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2006/07/30

分かるようになれば面白い

 昨日との関連。昨日は、ちょっと入れ込みすぎたなぁという感じ(苦笑) もう少し、力を抜いていきましょう、今日は。

 この夏休みの講習に、ホントに英語が苦手なX君が来ている。彼は、もともとこの講習にくるつもりもなかったんだけど、担任から強いプッシュがあり、来ることになった。自分で望んだわけでもないので、もちろんモチベーションも低い。指示をしても、ボーっとしていることも多く、彼にとって講習の3時間は苦行そのものだろう。あ、そうそう、ちなみに普段の英語の教科担当は私です。

 問題を解かせるときには、彼に個別で教える時間もかなりとった。あとは、同じように解きなさいといっても、いなくなるとまたボーっとし始める(苦笑)
 おだてもしたし、怒りもした。しかし、無反応(苦笑) 想像していただける先生、多いのではないでしょうか?

 ところが、です。ついに、「その時」が来たんです。

 講習の前に、彼と雑談をしている中で、

「分かるところだけでいいから、問題はやりなさい。分からないところは、夏休み後半の「自習」(個別質問タイム)で教えるよ。初めて習うよりも、2回目の方が効果が高いから、今回は出来ないところは飛ばしていい」

といったところ、

「分かるところだけでいいんですか?」

とX君。少し、意外な反応だなぁと思いつつ、「もちろん、それでいいよ」といい、講習に入る。この日は、不定詞と動名詞。最初に、動名詞とto不定詞の名詞的用法について学習。どんな動詞の時には、動名詞しか目的語にとらないとか、go doingについてなどを学ぶ。それから、形容詞的用法、副詞的用法の基本的な使い方、It is ~ to do や too ~ to ‥、疑問詞+to doと盛りだくさんの内容。

そのような内容なのにもかかわらず、X君はほとんど理解しちゃいました。今まで1人になるとボーっとしてしまう彼が、ボーっとすることなく、問題をしっかりと解きました。しかも!! 分からないところは、こちらに質問をしてくるではありませんか! 
だからこちらも、彼の行動を受け止めて、積極的な感想を伝えます(誉める、でありません)。「どうしたの、今日は? すごいねぇ」「昨日までと全く違うじゃないの」というと、嬉しそうな顔をするX君。「今日は面白いか?」と聞くと、少し照れたように「ハイ」と小さな声で言っていました。それから、講習ではとても勉強するようになり、理解度もとても高くなっています。どうして勉強をするようになったのか、という理由はなんとなく理由がつきますが、彼の口から講習の最後にでも聞くことを楽しみにしています。

もちろん、今回のX君のようなパターンは多数ではありません。同じように教えれば、全員が分かるようになる、全員のモチベーションがあがる、なんてことはありません。ただ、出来るだけ多くの生徒が、分かるようになり、勉強するようになるってことを考えるのが「第3の英語教育」にとってもっとも大切なことでしょう。そのために、どのような言葉をかけたり、どのように接したり、どのように教えたりするのか、という「ポケット」をどれだけ教員がもっているのか。そういう生徒を惹きつける「人間力」をどれだけ持っているか、が勝負となるわけです。もちろん、私もまだまだ修行中。

関わるのは簡単だが、関わり続けるのは難しい。
教えるのは簡単だが、教え続けるのは難しい。
話を聞くのは簡単だが、聞き続けるのは難しい。

辛いときには同僚とグチをいったり、助けてもらったりして、しのぐことも大切。継続は力なり、というけど、これは「第3の英語教育」の教師にとってもあてはまるだろう。

2006/07/29

第3の英語教育

 昨日は出張。数人の先生の取り組みを伺い、なるほどなぁというものと、自分とは感覚が違うなぁという二つに分かれた。その他にも、B社がデータを元に、授業への取り組みの提案、実践報告を下さった。こちらも多くのヒントがあり、さっそく本日、学年に提案して、2学期からに向けて具体的な方策を考えることになった。

 取り組みのお話の中で、千葉県では英語教育実践の第一人者ともいえるK先生の報告には感銘を受ける。そして、その取り組みでは、自分も見習わないといけないな、という思いを新たにした。
 しかしその一方で、「?」と感じたところも一点。

 K先生によれば、高校生の英語学習は二重構造になっている。それは、意欲が少なかったり、学力がまだ十分とはいえない"takeoff run"の学習者と、意欲があり、学力がある"Nose-up"の学習者との二重構造だそうだ。ここに、少々違和感を覚えたのは、私だけではないだろう。
 確かに、そのような学習者もいる。しかし、同じように飛行機でたとえるなら、「滑走路にも入っていない」学習者もいるのではないだろうか? 中には、滑走路に入る意欲のない学習者もいる。そういう生徒も、3年間で10-15単位前後の英語の授業を受ける。こちらとしては、takeoff runをしてくれれば、やりようもあるのだが、どのようにrunさせるか、という大きな課題もある。そして、そのような学校では、卒業するまで滑走路に入らない学習者もいる一方で、runする生徒も出てくる。その二つのグループのバランスを取りながら、いかに授業を進めていくか、という問題がある。

 そのような学習者にとって英語教育とはどのような意味を持つのだろうか? 「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」の目標にあるような、高校卒業時には「日常の話題に関する通常の会話(同程度の読む・書く・聞く)ができる(高校卒業者の平均が英検準2級~2級程度。)。」というレベルに、半分以上の生徒が達することは、非常に難しいだろう。コミュニケーション重視? 大学入学を目指す? どちらも、全体の授業のベースとすることは、難しい→意味が薄いだろう。

 そこで、第3の英語教育があっても良いのではないか、と思う。教育の目的は、教育基本法にもあるように、「人格の完成」だろう。そのために、授業を通じて新しい知識を身につけたり、特別活動を通じて、他者との関わりなどを学んでいく。であれば、英語だって学力やコミュニケーション能力の育成をメインにおくのではなく、人格の完成の「手助け」という視点で行われてもいいのではないかと思う。

 人間は、生きていく上で、適度な自尊感情が必要であろう。自分を大切に出来るから他人も大切に出来る。自分が尊い存在だと思うから、他者も尊い存在だと考えられる。

 ところが、滑走路にも入っていない生徒の多くは、この自尊感情が高いとはいえない。だから、高校入学時点で、「自分は大学は無理だ」という気持ちが高い。そういう生徒にとって、「分からないことが分かる」ということは、大きな自尊感情になるのではないだろうか? 

 be動詞の使い方が分かった、三人称の意味が分かった、複数形のsが分かった。なんでもいい。この「分かった」という気持ちを生徒が持てるような援助は、大切だろう。その結果として、英語の力が伸びていけば、こんなに嬉しいことはない。
 学力を伸ばすという気持ちも大切だが、生徒の自尊感情を育てるという気持ちも同じように大切である。そのような気持ちで授業に臨めば、生徒との関係もこじれることはあまりないのではないか?

 時間つぶしとしての英語の授業はあまりにも無意味だ。学力を中心にせずに、結果的に学力が伸びていくというスタンスの授業も存在して、とても尊い取り組みだと思われる。

 

2006/07/26

1学期のこだわり(3)

 夏休みになると思い出すことがあります。高機能自閉症ではないか、と思った生徒を専門機関ににつないだときのことです。

 高機能自閉症の生徒は、少なからずいます。しかし、教員の認識がまだまだ甘い。単に、「マジメな生徒」「少し変わった生徒」「きまじめな生徒」「こだわりの強い生徒」としか考えていないケースが多々あるようです。また、熱心な先生の中には、専門家であれば決してしないような対応をすることもあります。そのケースでは、生徒との関係は上手に結べなかったり、教師自身が疲れてしまいます。

 高機能自閉症かどうか、ということは教師が判定することではありません。だから、疑いがあったときには、迷わずサポートセンターや教育相談所に相談することをお薦めします。中途半端な知識で対応すると、傷つく人が多いですから、何はともあれ専門家と協力していくことが大切です。自分1人で教員が対応しようと思っても、無理といっても過言ではありません。対応は、必ず専門家と協力しながらがいいでしょう。

 さて、思い出す生徒はもう25歳になっています。彼は、幼稚園の時からその特徴が現れていたのですが、サポートを受けたことがなかったようです。教育委員会に相談を保護者がしても、「知能は高いから大丈夫」といわれたようで、そのままであったようです。
 本来であれば、ソーシャルスキルトレーニングを受けた方が良かったのでしょうが、周囲からは「まじめ」「こだわりが強い」とだけ考えられていたようで、高校に入るまでそれで過ごしてきました。

 偶然、担任を持ったこともあり、保護者面談を行い、彼は専門機関にかかります。そして、そこでトレーニングを受けて、こちらも専門家のアドバイスを受けながら、少しずつ他者とのコミュニケーションが取れるようになっていきました。

 教師は、家庭以外では、生徒にいちばん近いところにいるわけですから、「治療」という観点ではなく、「つなぐ」という観点の研修を受けた方がいいかもしれません。しかし、こういう研修は、なかなか多いとはいいがたく、「官製」よりも、土日に行われている「草の根」研修であることが多いのです。
 グチになりますが、これに参加する費用や時間はもちろん、自己負担。しかし、そのスキルは、仕事で使われています。その結果、1人の先生に仕事が集中して、その先生が転勤すると、全てが終わってしまうということがあります。免許更新制や給与削減と聞くと、これからはこんな先生方は減るかもしれませんね。

 さて、1学期のこだわりの最後は「単語」。

 昔は、文法をしっかりと理解させれば大丈夫だと思っていたけど、その考えは甘かった(^^;; というのも、ホント基礎的な単語を知らない。womanなんていう単語を知らない生徒も少なからずいる。確かに、入試であれだけの注釈が出れば、問題ないよね、womanを知らなくても、ホントに。

 とはいえ、そんなイライラを英語教育の政策に対して批判することと、目の前の生徒が抱える問題とは全くの別物。そこで、何度も書いたように、「短文で覚える英単語」を覚えさせることにした。1学期は100番まで進み、これをしっかりと覚えた生徒は、500弱の語句を覚えたことになっています。中学校での総単語数が900程度なので、1学期でその半分以上を身につけられれば、まずは上出来かな。

 蛇足だけど、拙著を今年、採択して下さった学校は中高一貫校が多い。中学校でしっかりとした語彙力をつけるためには、どこでも試行錯誤しているんだなぁ。

 単語を覚えるという、一部の生徒には「初めての経験」であるせいか、多少の批判があったのは残念なこと。いわく、「宿題が多くて徹夜をする」なんていうのは、ホントかな、と思った1つ。センテンスを5回ずつ書かせるプリント(8文書いてあるので、合計40の文)を宿題にしたところ、「宿題が多くて徹夜」なんて保護者からクレームがあったらしい。さらにムッとしたことに、それをある教員が、「勉強量をもう少し、減らすことが出来ないか」といってきた。「他のクラスでは、ここまで宿題を出さないでしょ。教科で統一したらどうなのか?」なんていう感性は私には理解できませんでした。

 成長するためには、無理を乗り越える作業が必要となってくる。生徒にそれを課すためには、こちらもそれなりのフォローが必要となってくる。

 ということで、本日も今から補習。夏休み、25日間も補習をする予定。無理をさせるためには、フォローもしないとならないので、英語が苦手な生徒が対象です。

2006/07/24

1学期のこだわり(2)

 夏休みの講習に思ったよりも生徒が集まったので会場変更。図書室で行う予定だったんだけど、人数が50人を超えてしまったので、急遽普通教室へ。今年は涼しいから救われているな、エアコンがなくても何とかなりますから。
 テキストは、3月に配布した「基礎英語ノート」をさらに基本的にした「改訂版・基礎英語ノート」。自分でいうのも何だけど、これはいいですよ。←すごい自画自賛(笑)
 秋口以降に本になるかもしれないけど、その時にはデザインの関係で問題数がどうしても少なくなる。そこで、問題数が多い原案のままこちらで印刷をして、製本は印刷所に依頼。表紙印刷はお願いせざるを得なかったけど、こうやると96ページのオリジナル教材が一冊150円程度で出来上がります。ワーキングプアの特集が昨日、NHKで放映されていたように、公立高校に通う生徒の一部は経済的な問題を抱えている。そういう家庭の経済的負担を最小限度にして、生徒に基礎学力をつけていく援助を最大限にすることこそ、公立学校の役割ではないでしょうか?
 「生徒のため」という枕詞を教員は好むけど、それってホントに「生徒のため」なんですか?って天の邪鬼になることもある。自分の満足のため、自分の実績のため何じゃないの?なんて、邪気を露わにしてみたりして(笑) 
 「学歴なんて‥」という教員もいるけど、自分が学歴や資格で仕事をしているのに、きれい事を言ったってねぇ。学歴社会や格差社会がいいか悪いかは別にしておいて、その中で生きていけるための選択肢を生徒に提示する。そして、そういう社会の是非の判断は生徒が将来、その立場になったときに主体的に決められるような基礎力をつけることこそ、現実的な教員の仕事ではないだろうか、なんて思う。
 教職が「聖職」なんてエラソーなことをいう気は毛頭ないけど、見せかけの自分よりも、他者に見せられるギリギリの自分を生徒に提示することも、大きな仕事だと思うな。どこまで他者にみせられるか、ということがその先生の「教師力」のような気もするんだけど。

 1学期のこだわりの2つ目は、主語と動詞とを見抜くというか、意識させること。本多勝一によれば、日本語にあるのは主語ではなく、主題といった方がいいらしい。確かに、主語の支配力を考えた場合、日本語と英語との「主語」は全く違う。
 生徒には、英語には二つの文があり、次の二つに英文は分けられると説明。
1)「主語が(は)動詞する」(SV, SVO, SVOO, SVOC)
2)「A is B」→「イコールの文」 (SVC)
 He walks.であれば「彼は歩く」 I run.は「私は歩く」のように、まずは「主語が(は)動詞する」の形を徹底的に練習。その後、I bought this book.「私は買った。(何を?) この本を」というような、SVOに移り、同じような方法でSVOO, SVOCの説明をした。
 これを意識化させるために、Ⅰには主語、Ⅱには動詞、Ⅲには目的語・補語、Ⅳには副詞句を自分たちで入れさせるようなプリントを配布した。

 この作業を通じて、基本的な文構造を生徒が理解できるようになるだけでなく、andが何と何とをつないでいるかということ、従位接続詞節と主節との関係、to不定詞の用法別役割などなど、意識化できるようになってきます。
 1学期は時間的に最小限度しかできなかったけど、もちろん音読も行いました。

 人間の記憶のメカニズムから考えても、高校生という発達段階であれば、自分が理解したことを覚えることがもっとも合理的であり、9×9のように、意味よりもリズムで覚えることは意味が薄い。(ここに、中学校と高校との授業の大きな壁があるんだろうね) 高校生にオーラル重視というのは、どのレベルの生徒を指していっているのか分からないけど、少なくとももっとも基礎的なことを教えるのに、ゲームやビンゴは意味が薄かろう。

 うーん、1学期のこだわり(2)とはタイトルを付けたけど、タイトル以外の話題が多くなってしまいました(^^;; ともかく、(2)として、「主語と動詞とを見抜け!」ということでした。

2006/07/23

1学期のこだわり(1)

 またまた久しぶりの更新。昨日で、町内会の夏祭りが終わったので、たまっていたことを書いていきたいと思っています。それにしても、上品な言葉でいえば「自分の気持ちをいかに相手に伝えるか」、ぶっちゃけ「言い方」って大切だな、と感じました。

 1学期に授業でこだわった一つ目はchunking。お恥ずかしい話しだが、チャンクの正しい定義はよく分からないので、phraseと同じ意味でこのチャンクという言葉を授業では使った。
 名詞句は「チャンク」と呼び、前置詞句は「前置詞のグループ」と呼んだ。(同じ「チャンク」と呼ぶと、混乱する可能性が高いため) そして、「チャンク」は□(四角)で囲い、「前置詞グループ」は(  )で囲むように習慣づけをさせた。

 Some boys enjoyed dance yesterday.

 Some boys enjoyed dance ( in this gym ) yesterday.

  Some boys ( in my class)  enjoyed dance ( in this gym) yesterday.

ブログでは□で囲えないので、カラーにしました。some boysやthis gymのように基本的な部分、もちろん例にはないがthe boysのようにthe+名詞もチャンクとして生徒に意識させた理由は、これらの語の連関さえも、少なからぬ生徒が理解できていないから。

 教科書への書き込みは、音読にとってマイナスなので、TMに付属されている教科書の本文ファイルを使用して、それをコピーして配布。それに生徒がこのチャンキングを考えていく。この作業を主体的に出来た生徒は、成績が伸びました。ESSとして頑張っているNさんとMさんの2人は、入学時は「2番手」だったが、最終的には学年で1,2番。彼女ら2人もこの作業は徹底的に行っていました。

 生徒が気づいたチャンキングの効果は、リスニングが出来るようになった、英文が読めるようになった(内容が理解できるようになった)という二つだった。前者のリスニングは、英検のテストにも結果が現れている。
 先日、ESSの生徒を大学の講義にオブザーバーとして参加させていただいた時、初めて見た英文を見て、「チャンクを考えると、英文が読めるのですね」というひと言が、後者(英文が読めるようになる)の証明となっているのだろう。特に先ほどのMさんにいたっては、「これなら、自分もこの大学で勉強できるかも」という気持ちさえ持ったほどだった。

 話は全く変わるのだが、卒業生がやってきた。彼女は英語の伝統校でもあるM大学に通っている。「勉強はどうだ?」と聞くと、「文学は、英語力が関係ないので‥」という。どうして???と聞くと、日本語訳を読み、その解説をしているからだという。「和訳先渡し」ではなくて、「和訳のみ」なんです。ウーム、である。

 今から、夏祭りの片づけ、そして午後からは英語の補習に行ってきます。

2006/07/18

中堅層がどうして伸びるのか?

 久しぶりの更新。いろいろと考えることがあり、書き込みませんでした。一部の方にはご心配をお掛けしてしまい、この場を借りてお詫びしますm(__)m

 さてさて、1学期の成績が出てきた。これは毎回思うことなのだが、なぜか入学時の成績上位者はなぜか伸びず、中堅の生徒が飛び出してくる。いま、指導に特に力を入れている2人の生徒もやはり中堅にいたのだが、それが今では学年1,2番という成績だ。これって、どうしてだろうか?

 そんなヒントが、部活動の加入状況にある。中学校の時に、いろんな競技で有名だった選手が結構いるのだ。例えば、ソフトボール。中学校では、ソフトボールは盛んだが、高校では一部の学校でのみ盛んの傾向がある。そういう高校からスカウトが来た選手が、勤務校のようにお世辞にも「盛ん」といえない学校に来ている。だから、そういう選手は、大会の時に助っ人として出場していく。でも、彼女たちが部活にはいることは、まずない。

 「ソフトボールをしたければ、スカウトをした○○高校に行っているよ」というのが、入らない理由。結局、高校ではソフトボールをしたくないので、盛んではない高校を選んだということ。周囲は「やれば、伸びるのに」と思っても、本人が入学の段階でその意識がないからどうしようもない。

 同じようなことが、学習でもいえるのか? 勉強したいと思うのであれば、少しでも難易度の高い高校に行くだろう。だから、そういう生徒はなかなか高校で伸びていかない。それよりも、「自分も出来るようになるかも」と思って、努力した生徒が伸びていく。

 結局は、入試の点数よりも、入学後の意欲と努力ということか。

2006/07/07

1学期の成果

 1学期も授業と考査が終了。共通問題のために、今回は同僚のS先生が作問。自分の作る試験とは全く違うものだったのだが、どんな問題であっても勉強した生徒は点数が取れるし、勉強しない生徒は点数が取れない。テスト問題が生徒の学習スタイルに影響を及ぼすという理屈は十分に理解しつつ、それがどの程度の影響なのか、疑問に思う。
 普段の勉強とは違う、総復習的なテスト勉強の中で、どれほどの時間をテストの出題傾向に合わせるというのだろうか? こう書くとお叱りを受けるだろうが、英語教育の本質は授業であり、それに付随する内容はいわば「脇役」だと私には感じられる。テストは、「このような視点で英語を学んで下さい」という教師からのメッセージであり、立派なテスト問題は、日頃からの授業に裏打ちされたものでなければ、単なる趣味の世界に終わってしまう。
 授業について、漠然と書きたいことがあるのだが、まだ文字に出来ない。まだ修行が足りないんですね。

 とりあえず、1学期の結果が出た。

英検3級テスト(65点満点)
(高校入学時)-118名-        (2006/07)-115名-
筆記問題平均 13.6(SD:5.0)     15.9(SD:4.9)
リスニング平均 15.2(SD:4.2)     18.9(SD:5.0)
合計平均    28.8(SD:7.8)     34.7(SD:9.1) 

SD(標準偏差)の開き方からも分かるように、勉強する生徒としない生徒とに別れつつある。これをどのように克服していくかが、これからの大きな課題。

具体的にはどのような学習をしたかは、また次回にでも。

2006/07/04

おなじ言葉は同じ内容を伝えない

 私が初任の時のこと。卒業式の後に、卒業生や中退をしたものが、学校の回りをバイクや車で「パレード」したことがあった。その時に、とある先生(卒業生の担任)がその生徒たちのところに行き、何かを話したところ、車に同乗していた生徒はその車から降り、運転していたものは学校から離れていった。
 その光景を職員室から見ていたときに、「あの先生はどんな話しを生徒にしたのでしょうか?」と畏兄S先生に尋ねたところ、ことばが問題なんじゃなくて、日頃の関わり方、今までの流れが大切なんじゃないの?」と逆に問われ、恥ずかしいやら、納得するやらの気持ちになった。

 日頃のコミュニケーションが取れていたから、生徒がその先生を評価していたから、その先生の発することばに素直に従い、行動をやめたってことです。「お前ら、ふざけるのもいい加減にしろ」、「あなた達のしていることは間違いです。その行動をやめなさい」、「俺との関係はこんなもんだったんだな?」などなど、どんなことばでもそれはその先生の日頃のスタンスにあった言葉だったのだろう。つまり、ことばが問題なのではなくて、それまでの付き合い、人間関係が大切だったわけです。

 同じ言葉を、人間関係が出来ていない先生がいったところで、誰も生徒はいうことを聞かない。「何をかっこつけているんだよ」「うるせー」といわれて、お終いかもしれないなぁ。

 これって、何でも同じ事だよね。「愛しているよ」と同じセリフを、好きな人に言われるとうれしいけど、嫌いな人に言われると虫ずが走る(笑) そう考えれば、分かりやすい。

 これは、1つの例だけど、普段のブログに英語教育(教育)に普遍的な科学性なんてありっこないと私が考えるのは、そんな理由。特にポジティブな意味での生徒指導の面でそれは如実に表れてくる。そして、その生徒指導の延長線上に授業がある場合、これは「底辺校」がその傾向が強いのだろうが、さらにその関係は強くなってくる。

 自分が分かってもらえる、理解してもらっているという感覚は人間にとって大きな勇気づけになる。自分の考えることを上手に表すことの出来ない思春期の人間にとっては、大人にとってよりも、ずっと大きな勇気づけになる。その勇気づけの中で生まれる安心感。その安心感の中での学習も含めての行動は安定したものになるだろう。

 つまり、授業とはそれだけを見ても全てを伝えていない、ということです。日頃の人間関係がどうなっているのか、ということを見ずして、授業だけを見てもそれは理解できない。原稿用紙に書いてみれば同じセリフになったとしても、誰がいうかでその意味は変わってくる。"Repeat after me."にしたって、誰がいうかで変わってくる。

 「生徒が授業中に騒いで仕方がない」「生徒が勉強しない」と悩みには特効薬はなく、結局は日頃の人間関係しかないんです。

 松の廊下を直角で歩くようなスタンスで、目下の者に接する人をどれほどの人が尊敬しますか? 向上心を持たない人を誰が尊敬しますか? 目下ものもを小馬鹿にする人を、だれが尊敬しますか? 「教えてやっている」という気持ちの人を誰が尊敬しますか? 相手の気持ちを理解しようとしない人を誰が尊敬しますか? 

 話しは元に戻るけど、教授技術を学ぶことも大切だろう。しかし、それだけではなく、もっと基本的な部分を考えないといけないんじゃないかなって思います。規則に縛られるのではなく、柔軟な姿勢を持って、広い意味での「安全」の部分では決して譲らず、生徒に対する共感的な姿勢。書いてみると簡単だけど、結構、大変なんですよ、これを通すのは。時には、同僚ともトラブルになるかもしれません。

 以前にも書いたけど、「生徒が英語を勉強しないから…」というセリフを何度も聞いてきた。(弱気になったときは、確かにそう思うものなんだけどね;苦笑) そのグチをいうのは、本当によく分かります。ただ、願わくば、そのグチはストレス発散のためのグチにして、勉強する環境を作り、そして学習に結びつけていきましょうよ! それが、現場で働くもののプライドになりませんか?(^^)

 遠藤周作がエッセイ(確か「恋愛論」だったと思うんだけど…)の中で、「キリストにしてもモハメッドにしても偉大な人物だろうけど、恋愛の対象にはならない」と書いてあった。それは教師と生徒の関係も同じだと俺は思うな。
 「俺は聖人君主じゃないから、悩むし、イライラするし、酒も飲むし、○○だし(笑)、でもさ、君たちに対しては真剣に向き合っているつもりだし、勉強はしてもらいたい」っていうスタンスで良いんじゃないんでしょうか? ギチギチの規則野郎が担任だと、辛いでっせ、生徒も。

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