律を変えないと、イジメの対策は考えられないのでしょうか?
 これで、参議院でも可決され、それでも現在の抱えている問題が解決されなかったとき、推進している人は何というのでしょうか? 教育は、入学式や卒業式のためにだけあるわけではないはずです。

2006/11/16

そこにいることの、大切さ

 色々と教育問題がマスコミに出ています。そういうマスコミ報道を見ていて、いつも感じることは、学校教育のシステム的な問題という意味ではなく、事象の裏側をどこまで取材して書いているのかということです。表層的に書いたところで、根本は何も解決しません。根っこの部分に切り込むためには、人間に対する愛情や興味、教育に対する関心やその力に対する畏怖などがなければ分かるはずもない。

 私たち教員も、やるときは徹底的に解決に向けて、取り組まなければならない。全体像が見えたら、The sooner, the better.です。全体像が見えていないのに、急ぎすぎると失敗します。かといって、全体像の理解が遅れると手遅れになることもある。

 全体像の把握のためには、普段の人間関係や観察力が必要となってくる。これは、とても難しい課題です。少なくとも、出張や休暇で学校から離れていることが多いようでは、私には難しいですね、全体像を把握するのは。

 そこにいて、ある程度が把握できていれば、安心感のある教室になります。

 学校にとって最低限度必要なことは2つあります。1つは生徒が勉強すること。もう1つは、生徒が安心して学校に来ることが出来ること。この両者が土台となり、学校は成り立つものです。

 「そこにいること」は大切なこと、というわけです。

 「休暇は権利」「出張は仕事」といわれれば、それまでです。しかし、権利と同時にしなければいけないこともあるし、外に出る仕事よりは、内側の仕事の方が大切だと私には思われます。

2006/11/11

未分化と孤立と分化=独立

 ESSの今週のターゲットは「比較表現」。中学校で学ぶ表現から、高校で初めてお目にかかる表現まで学びました。今までならそれに関わる問題で完結しているんだろうけど、今回は、テキストに出て来た表現を使って、まずは英文を書かせてみました。生徒の全員が今まで英文を書いたことがないというので、自分で考えてその壁を越えるところから始めようというわけです。生徒の作った英文を。

(almost as ~ as)

  • Doraemon is almost as famous Anpanman.
  • I am almost as tall as Aoi.
  • This cup is almost as large as that cup.
  • She can run almost as fast as you.

(not as ~ as)

  • He is not as swim as you. →He cannot swim as well as you.
  • I can't speak Chainese as well as you. → I can't speak Chinese as well as you.
  • Tokyo Tower isn't as tall as Mt. Fuji. →?
  • I cannot cook as well as my mother.

(原級-比較級-最上級)

  • The Eurasia is the largest continent in the world.
    The Eurasia is larger than any other continent in the world
    No continent in the world is larger than the Eurasia.
    No continent in the world is as large as the Eurasia.
    →the Eurasiaのtheは全ていらない
  • Australopithecus is older any other mankind in the world.→any other than in the world.
    No other mankind in the world is older than Australopithecus.→mankindはいらない
    No other mankind in the world is as old as Australopithecus.→mankindはいらない

 使う文法事項が決まっていると、なかなか作れないものですね。確かに、例文をこちらが作るときに同じく感じます。最後のAustralopithecusは、三省堂の辞書Wisdomにも掲載されていないのに、よく調べたなぁと妙に感心したりして(笑) 研究社の大英和で確認をした1語でした。

 木曜日には卒業生が来校しました、赤ちゃんと一緒に。生まれてまだ数ヶ月なので、まぁ可愛いこと可愛いこと。それに、女性は母になると強くもなるし、結婚をして家庭を持つと「おじさんの会話」(©T先生)が通じるものです。その時に夫婦の関係について話したことが、どうも教員にも応用できるかなぁと。あくまでも私の勝手な論、です。

 夫婦(教員)は他者と未分化の状態の人、孤立している人、分化=独立が出来ている人に分かれるのではないか。未分化の人は、パートナー(同僚や生徒)と一体感を求め、外側からの圧力に一緒に対応しているときには良好な関係を築ける。しかし、お互いの関係の中で、ちょっとしたほころびや、トラブルが起きたときには極端に弱い。相手にも自分と同じ感覚を求める傾向があるので、関係を続けるためにはどちらかの過度な忍耐が必要で、最終的には破局をする。好き・嫌いという感情が強い。
 孤立の人は、パートナー(同僚や生徒)に感心がない。パートナーがどうしようと興味がなく、好き・嫌いという感情すらない。大切なのは自分だけで、上手くいかないのはパートナーが悪いのだと、他者にその原因を求める傾向にあるのではないか。
 分化=独立の人は、自分とパートナーとは違う人格だが、一緒に生活(教育活動)をしていこうという協力関係にある。相手の気持ちや生き方を尊重することが出来るので、ほどよい距離がある。相手に自分の気持ちを押しつけることもなければ、ルールの範囲内であれば行動も規制しない。
→結婚をすると「落ち着く」といわれるのは、他者の存在を気づき分化=独立の人になれるからではないか?

 教員の問題がいろいろとクローズアップされていますが、どうも未分化や孤立の人がいるんだなぁと感じています。感情移入をすることと、共感をすることとは全く別のものだということに気づいた方がいいのかもしれません。20代の時であれば、若さがそれをフォローしてくれますが、30代も半ばを過ぎると若さがなくなります。その時に、未分化の人は生徒と「友だち関係」を結ぼうとしてみたり、孤立の人は生徒に対して「押しつけ」をしたりしているのではないでしょうか。
 先日、「いちばんの教員研修は、教員が教育カウンセリング(=心理分析)を受けること」と書いたのは、そういう理由です。もちろん、心理分析など受けなくても、分化=独立している先生方も少なからずいます。

学習指導要領は教材が配慮することとして次のことを書いています。

ア  多様なものの見方や考え方を理解し,公正な判断力を養い豊かな心情を育てるのに役立つこと。
イ  世界や我が国の生活や文化についての理解を深めるとともに,言語や文化に対する関心を高め,これらを尊重する態度を育てるのに役立つこと。
ウ  広い視野から国際理解を深め,国際社会に生きる日本人としての自覚を高めるとともに,国際協調の精神を養うのに役立つこと。

そのためには、分化=独立が必要だと思われるのですが、いかがなものでしょうか。

2006/11/09

学力低下とは関係がないのかなぁ。

 高校に入学し、初めて携帯電話を持つ、そんな生徒が少なくない。中学校の時に比べて、通学距離も長くなるし、電車やバスを利用して通う生徒も多いので、携帯電話は必需品になってくる。もちろん、友だちが持っているから、ということも大きな要素の1つのようです。

 ところが、その携帯電話が徐々に中毒になってきます。携帯を持っていないと不安だ、メールを出してすぐに返信がないと、嫌われているのではないか、と思うようになってくる。生徒によっては1日に100通以上のメールを出すものさえ少なくはないのです。
 生徒が携帯でメールを打っているときの顔を見たことがありますか? ひと言で言ってしまえば、「ボー」。ちょっとキツイ言葉でいえば、「腑抜け」。周囲に注意を払うこともありません。「携帯を使用しているときは、脳が動かない」と報道されていましたが、脳の動きを見るまでもなく、顔を見ていればすぐに分かります。

 「ずいぶんと、携帯代がかかるのでは?」と聞くと、「定額だから大丈夫。たくさん使わなければ損だよ」という答えが返ってきました。うーん、損ですか…。そして、また携帯を使い始めます。

 学力低下の原因が学校や文部科学省の政策にあるようにいわれていますが、携帯って関係ないのでしょうか? コミュニケーション能力の欠如も、この携帯って関係ないのでしょうか? 

 メールで絵文字を使うことで、適切な感情表現が出来なくなり、自分の常識(感覚)の範囲外のことは全て「ヤバイ」。すっごく不味いものも「ヤバイ」、美味しいものも「ヤバイ」。怒りの感情も適切に伝えることが出来ない。相手の何に自分が怒っているのか意識化できず、そんな相手への要望が意識化できないときに使うことばが、「うざい」。

 もちろん、これらの全ての原因が携帯だなんて思っていません。しかし、授業でコミュニケーション能力の育成なんていわれて、世間もそれを望んでいるのに、実生活の中ではコミュニケーション能力を阻害するものが氾濫し、そんな商品が高校生を1つのターゲットにしているわけです。何か矛盾を感じます。

 こんな話しを同僚のA先生と話していると、A先生の母校の私立高校は携帯の持ち込みを禁止しているとのこと。少なくとも、始業から終業までは携帯を禁止になんて出来ないでしょうか? ただ、公立高校でそこまでの指導を徹底するのは難しいだろうなぁ。いっそのこと、学校教育法か何かに取り入れるというのは、どんなものでしょうか?

(追記)
 学校教育法か何かに、、、というのは、もちろん冗談ですので、真に受けないで下さい(^^;; 

2006/11/07

どうして英語教師は嫌われるか?

 この頃はないけど、学園モノのドラマではどうして英語教師って冷たいイメージを持たれていませんか?(これは、被害妄想かなぁ) 金八先生は国語の教師、GTOは社会の教師、ごくせんは、、見ていないから分かりませんが(^^;; どうしてなんでしょうか?

 教師が生徒への姿勢を見ていると、「生徒の立場になる」「教師としての立場で考える」の選択になっていないかなぁとふと思います。(←ちょっとデータがないので弱気;笑) もちろん、世間的には「生徒の立場になれる先生」の方が理想的だといわれるだろうし、もしかしたら人気があるかもしれない。一方、「教師としての立場で考える」は冷たい印象が持たれるかもしれないけど、プロ意識が高い。
 でも、本当にその二者択一でいいんでしょうか?

 「生徒の立場になる」というのは、ことば的には美しいけど、それを感情移入とイコールとして考えていないでしょうかか。この頃の、教員の不祥事を見ていると、この感情移入のケースと感じることがあります。生徒と一緒に感動し、一緒に悲しむ、なんていう感情移入は、上手くいっているときにはいいけど、ひとたびトラブルが起きたら、収拾がつかなくなります。そして、時には自分の感情を相手に移入してもらいたい、という「押しつけ」にさえなる。20代の時に、そんな経験がありませんか? 私はあります(^^;;

 かといって、「教師としての立場で考える」ことを全てと考えると、これもこれで、「べき論」が多くなりすぎてしまい、生徒との距離が離れていく。教師としての立場で考えれば、生徒は授業に予習をしてくるもの、勉学に勤しむもの、自分で目標を定めてそれに邁進するもの、とまぁ、どこの星の住人か分からない人間を理想としてしまいます。もしかしたら、その先生は、そういう学生時代を過ごしたのかもしれません。そんな「聖人君主」のような先生はいかがですか? なんか引かれそうだよなぁ。

 この二者択一には、「共感」というキーワードがありません。共感とは、「相手の立場になる」のではなく、自分を確立した上で、相手の気持ちに寄り添うことです。(少なくとも、私はそう理解) 相手の気持ちが、OKかNGかを判断するのではなく、まずは寄り添うということが大切になるのではないでしょうか?(必要があれば、OKかNGについては、その後に伝えればいいだけ) そのためには、教員自身が他者と分化をして、他者を自分とは分化している存在だと捉え、また教師自身もが分化した存在として考えられなければならないのではないでしょうか。(いちばんの教員研修は、教員が教育カウンセリング(=心理分析)を受けることなんだろうけど、現実的には無理だろうなぁ) 

 さて、ようやく本題。英語教師に対してイヤなイメージが持たれるのは、この「共感力」(英語教師として)が低いからではないでしょうか。現場の先生は分かるでしょうが、国語や社会という教科は、英語に比べて生徒の「敵」になりずらい教科です。身近に感じがれるし、具体的なこともたくさんあります。一方、英語は身近ではないし、自然な状態での具体的なことなど少ない。

 共感の少なさは、英語教師にあるのか、それとも状況的にそうなのか、まだよく分かりません。ただ、進学校に行くと、英語に積極的に取り組む生徒が多いので、「共感」は自然とアップします。一方、底辺校では、英語に取り組む生徒が少ないので、何もしなければ「共感」はできません。「なかなか定着しないなぁ」と同僚同士で弱音を吐くことは大切だけど、それは「いくら教えても無理だ」という気持ちをベースにするのではなく、「どうやって料理してやろうか」というポジティブさがなければ、そのネガティブな気持ちは生徒に伝わってしまい、ますます共感からは遠ざかるものです。「分からないのに授業を受けているのは辛いよなぁ」「今まで辛い思いをしてきたんだね」と共感(感情移入ではない)をし、その上で授業をしていくと、ちょっと変わるかもしれませんよ。何がって? 何かがです。

2006/11/05

初めてのELEC

 拙ブログにコメントを下さるtmrowingさんの発表に興味があり、ELECの大会に出席しました。あまり、千葉県から外に出ることがないこともあり、会場の拓殖大学の最寄り駅「茗荷谷」を何と読むか分からず四苦八苦(^^;;

 午前中の斎藤栄二先生の講演には、本当にその通りという思いを持ちました。学力をつけることは大切だが、本当にそれだけでいいのか。競争を煽って、本当に学力が伸びるのか? 大切なものを失ってしまう可能性があるというお話は、心から共感できました。足立区では、学力テストにより義務制の学校の予算の配分を変えるようですが、これで本当に小中学生が勉強するとでも思っているのだろうか? 子どもたちは、教員にとってはいくつか経験した(する)勤務校の1つかもしれないが、児童・生徒にとっては母校なのです。こういう政策を決めた人にとっては、政策の1つかもしれないけど、児童・生徒にとっては大切な時代を過ごす母校なのです。教育に携わる人は、人間の成長に対して畏怖を持った方がいいと私は思うのですが、そんなことをいう教員は、「守旧派」というレッテルを貼られることになるかもしれないなぁ。正直、いつまでこの仕事を自分がすることができるか分からないようになってしまいました。

 話がそれてしまいました。午後からは2つの分科会に出席。1つは、よく分からないまま、時間だけが過ぎた感じ。限られた時間内に多くの内容を入れるとどうなるか、という発表の要旨とは全く違う視点で見ていました。
 もう1つの分科会はtmさんのライティング。こちらは、とても知的好奇心を刺激してくれた分科会でした。教員は文法を教えることが下手だという自覚を持ち、その文法指導に頼らない指導としてライティングを考えるとは、衝撃を受ける発想でした。後半は参加者でグループを作り、ワークショップ。メンバーにも恵まれ、充実したディスカッションを終えることが出来ました。直接的な「授業で使える技術」ではなく、「これは、こうすれば、ウチの生徒でも出来るかもしれない」という「おみやげ」もいただきました。

 出版社の展示コーナーでは、いくつもの出版社が来ており、お目当ての本も購入。「15(フィフティーン)―中学生の英詩が教えてくれること かつて15歳だった全ての大人たちへ」を帰りの電車で読みながら、こういう作品を書くことが出来る生徒の感性に衝撃を受けました。昨日のブログで紹介した大河原美以先生の「怒りをコントロールできない子の理解と援助」と何か通じるような気が。子どもを健全に育てることに対して、大人はもっと根拠になるべきだ、という思いをさらに強くしました。

 最後の分科会まで勉強をしたかったのですが、畏兄のU先生と約束があり、そのまま千葉に。チャンキングや自分の実践を話しをし、ホッピーを2杯ほど飲んで帰宅。

 某社からの企画が現在進行中。その資料が昨日届いたので、今からそれをパソコンに打ち込みながら、整理をしないと。

2006/11/04

祭りの後で

 そろそろESSの活動も本格化してきました。ESSといっても、ディベートをしたり、会話を楽しんだり、なんていうサークルではありません。「英語(E)そんなに(S)好きじゃない(S)」の頭文字だそうですから、卒業生によれば(笑) 「このままじゃまずいよなぁ」と自分の英語力を考えている生徒のための「英語(学習)部」です。
 10名のサークルですが、英語力はかなり差があります。英検の3級であれば、上は60点、下は20点。それぞれが、教えあったり、助け合ったりして、協同学習をすることも1つの目標です。

 毎年のことだけど、英語の授業を受け持っている生徒しか入ってきません(苦笑) これって、いいのかわるいのかなぁ(^^;; ただ、メリットとして、「授業で学習したこと」の延長線上で、いろいろな話しが進められるので、いいですね。1年生の今は、「基礎作り」を目的に。そして、具体的な学習方法を持っていない生徒が全てなので、1から教えています。今年度は、音読、ディクテーション、オーバーラッピング、シャドイングにこだわろうと考えています。
 長文をテーマとする活動日は、水金土の3日間。文法が火曜。予め渡された英文を生徒はそれぞれ読んできて、水曜日はその解説と音読です。予習にはあまり力を入れなくていい、分からないところは、分からない部分が分かっていれば構わない、という「ソフト予習」。
 金曜日は、その英文で、ALTによるall Englishの授業。パラフレーズをしたり、ところどころでQ&Aがあったり、それはそれは私のダイスキな「実践的コミュニケーション」の場となります。
 土曜日は、音声のシャワー。一般的なディクテーションを行い、1人1人が間違ったところを直します。そしてペアになり、いちばん聞き取りにくかった部分、わかりにくかった部分をシェアします。分からないところをそのままにするのではなく、相手に伝えることにより意識化するのは授業と同じ。
 そのあと、T/F問題。長文の中の人物に私がなり、その発言に対して生徒はT/Fで答えます。2人の人物がいるときには、「この発言をするのはどっち?」となることもあります。
 そしてお決まりのオーバーラッピングにシャドイング。それぞれ3回ずつ。時間にして、だいたい12~13分。

 終わると生徒はだいたいぐったりします。しかし、充実感もあるようで、見ていて楽しいですね。いちばん気をつけていることは、自宅での学習を、具体的な方法で、具体的な回数を伝えることです。「音読をしなさい」というのではなく、「音読を5回してきなさい」という方が、適切な指示だと思うんですが、いかがなものでしょうか?

「それ」を知らない人に、どう「それ」を教えるか?

 地域ネットワークの1月の講師、大河原美以先生の「怒りをコントロールできない子の理解と援助」を読みました。なるほど、という内容。高校だと少ないというか、こういう子どもたちは違う形の「症状」となっているような気もしつつ、高校の「底辺校」「進路多様校」「課題集中校」の先生方はこれを読み、授業にも十分に活かせるのではないか、という感想を持ちました。

 「(思いやりを知らない生徒に)思いやりを持ちなさい」という教師がついつい口にしてしまう言葉の無責任さを私たちはもう一度、考え直してもいいのでしょう。高校だとよく聞くことが、「しっかりと考えてみよう」
 それを授業に適用するときに、「しっかりと学習しなさい」「自宅で2時間は勉強しなさい」という言葉にも通じるのではないでしょうか? 学習しようと思っても、「どのように学習をするか」「何を学習するのか」というhowとwhatを理解していないのです。もちろん、こういわれた生徒は「分かりました」という態度をとるもの。それは当然でしょう。だって、教師の言っていることは、間違っていないことですから。
 しかし、先ほどの「思いやり」と同じように、言われてもどのようにしていいか分からないから、結局はそのままで、学習をしません。すると教師側は、「あぁ、言ったのになぁ。どうして勉強してくれないんだろう」と落胆したり、偽悪的になったりするものです。これは、両者にとって不幸せでしょ?

 そうではなく、具体的に「この文を覚えておこう」とか、「15ページを3回音読してこよう」というように具体的に生徒が分かる言葉で話した方がいい。発音が上手くできないなら、発音の練習でもいい。この「具体的な指示」は「勉強しなさい」「考えなさい」というよりも、難しいものです。普段の生徒を見ていなければいけませんから。でも、学習習慣のない生徒に対しては、こういう指示こそ必要なのではないかなぁと思います。「勉強しなさい」という抽象的なことばで、逃げてはいませんか?(って、自分への戒めです)
 ただこうは書くものの、教員の多くは、その教科が得意だった人が殆どでしょう。その教員を目指す、教員養成学部の学生も同じでしょう。そこで、大学で教科教育と教育心理とをリンクさせた演習を作ってみたらどうでしょうか? 3種類の演習にして、「進学校向け演習」「中堅校向け演習」「底辺校向け演習」のように3つを必修として、学生はそれぞれを履修する。そうすると、学生は「自分の知らない世界」を経験し、教える側も、「英語の授業は英語でしなければいけない。私ですか?もちろん、経験はありますよ、あ、付属中学校でですけど」なんていう一昔前のような教授サマは通用しなくなるわけです。
 都心部の公立高校は中堅校以下の方が多いのですから、こういう勉強をしておいた方が将来、教員を目指す学生にとってもいいとは思うんですけど。いかがなものでしょうか? 教育基本法を変える前に、教育実習の方法や養成のシステムを変えた方が、いいと思うんですけどねぇ。(こう書くと怒られるかもしれないが、教師が団体として政治にコミットするべきではないし、政治が教育を「政争の具」にするべきでもないと私は思います。)

 まぁ、こうして書いていますが、私の生徒だって、具体的に指示をしても、勉強してくる生徒は少数です。1/3程度いるかいないか、程度に過ぎません。しかし、そのせいぜい1/3の生徒を大切にすること、そしてせめて残りの生徒は、英語に対するネガティブな気持ちを少しでも減らしていきたいものです。
 時には(いつも?;笑)、強制的に勉強させることはあるけれど、なんとなく分かったなぁ、という気持ちをもつことだけだっていいのではないかなぁ。多くを求めすぎてしまうと、疲れてしまうのですし。ただ、教育の場にはいろいろと「両者の不幸」が存在するような気がします。うーん、奥歯にものが詰まっていますか?(苦笑)

 今日は今から町内会の催しの秋祭り。続きはまた夜にでも。

(一部改変)

2006/11/02

失敗から何を得る?

 文化祭、体育祭、中間考査など終わり、ようやく落ち着いてきました。期末考査に向けて、学習が始まっています。

 英検の結果も昨日、やってきました。期待をかけている生徒(ESS所属)が落ちたことは残念でした。落ちた理由はそれぞれだけど、あれだけ勉強しているのにどうして力が点数に現れないのか、こちらが不思議に思ってしまいます。今までの経験だと、勉強していると本人が考えていても、生徒の学習への姿勢がピント外れだったことはありましたが、これほど勉強して、理解しているのにもかかわらず、どうして英検だけ?と思ってしまいます。
 こういうケースはいままで初めてなので、なんとか乗り越えていきたいものです。私の指導もどこか間違っていたのだろうから、もう一度、学習方法から見直していかなければ。

 その一方で、授業だけで合格している生徒も少なくありませんでした。6人のうち、5人が合格しました。(こちらは3級です) 落ちた生徒も、あと2点というホンのわずかでしたので、1月に頑張るようです。これは正直、うれしいですね。本人たちもまんざらではないようなので、2次試験の勉強を行っていかないと。彼らはクラスの中で、必ずしも「優秀な」英語学習者ではありません。しかし、それなりのスコアをとってくれるとは、うれしいものです。一方で落ち込むが、一方で救われました。

さて、授業も本番。相変わらずの「短文英単語」での学習。流れを書いてみると、、

  • グループ内でチャンキング。お互いにディスカッション。チャンキングの個数など、ヒントを与えることもあり。
  • 答え合わせと、日本語訳。主語と動詞とを日本語にしてから、その後はチャンクごとに訳していくように心がける。
  • 音読。1つか2つのチャンクごと→全体を一気に音読(だいたい5回程度)。最後は、テキストのイラストを見て、音読をする。
  • テキストを見ないで、音読(2回程度)
  • 最初の音読の区切りの部分を、こちらが日本語で言い、生徒が英語で答える。(1回)

これを4つの文で行っていきます。そして最後に、

  • 学習した4つの英文の音読(各2回)
  • 学習した英文でいちばん難しいものはどれだったか、難しいと思った部分はどこかをグループ内でシェア。(2分~3分)

分からないところをそのままにするのではなく、お互いにシェアして、意識化することで次につなげたい。そして、次の授業の冒頭で、その小テスト。合格点は3点だが、不合格者はどうしようか思案中。放課後に、AO受験の生徒に時間を割くか、ESSの生徒と勉強をしていこうか、と考えると、課題の提出がいちばん無難なところかなぁ。

 書棚で「これからの英語教師―英語授業学的アプローチによる30章」(若林俊輔・大修館)から出して、久しぶりに読みました。うーん、これってホントに83年に出版されたものなの?と思えるほど、新鮮。今の教員のおかれている状況をご覧になったら、若林先生はどう思われるのか、と考えながら読む。自分のポジションをもう一度、見つめてもいいかな、と思ったり。

 話は変わりますが、無線LANにはまだなっていません(^^;; 機械オンチの私には、アクセスポイントとは、niftyの接続場所だと思っていたんですけど、それって、ダイアルアップ時代の話しですよね(苦笑) まさか、ルーターを「アクセスポイント」と呼ぶとは知りませんでした(^^;;; そこにセットするLANカードを明日、購入して、ようやく完了となる予定です。←ちょっと弱気

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