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2006/04/27

授業のマニュアル(かなりの暴論)

 伝聞のことなので、もし専門家がご覧になり違うところがあれば、教えて下さい。そして、あえて「悪魔の誘い出し」の役をしてみようかなぁということで、暴論です。

 名医の手術は、かなりの名人芸に属することがある。というのも、あの微妙なメス捌きで細かな部分を処理していく。盲腸のような手術ならともかく、腫瘍の摘出などは繊細な技術が要求されるだろう。

 しかし、その「ともかく」といった盲腸の手術はどうなんだろうか? 知り合いから聞いた話では、手術にはマニュアルがあるらしい。盲腸ならどの皮膚を切り、どのように盲腸を摘出していくのかというマニュアルがあるということだ。

 そこで、教員の授業とはどうなっているんだろうか? ほとんどの人が、大学入学後に英語教育について学んでいく。そこで始めて、受けるという立場から授業を眺めるのではなく、いわば鳥瞰図的に授業、英語教育について学んでいくことになるのだろう。

 しかし、その鳥瞰図的な側面を持つべきである大学での英語教育は、本当に鳥瞰図的になっているのだろうか? その鳥瞰図は、本当に英語教員にとって必要な鳥瞰図になっているのか? 説得力を持つ鳥瞰図になっているのか?

 英語教育の理論的なことも必要だろう。それは、外科医にとっての腫瘍とは何なのか、という同じレベルで必要なことはよく分かる。しかし、メスを握り、実際に手術をしていくというレベルの英語教育は行われているのだろうか? はっきり言えば、授業での教え方、という最低限度のノウハウは必要ないのだろうか?

 囲碁には定石がある。その定石を崩すと、しっかりとした力は身につかない。では、英語教師にとっての定石とは何だろうか? 定石の理論、定石のあり方、という以前に定石そのものを学ぶことは必要ではないのだろうか? もし、その定石があるのなら、それをもっと積極的に取り入れるべきではないのだろうか?

 「教師の授業を均一化させろっていうことですか? だったら、ロボットが授業をすることと同じじゃないですか?」といわれるかもしれないけど、茶道も華道も、囲碁で「定石」にあたる最低限度の決まりがあり、それを最初のうちは守ることによって、自分なりのスタイルが出来上がっていき、個性が出来るのではないか。盲腸を手術する医師であれば、医師が自分の手術スタイルだと、背中にメスを入れたらどうなるのか? 盲腸を摘出するためには大手術となり、時には摘出できないかもしれない。 

 医師なら患者側に選択権がある。しかし、学校の授業で生徒には選択権がないのだから、もしこのようなサーカス手術のような授業があれば、とんでもなく迷惑な話だ。であれば、最低限度のマニュアル=定石というものがあってもいいのではないか。そのマニュアルのためには、教科書はどうなっているのか? 副教材を使わなくても一定の英語力が身につくように作られているのか? そして、その教科書の方向性を示すナントカ会議のメンバーや、文部科学省の方は、しっかりと現実を見て、それを考えているのか? 机上の空論になっていないのか?

 詳しくはまた次回にでも。

2006/04/22

本業とALT

 このところ、本業の教育相談的な業務が増えてきている。このブログでは、私の匿名性がほとんどないので、教育相談的な内容は全くかけない。ただこのところ、自分のネットワークが随分と機能しているんだなぁと言うことを実感。教員は、同じ職業の人と飲むことが多いかもしれないけど、異業種との交流があると、いろんな時に助けてもらえるものかもね。

 教育相談といえば、すぐに「カウンセリング・マインド」という言葉が出てくる。これは、日本語にすると「共感」とでもいうのがぴったりとするのかな? 早い話が、生徒(クライアント)の言葉に共感する気持ちを大切にしなさいということだ。

 ところで、日本の文化でどれだけ「カウンセリング・マインド」が正しく理解されているのだろうか、という疑問もある。特に、日本文化の典型でもある学校という社会の中で、どれだけ理解されているのか。

 ヨーロッパでは、懺悔という文化があった。これが、1つのカウンセリングの原形ではないか、と私は思う。聞く人は、話し手を決して責めることなく、ただただ聞くのみ。自分の悩みや苦しみを相手に聞いてもらうことで、自分の心に変化が生まれ、抱えている課題を克服していく。

 教育相談に必要なものは、「カウンセリング・マインド」だけでなく、適切な判断力ではないか? 例えば、「○○さんを殺したい」と言われたときのカウンセリング・マインドは、どうすばいいですか? これに共感できますか? 共感できるならどうしますか? 共感するだけでいいですか? それだけでだめなら、どのように共感し、どのように応対しますか?
 このように「殺したい」なんていうことなら、判断に困ることはないかもしれないけど、もっとあいまいな問題だったら、どう対応しますか? 「家出をしたい」「学校を辞めたい」「あの先生の授業を受けたくない」などなど、こういう話しが来たときに、とっさの判断力が必要になってきます。

 話題転換。

 今日はALTの来校日。午前中はOCの授業に目一杯、受け持ってくれたので、午後は2時間ほど休憩。そして放課後は、新1年生で、ESSに入ってくれそうな生徒に声をかけ、ALTとのお話会(笑) ALTのJ先生は優秀な方で、準備もほとんどない状態で、生徒に約50分のレッスンをしてくれる。

 サイトにも書いたけど、ゲームをして始めて、練習の持つ意味が分かるというもの。このお話会は完全なゲームであり、これを通じて生徒が「もう少し、勉強しようかな」と思ってくれればそれでいい。

 強引にまとめれば、勉強する習慣のない生徒に、勉強をするように促すためには、教育相談的な経験が会った方がいいと思うんだけどね。どんなもんでしょうか?

2006/04/20

分からない→なんとなく分かる→分かる

 「分かる」ってなんなのか、という議論はよく目にする。ここでは、禅問答のようなそのような議論ではなく、生徒が理解して、その知識が定着していくという現実(これはファジーな部分をかなり含む)に限定して考えてみたい。

 多くの教師は「あれほど教えたのに…」というあきらめの感情を持つことがある。前日にあれほど教えたことなのに、翌日にはきれいさっぱり忘れている。「あれほど教えたのに…」という感情を持つのは、このためである。

 一方、生徒は生徒で「あの時は分かったんだけど」という。授業での説明を理解して、演習などでは間違えることもなく、「あの時は分かったんだけど」と軽い自己嫌悪。

 この差はどこにあるんだろうか? それは、教師にしても、生徒にしても、「分からない」と「分かる」の2つの概念しか持っていないからではないか?(ちょっと、大げさな書き方だなぁ;笑) この「分からない」と「分かる」の間に、「なんとなく分かる」を入れてみると、教師と生徒との感じ方のギャップは解消される。

      分からない  なんとなく分かる  完全に分かる
 生徒    ○-------×(・・・・・・・・・・・△)  ( )は幻
 教師    ○---------------×

授業後は、こんな感じになるのではないか? 分かりやすい授業を聞くと、生徒は完全に分かった気になるが、実は「なんとなく分かった」というレベルに留まっている。一方教師は、分かったという生徒の雰囲気を感じて、「この授業で完全に分かった」と誤解してしまう。

 この「なんとなく分かる」という状態はとってもやっかいで、少しやらないと、すぐに「分からない」に戻ってしまう。だから、復習や課題を出さないと、翌日には生徒は「分からない」という状況になっている。

 ところが、この「なんとなく分かる」という状態を、生徒も教師も「完全に分かる」というレベルだと勘違いするから、生徒は自己嫌悪に陥り、教師は非力さを感じてしまう。これって、両者にいいことはないよねぇ。

 さて、授業開き。どうやって、「なんとなく分かる」という状態を「完全に分かる」に変えていくのか? 授業以外での生徒との付き合い方も大切なんだろうね。総合的な「教師力」というヤツでしょうか?

2006/04/18

真正面から向き合うか?

 「生徒と正面から向き合う」ことは、教員にとって望まれているのだろう。誉め言葉として使われているくらいだからね。でも、実際に生徒と話すとき、真正面から話すことはいいことなのだろうか?

 実際に周囲を見てみると、生徒との関係が上手な人ほど、真正面の立ち位置では話していない。90度の位置というか、L字の角度で話している。一方、真正面で話す人は、生徒とトラブルを起こすことが少なくない。真正面から、、、という言葉からは毅然とした印象を持つけれど、工夫してトラブルをおこさない方が、「毅然と」した態度でトラブルをおこすより、よっぽどいいと思うのは私だけ?

 実は、この立ち位置というのは、CPI危機予防研究所のトレーニングでも取り入れられている。この研究所については、このサイトを見ていただければ分かるが、少しサイトから引用する:

CPIは、アメリカ、ウイスコンシン州ミルウォーキーに本社を持ち、26年以上に渡って「非暴力的危機介入法R」を教育関係、医療関係、矯正施設その他各種ヒューマンサービスに携わる専門家に提供している民間企業です。CPI危機予防プログラム「非暴力的危機介入法R」トレーニングは、1970年代中頃に、危機予防・介入の具体的ノウハウをプログラム化したトレーニングとして開発されました。すでにアメリカ、イギリス、カナダをはじめとする先進国では500万人以上が受講し、その有効性と安全性は広く実証されています。

 早い話が、暴力的であることが許されない組織の中で、相手をいかにして非暴力でコントロールしていくかという技術である。

 ここの簡単なトレーニングを受けたのだが、体験するとこの立ち位置についてはよく分かる。
 真正面から怖い顔をした人がやってきて、かなりのアグレッシブな態度である時に、こちらが攻撃性を帯びなわないことは、かなりの至難の業だろう。そうなると、こちも防御の態勢となる。防御しきれないと思うと、攻撃的になってしまう。
 一方、真正面から相手がアグレッシブでやってきても、自分とは90度に立つと、あら不思議、こちらのアドレナリンはあまり出ない。
 立ち位置1つで、相手をある程度はコントロールできるってことです。

 CPIのトレーニングを受けないでも、そのトレーニングで教えられることを、経験則の中で選んでいく先生ってすごくないですか? 経験の中から学ぶ知恵は、やはり本物だなぁという気がします。

 今日は、ほとんど休む間がなし。昼食を食べた10分だけが座っていられる時間でした。あとは、授業や会議など、とにかく1年生のこの時期にありがちな、混乱の中で時間が経っていきました。

 放課後は、修学旅行の代理店選定。学年の総意でT社に決定。

 もう少し、書きたいネタがあるけど、こちらも寝たいので、今日はこれにてお終い。 

2006/04/16

ともかく一週間の終了

長く感じる一週間ですね、と同僚の先生から話しかけられる。確かに長い1週間でした、先週は。

受け持っている1年生3クラスのうち、2クラスは授業が始まっているが、まだ1クラスはまだ行っていない。健康診断などの行事と重なると、最初のうちはどうしてもこうなってしまうんですね。

今まで3年生を受け持っていたからか、1年生と3年生とではここまで違うかなぁという気持ちもある。とにかく、1年生は自分の可能性を信じていますね。高校生活を初めて、高校時代に○○をしたい、将来は△△したい、という会話がよく出てくる。その気持ちを最大限に尊重していくことって、大切だろうなぁ。

 授業でもとにかく声が出ます。協力するためのピアグループを作る一貫で、それぞれ4人程度のグループに分け、お互いに机を向かい合わせることにした。今後のことはまだ分からないけど、上手くいきそうな予感。ただ、一歩違えるとワイワイガヤガヤにもなりそうなので、コントロールの必要がでてくるかも。お互いに競い合うのではなく、助け合う学習が出来ると良いなぁと思っています。
 今年はとにかく、単語の暗記と文の暗記を先行させて、文法的な説明はその一歩後から行っていく。頑張りすぎる必要はないが、少し努力すれば到達できる、という課題を毎時間作ることで、生徒が達成感を感じられるようにしたい。真剣に取り組んでいる生徒の力を伸ばす援助をするのは、大切な仕事。

 金曜日は離任式のため、午後は授業がなかった。1年生は出席しないこともあり、教室のペンキ塗り。ペンキを塗ると、教室が本当に明るくなりますね。

 

2006/04/13

入学式直後の時期は…

 入学式直後の時期は、どうしても授業がつぶれる。全体のオリエンテーションやX線や心電図といった健康診断のために、そうなってしまう。ということで、今日は少し雑感を。

 最初は千葉県ネタ。千葉県は、2004年から中核地域生活支援センターという事業を始めた。簡単な話が、生活のヨロズ相談といったところ。これはとても助かる。24時間体制で相談に乗ってくれ、援助が必要な生徒と、それぞれの地区のセンターとをつないでおくと、いざというときでも生徒は安心していられる。

 結構、援助が必要なんだけれども、どのような援助が受けられるかを知らないケースも少なくない。ここのセンターはそういう事例については多くのケースを持っているので、間違いなく助けてくれる。

 次に、今日、卒業生のYさんのお母様からお菓子をいただいた。お礼の電話を差し上げたら、ついつい長電話になってしまった。卒業生へのメッセージに「ゲド戦記」を読んでみようと、そのあらすじや簡単な解釈もつけた。それにお母様が興味を持ってくれたようだった。あんなメッセージにも目を通してくれているのだなぁという感慨深い気持ちと、雑なことは出来ないという気持ちの両方があった。

 最後に、生徒からいわれたこと。授業中にカーディガンを脱ぎ、腕まくりをしていると、その休み時間に生徒から「暑いんですか?」といわれた。「授業をやると暑くなってね」というと、「熱血って暑くなるんですね」と、お褒め?の言葉(笑) うーん、クールにキめたいと昔から思っているんだけど、泥臭いのが実際かな(笑

2006/04/10

クラス開き

 入学式も無事に終え、今日から本格的にクラス開き。1、2時間目には校舎案内やクラス役員決めなど。その間に、グループワーク(GW)を取り入れ、クラスの緊張を解きほぐしていく。「節度ある明るさ」を作り出していくのは、やはり担任のお仕事。今から数回は、GWを行うことで、クラスの雰囲気をコーディネートしていきたいものだ。よく「クラス作り」とはいうけど、本来であればクラスの雰囲気は、生徒の活動の中で自然と出来るものであり、教師は作るのではなく、コーディネートしていくものではないか、と思う。

 3,4時間目は体操服の購入と個人写真撮影。余った時間で、授業で渡すことになっていた辞書と単語集の配布。いろいろと考えた末、単語集は「中学短文で覚える英単語1700」にした。自分の著作だからというよりも、英語の点数が一定に達していなければ、まずは単語からはいるのが英語が出来る近道だと思うからだ。それに、260のセンテンスで1184もの語句が覚えられるなんていいと思いませんか?と、たまには自画自賛してみる(笑) 文を覚えることで、文法事項も体得できますよ~って、PRしておこう(笑)

 使い方はいたってシンプル。3/27のブログに書いた通り。
 一日に8文(新出は4文)なんて無理だよ、という外野からの声もあったが、そこは生徒の力を信じたい。2:6:2(積極的:中立:消極的)のことは以前のブログにも書いたが、生徒の力を信じられない人の目は消極的の2に向かっている。その結果、中立の6までが消極的な方向に向かっていく。それで、「やっぱりなぁ」と妙な感想に浸っている人を見ると、邪気を感じてしまうのは私だけ?(だいたひかる風)

 無理をしなければ、やはり生徒は伸びない。スポーツ選手だって、自分の限界を超えたところに記録があるわけで、勉強も自分の無理を超えてこそ、大きな伸びが見えてくるだろう。大切なのは、適切な無理の設定ではないだろうか?(うーん、「適切な無理」ってなんか矛盾しているかな、この言い方;笑)

 この設定は、生徒のいちばん近くにいる教員にしかできない仕事である。それこそ、実践家としての腕の見せ所。どの程度の無理をすれば、その設定に到達できるのか、そこにいたるまでのチャートをどのように描くのか、早い話が5mの壁を越える無理を設定するなら、梯子を設定することで、苦労してでも壁を越えられる方策を考えていくってことです。その壁が5mなのか、2mなのか、10mなのかは対象としている生徒が違うだけで、超えさせようとすることは絶対に必要でしょう。極端な話し1cmでもOKだと思う。

 違うのは、超えさせようとしない人。人間はやらないためなら、いくらでもいい訳が出来るものです。「仕事で疲れたから、家事は頼むよ~」って、俺もよく言い訳しますけど(^^;;

 冗談はともかく、出来る無理の設定を今の時期にしたいものですね。考え方を変えれば、毎日が自分の仮説の証明となるわけで、これほどドキドキ、ワクワクできることは少ないでしょう。

 休息代わりに、久しぶりにSidney Sheldonを読み始める。彼の作品は、とても英語がシンプルなので読みやすい。読み始めたのは、THE SKY IS FALLING。まっさかぁ、というベタな展開が面白いんだなぁ。

2006/04/09

ある20代の先生に(冷たいかもしれませんが…)

 3/31に教師が100人出る番組があった。フジテレビ系列だっけ? 去年、この番組に参加しませんかというオファーを制作会社からいただき、そのつもりでいたのだけど、いろいろとあり1週間前にキャンセル。向こうが意図することと、こちらが意図することとに大きな隔たりがあり、出ることでマイナスになると判断した。業界サイドの人からは「出ない方が賢明だよ」とアドバイスを受けていたので、それを実行したっけ。

 それはともかく、この番組の予告編を偶然、見た。とある先生が、女子生徒にストーカーまがいのことをされ、学校を辞めたというもの。お弁当→しつこい対応→自宅に入ってくる→自分の車にぶつかってくる、という流れで、それに対して教師が耐えられなくなり、辞めていったという話しだった。

 正直な感想だと、境界性パーソナリティー障害の生徒だろうな、この女子生徒。それに対して、「真正面から応対」してしまった先生は、知識がなかったんだろうし、周囲もその先生を援助できなかったんだね。20代の先生は、教科的な研鑽を積むと同じように、心理を基礎的な部分だけでも良いから学ぶ必要があると思う。そして、困ったときにスーパーバイザーを持つ必要もあるでしょう。心療内科や精神科のドクターまでが困ってしまうといわれている境界性パーソナリティー障害です。くれぐれも、1人で抱え込むことのないようにした方がいいですよ、老婆心ながら。同じくパーソナリティー障害でも、同僚には自己愛性を疑うと、結構、納得できたりして(笑) って、冗談ですけど。

 以前のブログにも書いたことだけど、生徒を上手に援助したいならば、「所詮人ごと」という気持ちを忘れない方がいい。同情心をベースとした行動ならしない方がいい。自分の出来ること、出来ないことを明確にする。頑張れば出来る、ということは、出来ないこと。あなたは、1人だけの担任ではありません。残りの39人もあなたのクラスの生徒です。私はこのことを尊敬しているカウンセラーから学びました。

 冷たい!と思われるかもしれないけど、そう思うのであれば自分の出来ることのスキルの上達をさせるしかないですよ。そうすれば、出来る範囲は広がります。技術・知識のない熱意は、あなたを含めて、人を不幸にさせるケースをたくさん見ています。一生懸命に、真正面から向き合うことは授業の中では絶対に必要でしょう。しかし、教育相談的な内容では、このことは必ずしも誉められることではありません。きつい言葉だけど、自己満足に陥っても良いことはありません。自分で支えきれなくなって、「どうにかして下さい」といわれても、周囲もどうしようもありません。

 あと、時には学校外の機関との連携があるかもしれません。その時には、自分の守備範囲をしっかりとした上で、責任の所在をお互いに明確にしておいた方がいいでしょう。家庭生活や、金銭的な面倒まで自分でみようと思ってはいけません。あまり好きな言葉ではありませんが、「ほう・れん・そう」の「報告」を管理職にすることも忘れないように。これは、あなたを守ることです。私の知人のスペシャリストは、手紙による報告をしています。重要な案件については、学校の外の機関に手紙を出して、現状の報告を彼はしています。そのために、管理職にその手紙を見せます(管理職に報告) 

 いろいろなことが多すぎて、現実に制度がついていかないケースが少なからずあります。その穴をご自分で埋めようとすることは、不可能なケースがほとんどです。

 今後のご活躍をお祈りしております。

2006/04/07

入学式&修学旅行の行き先

 今日は入学式。これで新入生は5回目。昔に比べると良い意味で力まなくなりましたねぇ。

 相変わらず、保護者会の役員決めになると凍てつく教室(苦笑) 最終的に3人の方が立候補して下さったので、ホッとしました。ありがとうございました。

 修学旅行の行き先のアンケートを採ったところ、沖縄が全体の90%近くだったので、沖縄に決定。しかも、修学旅行先は座間味島という離島になりました。民宿に3連泊という修学旅行もなかなかいいですね。

 昨年に行った同僚の話だと、座間味島にはナイターが出来る野球場があるらしい。そこで、野球の対戦なんて楽しいかもしれませんね。5回まで終わったら、ナイターの灯りを消して、そのまま星空見学なんて、ステキではないでしょうか?

 慌ただしい1週間も終わり、来週からはさらに慌ただしい中で授業が始まります。健康診断で授業の一部がつぶれるから、その合間にできることをしたいですね。

 ALTも毎週来ることに決定。より効果的にTTができるような取り組みにしていきたいものです。

2006/04/03

修学旅行

 修学旅行の担当になったは良いが、なかなか大変ですね、代理店の選定。日本酒の味を分かるためには、そのお酒だけを飲むだけでなく、2種類以上を比較して飲むことが大切。短期間のうちに、多くの営業の方とお目にかかると、その「個性」を強く感じられる。

 「△△社は○○ですよ」と他社をけなす人、「(期日前の)○日までに契約できれば、このホテルが押さえられますよ」という人、「これは秘密ですよ」といって、他の代理店の人なら誰でも持ってくることの出来る資料をわざわざくれる人、修学旅行の選定の時期だけになるとなぜか昔から知り合いのような対応をしてくる人。うーん、ホントに人間不信になりそう(笑)

 ただ選定に当たっては、できるだけ透明性を高めるためにも、観点別の「評価」を入れた方がいいだろうね。痛くない腹を探られるのは不本意ですから。

 ウチの学校はなぜか旅行代理店の再大手であるJ社が来なかった。沖縄修学旅行だったら、学習用のすぐれたプログラムを持っていると聞いたので、かなり期待していたんだけど、来ないのでは仕方がない。こちらから連絡を取るべきだったのかなぁと少し後悔している。でも、もうタイムアップだから、残念だなぁと本心で感じている。

 行き先は北海道か沖縄かのどちらかなんだけど、北海道を経験した人は北海道、沖縄に行った人は沖縄、と意見もバラバラ。うーん、初日に沖縄で、二日目からは北海道なんてどうですか?なんて、いってももちろん笑う人はなく、結局は生徒アンケートに委ねることにした。入学直後から、修学旅行のアンケートなんていうのも何だけど、でもそれがいちばんいいかもね。

2006/04/02

教科書の検定の記事を見て

 国語の教科書も書き込み式がでてきたんだなぁ、というのが正直な実感。

 別のテーマでも、宮本輝さんの小説「途中下車」の下に、「□に適当な語句を入れ、『私』と友人の行動と心理を読み取ろう」という質問があり、「私たちの心をさんざん□□□」などに「乱した」などと入れる。
 「自由に考えなさいと言っても、分からない生徒がいる。本文に答えがあるから、探して埋める作業をさせ、『参加した』と感じてもらえればいい。先生の負担も軽減できれば」と、同社編集局国語部の廣井尚子副編集長は説明する。 (http://www.asahi.com/edu/news/TKY200603290505.html

 教科書も見ていないので何ともいえないけど、「□」に適当な語句を入れるという方法が本当に良いのかな?ということについては疑問がある。発問として、「自由に考えろ」というのも、いいのだろうか? 他教科のことだからよく分からないけど、自由な発想と、自由に考えろ、といことは大きな差があるのではないか?
 ゴールを「自由に考える」と設定するなら、その段階まで積み上げていくことが、教師の仕事なのではないか、とさえ思う。そう「正論」を書いてしまう一方で、記事に出てくるような学校では、そんな正論が、教師1人の仕事では通用しない現実もある。都立高校では卒業式には都教委を代表される面々が、教師の座席表まで持った上で、ご視察なさるそうだが、普段の日は生徒の座席表を持ち、こういった現実の状況もご覧になっているのですよね? なんて、イヤミの1つもいいたくもなるよね、そういう現実と向かい合っている先生は。

 新しい教科書の中には、マンガタイプまであるみたいですね。日本のマンガ文化は高いし、私自身はさほど抵抗がない。(うーん、まずいかな?;笑) その一方で、どうしてマンガにしたのかなぁ、という気もする。
 以前のブログで多少触れたけど(http://rintaro.way-nifty.com/tsurezure/2006/03/post_90a1.html)、いわゆるCランク教科書にはいいたいことがいくつかある。いちばん感じることは、「学力差=精神的年齢差」と感じていないか、ということ。Aランクの教科書には、決してこんな話しは出さないでしょうという話題、こんなオチはないでしょうという作りがCランクには出てきます。これって、教科書の著者が「学力差=精神的年齢差」と勘違いしているのではないですか?
 新しい言語、例えばハングルをみなさんが、意志に逆らって週4時間勉強することになったとします。周囲の人は、チャングムのファンだったり、チェジウにあこがれて、勉強する人が多く、みなさんとその人たちとのハングルの力の差はみるみる離れていった。ある日、ハングル力により、校舎が分かれることになった。ハングルが出来ない皆さんが与えられた教科書は、字が大きく、イラストが多く、そして内容が子どもじみている。さてさて、それでも「ハングルをやり直そう!」って思いますか? 高校生には高校生としてのプライドが誰にもあるわけで、そのプライドを傷つけちゃいけませんよ。 「親しみのある内容」と「善意」で作られる教科書なのでしょう。しかし、善意の行動は、時には人を傷つけます。道具としての教材といえるほどの明確な目的がなければ、学習者だって子どもっぽいことは嫌がりますよ。
 この教科書を勉強したら、どのくらいの力がつくのか、どのような力を持たせたいのか、という明示を教科書の最初につけても良いと私は思います。こういうグランドデザインは、作成者の責任ですよね。仮定法過去を学ばせたいならば、1レッスンでターゲット文が1文はないでしょ? 単語の選定はどうなっているんですか? こういう課末問題で文法の定着を計っているんですか? と、作成者から見れば、「そんなの無理だよ」といわれるようなことですが、もうすこし全体を考えた教科書もあっていいのではないでしょうか?(あくまでも、Cランク教科書のことですよ) 作成している大学の先生も、昔のように自由に時間が取れなくなってきているし、難しいのかな?
 

2006/04/01

大人が勉強しよう!

まずは先日の気になった記事を。

http://www.asahi.com/edu/news/TKY200603290505.html

やはり国語の教科書も二極化なのか、というのが実感。知人との「中堅校はどうなっていくか」という意見が違っていたということは以前のブログでも書いた通り。
http://rintaro.way-nifty.com/tsurezure/2006/03/post_2b79.html

この春休みを利用して、全国の公立高校と一部の国立・私立の入試問題を見てみると、本当にこの二極化を感じる。正直な感想を言えば、「本当に同じ15歳が受験するの?」というほどその差がある

 その前に、もっと基本的な部分の前提。「授業数の削減やゆとり教育のために学力が落ちたんだ」という人もいるけど、本当にそうなんだろうか、と疑問を持っている。関心が一気に高まったフィンランドの教育は、日本よりも授業数がよっぽど少ない。それなのに、どうして? 日本のように予備校や塾がここまであるわけではないでしょ? お隣の韓国の受験勉強は、日本の騒ぎじゃないですよね。でも、フィンランドよりも高くはない。これってどうして? ゆとり教育の問題を考えるときに、授業数や「詰め込み教育」の復活をしたからといって、そのまま学力が高まるとはとうてい考えられない。小学校の先生と話しをしてみれば、それはヒシヒシと伝わってくる。働いている大人が幸せを感じられなければ、手本となるべき大人が勉強をしなければ、どうして子どもが勉強しますか? どうして働くために力をつけようと思いますか?
 この問題を掘り下げていくと、どうしても政治的な話題になってしまいますので、ブログではやめておきます。遠藤周作がエッセイの中で「『○○というものは』という人はその○○を理解していない」と書いていたが、本当にそうだと思う。まぁ、いろんなところで、不毛な議論がありますね。どっかの付属中学校だけを見て、「現場はこうなっているんだ」と思う勘違いは、どっかの底辺校を見て「高校はこんなにすごいんだ」と思うのと同じくらいに勘違いってやつです。私が大切だと感じることは、この両者に共通している根っこの部分。

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