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2006/09/25

生徒をその気にさせる工夫①

 PCを新しく買いました。持ち運ぶことを考えて、初めてのノートパソコンで、明日、自宅にやってきます。人前で話しをするときに、パワーポイントを使うことがまずの目標です。パソコンに取り組んだのは早い方だったのですが、どうも今に至るまで、使いこなしていません。

 車が好きな人もたくさんいるのでしょうが、私はあまり興味がありません。走ればいいと思っており、車の運転も嫌いです。必要に迫られて運転しているだけだし、電車での移動の方がよっぽど楽ですね。だから、いまだに車のことが全く分かっておらず、整備もほんと「イエローハット任せ」の状態です。

 パソコンにしても、車にしても、どうしてそんなに興味がないのかなぁと考えてみました。パソコンであれば、、、目が疲れたり、覚えることは多いし、マニュアルを購入してもよく分からないし、日常生活で必要なこと以外は役に立たないと思うし、などなどありますが、実際のところは自分でもよく分かりません。とにかく、興味がないのです。
 車も同じ。肩はこるし、危険だし、お金はかかるし、緊張するし、などなどありますが、好きでないから好きでないのです。
 どちらとも、嫌い=好きでない理由は1つではなく、いくつも原因が重なっています。で、単純に嫌いだから嫌いなんです。その逆も同じ、好きだから好きなんです。好きなことに理由もありません。

 ようやく本題です。

 英語が嫌いな生徒も、その理由は1つではないはずです。それに、「どうして?」というのは無意味な質問だと私は思います。多くの場合には、質問者の意図と違う答えが返ってくるでしょう。質問者は、「何がきっかけで嫌いになったのか?」「英語が嫌いなのは何が原因なの?」という意図で聞くのでしょうが、その「きっかけ」「何」が分かれば、そこを解決すれば、好きになると考えるからです。
 しかし、そんなアンケートに答える生徒自身も、どうして英語が嫌いなのか分かっていないケースがほとんどです、私の経験では。(不登校の生徒が「自分でも学校に行けない理由がよく分からない」というのと似ています。)
 しかし、尋ねられたら答えます。「英語の授業が分からないから」「先生が嫌いだから」「英語は必要ない」などなど。というのも、「よく分からない」とか、「嫌いだから、嫌いなんだ」と答えても、相手が納得しないのは分かっているからです。成長すればするほど、自分のプライドを守るために、自分が学習しない理由を正当化(客観か)しようとすることは、当然のことです。
 一方、アンケートをとった教授者側はそれを解決しようと心がける。分かりやすく授業をすれば、好きになるんだ! 生徒と仲良くなれば、勉強をしてくれるようになるんだ! 社会に出たら英語が必要なんだよと必要性を納得させれば、勉強するようになるんだ! しかし、その心意気や立派でも、ウームという結果に終わり、また振り出しに戻ってしまうことがありませんでしたか? 私の20代の時はその繰り返しでした(苦笑)

 中学校や高校生の段階では、英語が苦手な生徒は英語が嫌いで、得意な生徒は英語が好きだという当然な傾向はあると思います。アンケートによる「原因」ではなく、点数という「事実」から考えた方が、絡まった糸をほどくヒントがあります。つまり、英語が分かるようになること、「自分が英語が分かった」と実感できるようにさせることが、生徒が英語を勉強するようになる一番の方法だと私は思います。(授業が分かると、英語が分かるとの違いって微妙ですけど)

 「英語が分かると実感させる」と文字で書くことは簡単ですが、ひとたび苦手意識を持った生徒が勉強して、そのような感覚を持つように勉強するには大きな力が必要です。予備校のように、放課後に、お金を払って、自分の意志で来てくれる生徒ではありません。中には、ネガティブな思いを持ちながら入学してくる生徒もいます。

 そういう生徒も含めて、どうやったら学習するようになるのか、ということを考えていきます。もちろん、これに答えなどありません。ただ、こんな風にしていますよ、という程度のことです。あと、内容的に、「本家サイト」の「生徒のメンタルサポート」と重なる部分もありますが、そこはご了承下さい。

(一部加筆)

2006/09/23

問題教師とはどんな教師?

 このごろブログが進まない。途中まで書いても、どうもネガティブになってしまう。教員をしている友人とメールをやりとりしていても、ある話題になるとクライ文脈になる。極力、政治的な話題はここではしたくないのだが、どこかで一回は書いてみようと決心した。

 自民党の総裁選も終わったが、その中で「問題教師」と聞いて、イヤな思いをしなかった教員はどれほどいるだろうか? それに、「教員免許状の更新」「免職」という言葉が出て来て、そして「学力が下がったのは学校に原因がある」、「教員の給与を下げろ」というセリフがマスコミには踊っている。こんなことばかり聞かされて、どんな人間性の持ち主が、「頑張ろう!」と思うんだろうか?
 ネガティブなことばかり言われると、子どもが健やかに成長しない気持ちが改めて実感できたことはプラスだけど(笑)

 例えば、学力問題。かつて、教育課程審議会会長でゴカツヤクされた三浦朱門氏の責任はどうなるのか? 彼を任命したのは誰なのか? 学習的な能力が高い生徒を伸ばせ、そうでない生徒は「実直な精神」を養えばいい、と彼は明言している。(「学力世界一」のフィンランドの教育は、どうやって勉強についていけない児童生徒をサポートしていくかをよく考えている。) 三浦氏の発言は、ネットで検索すればいくらでも出てきます。
 いわば、「勝ち組」「負け組」と同じ論理だ。これでいいんですか? 学習力の高いエリートは伸び、そうでない生徒は実直でありさえすればいいように「教育」(あー、「 」をつけても、教育なんて言葉は使いたくない)される方向は良いんですか?
 そういう教育課程の中で教育活動をしている教員が、勉強が苦手な生徒に対してどれほどのサポートをしてきたのか、どれほどの人が知っているのだろうか? もっといえば、ときには保護者のカウンセリングを行ったり、生活についての相談やその行政的な手続きの支援、虐待されている児童・生徒の対応に苦労している教員の存在をどれほどの方がご存じか? 周囲には、そういう先生が多くおられるが、決して表にでない(だしてはいけない)ことなので、問題教師・免許状の更新・免職という言葉が飛び交うのに比べれば、全くといっていいほど、マスコミには出ない。

 問題教師とひと言で言っても、これはどういう先生なのか? 「指導力不足教員」として500人以上が報道されている。こういう先生ですか? 「教師にあるまじき行為」に対する懲戒処分があるが、犯罪行為に関わること以外では何がいちばん多いのか? 教育活動の中でどのようなことが、懲戒処分になるのか? 卒業式や入学式に関わることではないのだろうか? 生徒の心を傷つけるような発言を繰り返したり、授業に遅れていったり、掃除の監督をしなかったりすることで懲戒処分になった人はどれほどいるのかなぁ? 
 こんなことが昔、私のクラスでありました。家出をしたが、やはり学校に戻ってきたいと思い直し、学校に来た。2人で家出をしていたので、2人を別々の部屋に分けて、話を聞くことにした。まずA子と話しをし、次にB子のところにいくと、なぜか誰もいない。机の上に、「私は腐ったリンゴ。だから学校に入られない」と書き置きがされていた。
 どうも、主要な立場におられたある先生がその生徒に対して「腐ったリンゴは学校においておけない」といったようだ。最終的に、その生徒は学校を辞めた。一方、この先生はめでたく管理職に登用されました。もちろん、懲戒など受けていません。

 教育活動をどのように評価するか、はその人の信条による部分が強いのです。問題行動を起こす生徒は退学にし向けようとする信条を持っている人もいる。その一方で、そういう生徒とトコトン付き合って、やめさせないようしようとう信条を持つ先生もいる。前者は後者を評価しないだろうし、後者は前者を評価しないだろう。
 今まであれば、両者のバランスの中で学校が動いていたが、これからはどうなるんだろうか? 

 民間のなす事が全て素晴らしいことなのか、ということに大きな疑問を持つが、それは脇においておく。民間で従業員のやる気を出すときに、どうしますか? 「君たちの中には問題社員がいる。だから、会社との契約は10年ごとにしよう。能力給にするが、その基準は明らかにしない。給与も、数パーセントカットする。土日の出勤に関しては、その交通費は出さないし、代休も出さない。手当は、1日働いて1000円ちょっとしか出さない」といって、「よっしゃ、やるぞ!」と思うだろうか? そういう会社に、有能な若者が来るだろうか?

 実際に、価値観の違う教員はたくさんいる。というか、同じ価値観だけの方がよっぽど不健全だったり(笑) いろんな先生がいて、いろんな生徒がいる。そこで出会いがあり、恩師となったり、反面教師となったりする。そこに、教員集団でお互いをサポートし、いろいろな場面で複数の生徒への教育活動を行う。お互い様、となっていく。
 ただし、どの教員も目指す方向は、生徒が自分の力で問題を解決できて、基礎学力をつけ、自分の人生を切り開いていけるようにすることではないか? そこに、自分の名声や出世というファクターを入れると必ず歪みが生じる。

 教育改革といわれているが、私にはどうも実感が湧かない。明後日の方角の話を聞いているような気がする。

2006/09/17

win-winの関係

 このブログにいつも関心を持って下さっている畏友のH先生から聞かれたこと。グループ学習について。
 グループに入れない生徒、積極的に入っていかない生徒をどうするか? 
 入れない生徒がいたらどうしようか、と思っていたのですが、杞憂でした。もしいたとしたら、人間関係を見ながら、「じゃ、あなたは、このグループに入って」としたと思います。
 積極的に入っていかない生徒は、そのままでいいのではないでしょうか? その生徒がどこかに入りたいと思ったときに、受け入れてくれるようなグループがあれば、問題はないのでは。目的は、不安感を低めることだったので、1人でも不安感が低ければ、問題はない。「みんな一緒に、みんな仲良く」という発想は、あまりない。

 卒業生が先週3人やってきた。うれしいものですね、卒業生が元気な顔を見せてくれることは。そのウチの1人は、県内の昔からある私立大学にいっているのだが、彼が前期の単位取得を持ってきてくれた。
 取得単位数を見ると、なんと、、!! なんだ、この9っていうのは?(笑) しかも、英語に至っては全て「不可」(^_^;)\(・_・) オイオイ 大学の先生方の、苦労が想像できました。でも、元気そうな姿で何よりです。学生生活の楽しさや、いま真剣に取り組んでいることの話しをする彼を見て、元気をもらいました。同じ大学に、7人の同級生が通っているので、彼らの近況も聞く。

 同じ大学に通う3年前の卒業生から突然電話。「内定が出まして…」といううれしい知らせに長電話。でも考えてみると彼はウチから50mほどの距離に住んでいるのだから、電話でこんなに長く話さなくてもと思い、飲みに誘うと、彼からも「自分もそのつもりで電話をした」とのこと。来週に、彼と、卒業間際のときに一緒にギターでDUOをした卒業生と3人で飲みに行くことにする。

 こうして考えると、卒業生からもらうパワーはいいものですね。元気の源そのものです。

 話を聞いていると、昔からある私立大学に通っている卒業生は、英語で苦しんでいるようですね。就職という「学校社会からの卒業=社会人としての入り口」の場面で求められる英語力は、変わらないのでしょう。入学時の学力が低くなっていれば、育てなければならない学力は大きくなります。

 実際に、どの程度の企業で英語力が必要なのか、私にはよく分かりません。ただ、社会で必要とされる英語力というとき、点数で表される「純粋な英語力」だけではなく、自分たちの主張をどのように伝えるか、相手の主張をどのように理解するか、相手との妥協点をどこで見つけるか、といった本来のコミュニケーション能力が必要とされてくるのではないでしょうか?

 会話だけのコミュニケーション能力だけなら、「口べた」な人はどうするんだろう? 母語である日本語でも、自分の気持ちを上手に伝えることが出来ない人も少なくない。しかし、そういう人の話だからこそ、信頼がおけるケースも多くある。いわゆる、ペラペラだからこそ、信用ができないケースだって、皆さん、経験ありませんか?立て板に水のような営業トーク、私は苦手です。話者の根底にある、誠実性や哲学も含めたノンバーバルな視点は、オーラル重視の英語教師はどれほど大切にしているのかな? まさか、スマイルを忘れずに、なんていうだけじゃないだろうけど。
 そう考えると、「流ちょうに英会話」「ペラペラと英語を話す」ことに価値観を求めすぎる必要はないと思うんですけど、いかがなものでしょうか?(って、自己弁護みたいなもんですけど;苦笑)

 一時よく言われた、「道案内が出来ない」「買い物が出来ない」と英語教育は批判されましたが、道案内や買い物以上に、win-win(I'm OK, You're OK)の関係を作り上げていくような「技術」の修得は、コミュニケーションにとって必要なことではないだろうか?

2006/09/15

表に出せない仕事のオンパレード

 タイトルは刺激的ですが、表に出せないといっても、高度な守秘義務を伴うってことです。closedの研究会でも、資料回収というレベルです。

 今日はかなりのグロッキー状態。帰ってきて、食事をして、そのまま子ども部屋で…。気がつくと、この時間だ! 毛布を掛けてくれた3歳の倫太郎が私の顔を見て、「寝ているときは可愛いのにね」といっていたことは、覚えているんだけど(笑) 子どもは、怖いですよね、何を聞いているのか分からない(笑)

 

2006/09/13

再テストを巡るエトセトラ

 グループ学習も順調に進みそうなので、タスクを増やし始めた。2学期から始めたのは、生徒が自分たちで試験問題を作るということ。
 1セクションを終えたら、1人が1つ本文から問題を作る。それを、3-5人のグループでシェアをして、お互いに問題を出し合ってみる。解答をしたら、その問題の狙いや解説を出題者が行う。10分ほどそれに時間を費やし、その後は私の作ったテストを行う。
 グループで問題を出し合う前に、私の作った問題が、チャンキングが1題、前置詞が1題、不定詞が2題、並べ替えが1題、和訳が1題と内訳を伝えることで、グループのシェアにも「推理」が出てくる。「チャンキングなら、このセンテンスだよ」「前置詞って、確かこのinが『~を着て』っていう意味だったよな」「後ろに動詞が来るときが不定詞だったから、ここかな?」と、グループでその英文の内容を深められていく。
 その後、テスト。これが、120点満点になっていて、1題間違えても100点。2題間違えても80点。普段、80点や100点を取ったことのない生徒も、このテストだと、取れてしまうところがちょっとした工夫。80点以上の「高得点」をとった生徒は、うれしそうな表情を見せるものなんですよ~。選択肢もわざと3択にしたり、並べ替えでは試験中にわざとヒントをいったりして、とにかく高い点数をとることで、「成功体験」を経験させたい。ターゲットは、自分たちで英文の内容を深めることなので、テストの点数はそんなには重視しない。(といっても、70点以下は再テストだけど;苦笑)

 再テストといえば、X君の保護者が、課題が多いということでクレームをつけてきたようだ。「いくら頑張っても出来ないんだから」ということらしいが、すぐに親に泣きつくとは情けないなぁ、男子生徒。もう高校生だろうに。それに、そういうクレームをつけてくる保護者も、どうにかならないものか? 非人道的、人権を踏みにじることをしているならば、クレームは当然だろうが、再テストにクレームをつけてくるとはなぁ、とちょっとムッとする。担任には「こちらの方でフォローするから」とは伝えつつ、「絶対に、再テストはやらせます」ともいっておく。「クレーム勝ち」はまずいでしょ、やっぱり。それに、彼のことは夏休みの10数日間で補習をしているし、辛いことがあっても立ち向かっていってほしいという願いもあるので、もちろん課題は減らさずに続行。

  とはいえ、再テストをしても、5%程度の生徒は合格できない。そういう生徒にも、自分で努力することを経験させたいので、最初の20分は独力で行わせる。しかし、それでも暗記できない今日は生徒が数人ほどいたので、その数人でグループを作り、全員で1つの答案用紙を作らせる。もちろん、X君もそこにいる。
 ヘルパーとしてESSのメンバーにサポートを頼み、「ヘルプカード」を3枚ほど与えて、どうしても困ったときには3回ほどそのメンバーに、聞いていいことにした。
 最終的に、無事、合格を迎えたが、その時の生徒はうれしそうでしたよ。英語を勉強するのは苦痛だろうが、グループで成し遂げることはうれしいのだろう。人間はやはり、社会的な動物なんだなぁと妙な気持ちになる(笑) X君にとって、再テストをしなかったときよりも、達成感はどちらが上だったのだろうか? 

 急なことだが、来週にお世話になっている編集者のKさんと会うことに。というのも、先日のブログでも書いたように、「短文で覚える英単語1700」を、高校生用の表紙を作り、高校生も使えるようにと考えていたのだが、社の会議でNGとなってしまったので、次善策を考えることになった。
 この本は、もともとは英語の苦手な高校生用にと思って作ったものだった。ただ、営業上の関係もあり、中学生用となったのだが、高校生が使用してもいいのになぁと思っている。生徒を見ていると、やっぱり力をつけていますよ、自画自賛になってしまうけど(笑) 
 次善策として、どんなものがあるか分からないけど、まずはKさんと相談。

 再来週に発売になるようですが、「短文で覚える英単語1700」が表紙が変わり、CD付きとなります。英文は約30文ほど変わっております。(かなり細かいところも含めて、ですが) 
 これに伴って、今までの犬の表紙の本は、刷らなくなるようです。また、サイトに貼り付けておいた音声ファイルも、来年の3月を目途に削除します。というのも、このファイルがあまりにも重たくて、サイト本体が容量一杯になっており、更新できない状態になっているからです(^^;; 

2006/09/12

エネルギーを蓄えて

 友人や知人とメールをしていると、何か元気のない先生が多い。秋という時期的な問題もあるし、何よりも、教師というのは本当に真面目な人が多いというパーソナリティの問題もあると思う。「真面目?」と訝しがる人もいるかもしれないが、本当に真面目です。だから、気分転換が下手だったり、土日まで仕事から意識が離れられなかったり、何かトラブルがあると、自分の責任だと自分を責める人がいる。
 この真面目というのは実にやっかいなもので、それに振り回されるとストレスがたまっていく。

 もし、自分が「疲れた~」と思ったときには、以前のブログにも書いたけど、「意図的に鬱」になることをおすすめします。とにかく誰とも話さない。できれば、1人になって本でも読んだり、CDでも聞いている。1人になれなければ、ヘッドホンでもかけて目を閉じていれば、誰も話しかけてこないでしょう。そうすると、自分のエネルギーがたまっていきます。

 エネルギーが全てなくなってしまうと、動き出すのにまた時間がかかります。だから、足りなくなったと思ったら、その補充のためにも意図的に鬱になったらどうでしょうか?

 辛いときに無理をしても、仕方がない。とにかく出来るだけ誰とも話さないで、エネルギーを貯めちゃいましょう。SHRだって、そんなときは副担任の先生にお願いしちゃえばいいんです。毎日行っているんですから、そんなときくらい、役割分担したってバチはあたりません。大丈夫♪

 あなたをフォローしてくれる人はたくさんいます。ときにはフォローしてもらうことも、大切なことです。

2006/09/11

近日発売ということで…

今日は、ちょっと全面的にPRブログです。「もの申す」というよりも、「PRさせて下さい!」ってなところです(笑)

早ければ11月、遅くなると来年の1月に発売される採択教材を書くことになりました。といっても、すでに原稿はあるし、校正も大体終わっているので、推敲をしていく作業が残っているところです。今日はその見本の原稿と、コンセプトについての説明を。

対象は、中学生3年生or高校1年生。全96ページ予定で、中学校の文法事項は全て入っております。作りとしては、見開き1ページで、左側に英語の説明があり、右側に問題があります。これだけなら、普通の教材と変わりありませんが、2つほど工夫をしてみました。1つ目は、右ページで使われる単語で、多少難しめのものには、左ページの説明下で、「右ページで使われる単語」という欄でその語の意味を書いたこと。もう一つは、別冊で「確認問題」を作り、当該右ページと同じ形式の問題を取り入れたこと。(100点満点の問題形式)となっています。

授業を進めていると、「この単語の意味が分からない」と止まってしまう生徒、「もう終わった~」と早めに終えてしまう生徒の両方が自分たちのペースで進められるようになっています。

また、いつものように、各章ごとで使った文法項目を取り入れた長文も用意しました(←これ得意だよねぇ、とイヤミっぽくいわないでね;笑) 『これでわかる基礎英語』の長文を使う箇所もありますが、新しいものも取り入れました。例えば、、、

        My diary
Today I got up at 6:30, and I ate breakfast. I walked to school and took classes. I forgot my lunch box, so I bought some bread for lunch. "Did you have any money?" my teacher asked, but I didn't forget my purse.
After school, I played baseball with Tom and his friends. They were very good at it. They were very good boys and I like them.
I studied English at night. Our teacher always gives us homework. I don't like it. I finished it at 11:00 PM.
I brushed my teeth, and went to bed. It was a very good day.

ここでは、「名詞(可算・不可算)」「現在時制」「過去時制」「疑問文・否定文」などを学ぶところです。説明を受け、問題を解き、そして長文を音読したり、書写したりして底力を上げていこうという一冊です。デザインなどまだ未定のところもありますが、出来上がりましたら、またご報告します。

あと、『短文で覚える英単語』の高校生用の表紙が企画が通らなくなったようです。高校での採択が多いのに、なんでだろうなぁという思いですが、次善の策を考えないと。。。

PRついでにですが、ページ右側のaboutに、写真をアップしました。倫太郎の写真です。父親似ですので、ご覧下さい(笑)

2006/09/09

授業時数を増やせば、学力があがるのか?

 フィンランドは、その学力の高さで有名だ。2000年、2003年のPISAでも全てのカテゴリーで学力の高さがとにかく目につく。

 いま、日本の学校では「2期制」が流行っている。4~9月、10~3月という2学期制にすることにより、学期末の授業のなくなる日を1学期分減らすことで、授業時数を確保できるからだという。しかし、授業時数が増えれば、本当に生徒の学力が増えるのだろうか?

 フィンランドの授業時数は、7~14歳までの合計が5500時間程度。その一方で、日本は6000時間を超えている。イタリアにいたっては8000時間である。しかし、PISA2003ではフィンランドは数学的リテラシー2位、読解力1位、科学的リテラシー1位、問題解決能力3位。日本は順に、6位(1位グループ)、14位、2位(1位グループ)、4位(1位グループ)。 イタリアに至っては、31位、29位、27位、31位だ。韓国も、日本よりも授業時数は少ないのに、PISA2003の成績は日本よりもいい。

 こう考えてみると、授業時数の確保によって、学力が向上するのかは、議論が必要だろう。2期制にしている学校は、どれほどの学力向上があったのか、研究が必要になってくるだろう。(もちろん、予備校や塾という要因も考える必要あり)

 ところが、今の流れでは授業時数の向上が、児童生徒の学力向上にとって必要であり、それに加えて教師を評価して、学校間の競争を促せば、問題は解決できるという流れになっていないだろうか? (蛇足だが、民間の能力給は総人件費の削減が前提となっているところが少なくなく、これが導入されてから、従業員のトラブルが増えてきている会社も多いのでは? 電機メーカーのX社なんて有名ですよね)

 2学期制にして、教員の評価を行い(給与全体の削減が前提)、学校間の競争を煽って、それが確実に学力の向上に結びつくのであれば、まだ救われるかもしれない。しかし、本当にそれで学力が向上していくのだろうかという漠然とした不安がある。生徒が主体的に学ぼうと思うのは、授業の時間が増えるときだろうか? 教師の授業が充実するのは、評価が行われるときだろうか? 学校が良くなるのは、他校との競争のときだろうか? 自分が学生時代のときのことを、正直に思い出してみると、どうでしょうか?(笑) 教師が評価によって働き方が変わるというなら、評価されなければ働かないということが前提になっているの? もともとの教師は、生徒に必要なことがあれば、+αの仕事をするのではないだろうか?

 少し話しがそれてしまったけど、今の流れのままでいき、それでも学力が向上しなかったとき、「やっぱり学校が諸悪の根元なのだ」「教師の能力が低いのだ」とならないか? 社会の中で教師がそのような視点しか持たれないとしたら、教師を目指す若者は減っていくだろう。少なくとも、優秀な層は教師を目指さなくなってしまうのではないか、と不安にもなる。

 20年ほど前に電車に乗って通学していたときは、車内では小説を読む人が多かった気がする。しかし、今ではどうだろうか? 若者は携帯、サラリーマンはマンガや携帯、年配者も携帯。うーん、これでは本を読む人が少なくなるよなぁ。子どもの手本が、これでは、ね。

(追記)
 中学校での英語週3時間授業がいいとは、私には思えません。5時間程度はあった方がいいと思っています。これは、高校生でも同じ。そして、ダイアローグ形式の教科書は、コミュニケーション重視=会話という思想なのでしょうが、読解力の育成とは対極に位置すると思われます。
 PISAの調査でも読解力低下が目立ってきていますが、英語でも読解力は軽視されているようですね、少なくとも中学校の英語のテキストレベルでは。次回の学習指導要領の改訂では、読解力が大切にされるといいなぁと思うのですが、、、どうなるのでしょうか?

 私がいいたいことは、勉強する期間は集中し、休むときは十分に休み、遊ぶときはしっかりと遊ぶという、オンとオフとを区別することが大切ではないだろうか、ということです。

(さらに追記)
 ジャーナリストであり、詩人である、むのたけじ氏が、行間が読めないのは、文章が読めていないことだと書いていた。英語の授業で、行間を読む作業とは必要がないのだろうか? 全ての重荷を国語教育に託してもいいのだろうか?

2006/09/07

脱・不安感のためにグループ学習へ

 それにしても今週は長いですね。少々疲れ気味です(^^;;

 9/4のブログでも書きました、いちばん反応の少ないX組。思い切って授業スタイルを変えてみました。
 好きなもの同士で4-5人程度のグループを作り、グループ内で協同しながらの学習です。好きなもの同士というところに多少の不安を感じましたが、「あなた達も16歳なのだから、お互いに協力して、学習をしていこう」とまずはお願いするところから始めます。

 とはいっても、学習スキルがなかなか定着していないので、全てを自分たちで、というのは無理な相談です。そこで、ターゲットを2つに絞りました。1つは、拙著の短文をざっと説明して、その文をチャンク分けすること。もう一つは、学習した文を音読させることです。

 近いうちに、アンケートを生徒に取ろうと思っているのですが(って、アンケートかよ!と突っこみを入れないように;笑)、英語が苦手な生徒は、英語学習に関する不安感が強いのではないか、と思います。おそらく、教員が想像している以上の不安感なのではないでしょうか? その不安感の根っこにあるものは、「分からない」ということです。(って、当然だろ!と突っこみを入れないでね;笑) 
 何が分からないかといえば、「意味が分からない」「読み方が分からない」ということです。それに加えて、「間違ったらどうしよう」という思いがそこに加わります。

 こちらが指名して答えさせる時に生徒が持つ不安感は、それは地上100mで幅1mの板の上を歩けといっているようなものなのでしょう。教員側は、道路上の幅1mの板の上を歩かせているつもりでも、生徒側はそうは感じていないと思われます。
 「間違ってもいい」とよく教員はいいますが、間違えることや自分の英語力に不安感を持っている生徒にとっては、その言葉を素直に信じることはできず、間違える=地上100mから落ちる、ことと同じです。(ここは、不登校の生徒が学校に入る時の不安感と同じかもしれませんね)
 文法をやろうと、単語を覚えさせようと、いくら分かりやすく説明しようと、この不安感・恐怖感を取り除かなければ、絵に描いた餅です。底辺校の英語教師のカリスマは、そういった思いを上手に生徒から取り去ることができる、人間的に幅を持った人なのでしょうね。(おそらく、この部分は、数字で計れないので、科学的な論文とは相容れないでしょう。9/7のNHK「プロフェッショナル」の田尻先生の授業の進め方のすばらしさは、先生自身のお人柄がベースにあるのだろうな、と感じました)

 また、誰でもイヤなことは、長い時間の作業は苦痛です。だから、授業もできるだけテンポ良く、「イヤだなぁ」と生徒が思う前に、作業を完了させて、次の課題に進むように計画しました。そして、板書をしないときには、教壇から降りて、教師の真ん中での説明。360度を見回しながら、指示を出したり、音読をさせたりしました。

 短文をチャンク分けにさせる作業は、それぞれ30秒~1分。生徒の様子を見ながら、少し落ち着いたら黒板の英文をチャンク分けしていきます。そして、チャンクごとに発音練習→センテンスでの発音練習。これを4文。この時、今までにないくらいの音読の声にこちらも驚いて、「今日はずいぶんと声が出ているねぇ」と伝えました。誉めるのではなく、感想を伝えるところが、アドラー心理学的。

 次に、to不定詞の形容詞的用法と副詞的用法、It is ~ for A to … の説明と問題の答え合わせ。夏休みの宿題だったとはいえ、それなりに理解はしてくれていたようです。答え合わせの後も、こちらも今までにないほどの音読の大きさ。

 多分、好きなもの同士でグループを作ることで、学習に対する不安感を多少は払拭できたのかな? もしくは、「声に出さなければならない」という生徒の気持ちを実行に移す「風船の針」だったのかもしれません。

 ともかく、しっかりと声を出していたし、グループ学習でいちばん不安な「私語」もほとんどなかったことにまずはホッとしました。この雰囲気が明日以降も続くかどうかは分かりませんが、授業が終わってから、2学期が始まっての疲れがなくなったことは確かです(一時的に、ですが;笑)

 フィンランドの特徴は、「落ちこぼれ(こぼし)」が少ないことだそうです。であれば、日本の学力も、どれだけこの底辺層の底上げを図るかが大切な課題ではないでしょうか。

(9/8に一部加筆修正)

2006/09/06

夏休みの宿題と2学期の授業

 2学期が始まり、実際の授業日が3日目。教科書の本文に入る前に、不定詞と動名詞が次のレッスンでのターゲットということもあり、夏休みの宿題のその文法項目の部分の学習から始めている。
 to不定詞の名詞的用法と動名詞とは「ほとんど同じ」と教えているのだが、「ほとんど、というなら、どこが違うの?」という質問が相次ぐ。これは、うれしい誤算だなぁ。その違いについて、説明をしてみたのだが、興味深く聞いている生徒が1/3いる一方で、1/3の生徒はチンプンカンプンな表情。上位の生徒の好奇心をどれだけくすぐるかという課題もある一方で、下位の生徒をどれだけ引きつけていくかというバランスが難しいところか。

昨日は、その部分の確認テスト。気になったエラーが次の通り。

  1. seeの動名詞をseing(比較的、成績上位に多い)
  2. workとwalkの区別がつかない(成績下位に多い)
  3. writingの原形がwritとなる(成績下位に多い)

2と3はよくあることだが、正直、1には驚いた。「最後のeはとって、ing」と覚えてしまうらしい。何も考えずに、動名詞をingとつける成績下位の生徒は決してしないミスなのだろう。

確認テストで一定の点数を満たさなかった生徒には、本日の放課後に再テスト。ほとんどの再受験者がくるのだが、5人ほど来ない。「逃げ得」だけは許したくないので、明日にそれなりの課題を残ってでも、させないとならないなぁ。幸いなことは、自分のクラスの生徒でさぼった生徒がいなかったということ。これは、本当に救われますね。

「短文英単語」も順調に進んでいる。2学期は、本文を多く学ぶということと、その本文を書かせる宿題を課すために、1日に8文ほど試験をしていたが、それを4文にする。こういうときに、「4文にこれからするよ」というのではなく、「今までのように8文で試験をするのと、半分の4文にするかわりに、その4文をしっかりと学習するのとどっちがいい?」と生徒に提案する形をとった。もちろん、「4文」とするだろうと思っていたのだが、自分たちで決めるということは、それなりに責任感が生ずるようで、とにかく勉強をしてくれている。本日のテストでは、2/3以上の生徒が満点を取ってくれたので、あとはこの「責任感」を持続してもらうようにあの手この手を使わないと。

自分たちで学習方法を選ばせて、学習スキルを教えて、それを自分たちで実行していく、ということが大切なのだろう。教えるというよりは、援助という言葉の方がしっくりくるかもしれない。

2006/09/04

『中学短文で覚える英単語1700』について

先月末に、こちらの改訂作業が終わりました。多くの方からのご意見を頂きましたことを心から感謝します。

今回は、ほぼ全面改訂となりまして、本来であれば変更する必要のなかった英文も、諸事情により一部変わっています。細かいことは、今月の中旬以降のブログで書きたいと思います。

表紙も変わり、高校生用のカバーも作ることになりました。

というのも、ふたを開けてみたら、中高一貫校からの採択以外は、ほとんど高校からの採択だったからです。内容は全く変わりませんが、中学生用と高校生用との2種類ができるということです。中には、こちらが「え!?」と驚くような進学校からの採択もあり、驚きました。それだけ、単語力の不足は大きな問題だということですね。

久しぶりの授業はいいですねぇ

 約2ヶ月ぶりの授業。初日から、コマ数は多かったけれど、補習とは違う充実感がありますね。始業式にはない緊張感があり、いいものですね、やはり。2時間目の授業が終わるとAさんがおもむろに「せんせー、お弁当を冷蔵庫に入れておいて~」と来訪。その後、昼休みに来てお弁当を取りに来て、「またせんせぇ、遊びに来てあげるね♪」という明るさに、疲れとホッとする感じの入り交じった感情(笑)

 昼休みは頭髪の再検。夏休みに茶色にしてしまった生徒をしっかりとした色に染めてきてもらう。ここは生徒といちばんトラブルが生じるところなのだが、尊敬するT先生の生徒への語りかけに、幸いなことにトラブルは全くない。言い方は、やはり大切なのですね。気をつけないと(笑)

 一番緊張した授業は、6時間目のX組。数学がとてもできるクラスなのだが、どうも英語だけは、、、というクラス。同じ教員が同じように教えても、そして入学時の平均点がほとんど変わらないのに、1学期終了の段階では他のクラスに大きく水を空けられた。初日から、音読を徹底したのだが、どうしても声が出ないので、全員を立たせての音読。それから、多少は声が出るようになったが、今後も立たせての音読が続くのかなぁという漠然とした不安を感じた。

 放課後は、文化祭の打ち合わせで、クラスの役員や文化祭の実行委員と2時間程度の打ち合わせ。男低女高というイマドキのクラスのせいか、企画・運営の全てが女子。男子に比べて、女子の方がシビアに色々と見ているんだなぁと、話せば話すほど感じる。
 いつも思うことだけれども、授業中の何気ないひと言を生徒は覚えていますね。

 彼女たちに、「チョコレートなくなったよ~」といわれたので、学校の帰りに近所のジャスコに行き、チョコを購入(笑) 疲れているときのチョコレートは、パワーをくれますね。それにしても、ほとんど食べないうちに、生徒が食べてしまうというのも、なんだよなぁ(笑)

2006/09/02

教育相談的視点のススメ

 始業式。今年は、あまり自分の心には変化がないな。年をとった証拠なのかなぁ(苦笑)

 学年会議が終わった後に突然、昔の同僚から電話。彼のクラスの生徒が摂食障害で苦しんでいるそうで、その対応方法について尋ねられる。とはいっても、摂食障害には「こうしなさい」ということも難しいし、専門家のドクターでさえも、及び腰になることさえある。なので、摂食障害の概要について伝え、対応してもらえる病院を紹介する。少し、彼のところからは遠いかもしれないが、メンタルクリニック系は選んだ方がいい。

 この頃、少年犯罪が新聞によく出ている。事件が起きるたびに、学校の校長が出てきて謝罪をして、政治家は教育改革をいうようになる。少年法の厳罰化を求めたり、教師をバッシングしたりして、とにかく「諸悪の根元は家庭・学校」という風潮があるのは、私の被害妄想だろうか? (その延長線上に学力低下が問題にされるのかもしれないけど、それはまた機会があれば)

 少年犯罪に関しては、そのいちばんの専門家である家庭裁判所の調査官や、マスコミに取り上げられる機会の少ない真っ当な心理専門家の意見がもっとクローズアップされないのかなぁという歯がゆさがある。(調査官は、採用されてから2年間の間、法律から心理まで徹底した訓練を受け、それから臨床へと入っていくスーパー専門家です)

 少年犯罪といっても、十把一絡げにするよりも、その少年が10歳までに触法行為(万引きや放火など)をしたことがあるか、それともそれ以降に非行が始まったかで大きく分かれるそうだ。前者の中では広い意味での障害を持っているケースもある。
 例えば、休み時間に昇降口で堂々とタバコを吸っている生徒がいたとしよう。喫煙傾向のある生徒でも、「普通」の感覚を持っていれば、そこまで堂々と喫煙をすることはないだろう。しかし、広い意味での「障害」を持っている生徒にとっては、ある意味で「普通」になってしまう。
 こういう生徒は、非行傾向を持つ少年にとっての「あいつ、すげぇよ」とヒーローになる。そして、その少年をリーダーに据えて、周辺の生徒が固まり、「非行集団」が出来上がっていく。

 さて、こうなったときに、この両者は同じような「指導」でいいのだろうか? 曰く、「タバコは健康に悪い」「法律だからダメなのだ」「人の嫌がることをしてはいけない」などなど、どのことばも生徒の心にはあまり届かない気がする。

 以前のブログでも書いたことなのだが、パーソナリティ障害という「病気」がある。アメリカでは、人口の数パーセントがこの障害を持っているそうだ。20歳になるまで、医者はパーソナリティ障害とは言わないケースが多いようだが、高校生ともなるとある程度のパーソナリティは出来上がってくるので、そういう生徒も出てくる。いちばん目立つのは、境界性パーソナリティ障害(BPD)かな。(有名人でもBPDは多いし、なくなったカリスマ的な歌手は、その1人だともいわれている)

 パーソナリティ障害とは違いがあるが、中学生や高校生の中には「行為障害」の生徒もいる。動物の虐待や強盗行為など、社会的な規範を乱して、それらの行為が持続する障害である。こういう生徒に、どう対応していけばいいのか。先ほどのように、「法律だからダメ」「我慢しろ」「人の嫌がることはするな」といったところで、実効性などあまり求められないと思うんですけどねぇ、私は。

 話しが横道にそれたけど、少年犯罪の増加といっても、その背景にあるのは社会的な変化であり、昔ながらの学校の知恵だけでその対応をすることはほとんど不可能ということだ。心理の専門家として、スクールカウンセラーを配置したところで、解決すると思うのは、あまりにも素人的な考え方だ。
 それよりも、教師がもっとこちらに興味・関心を持ち、自分たちのスキルをアップさせることの方が大切ではないだろうか? ただ、この頃の教育改革といわれている中で、「教育相談」はあまりクローズアップされていないし、その重要性をいう人の中でさえ、教育相談について机上の論理しか持ち合わせていない人もいる。教師がこの問題に対応できるような環境作りをすること、そして、外部とのしっかりとしたネットワークを持つことが、必要なことだと私には思える。

 非行少年の中には、「家庭が原因」といわれることもあります。確かに、家庭にその原因があるケースもあるでしょう。しかし、家庭が原因という言葉の裏には、何か突き放したイメージが感じられます。もし、原因が家庭であると「確認」したならば、それを踏まえた上で、どのように生徒の成長を援助していくかという方策を考え、外部とネットワークを作り、そして実行していくことが大切だと思われます。家庭に問題があったら、その生徒はどうでもいいとはならないでしょう。
 学校の開放化と言葉では多くあるけど、開放化していくのであれば、役所の福祉課や民生委員、児童相談所、時には警察の生活安全課との交流こそ、必要なことだろう。生徒の家庭の状況がいちばん分かる学校が「扇の要」としての役割をしていけばいいと思うんですが、いかがなものだろうか。
 ちなみに、こう考えている先生は少なくない。しかし、サポートする状況がなかなか追いつかない。結局は、自分のプライベートな時間でそれを行うしかなく、それを行っている先生がたくさんいるんですけど、目立ちませんよねぇ(苦笑)

 このブログでも何度も書いた通り、話を聞くことや、授業をすること、関わるは簡単だが、話を聞き続けたり、授業をし続けるたり、関わり続けることは大変な作業、ということだ。

 英語教育とは、教育活動から独立したものではなく、教育活動を土壌とした作業であるべきものだと私は思います。(あ、べき論を押しつけちゃった;笑) 結局、現場感覚とはこういう教育活動に根っこが生えているものであり、1人1人の先生がいろいろなポジションで全力を尽くしています。だから、私は教師のその活動に対して、愛情を持たずに厳しい批判する専門家を軽蔑します。

 恩師のW先生は、「底辺校は、教育相談の事例の宝庫」という言い方をしていた。ある意味、もっとも教師的な仕事の宝庫で仕事ができるということは、幸せなことではないですか? と、お互いに励まし合いましょう。

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