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2006/06/28

天知る 地知る 己知る

なかなか更新できませんでした。まずは、最近に日記風の内容。

6月某日
 とある会合で、大学の先生方と。かなり著名な方が多くおられるのだが、どうしても感覚が合わない。テーマは英語の苦手な生徒への動機付け。とあるレポートによれば、有意差のある動機付けは、おおざっぱに言えば「海外への憧れ」。海外で働きたいとか、居住したいとか、そんな理由がそのレポートによれば動機付けらしい。少なくとも、サンプル数が数百のアンケートによればそうらしい。
 現場で働く皮膚感覚として、それにはどうしても同意できない。それが正しいのなら、海外での生活を提示すればするほど、英語を勉強するようになるということになる。「あ!ホント、その通りだ!目から鱗だ!」と思う人がどれほどいるんだろうか?
 しかし、これもアンケートの落とし穴の賜(たまもの)。だから、アンケートが一人歩きすると、どんな結果でも出るんだよなぁってどうして分かってもらえないのか。少なくとも、英語教育を自称する先生であれば、現場に出て働いてみる必要があると思うが、いかがなものだろうか? こうして、大学と高校との溝は埋まらなくなっていく。

6月某日
 身内が夜中に救急車で病院で運ばれまして、その知らせを受けて一緒に病院へ。その翌日は、その身内の代理でガンセンターへ。死と向かい合う人々が過ごす病院ということもあり、私自身も「哲学」の一日でした。年齢のせいか、この頃感じるんですよね。自分が現役として「一線」で働けるくのはあと何年なのかなぁって。せいぜい、15~20年程度かな? 自分の父の後ろ姿を見つめつつ、現状から逃げるという視点ではなく、自分の生き方をもう一度、考え直した一日。平均寿命まで生きたとしても、あと40年。

6月某日
 サッカーで盛り上がる中で、愛国心について考えた。その中で、博学にして尊敬すべき同僚のA先生が、「この国が大きな借金を子どもにまで負わせているのはどうして?」とポツリ。ウーム、と考えてしまった。

6月某日
 どうも英語の小テストで、机に単語を書くという古典的なカンニングを集団でしているクラスがあるらしい、というよりも、残念なことに確認してしまった。昔なら、その場で怒鳴ったのだろうが、今回は生徒の良心に訴えかけようと思い、本日のタイトル「天知る、地知る、己知る」という話しをする。「誰にばれていなくても、天も知っている、地も知っている、そして何より己自身が知っている」とまずは話した。そして、イタズラが多発するところに用務員さんが鏡をセットしたところ、そのイタズラが減ったことを話し、「後ろめたいことをするときには、自分の顔を鏡で見てみる、もしくは想像してから、やってみたらどうか?」なんて、柄にもなくマジメな話をする。
 せめてもの救いは、自分のHRではカンニングが0ということか。

6月28日
 放課後、何人かの生徒が研究室にやってくる。すると例のカンニング話をしている。ある生徒が、「自分はしっかりと勉強しているのにあの人たちはずるい!」という。すると、別の生徒が、「気にするなよ。どうせズルをしたって力はつかないんだから」と答える。答えた生徒の言葉に、救われた。ホント、そうだよね。

 結局は生き方の問題か。全てがそこに帰着する。金のある無しで「勝ち組/負け組」ではなく、生き方でそれは決まるのかもしれない。それが分かるのは、この世を去る瞬間なのだろう、ね。

 

2006/06/25

「原石」多数確認中

 兄貴、といっても本当の兄ではないのだが、親しみを込めて「兄貴」と呼んでいる先輩教師がいる。英語の教員ではなく、他教科なのだが、ひょんなつながりから、一緒に行動することが多くなってきた人だ。

 その兄貴から連絡があり、「ウチの部員の英語を見てくれないか?」といわれて、昨日はその兄貴の学校に出前の授業。中間考査が11,12,13,14点という「赤点カルテット」がいるようで、その4人を見て欲しいとのこと。
 実際に見てみると英語の基礎が理解できていないので、基本的な文構造から教えていくことになった。その構造を使って、授業で使用している教科書に応用していった。
 最初はどのくらい時間がかかるかと思ったのだが、思ったよりも飲み込みが早い。「なるほど」と1つが理解できれば、あとはどんどん自分で解いていく。法則が分かれば、それを他に応用するだけということが分かったようで、まずは初学者としては合格かな。高校生という発達段階を考えれば、法則性をまずはしっかりと植え付けて、それを新しい学習に応用していくことが、「出来る」ようになるためのいちばんの条件だと思う。

 何をもって「できる」と定義するかは難しいけれど、高校の中程度の教科書を辞書なしで読み、なんとなく意味が理解できるというのを「できる」と考えてみる。「できる」ようになるまでは、やはりインプットが必要だろう。英文も精読をすることで、文構造(=法則性)を理解し、難しい語に読みの邪魔をされないためにも、単語を覚えていく。そして、音読や筆写という作業をとにかく繰り返していく。そして、「分かる」という感覚を持たせることが、学習を続けさせるためには大切なんだろう。

 自分に対しての戒めとして、生徒の学力をいい訳にして自分のすべき事をさぼってはいないか、と考えることがある。「どうせ、教えても無駄だよ」というセリフを何回、今までに聞いたことだろうか。確かに、無力感にとらわれることもあるけどね(苦笑) でも、寅さんじゃないけど、「それをいっちゃぁ、お終いよ」ってことは、言わないに越したことはない。そういう気持ちに逃げると、進学校に行ったら、「生徒が自分で勉強しますから~」なんていいませんか?

 さてさて、兄貴の生徒だけど、飲み込みが早く、もう少し行いたかったのだが、土曜日の午後という制約もあり、2時間で「出前授業」は終了。

 今回の出前授業もそうだけど、「原石」がいたるところで、確認される。「どうして、今まで君が英語が苦手だったの?」「どうして、点数がとれなかったの?」と感じる「素質」のある生徒と巡り会うことが多くなった気がする。これって、どうしてなのかな? 本人の気持ちも変わったという面もあるだろうが、中学校の週3時間授業の中で、育ちきらなかった才能という面もあるだろう。
 私の回りが特異なだけなのだろうか? この秋にはいろいろと報告が出来そうなきがするな。

2006/06/20

「底辺校」だから何も出来ないのか?

 「底辺校」「教育困難校」「課題集中校」などと、学力的に低く、マイナス面での生徒指導が多い学校は、いろいろな呼び方があります。「進学校」という学校がその対極なのでしょうが、こちらは他の呼び方があるのかしら? 

 実際、前者のグループの学校に勤めていると、教科的な問題だけでなく、それ以外のことも発生してきます。担任をしているとなおさらです。特別指導(いわゆる停学)の発生件数も多いし、不登校の率も多いし、保護者との連絡や家庭訪問も頻繁にあります。(その上、保護者が連絡がつかないケースも少なくない)

 そんな学校に勤めていると、「英語の授業は英語で」なんていわれると、ケッという気持ちになります。これは間違いない。「じゃぁ、あんた、やってみろよ!」という思いになる。英語教師の研修事業で、とあるSELHiにおられた先生が、県内でも有数の「底辺校」の先生に対して、「私は、そちらの学校でも十分に英語で授業を展開できると思うんだよねー」という発言に、(゜;)\(--;)オイオイナニイッテンダヨって思いでした。

 しかし、です。だからといって、本当に教科的なことは何にも出来ないのか、という疑問が私にはあります。確かに英語的な知識を求められることは少ないことは確かだし、使うことも少なくなってきます。でもだからといって、「底辺校」にお勤めの先生方、本当に何も出来ないのでしょうか? 有名私立や国公立に入学できるような学力をつけることだけが、目的ではないでしょ。

 アルファベットが書けないというなら、書けるようにするだけでも、学力の向上ではないか?  I am like dogs.と書いていた生徒が、I like dogs.と書けるようになっても、学力の向上でしょう。分からない単語を1つ覚えただけでも学力の向上でしょう。極端な例かもしれませんが、学力の向上は、いろいろな方法で可能なわけです。

 教員の目からすれば、本当に小さな前進かもしれないけど、生徒からすると「分からなかったことが分かる」ということは、大きな感動です。もちろん、言葉では「先生のおかげで、分かるようになった」なんて言ってくれる生徒はほとんどいないかもしれません。でも、心の中では、何かが動いていますよ、きっと。
 娘が4歳の時に、庭の石の下に虫がいるのを私に見せ、「石の下には虫がいるんだよ」と言ったときに、「すごいねー。誰に教えてもらったの?」と聞いたところ、娘は「最初から知っていた!」と言いました。だれも、「お母さんのおかげで、私はこの知識を得ました」なんていいません。成長している人間は、自分の力で成長したと思いたいものです、心の中で感謝していても。

 高度な英語力を必要としないなら、心理的なことを学んだらどうでしょうか? 今まで見えなかったことが見えるようになります。そうすると、今までよく使っていたおきまりの表現、「家庭が原因で…」とか、「生徒の心の闇が…」、「凍てついた心を…」なんていう事も少なくなるし、なくなってきます。確かに「家庭が原因で…」かもしれないけど、その現状を踏まえた上で、どうするの? 「生徒の心の闇が…」って心の闇が見えているなら、どうしたいの? 「凍てついた心を…」というなら、どうやって暖めていくの? ということです。

 生徒との関係が上手くいくと、自然と学力も高くなるから不思議ですよね。「いくら教えても出来ない」なんていうセリフも何度も聞きました。しかし、本当に相手が理解して、それを定着するように教えているのでしょうか? 関係をよくして、自分なりの教え方を作り上げることで、学力はかならず上昇してくるものです。

 で、たくさんの実践をしましょうよ! ネガティブに考えていても仕方ないので、多くの実践をして、それを記録として残していく。その実践録こそがいちばんの財産になりますから。

2006/06/17

教育実習終了

 教育実習終了。色々とあった実習期間だったけど、実習生のNさんの力におんぶに抱っこの指導でした。これで、指導と言えるのかどうか分からないけど(^^;;

 雑感。

 言葉にすると、どうも胡散臭くなるのが残念なことだが、生徒がかわいい、と彼女が思えていることがまずは大切。メタ認知を大切にしつつ、さまざまな場面で生徒を援助していた。

 とにかく、辛抱強く、学習指導をしていた。某部活動の生徒数人が、30以上の不規則変化動詞が分かるようになった。たぶん、彼らにとって初めての経験。

 帰りのSHRからなかなか帰ってこなかった。というよりも、帰してもらえず、生徒の話をよく聞いていた。

 授業のフィードバックや、生徒からの何気ないフィードバックを大切に、自省をしていた。

 そして、何よりも生徒との関係が上手にとれていた。

最終日の帰りのSHRでは、教壇に立ったとたんに涙。そして、生徒に花束を渡されて涙。色紙を渡されて涙。挨拶をしようとして涙。最後に、ちょっと笑顔で写真撮影。

 そして夜は懇親会。ALTの歓迎会も兼ねてのパーティーでしたけど、なかなか盛り上がりました。来週からはまた、日常が始まります。期末考査まで残り2週間ちょっと。

2006/06/16

高校生はよく見ている

 それにしても、高校生はよく見ている。何をって、教師をよく見ているなぁと思う。

 先日も、とある研究会の講師の先生が仰っていた。悪趣味なんだけどと笑顔で切り出しつつ、「高校生の会話をマックで聞いていると面白い。『A先生っていいヤツなんだけど、職員室では立場が低そうだよねー』『そうそう、発言力はなさそうだよねー』なんて会話をよくしているんですよ」と仰っていた。

 確かによく見ているなぁと思う。そしてたまーに、カマをかけてくる。「ねーねー、B先生のことどう思う?」 いやぁ、ホント、ど真ん中を聞いてくるんですよね(^^;; そういう時は、「いま好き嫌いということは言えないけど、お前たちが見ているのは一面だけかもしれないし、誰しもがいい面もあれば、悪い面も持っているからね」と答えなのか、自分に言い聞かせているのか、どっちか分からないように、答える。

 この観察力って、男子に比べて女子生徒の方が圧倒的に高い。たまに、女子生徒数人が、冷蔵庫にあるチョコレートを目当てにやってくるのだが、その時の会話を聞いているのも楽しい。「○○君って、断れない性格なんだよねー。だから、C子がコクったら、すぐに付き合っているんだって!」「えー、だって、○○って、C子じゃなくて、D子が好きだったんじゃないの?」「だからぁ、断れない性格なんだよぉ。なんか、試しに頼んでみなよ」

 ホントに、よく見ています。男子は、ここまでは見ていないけど、女子は本当によく見ている。自分の相方を見ても、うーん、……、ぜんぶ見ているんだろうなぁ(^^;;; 

 この高校生の時の教員に対する印象って、もしかしたら一生ものかもしれません。組織拡大、ってスローガンにしている組合も、遠回りかもしれないけど、生徒に尊敬される組合の先生であれば、そういう生徒が教師になったときには組合にはいるのでは? でも、若い人の組合離れが進むのはどうしてなのか? もう一度、考えた方がいいのではないだろうか。って、蛇足ですけど。

2006/06/15

英語教師の「敵」は英語教師!?

 この頃、いろいろな大学で「出前講義」ということで、小学校から高校に大学の先生方が授業(講義)に出かけている。もしかしたら、林竹二がこのはしりだったのではないか?

 「開国」の授業でも知られる林竹二は、小学校から高校まで多くの学校で授業を行った。カエルの子はカエルだが、学びを通じて人は学ぶことによって人間になっていく、と授業で語る彼の迫力は多くの児童や生徒を引きつけていた。首都圏にあると某工業高校での授業で、(そこは「ヤンキー」の生徒が多かったのだが)、林竹二の授業を真剣に聞く生徒の写真に感銘を受けた人は多かっただろう。

 ところが、この林の授業に対して批判があったと聞いた。(今日のブログを書くのに書棚を探したが見あたらないので、間違いがあればどなたかに教えていただきたい) それは、「生徒に動きがない」というのだ。授業の内容は、彼の話が中心となっていて、生徒に動きがない授業はいけないというのだ。

  この批判は、英語の授業にもよく見られないだろうか? インプットが不十分なのに、アウトプットを求め、そのアウトプットが授業中にあれば、「生徒に動きがあるすばらしい授業」という物差しを持つ人がいるが、これは本当なのだろうか?

 というのも、昨日、実習生の授業があった。ひと言で言えば、実質10日程度の実習の中でよく頑張れたなぁというのが正直な感想。本校の生徒は、中学校の時に英語が得意だったという生徒は1割にも満たない。苦手教科に「英語・数学」と書いてくる生徒が本当に多い学校である。しかし、自分たちが納得して、なるほどと理解すると、愚直なまでにそれに取り組んでくれる。

 このような状況を踏まえ、しっかりと英文を仕組みを理解して、音読や筆写、単語の学習を1学期の課題としている。確かに、「あれもこれも」と学ばせたいことはあるが、50分という授業、年間110時間程度という授業数を考えて、高校に入学してまだ2ヶ月程度の生徒、しかも多くは英語にコンプレックスを持っていた生徒に対して、1年間というグランドデザインの中で、現在の授業を考えて欲しいと実習生に話し、次のような授業を行った。

単語の試験と学習(20分):「短文で覚える英単語」(文英堂)
 ・復習のテスト(8つの文のテスト。前回と前々回の2回)
 ・新出語句は約20語の学習(短文英単語を使い4文)
 新しい文の学習では、既習語も含めた発音練習。チャンクごとの発音練習。そして、全体の発音練習あり。

教科書(30分):ExceedⅠ(三省堂)
 ・リスニング(アウトラインを意識さえる)
 ・新出語句の確認(発音練習あり)
 ・リスニング(新出語句を意識させる)
 ・本文をチャンク分けする→文の分析(主語と動詞を特に意識)=内容読解
 ・本文の音読(コーラスリーディング・バズリーディング2回ずつ、内容を考えながら)
 ・本文の筆写(この内容を相手に伝えるつもりで)
 ・リスニング(内容を考えながら)

生徒はしっかりと音読の声を出し、チャンキングもかなり出来ている。授業も真剣に聞いているし、表情から実習生の説明に納得した様子は十分に伺える。よく出来たなぁ、という思いを持っていたら、次のような感想がとある先生からもらった、と実習生が話してきた。

若い人の授業としては、コミュニカティブなものが全くないので、がっかりした。失望した。SELHiの授業でも見た方がいい

 がっかりした、失望した、ですか? コミュニカティブな授業とは何なんですか? この感想は、反省会の時に出たのではなく、実習生が感想を伺いに行ったときに出たものなのでその場には私はいなかった。そこで真意を聞きにいった。
 すると、同じ事をいわれた。そこで、「インプットが不十分なのに、アウトプットを取り入れたところで、大きな意味はないでしょ? だから、今の段階ではインプットを重視している」というと、「学習指導要領にもコミュニカティブは重要視されている」という。あまり、好きな言い方ではないことを承知の上で、「インプット理論を知っているのか?単語数を増やしたり、文法的な学習というインプットが今の段階では大切だと考える」というと、「私は理論的なことには興味はない」
 「学習指導要領だって、コミュニカティブなことだけを言っているだけじゃないでしょ?」というと、「私はそうは思わない」 
 後で考えてみると、野球とサッカーとのルールの話し合いみたいなものでして、まったくかみ合わない。確かに、授業中に生徒の動きがあると、「すごいなぁ」と思います。しかし、その基礎力を育成する段階で、無理に動かして、見せかけのコミュニカティブな授業にどれだけの意味があるのでしょうか? 実習生が授業を終えて、「お疲れさま」のひと言もないような日本語での他者の気持ちを推し量れない教員が、英語の授業ではコミュニカティブでなんて、マンガでしょ? コミュニケーションって、単にことばの表面的なことでもないだろうし。

 正直、がっかりしました。ちなみに、この発言をされた先生、SELHiでご活躍をされた方です。いやぁ、久しぶりに感情的になりました。

 挙げ句の果てには、「SELHiでの取り組みは普遍化されて、全ての高校で普及されなければならない」という発言。参りました。だったら、どこでもいいから、SELHiでのスタッフを突然4月に転勤させて、英語の苦手な生徒が多い学校で実践をしたらいい。それで、3年後に、ナントカ国際高校と同じような成果が上がるっていうんでしょうか?

 ちょっと横にそれてしまったけど、私はSELHiが無意味だなんて思いません。その一方で、いわゆる進学校での英語教育が、全て英語の授業のモデルだとも思わない。その学校に応じた、生徒の実情の上に立ち、いかにして学力を伸ばしていくか、という共通の思いこそが大切なのではないでしょうか? 

 アルファベットが書けるようになる成果もあるだろうし、東大に合格できるほどの成果もあるだろうし、その実情にあわせたそれぞれの成果のための道筋を理解しようとせず、見栄えが華やかなモデルを求めていったらどうなってしまうのか? いろんなところで、その結果があるのではないでしょうか?

 さて、冒頭の批判に対して、林は「表面的には動きがなくても、児童生徒の心の中で動きがある」と反論した。林によれば「学ぶことは、変わること」だ。「学ぶ」という定義を考えれば、あることを教えられてから、すぐにその場で変化は起こるのではなく、自分の中で納得して、その知識が血や肉となり内面から変わっていくことが、「学ぶ」ということなのだろう。表面での事象だけに目を奪われるのではなく、学力を含めた心の動きに注意しなければならない。

2006/06/11

英語の授業のSST

 まつど教育相談研究会の研修会。講師は法政大学のW先生。内容は、「ソーシャルスキルトレーニングの理論と実際」 について学んできた。

 私がいちばん印象に残ったことは、「優しくしなさい」といってもその優しさを知らなければ、優しい行動など出来ない、ということ。「しっかりやりなさい」「勉強を頑張りなさい」といったところで、抽象度が高いケースには、本当にしっかりやる必要がある生徒や勉強を頑張って欲しい生徒には、伝わりづらいということ。

 こちらの意図が上手に伝わらなかった結果、「あの生徒は優しくないから仕方ないよ」「しっかりやれない性格なんだよ」「勉強をする習慣がないんだよ」とその生徒の性格や資質のせいにすることで、教師側は無理なものとして無意識に手を抜いていく。そのため、クラスで生徒が浮かんでこない。

 確かに、こういう言葉、よーく使われているなぁと思ってしまった。「日本人的文化」の精神論と似ているところがありませんか? その意味では、学校はとっても日本的文化だなぁ。冬季オリンピックでメダルを取れなかった選手を見ていて、どっかの知事が「たるんでいるからだ」といっていたけど、それに共感するメンタリティーとつながるのかもしれないね。

 例えば、「しっかりと授業を聞きなさい」というだけではなく、「席に座わろう」→「教科書と筆記用具を出そう」→「前を向いて、授業を聞こう」と段階に分けて教えていこうというのが、このソーシャルスキルトレーニング(SST)。 

 この研修を受けていて、英語教師の研修にもぴったりなんではないか、と思った。

 ほとんどの英語の教員は、中学や高校で英語が得意だった人だろう。おそらく、勉強の仕方やツボが教えられることなく、自分で体得できたタイプではないか。先ほどの例でいうなら、「優しくしなさい」「しっかりしなさい」「勉強を頑張りなさい」という抽象度の高いことばを理解できたのだろう。

 一方、多くの生徒はこの抽象度が理解できていない。そこで、両者にコミュニケーションギャップが出来てくる。教師も生徒もお互いに自分のことは大切にしたいから、このコミュニケーションギャップの原因を相手に押しつけて、やれ「勉強する習慣がない」「能力がない」といい、やれ「日本に住んでいるのに英語なんて必要ない」「授業がつまんねー」とお互いに悲しい「殴り合い」が生じている。

 もの分かりのよすぎる英語教師(この微妙な表現を理解して下さい;笑)は、相手の目線にたったつもりになって、「英語なんて必要ないよね。でもね、母語以外の言語を学ぶには…」と自分では相手を正しく説得しているつもりなのかもしれないが、そんなの生徒は聞いちゃいない。だってそうでしょ。根っこにあるものは、「教師のことばが理解できない←→教師が生徒が理解できることばで説得できていない」ってことなんだから、そこで母語がどーのこーの、といったところで、無理じゃないですか。

 しかし、これは学問的には正しいアドバイスだから、余計にたちが悪い。

 「間違っているというんですか?」といわれても、「間違っていない」としか、答えられないでしょ? そうなったら、「正しいアドバイスがどうしていけないんですか?」といわれると、最初から説明するしかない。

 でも、こんな話しをするときは、だいたいの英語教師は疲れ切っているケースが多いんですよね。試行錯誤をしている重ねて、どうしようもなくて、疲れ切っている。そこは、大切にして欲しいものです。

 だからこそ、大学での教科教育の中で、こういう取り組みが出来ないものでしょうか? 私なりの提案は、ブログではなくて、サイトの記事にアップするつもりです。

2006/06/10

授業

 最初からなんですが、私はあまりパソコンに詳しくありません。というよりも、知識が2000年でストップしています(^^;; ブログのトラックバックという機能もよく理解していませんし…(苦笑) 正直、最初にトラックバックを聞いたときには、「トラックがどうした?」と車を想像したほどです←マジメにだから怖い(笑)

 わかりにくい授業って、どういう授業なのかなぁと卒業生でもある実習生と話しをした。「分かりやすい授業」ということで、ビデオまで出ているくらいなので、モデルとなるものは多いだろう。それはそれで、大切なこと。その一方で、わかりにくい授業を通じて、その共通点は何なんだろう、と話しをしてみた。もちろん、英語の授業だけでなく、他教科の授業も含めて。

 年間授業時数は限られている。4単位であれば、実際に授業を行うのは110-120時間程度かな?たった、その程度の時間の中で、どのように授業を展開していくかは大きな問題となる。1年間を通じて、どのような学力をつけることを目標とするかを考え、その方向に従って授業を展開していく。その授業の中では、ターゲットを絞り、生徒が理解できるように行う。どの先生も、これは心がけているはず、だろうね。

 さて、先ほどの「わかりにくい授業」の1つは、「あれもこれも型」だろう。これは、若いときにはよくありがちであるけど、「あれも教えたい、これも教えたい」と教えたいことばかり多くなり、結局はそのターゲットがなんなのかが分からなくなってくる。例えば、
 Young people should go abroad to understand the size of the world.
というセンテンスを教えるとき、あれもこれも、としてしまうと、shouldの使い方や、どうしてgo to abroadとならないかとか、to不定詞の用法はなんだとか、前置詞ofについてだとか、ごちゃごちゃしてくる。だから、授業で扱うことと、スルーするべき事とを分ける必要がある。その授業でのターゲットがしっかりしていないと、こういう傾向が出てくる。「これ、前の時間にやっただろ!」と生徒に言っても、それはきついよねぇ。
 あと、研究授業で自分の専門のときと重なるときに、「ここは、あーだ」「あそこは、こーだ」という批評する人もこの傾向があるかも。これは、地歴公民系が多いかな?

 次に、「一方通行型の授業」 これは、多いかも。よく言えば、「粛々と進められる授業」とでもいうといいかな。この特徴は、生徒がたとえ静かでも、黒板を見ていない傾向がある。居酒屋の親父さんが「下を向かずに、客を見ながら手を動かせ」と修業時代に教えられたそうだ。必要としている客は、こちらを向いている、ということらしい。この「粛々型」の授業を受ける生徒は、1時間が長いだろうねぇ。だって、こちらを向いていない=必要としていない、ってことなんだから。

 あと、いくつか出てきたけど、わかりにくい授業は、教師と生徒との間には、コミュニケーションがない。教える側は教えることで満足しているし、生徒には期待値を持っていない。生徒が分かった、分からないかは、また別の問題、なのかな? そして生徒は、教師側にはついてこない。

 とまぁ、話しているウチに、自分の授業が不安になってしまいました←結構、小市民(笑)

 授業の相互批評は、なぜかタブー的になっている。たぶん、授業だけで学校は動いているのではなく、授業批評をしてしまうと、他の仕事にも影響を与えると考えられているからか。それに、同じ立場で働いていると、お互いの根幹をなす授業の批評も難しいのか? もしこれをしてしまうと、職場では浮くだろうなぁという危惧もあります、本音では。かといって、時流に乗った批評がいいなんて思ってはいませんよ。一つ覚えのように、「生徒に動きがない」「コミュニケーションがない」なんて「批評の一人歩き」の結果がビンゴゲームだなんて、マンガにもなりませんから。

 話しがそれてしまったけど、生徒が納得してくれる授業のスタイルを持つということは、なかなか難しくて、研修が必要ということです。

2006/06/08

和訳問題はいかがですか?

 2005年度の都道府県公立高校には和訳問題が出ていない。(独自問題は除く) 「えっ!」と思う方もおられるかもしれないけど、47都道府県で和訳問題がありません。しかし、文中のthisを尋ねる問題や、「Aさんがこうした理由は何ですか?」という問題を出して、実質的に和訳を求める問題が約90題出ています。もちろん、ダイレクトな和訳問題ではないけど、実質的にはそうなんです。

 和訳については、「英語教育の明日はどっちだ!」や「地道にマジメに英語教育」などで興味深い展開があったのでこちらでは書かないけど、和訳を出すなら堂々と出題したらどうなのかなぁと思う。祖父は旧制高校出身なのだが、その時の入学試験は「和訳せよ」だけだったそうだ。(もし、事実と違っていたらごめんなさい←もう故人なので確かめようがないので弱気です(^^;;) 「その頃の学生の英語力は高かった。だから、和訳が試験問題だって構わないじゃないか」ということで、出したらいいと思うんですけどねぇ。間接的に和訳をさせるのは、どうしてなのかなぁという素朴な疑問。ちなみに私立高校で和訳問題が出ているのは、開成や慶応義塾、慶應義塾女子、関西学院、灘、ラ・サールという蒼々たる学校があります。

 こういうと身も蓋もないかもしれないけど、あれだけの注釈が出ているのに、「和訳はダメだ」というのもマンガチックだよなぁ、って感じるのは私だけ? 軽自動車のチューンアップを論じるよりも、エンジンを大きくするような方策とは何かないのだろうか? ちなみに、定期考査では私は和訳は出しません。

 話題転換。

 今年の1年生は、学力が高くなりそうです。こないだの卒業生よりも、間違いなく、伸びる生徒の人数は多いでしょうね。何がいいかというと、いちばんは素直。とにかく、素直に勉強してくれます。だから、吸収力も高い。その上、よい意味で切磋琢磨しています。ギスギスとした他者との競い合いではなく、他者をきっかけとした自分の内面との競い合いです。もともと、英語が苦手だった生徒なので、スタート段階は高いところではないけれど、その分、生徒の成長が手に取るように分かります。教えていて、こんなに楽しいことはありません。

 教育実習のNさんは、上手だなぁ。今週は、保護者面談で午前中授業なので、午後は野球部の1年生を中心とした「英語嫌い!」という生徒を集めて補習をしている。熱心で、すてきな女性のせいか、坊主頭の気合いが違うんですよねぇ(笑) とにかく、よく勉強しています。彼女には教員になってほしいなぁと思っていると、あまりその意識はないらしい。事情を聞くと、そうだよなぁ、と共感。

 日本の教員も、イギリス化していくのかなぁ。そうすると、これからはますます一層、private schoolの時代が到来になるのでしょうか?

2006/06/04

もういちど、中学校の単語と入試の注釈

 今年は町内会の役員になってしまいました。なってみて初めて、その「雑用」の多さに驚いています。町内会の清掃の準備や、班長さんが集めた町内会費の振り込み、また色々な件で電話がかかってきます。
 先日も、葬儀が連続してあり、そちらのお手伝いをしてきました。20代の頃には感じなかったことが、30代になると感じるものですね、葬儀の時には。そして、人間はいつか死ぬのだというその現実を見つめながら、生きていきたいものだなぁと改めて感じました。深く書くと宗教的になってしまいそうですが、とにかくそう思いました。

 話しは全く変わりますが、新しい中学校の教科書で使用される単語の一覧が手に入りました。以前のブログでも書いたように、その地区で採択されてる教科書で一社でも使われていないものがあれば、公立高校ではその単語を注釈として出すようです。今回は、400数十の単語が共通していますので、それ以外の語は注釈になる可能性が…。

 例えば、arrive, ball, busy, door, fish, flower, money, paper, rice, river, shop, sky, town,wait, young

 これらは、教科書6社のうち5社でしか使われていません。つまり、注釈として「shop:店」となる可能性だってあるわけです。

 大学入試が高校の英語の授業に影響を与えているとは、よく言われています。ですが、実際に大学・短大に受験しようとする高校生は、半分から2/3程度でしょうが、高校入試を受験する中学生は90数パーセントに上ります。とすれば、この高校入試が中学校の授業に影響を与えることは、間違いないはずです。

 極端な話しをすれば、この400数十さえ覚えていれば、あとは注釈として出るんですよ。高校入試で必要な単語がたったの400数十ですよ! これは、常識では考えられないでしょう。しかも、この注釈の多さを逆手にとって、「長文を読むときは、注釈から読みなさい」なんていう指導があるくらいです。注釈は、連想ゲームのための手段じゃないでしょ? 

 高校入試での注釈は減らしたらどうでしょうか? 確かに教科書によって、有利不利が出てくるかもしれませんが、そこまで考える必要があるのでしょうか? 大学入試で、「教科書に出てこないから、これは注釈をつける」とはならないでしょう。

 図書室に、中学生でも対応可能なペーパーバックをおくなどして、塾に行く経済力のない生徒も学習できるようにすればいいわけです。

 とにかく英語の土台となる単語をしっかりと覚えさせるような方法を高校入試で行わない限り、巷でいわれている高校生の英語力の低下は止まらないのでは、という気がします。ちなみに、私立高校ではこれほどの注釈なんてありません。

 小学校から英語教育よりも先に、高校入試を変える。そして、中学・高校の英語教員の教え方のワークショップ(講演ではない)でも行う方が私にはプラスだと思うんですけど、どうなんでしょうか? 

2006/06/03

これも暴論でしょうか?

 今週から始まった教育実習。自分の授業を改めて意識化したり、実習生からのコメントに感心したりと、いい刺激になっています。ただ、週の初めが代休、火曜日からは中間考査の返却、そして来週は面談週間のため午前中授業になってしまうので、日程の関係とはいえ、実習生には申し訳ない気持ちだなぁ。生徒は、やはり実習生が来るとうれしそうで、特に男子が遠巻きに話しかけているのを見ると、ちょっと微笑ましかったり(笑)

 今日は英語教育とは全く関係のないこと。

 この頃、学校で色々な「改革」って行われていますよね。それは学校に問題があるから、教員に問題があるから、ということなんだろうけど、根本的な改革で、暴論をまた1つ。

 教諭は、採用から退職までずっと教諭。

 管理職にはならない、としたらどうなんだろうかなぁって思う。管理職には、民間の人でもいいし、行政職の人でもいい。もちろん、教育委員会にも、教諭出身者は入れない。教育長にも教諭出身者はなれない。ちょっと暴論かもしれないけど、給与体系や免許の更新制など、ガラッと変えようとしているんだから、教諭が管理職にならないくらい、大したことではないでしょ。みんな、教諭になりたくて教師を目指したんだから、初志は貫徹したっていいじゃないの。

 そして、各教科ごとに生徒の学力向上で実績を上げた先生方を、現在の指導主事のような形でおく。教育相談についても同じ。これらは、学校間で格差があるだろうから、多種多様の力のある先生になるだろう。ここに配属された先生方は、各種の研修会を主催する。任期を数年として、ここの先生方はまた現場に戻る。(←ここが大切!)

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