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2006/10/31

現在完了の教え方(番号)&授業の導入

 このサイトを見て下さっている編集者のKさんからメールをいただきました。Kさんが週末に参加された英語教師の研修会で、講師として参加された慶応大学のT先生が、現在完了のhaveが「現在の状況を持っている」というような意味であることは「defactoとなりつつある」と話されていたようです。伝聞なので、正確なことは分かりませんが、導入の段階で、こういう教え方が主流になった方がいいんじゃないかなぁという、控えめな希望があります。

 授業の教え方で「分かりやすく」「楽しく」といわれますが、「分かりやすく」「楽しく」って何なんだろうか、という疑問を持つことがあります。この、現在完了の教え方などまさに、そう感じます。本来は導入とは、その授業の全体像や内容のための導入なんだろうけど、導入だけで完了している導入とは、ひとつのアクティビティに過ぎないのではないでしょうか。授業の流れとして導入を考えるのであれば、無理に入れなくても良いケースだってあるわけです。

 例えば、ビンゴゲーム。この目的とは何でしょうか? リスニング? 単語力を増やす? 英語の雰囲気作り? いろいろな目的が考えられますけど、それがどのようにつながっているのでしょう。ゲームがゲームで終わってしまったら、それは単にゲームなわけで、授業としてそれが相応しいのかなぁ。もちろん、授業は1時間単位で考えるものではなく、その流れも考慮に入れるべきなのでしょうから、1時間だけで判断してはいけないのでしょうが…。導入とは、生徒をこちらの土俵に連れてくる作業だと考えれば、共通の土俵がお互いにあるのであれば、特に必要ではないと私は思っています。

 高校ではあまり聞きませんが、「発見学習」というものがあるようです。例えば、5×5=25というのを教えるのではなく、この「×(かける)」とはどういう意味を持つのか、ということを発見させる学習のようです。児童生徒がその過程の中で、多く発言をしたり、その発言をコントロールして正解に導く授業をよしと考える先生もおられるとのこと。

 娘が99を学習し始めました。ホッとしたことに、担任の先生はこの発見学習をしていません。それどころか、1の段から始めるのではなく、5の段から始めています。算数のことなのでよく分かりませんが、5の段からだと確かに入りやすいかなぁ。この次に、どの段を学習するのか楽しみにしています。

 話しが横にそれましたが、2学期の後半から関係代名詞や分詞の後置修飾が導入されます。この時、授業では「ウォーリーをさがせ!」を使って導入を考えています。具体的にどんな導入をするかは、また次回にでも。

 自宅を無線LANにして、プロバイダーを変更するため、11/1はネットにつなげません。もしかしたら、LANの設定が上手に出来なければ、2-3日は上手くいかないかも(^^;; その間にメールには返信がすぐに出来ないかもしれませんが、接続できましたらご連絡します。もちろん、ブログのサイトには変更はありません。

2006/10/30

答案返却

 答案返却終了。採点をしていて、ずいぶんと悲しく感じたテストだった。これも、いつものことなんだけど、自分の授業に後悔。後悔先に立たず、ではなくて、後悔後を絶たず、という気持ちです。やりようといわれればそれまでだけど、学習してくれる生徒をどれだけ増やしていけるか、そのパーセンテージを少しでも増やしていきたい。

 気になる間違い。教科書の本文で、mind の後に動名詞を書かせる問題は、正解率「激低」。120人のうち、正解者は3名。to practiceならまだ分かるが、practiced, practices, という解答が多かった。他のクラスでも同じ模様。その一方で、手作りの文法問題から出題した同じくmind ~ingを尋ねる問題では、なぜか半分以上が正解。この意味がどうしてもよく分からないのですが、分かる方がおられたら教えて下さい。

 今回は、わざと和訳問題も2題ほど出題。"We are, and will be, rivals in playing the shamisen."という一文が人間の成長を表す上で好きな部分だったという、個人的な趣味(笑) 津軽三味線で有名な吉田兄弟の話題で、2人が練習を行い、その基礎をしっかりとマスターした上で、お互いに切磋琢磨していく姿勢を感じて欲しいという願いも込めての出題でした。We are, and will be,,という部分を「今も、そしてこれからも」という2人の意識の高さを授業で説明したつもりだったのだが、ここが正解した生徒は3割。ウーム、である。

 並べ替えの問題で、It is ~ for 人 to …のおきまりの構文。正解率は高いだろうと思っていたところ、「for 人」の部分を入れる場所にずいぶんと迷っています。ただ、It is ~ to …は出来ているのでそれはよしとしよう。また、音読を「試験対策」に入れておいたのだが、それがどこまでやってもらえたのか、少し不安でした。

 考査返却が本日でした。この考査返却というのは、とても重要な日です。こちらからのメッセージがいちばん、伝えられる一日です。今日、話したのは次の通り。

  • 30点以上だとか、平均点を超えたというようなレベルで考えない。自分の学習過程の結果として、考えるべき。
  • これをきっかけに、もう一度、学習方法を見直してみる。授業は理解の場であって、定着の場ではない。理解を定着させるために、復習として音読と筆写を行っていく。

その他に、自分の担任しているクラスでは、もう少し込み入った話をして、LHRのようでした。LHRってのは、ある意味、「担任教」という宗教の時間みたいなものですね。生徒の「気」と担任の「気」が同じ方向を向いたときのあの感覚って何なのでしょうか?(笑)
 自分のクラスで話したことは、「人間は社会的な動物だから、お互いに切磋琢磨して、いくことが大切なのではないだろうか」ということ。あのLHRの時間をビデオにとって、後で見返してみたら、絶対に恥ずかしいだろうなぁ、俺(笑)

 明日から、2学期の後半が始まります。今から、指導案を考えて、導入を考えないと。まずは夏休みの課題を使用して、比較表現、関係代名詞、関係副詞を学んでいきます。

2006/10/28

アフタケアを考えた教材

 この度、プロバイダーを変えることにしました。今までメールはnifty、接続はyahooだったのだが、全てniftyにすることに(接続はイーアクセス)。変更作業を通じて(といっても、大したことではないけど;笑)、とても感心したのは、しっかりとしたアフタケアでした。このアフタケアの充実度は、フロンティア神代でPCを購入したときにも感じたことです。商品を売った後で、新たに何か買うわけでもないのに、こちらからの質問に丁寧に答えて下さる。とても、助かりました。
 振り返って、英語の教材はどこまでアフタケアをしているのだろうか? どこまで、ユーザーの使用を考えて作られているのかな、と感じました。もちろん、ネット関係や家電と比べれば、教材の単価では十分なアフタケアが出来るほど高いものではない。しかし、出来る範囲でのアフタケアがあってもいいのではないだろうか? そして、教材の作成も、「他社の競合書を参考に、こういう内容を含めよう」というのではなく、「対象とする学習者には、ここまで理解してもらいたい」というメッセージが基本にあった方がいいのではないかと思った。例えば、Dランクの生徒に、動名詞の意味上の主語を学習させる必要はどれほどあるのだろうか?

 教科書のTMには、どういう意図でこの題材を持ってきたのかという著者の意図が書いてあってもいいでしょう、いやあった方がいいと思います。現在、勤務校で使用している教科書はEXCEEDⅠ(三省堂)。これは、言語や民族、文化に焦点をおいた題材にこだわっており、私は使用していて楽しい一冊です。確かにこの教科書は、教えている生徒には多少は「背伸び」をしたものかもしれないけど、小学生のような内容のメッセージ性しか持っていない教科書よりは高校生の知的好奇心をよっぽど引き出せるものです。
 参考書も、他社の類書と同じものを作るだけでなく、それがどのように使用されるかを更に考えて、作った方がいいんじゃないかなぁ? 偏差値でいうならば、40-45の生徒を意識している参考書もだんだんと出て来ています。そういうシリーズの特徴は、ホップ・ステップ・ジャンプをすることで、英語を得意科目に!という意図です。しかし、ホップの段階が不十分であるケースが多いし、そういう生徒の学習意欲を最初に掴む工夫が少ないんじゃないかなぁ。(これは、自分に対してもいえることなんですけど) 
 生徒の到達度を5段階に分けたとき、Dの生徒をA,Bに持っていこうとするのではなく、Cに持っていくという考えがないものでしょうか? D→C,C→Bという2段階で考えた方が、よっぽど挫折しないような気がするんですけど。先ほどの動名詞であれば、動名詞の作り方や、どんな動詞の目的語として使われる時に動名詞となるかにウエイトをおいた方が、D→Cにするのには近道だと思う。それを、意味上の主語なんていわれたら、やらなくなりますよ、生徒は。
 それ以外でも、補語としての役割を教えるなら、"My hobby is swimming."なんてすると、現在進行形と間違えちゃうよ。そうならないように、もう少し工夫をしてもいいのでは? 目的語として説明するときと、補語として説明するときには、それぞれ別の「スパイス」が必要なのでは?
 それに加えて、参考書の中でわかりずらいものを、「よくある質問」コーナーのようにサイトに作っておけば、ちょっとしたアフタケアにもなるのではないでしょうか? 

 拙著をご活用下さっている学校・塾の先生方で、このサイトをご覧になっておられる方もおられるようなので、私なりのアフタケアを書きますと、、、。

  • 「高校これでわかる基礎英語」の音読用長文を試験等でご活用されるなら、そちらはメールでお送りします。(無料)
  • 「高校入試短文で覚える英単語1700」については、それぞれの文の文法事項の説明やチャンキングした分析などの解説を、現在作っております。一太郎ファイルでよろしければ、完成し次第、お送りいたしますので、その際にはご連絡下さい。(無料)
  • 「高校入試短文で覚える英単語1700」の確認テストも制作中です。こちらも、一太郎ファイルでよろしければ、お送りします。(穴埋め問題と和訳問題。ともに無料)

うーん、なんかPRっぽくなったなぁ(笑)

 

毎日新聞社は恥ずかしくないのか?

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20061027k0000e040074000c.html

 それにしても、世界史の履修問題がいたるところでクローズアップされている。もちろん、ルールなので守るべきなのだろう。それを破っていいと考えているわけではない。だが、○○県で何校、××県で何校と数字をあげるだけでなく、こういう事態に陥った理由も冷静に考えるべきではないか? 

 とはいっても、現在のメディアには教育を根本的に考えられる人材がどれほどいるのだろうか?tmさんもご自身のブログに書かれていたが、新聞では高尚なことを書く一方で、系列の週刊誌では「有名大学に合格した生徒が多い高校」を記事にしている。この自己矛盾をどう考えるのだろうか?

 毎日新聞は、「「受験優先」のためには、なりふり構わない学校側の姿勢が浮かび上がった」と冒頭の記事に書いてある。「なりふり構わない学校側の姿勢」ですか。だったら、「受験優先」礼賛の記事をサンデー毎日は書いていないんですか? ○○大学に△△高校から何名、なんてまさに受験優先礼賛そのものではないか? インターハイの陸上競技に△△高校から何名なんて、毎年のようにサンデー毎日は書いているのですか? そんな週刊誌があることも、「なりふり構わない」で、国立大学○○名、MARCH××名合格させる、といった妙な数値目標を一部の高校が掲げる遠因となっている。「ボランティア活動を積極的に行っている高校ベスト100」なんていう記事をしたことがあるのか? 「地元の中学生を入学させて、部活で実績を出している高校ベスト100」なんて記事をしたことがあるのか? してないでしょ。結局、メディアは大学合格にいちばんの価値をおいている。

 大学卒業者でなくても、入社試験を受けられるようにした初めての新聞社は毎日新聞社だった。「学歴よりも大切なことがある」というメッセージと私はとらえ、長い間、毎日新聞の読者だった。他の新聞社とは違うという自負心がないのだろうか?

 年間授業時数が減り、総合的学習時間が導入され、情報も新たに加わり、多くの教科の単位数が減らされてきている。その一方で、大学合格を唯一の物差しとした数値目標や、私立高校との競争を煽ってきたのも、マスコミではないか。特に、予備校がない地方の学校など、煽られてたいへんだったのではないか? 

 教育基本法は第1条で「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と書いてある。ここのどこに、大学合格率という文言があるのだろうか?
 本来、メディアを称するのであれば、こういう視点の切り口の記事をメインで書いてもいいのではないか?

 この頃、腹の立つことばかりなので、英語教育とは関係のない話ばかりになってしまっている。うーむ。

(追記)
 「有名大学」に生徒が合格することは確かにうれしいことだが、それはあくあまでも、生徒が努力・教師がそれを支援をして、その結果なのではないか、ということです。生徒が自分の目標として設定することと、学校側が設定することとでは、意味が違うのではないかというような気がします。否定しているわけではありません、念のため。

2006/10/25

合掌

以前、小学校と中学校、高校の教員の考え方は「文化」が違うと書いたような気がする。はっきりと覚えていないので、もう一度書くと、、、

小学校:児童期文化--「親(校長・教頭)のいうことは、従う」
中学校:思春期文化--「親に反抗することがあっても、最終的に従う」
高 校:青年期文化--「親にいわれても、納得しなければしない」

これは、教師が生徒からの影響を受けていることの証。外的な力で変化をさせようとしても、不可能に近いのではないか? 生徒から影響を受けないということは、生徒との関係をシャットアウトするということですから。

痛ましい事件があったようだ。東京都の小学校の先生が自ら命を絶ち、ご遺族が公務災害が申請されたという。(http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061024i215.htm) この教育委員会のコメントに違和感を感じた人はいないだろうか? 本来であれば、自殺をされた先生の冥福やご遺族への言葉があってしかるべきだろうに、ひと言もない。私たち、教師とは、使い捨てのコマなのだろうか? 

 記事によれば、「5月22日、校長に初めて相談。保護者と電話で話すよう指示」とあるが、その日までこの先生の様子の変化に気づく人はいなかったのだろうか? 特に管理職であれば、それが仕事だろうに。それに、保護者と電話で話すように指示とあるが、込み入った話題で電話で話すことの危険性に気づく管理職はいなかったのか? トラブルを抱えるときは、電話ではなく直接会って、というのがイロハではないのか? 部下のメンタル的な問題に気づかず、教師としての基本のアドバイスも出来ていないとは、管理職としていかがなものだろうか。マスコミ報道にあるように、「子どもも育てたことのないのに」というような、若い先生に人生経験の少なさをなじるような保護者に対しては、管理職が諫めるべきではないか? 
 情熱を持ち、希望に満ちて、教壇に立った彼女のことを考えるととても胸が痛む。合掌。

 娘の幼稚園では今年度から、水曜日の早帰りがなくなり、通常保育となった。そして、ついには延長保育を始めるという。もちろん、両方とも新しく人が雇われることはない。先生方の負担が増えるだけだ。
 どうも、これは一部の保護者からの要望だという。その要望を受け、延長保育が決められたのだろう。その結果、先生方の負担が増え、最終的には通常の保育にも影響が出て、園児に回ってくる。これを決める課程で、誰かが「自分の実績作り」という意図がなかったのか、と勘ぐってしまう。何人の保護者が、延長保育を希望したのは知らないが、どこまで幼稚園のシステムを理解して、要望していたのかと、同じ保護者として私は疑問を感じる。要望と、欲求は違うものだ。

 とはいってみたものの、数十万人の教員がいて、数百万人の保護者がいれば、一定の割合で、おいおい、という人がいることは避けられないことだろう。ただ、そういう教員がいるから「教師はダメだ」、そういう保護者がいるから「保護者はダメだ」という「無益な戦い」はやめませんか? 大切なことは、学校という器にいる生徒の成長であり、無益な戦いは何の役にも立たない。教師が自分の実績作りを考えずに教育活動をして、保護者も学校の現状を理解した上で、要望をだすことではないだろうか? そうすると、純粋に改善をすべき点が見えてくるのだろう。

 実践的コミュニケーション能力の育成という言葉が、これでは空回りしていますよ。

2006/10/24

立ち位置のバランス

 自分の肩書きは「教諭」だ。教諭の「顔」には、英語教師もあれば、担任もある。そして、教師という顔も持ち、部活の顧問という顔もある。掃除の監督もあれば、教育相談、生活のよろず相談、連絡調整係などなど、とにかくいろいろな側面がある。自分の立ち位置を考えてみると、あまり英語教育にはウエイトがないような気がする。これっていいのかなぁ(^^;;

 先日、卒業生のX君のライブに誘われた。彼は卒業後にメンタル面の病を患い、病院に入院していた。その入院先からいちど連絡をくれたのだが、それ以来、まったく音信不通であった。もともと、楽器が好きだった彼は、研究室においてある私のギターを見て、「先生、ギターをするの?」と聞いていた。卒業間際に、彼と2人でギターを弾いたことが私にはとても印象的なことだ。

 ライブハウスにはいると、ちょっとそこは異空間、少なくとも俺にはちょっと若すぎる空間だったり(苦笑) 彼のステージトークの最中に、コーラを注文していると、「実は今日、7年ぶりに会う人がいるんです。その人のお陰で、自分は高校を卒業できた。どんな関係かは秘密だよ(笑)」と私の方を見ながら話しているX君。ちょっとうれしいやら、照れくさいやら。

 「先生のお陰で卒業できた」と、卒業生にいわれることが増えてきた(卒業生の増加に伴って、です)。しかし、自分がしてきたことを考えてみると、その生徒に何かしたという実感はあまりなく、あえていうなら、共感できる「共通チャンネル」を持ってはいたかなぁとも思う。「たいへんなクラスだったねぇ」といわれることもあったが、自分の中では「たいへんだ」という思いはなく、楽しかったという気持ちの方が多い。

 うーん、どうも卒業生と話していると、自分の立ち位置は、英語教師というよりも教師に重心があるようだ、やっぱり。苦労して考えた課題や授業の進め方、テスト問題はあまり卒業生の中には残っていないようだ(笑) 
 子どもの学力低下がいろいろなところでいわれている。そのために、英語教師に求められていることは、実践的コミュニケーション能力の育成や、大学への数値目標を伴った学力向上や大学合格の実績などなど、どうも「英語教師業」にのみ、焦点が置かれてきているのではないだろうか? それはそれで大切なことは十分に分かっているのだが、英語教師としての仕事だけではなく、教師としての役割もまた重要なことなのではないだろうか。しかし、これは数字に表れることはなく、結局は卒業生や生徒ととしか分からないことなのではないか。
 共感力、冷静な判断力、観察力などいわば「教師力」とでも呼ぶべき能力も考えてもいいのだろう。この「教師力」の高い先生は、グレーゾーンを持っている。スポーツ選手がケガをして、スキルのない医師に判断を仰ぐと、「練習は停止」といわれるが、スポーツドクターは「ここまではOK」と行える限界を提示してくれる。それと同じように、教師力の高い教師は、自分なりのグレーゾーンを持っているのだが、それが時として規則と相容れないときがある。一方、これだけバッシングが行われる教員という職業である。自分の身を守るために、この規則を優先させるケースもあるのかもしれない、たとえグレーゾーンを持っていたとしても。

 話がそれてしまったが、現在の1年生には「しっかりと勉強をしなさい」といっている。その一方で、卒業しても連絡をくれる生徒は、学力が必ずしも高かった生徒ではない。なんとか、卒業できたという元生徒の方が多い。「しっかりと勉強しなさい」と真面目な顔で伝えている一方で、心の中に「勉強だけか?」と感じていることも事実なんだなぁ、これが(苦笑)  授業の定着が大切なことはいうまでもないが、それに拘りすぎずに、「この英語の授業は分かりやすいな」「自分でもわかるな」「一生懸命、この先生は教えてくれるんだな」と生徒が思ってくれるだけでも満足していい部分を持っていてもいいのではないか。
 英語力や点数の上昇を授業では第一に考えるのではなく、「自分にも英語が分かった」と思えて達成感が持てるようになってくれればいい、英語力はそれに付随してくれればいい、という思いのベースはこんなことです。もし、たくさんの生徒が大学に進学をする学校に行ったとしても、英語偏差値向上マシーンとはなりたくないとも思う。

 さて、そろそろ教員採用試験の結果も出ているようだ。来年度から教壇に立つことになる若い人は、どんなバランスを持ち、教育という仕事をこなしていくのだろうか。

2006/10/21

現在完了の教え方

 現在完了は、中学生がつまずく1つだろう。スタンダードの説明は、「『現在完了はhave+過去分詞』で、『経験』『継続』『完了』の3つの用法がある」というものではないか。少なくとも、私の生徒はこのように教えられたというものが少なくありません。

 こういう説明で分かる生徒はいいけど、『経験ってなに?」「完了ってなに?」「継続ってなに?」と思う生徒がいるときにはどうするのか? 同じ形なのに、どうして3つも用法があるの?と聞かれたら、なんてこたえますか?

 そこで、もっとシンプルに説明。現在完了のhaveを「~という現在の状況を持っている」と考える。

I have lived in Tokyo for ten years.

I have →「私は~という現在の状況を持っている」
~とは? lived →「住んでいる」
どこに? in Tokyo →「東京に」
どのくらい? for ten years →「10年間」
→「私は東京に10年間住んでいるという現在の状況をもっている」
→「私は東京に10年間住んでいる」

I have just finished my homework.

I have →「私は~という現在の状況を持っている」
~とは? just finished →「ちょうど終えた」
何を? my homework →「宿題を」
→「私はちょうど宿題を終えたという現在の状況を持っている」
→「私はちょうど宿題を終えたところだ」

I have visited Korea before.

I have →「私は~という現在の状況を持っている」
~とは? visited →「訪れた」
どこに? Korea →「韓国に」
いつ? before →「以前に」
→「私は以前、韓国に訪れたという現在の状況を持っている」
→「私は以前、韓国に訪れたことがある」

 こう考えれば、継続や完了、経験を生徒が理解しやすいのではないだろうか? この導入の方法で、「現在完了って難しくなさそうだな」と生徒が感じることで、「アレルギー」も弱まってきます。
 ちなみに、この考え方は拙著「高校これでわかる基礎英語」で説明していまして、原稿に目を通して下さった國弘正雄先生がこの説明に◎をつけて、「good」と書いて下さったことが、私の励みです(^^)

 さて、「短文で覚える英単語1700」にCDがつき、発売されました。ちなみに、CDがついている版は、ついていないものと英文が違いますので気をつけて下さい。もしよろしければ、書店に足を運ばれた際にはお手に取ってみて下さい(^^) 

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2006/10/18

生徒をその気にさせる工夫(番外編)

 先日、卒業生が学校に書類を取りに来た。英語教師を目指して大学で学んでいる彼がこのブログを見てくれていると聞き、うれしいやら、恥ずかしいやら。その時に、彼に話したことを、番外編として書いてみます。

 この話題の最初の日に、「嫌いなことに理由などない。どうしてキライなのか?と聞かれるから、自分を守るために理由をつけたり、理由をつけないと相手が納得しないから理由をつける」ということは書いた通り。
http://rintaro.way-nifty.com/tsurezure/2006/09/post_940c.html
 もっと簡単にいえば、「英語アレルギー」というものは、アレルギーどころではなく、英語に対しての「鎧甲」のようなものです。「どうして英語がキライなの?」と聞かれても、その鎧を着ていれば、身を守ることができるのです。この鎧は、「日本にいるのだから英語は必要ない」「英語の先生が嫌いだ」などなど、いろいろな形をしています。ただ共通しているのは、鎧の下の体(英語力)は弱いということです。

 一方、教員がそのアンケートを鵜呑みにして、いかにその鎧が不合理なものかということを、生徒に伝えようとする努力の中には、100%悪意はありません。むしろ、一生懸命に考える人や熱意にあふれる人がそうなります。その鎧を着ていては不便だろうから、それを脱ぎなさい、と。もちろん、その説得は100%正しい合理性があります。正面から受け止めたら、それを受け入れなくなります。
 それに対して、生徒は脱ぐことによって、自分が傷つくのが分かっています。だから、脱ごうとはしない。それなのに、相手は正論で責めてくる。これは、困った・・・・。

 次に出てくるのはコミュニケーションの断絶。コミュニケーションをとり続けると、自分が傷つくのだから、その話題を相手としないようになる。もしくは、授業中はあたかも分かった振りをする。(ビンゴゲームやALTとのゲームで、分からない生徒が、周囲に合わせて笑っているのは残酷だと思いませんか?)
 100%の善意はここで、「ここまで、いっているのに、どうしてやってくれないんだ?」「どうして、分かってくれないんだ?」とイライラしてしまいます。その結果、「いくら話しても意味がないよな」「教えても、仕方ないよな」となっていきます。
 生徒も傷つき、教師も傷つく。こんな不幸なことはありません。これでは、英語が嫌いな生徒が更に嫌いになり、英語が苦手な生徒が多い学校に、教員が行きたがらなくなるのも当然です。学力の向上をいうのであれば、フィンランド型の、「分からなくなってしまった生徒へのサポート」を考えべきなのでしょうが、今の教育改革の話題では全く問題にもされていませんが。(蛇足だけど、教育再生ってことは、今の教育は死んでいるんですねぇ。俺は、死んでいる場所で働いているのか? 再生会議のメンバーの人に、命を吹き込んでもらうような無力なものなのか?って思う人いませんか?)

 まずは、生徒が自分でまとっているものを、脱ぐようにさせることが必要なことです。もちろん、100%の生徒を脱がせようとする必要はない。1人でも、2人でも、脱いでくれる生徒がいれば、いいじゃないですか。そして上手にいったケースを自分なりに検証し、次の時に、それが3人や4人、5人と増えていくように、自分のやり方をブラッシュアップさせればいいだけだと私は思います。そうやって、自分なりの方法が少しずつ確立していくものです。(だから、アクションリサーチなんです)

 教員の善意は、時には生徒を傷つけるものです。「こうすれば分かるはずだ」「こうやれば、納得してくれるはずだ」という教員的な視点の善意はオブラートでくるむ方がよいのでは? 

2006/10/17

生徒をその気にさせる工夫⑥

今日のテーマは「共感」

 「わかんねーよ」という言葉を生徒が言ったときに、どうしますか?「そんなことをいわずに、勉強しろ!」と言ってはいないでしょうか? 正直にいうと、「分からないといったときに、あなたの成長は止まるよ」と私は言うことはありますが、それは生徒との関係が出来上がり、そして生徒の様子を見ていいます。関係が薄い生徒、出来ていない生徒には絶対に言いません。

 『行動には目的がある』とアドラー心理学では考えることは書きました。では、生徒が「わかんねーよ」と教員に聞こえるように、時には教員に向かっていう目的は何なのか、ということを考えてみるのもいいのでしょうね。独り言で、「難しいぞ、これ」「わかんねぇなぁ」というのではなく、そういうときの生徒はこちらに聞かせたくて、そういう言葉をいうものです。(授業中に説明に対するものではなく、問題などを生徒が解いている時という限定でこれから話を進めていきます)

 「分からない」と生徒がいう目的と、教員のその言葉との対応に温度差があることはないでしょうか? 教員は、そういわれると、「どこが分からない?」「もう少し考えてみろよ」というケースが多いでしょう。これはもちろんですよね、「分からない」といわれたら、「分かるようにする」ことが仕事なのですから。

 ですが、生徒の多くはこういうときに、「分かるように説明して」という目的ではなく、他の目的が多いような気がします。「俺と少し、話をしてよ」「分からないという、俺の気持ちは分かる?」という目的が多い気がします。
 だからこういわれたときに、「ホント、難しいよなぁ。俺も学生時代にロシア語を勉強していたんだけど、チンプンカンプンでよく分からなかったよ」と、生徒に『共感』すると、彼らはこちらに耳を貸してくれます。「先生もそうだったの?」「じゃ、気持ちは分かる?」と、自分がその課題を難しいと思ったことが分かってもらえたという気持ちが、心を開かせるものです。こう書くと必ずある誤解が、「物分りよく、生徒が分からないということを認めていいのか!」というものです。私は生徒の分からないということを、それでよいと認めるべきだというのではなく、生徒が分からないといっている気持ちに「共感」するのも、1つの方法ですよ、といっているだけです。

 私たちは、他人に共感してもらえると励まされませんか? 教員同士の会話なんて、まさに共感の連続じゃないですかねぇ。特に、底辺校と呼ばれる学校に勤務されている先生、革新的な英語教育の団体におられる先生、もしかしたら、校長先生の集まりにいたるまで、その雑談は、「その気持ち、分かるよ!」という共感の連続なのではないでしょうか?(最後は、参加したことはないので分かりませんが;笑)

 ただ、お互いに現状に共感しあっているだけでは、愚痴になってしまいます。愚痴はもちろん大切だし、愚痴をこぼすことを通じて、第3の道が出てくることもあります。それは、教員間ではいいでしょう。しかし、生徒との授業のときであれば、「共感」した上で、生徒に対して具体的な方法を提示した方がいいものです。

 今日の授業で、ある生徒が「わかんねぇよ」と言ってきました。教科書の課末の、現在完了の並べ替えです。しかし、よく教科書を見てみると、正答です。彼は分かっていないことはありません。考えてみると、この頃、彼は休みがあったということもあり、話をする機会がありませんでした。だから、話をしたかったんですよね。高校生にもなれば、「俺と話をしてよー」なんて言えませんから。

 そこで、「難しいか、これ。俺も学生時代にロシア語で苦しんだからなぁ」といいつつ、たわいもない話を少しして、わざと教科書に書き込んだ正解に気づいたように、「おぉ、全部出来ているじゃないの! すごいねぇ」というと、少し照れた顔でうれしそうな彼。「同じグループの友人に、ここを教えておいてよ」とお願いすると、「いいよ」と快諾してくれました。

 もちろん、こんな成功例は多くはありません。でも、共感をしつつ、他の道に連れて行くことも大切なことではないでしょうか?

<追記>
 共感は大切だが、ラポールを取れないケースも時にはあります。原因はさまざま。例えば、BPDと思われる人であれば、無理の可能性が高い。「生徒を信じる」「本音の付き合いをする」というと世間受けはするかもしれないが、時には心からの理解を求めないケースがいいこともある。以前のブログにも書いたが、出来ることと出来ないこととを、峻別することも必要なことです。

2006/10/16

生徒をその気にさせる工夫⑤

 いまの1年生も、入学して早半年。早いものですね。入学時の写真を見ていると、生徒の成長を感じるものです。まぁ、生徒だけでなく、娘の七五三の晴れ姿を見たときも、うれしいやら、寂しいやらでしたが(^^;;

 中学校で先生をしている畏兄のFさんと久しぶりに話しをした。正直、中学校の先生はきついなぁと思う。高校よりも多い事務書類や授業時数。生徒指導の難しさ。偏差値30~70までのミックスされたクラス。その他もろもろ、たいへんだと思います。それを分かっていての記事ですので、どうかご容赦を。

 なぜか分からないのだが、私の授業を中学校の時に授業と比較をしてくれる生徒が多い。生徒が受けてきた授業に比べ、私の授業はある意味、「古典的」なのかもしれないけど(笑)
 必ずどの生徒からもでてくることは、「ビンゴ」。ステレオタイプかもしれないが、ビンゴで単語を学び、ALTと歌を歌ったり、hanging game(名前が違うかな?)をしたり、ともかく「コミュニカティブ」な授業が満載。それらの授業で共通していることは、分からないとバレるのがイヤだから、周囲にあわせて笑ったり、行動をしたりしているということ。自分を守るためには、当然の行為なんだけど、様子だけ見ていると動きのある、活動的な授業なんでしょう。
 一方、私の授業は1学期は主語と動詞の組み合わせやチャンキング。また、英単語をひたすら覚えていく。2学期には、グループ学習で英文を考えさせたり、指示代名詞や内容のディスカッションをしたり、お互いに本文の中から問題を出させたりと、中学校的な「コミュニカティブ」とは対照的な授業。次のような英文も、80%以上の生徒が正しくチャンキングをして、主語動詞の組み合わせを答えることが出来る。

A huge rock in the central part of Australia is called "Ayers Rock."
They found that the mountain was the highest in the world.
(EXCEEDⅠより)

 期間巡視をしていて、これらが分かった生徒は、徹底的に大げさまでに感想をいう。「すごいねぇ」「これが分かるようになったんだねぇ」 男子生徒には、「お!これが答えられるとは男だねぇ。すごいじゃん」 時には、黒板に自分たちのチャンキングした英文を書いてもらう。これはもちろん、私が見てOKだと思ったときのみ。そうやって、出来るだけ多くの生徒に「ハレ」の場面を味わってもらいたいんです。
 黒板でチャンキングの答え合わせをすると、「よっしゃ!」「あ~ぁ」「俺の方が合っていたじゃないか♪」「負けたぁ」という声が聞こえてきます。合っていた生徒はうれしいし、間違った生徒は悔しい。ゲームではないが、ゲーム感覚を授業の一部に取り入れることで、説明を聞く時間も集中力が持続します。

 「分かる」という実感とは、すばらしいと思いませんか? 自分の努力の結果、分からないことが分かるようになるんです。今まで、英語で成功体験をしてこなかった生徒が、成功体験をすると、やはりうれしいもの。この達成感をどうやって、生徒に体験してもらうかを考える戦略を立てた方がいいのでは? でも、あまりにもミエミエの感想はいわない方がいいですよ。努力をしないで、ちょっと出来た程度で「すごいねぇ」といったところで、生徒は馬鹿にされていると感じたり、さらに悪いときには「この程度で構わないんだ」と思ってしまうもの。自分なりに頑張ったと感じたときに、「お!今日は調子がいいねぇ」とひと言を生徒につぶやくだけで勇気づけられるものです。

 生徒にその気にさせるキーワードは、ある程度の努力に裏打ちされた「達成感」ではないでしょうか?

2006/10/09

生徒をその気にさせる工夫④

 以前に保育園の先生が、「子どもたちは、早く親に迎えに来てほしいんですよ」と言っていました。「時間になって玄関が開く音を聞くと、全ての子どもがそっちの方向を見て、親が来た子どもはうれしそうに戻っていく。でも、自分の親でなかった子どもは何事もなかったようにテレビを見たり、遊びを続けたりする」

 これは、高校生と勉強との関係も似ているのではないでしょうか? ほとんどの高校生は、勉強が出来るようになりたいと思っているものです。テストはある意味、残酷であり、現実的なもので、点数で他者とのランキングが出来上がってしまいます。多くの小学校の子どもが、9×9が出来なくても、努力するし、分数が苦手でも分かるように勉強していきます。しかし、その「失敗体験」が重なったときに、素直に「これは、自分の努力不足だ。さらに精進を重ねないと」と思う人など皆無に等しい。自分を守るために、「勉強なんて、実社会では関係ないんだよ」「学校の英語なんて役に立たない」などなど、勉強をしない理由を作っていくものです。
 これは、私たち大人でも似ていませんか? 自分たちを守るために、色々な理由を作りませんでしょうか? 大人は自分たちを棚に上げて、子どもや学校に理想を求めることが少なからずありますが、それはあまりにも偽善的ですよね。(うーん、特に学校の先生や警察官に多いかな?) 

 子どもたちは、他者と比較されたり、自分で比較してみたりして、傷つくことが多い。だから、自分を傷つけてきた(自分で傷ついてきた)場所である学校に対して、ネガティブな意識をもつものです。
 一方、教員は学校のシステムが正しいことを背景にして、「指導」を行う傾向がある。この指導は常識的に見て「正しい」ことだから、たちが悪い。「勉強は大切だ」「予習や復習は大切だ」「学生としての本分は学習である」などなど、本当に正しい。しかし、正しいことが他者を動かすかというと、そうではないことは、2回前のブログにも書いた通り。

 そんな傷ついている生徒には、魔法の言葉を投げかけてみるといいですよ。

 「○○君は、ホントはもっと出来るんだよね」「○○さんは、ホントは分かっているんだよね」

 他者と比較するのではなく、自分自身のイメージを高めて、自分の中に目標となる自己像を持つことが出来るようになる「魔法の言葉」です。これは決めの言葉で、最初から言っても全く意味がない。安心できる授業、自分のことをこの先生は分かっているという信頼感、この先生は人間的に大丈夫だという尊敬、そういう意識が全て重なったときに、「○○は、ホントはもっと出来ると思うんだけどなぁ」という言葉は、重みが増してきます。

 「どうやって学習すればできるようになりますか?」と聞いてくる生徒も少なからずいます。その生徒には、どういう学習方法が良いのかというアドバイスは、実態を知っているあなたしかできません。音読が必要だ、といったところで、単語が読めない生徒ならどうしますか? 授業を聞いてもいない生徒なら、どうしますか? 文法は理解しているけど、英文が読めない生徒にはどうしますか? 高い学力を持った生徒なら、さらに伸ばすためには、何が必要なのか? それぞれ、実際に授業をしているあなたしか、分からないのです。生徒1人1人にとって、「できるようになる」というモデルは違うわけで、この質問に適切に対応するためには、ホント難しいものがあります。これは、教師力が試されている瞬間で、私も自信を持っている顔をして生徒にアドバイスをしますが、結構、内心はヒヤヒヤしています(苦笑)

 もちろん、全ての生徒が勉強するようになってくれれば、理想的です。しかし、現実的にはきわめて難しいでしょう。キライな生徒を勉強するように一気に持っていくことを考えるのではなく、まずはネガティブな感情を減らしていく。そうなったときに、分かる授業があれば、学習を進めていく生徒もでてくるものです。
 

2006/10/05

地上3mで自転車に乗る

 地上3mに長さ20m幅50cmの板が架かっています。風は無風状態。もちろん、柵はありません。そこを自転車でわたって下さい。

 自転車に自信のある人は、ちょっとした勇気でそこを渡っていけるでしょう。でも、地上50cmや1mで失敗した経験のある人はイヤですよねぇ。命に関わることはないかもしれないけど、骨を折るかもしれないし。。。その上、他の人が見ていたとしたら、落ちたら格好悪いじゃないですか。「失敗を恐れないで!」とインストラクターはいうけれど、やっぱり失敗したらイヤですよね。チャレンジしようとしても、アドレナリンが出てきます。

 50cmや1mで失敗した人が集められたら、どうしましょうか? 同じ時期にトレーニングを開始した人が3mに挑戦しているのに、もっと後にトレーニングを開始した人と同じ高さ、方法で再チャレンジするのはプライドを傷つけられますよね。

 トレーニングをするとき、まず大切なことは「安心感」ではないでしょうか。今まで散々、イヤな思いをしているのですから、トレーニングをしても大丈夫だという安心感を持たせることが必要になります。
 授業も同じです。まずは教室内に「安心感」を持たせることが大切です。よくこれはいわれることですが、あまりにも抽象的です。良い意味でのバランス感覚、生徒に対する優しさと厳しさを持ち合わせた眼差し、何に対しても構えていられる遊び感覚を忘れることのない余裕、そして「自分のことをこの先生は分かっているんだ」という感覚を持たせること、などなどでしょう。

 いちばん最後の要素はとても大切です。掃除の時間の雑談で(この清掃時って貴重な時間なんですよね)、生徒の身近に起きたことを当てるだけで、「自分はよく見られているんだな」という気持ちになります。結構、効果的なことが「A君がBさんを好きだ」という古典的な切り口(笑) いちばんのプライバシーの部分でしょうから、これは生徒から一目おかれること間違いなし!でも、TPOをわきまえないと、信頼関係がなくなりますので、ご注意を(笑)

 分かりやすい授業とは、そんな安心感がベースとなっているものです。その上に、先生1人1人の個性を伴った教え方が加わることにより、分かりやすい授業となっていくものです。自分の個性を無視して、時流に乗った教え方をしても、教師側が消化不良の状態で授業を行ったところで、上手くいくはずがありません。往々にして時流に乗った教え方が得意な先生は(うーん、奥歯にものが詰まった言い方だなぁ;笑)、その方法以外はダメだというから困ってしまうこともあります。
 解決策にはならないけど、自分の方法を試行錯誤しながら見つけるしかないのでしょうね。試行錯誤をしていくうちに、自分なりのスタイルが出来てくる。一度教えたことを、いい訳にしないことが大切かな、特に最初のうちは。 

 そして、授業のデザインは1年間で考える。当然のことなのだろうけど、1年単位で考えて、1学期の目標、2学期の目標、学年末の目標を持った上で、その月の目標、その1時間の授業へとトップダウンのデザインを考える。そうすると、1学期の授業と3学期の授業とで、授業のスタイルに変化がでることもあります。

 良い意味で、生徒に迎合しないこともやはり必要。「分からない」といわれた時に、それが授業が原因なのか、それとも生徒の努力不足が原因なのか、どちらかを判断することも大切ですよね。(こういうところが、アンケートでは一緒になってしまうでしょう) 自分の授業を見つめることも大切だけど、「分からない」といえば自分の努力不足のいい訳となっていると思っている生徒がいたなら、その「わからない」を受け入れるべき発言だとこちらが判断すれば、それは生徒にとっての不幸です。だから、「『分からない』ということで、思考を停止してはいけない」と時には突っぱねることも必要なことです。

 話しが脇にそれてしまったけど、「分かりやすい授業」という1つの答えなどないということです。教室内を安心という雰囲気で満たしてから、あとはとにかく試行錯誤を繰り返すのみ。意識をして、アクションリサーチをすることは、大切なことです。小手先のテクニックや、他の人の実践を借りてきて、そのまま使おうと思ったところで所詮は自分のものではないということ。良い服を買ってきたところで、それを着こなすためには時間がかかるものです。
 この視点の延長線上だけど、他人の授業が自分のスタイルと違うからといって、自分を物差しに否定するべきものではない。最終的には、生徒の授業に対する満足度があれば、それで構わないのではないでしょうか?どんなに時流に乗った教え方でも、対象となる生徒から不満があったときに、「生徒が勉強しないからなぁ」と生徒のせいにする教員にだけはなりたくないなぁ。

2006/10/02

生徒をその気にさせる工夫②

 「タバコは健康に悪いからやめなさい」といわれても、タバコを吸っている人は、タバコを吸い続けますよね。喫煙者の多くが、周囲の人から何度もこんなことをいわれた経験があるのでは? 毎日、タバコを2~3箱を吸っていた私の父もそんな1人でした。

 しかし、家族にタバコをやめるように何度言われても止めなかった父は、孫の誕生でタバコをやめました。「たとえ孫が生まれてもタバコはやめないよ」と言い続けた彼でしたが、孫娘を実際に見てやめる決心をしたのです。これは、家族にとっても予想外のことでした。

 同じように、生徒が学習をしようとするきっかけは、さまざまです。「これじゃまずいなぁと思って」「将来、バリバリに働きたいので」「中学校の時に仲のよかった友だちが、進学校にいったので」という内面的なきっかけから、「英語が分かるようになったから」「周囲が勉強しているから」「勉強せざるを得ない状況だから」という外部的なきっかけまであります。私の少ないサンプルの中では、高校に入って学習するようになった生徒のきっかけは後者のケースが多いのですが、前者の意識を持った生徒の方が圧倒的に伸びていきます。だから、いかにして後者から前者へとつなげていくかが教師側の課題になるのです。

 こう書くと簡単なのですが、相手がコンピュータではなく人間なので、いつ何時、そのきっかけを持つようになるかが、誰にも分かりません。(まるで私の父の禁煙と同じように) もちろん、後者のきっかけさえ持たないまま卒業していくケースさえ少なくないのが実情です。ゴールが見えるレースならどんなペース配分で行えばいいのか分かりますが、どこがゴールか分からなければ、暗闇の中で進むようなものです。広い意味での不安感が、頭をよぎることもしばしばです。
 それはともかく、内的なきっかけを生徒が持てるような話しは、色々な角度から、そして多くの場面で、繰り返し伝えていくしかないのです。それが、いつ生徒の心に届くか分かりません。どんな言葉が生徒に届くか分かりません。なぜか計算している言葉は生徒に伝わらず、ふと口から出た言葉が、その生徒に届く瞬間があるんですよね。
 そうなると、生徒は学習するようになります。放課後に残って勉強するようになります。「授業が分かるから」「英語が得意だ」程度では、放課後に残ったり、土曜日に学校に来てまで勉強はしないでしょうが、自分で必要だと思ったときに、人間は学習をするのではないでしょうか?

 よく、「本人がその気にならない限り、勉強はしない」ということばを聞きます。これは、まさに正しい。しかし、その前提として、「分かる授業」が必要になってくる。自省の念もこめてですが、分かる授業なくして、「本人がその気にならない限り、勉強はしない」ということを私たち教師が言うことは、一種の責任放棄であるとさえ私には思います。

 この次は、その「分かる授業」について書いていきます。

 

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