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2006/01/31

最後の授業での話し

ついに今日で、3年生の授業とテストが終わりました。あとは、卒業式を待つのみ。ここまでこれて、本当に良かった。生徒や副担任の先生、お世話になった方々に心から感謝感謝です。

最後の授業で、素面で考えると恥ずかしい内容を話しました(^^;; 今日は、その恥ずかしさを皆さんと共有すべく、ちょっと書いてみます。(トラウマの解決は、問題の共有ですから;笑)

地球が始まってからの命を考えたときに、こうやって出会えたことはすごい偶然だ。地球の歴史から見れば、私たちの人生なんてほんの短いもので、その一時期に同じ時間を過ごせた偶然に感謝したい。

あなた方は、この世の中に生を受けるとき、精子と卵子との出会いから始まったわけだが、その精子が卵子に行き着く確率は数百万分の1の確率といわれている。この千葉県で1人を探すようなもの。日本全国で、数十人を選ぶような、そんな競争を最初にみんな勝ち抜いてきた。

人間はどうして生きているのか? それは、幸せになるために生きている。幸せとは、周囲が決めるものではなく、自分が幸せかどうかを考えるべきもの。私たちは、他の人に服従するためではなく、我慢をするためではなく、人に利用されるためではなく、自分たちが幸せになるために生きている。

自分はもともと、教師になんてなりたいと思っていなかった。ただ、それが多くの偶然が重なっていまの自分がこうしてある。あなた方もそう。この高校を選び、そして数分の1の確率でクラスメートや私と同じ単位で生活をすることになった。この大いなる偶然を大切にしませんか? これが、「縁」というものなのではなかろうか?

私自身がそうであるように、君たちの親も色々なドラマがあり、そして多くの偶然が重なり、あなた方という命が誕生した。誰しもがが、かけがいのない存在であるということは、これだけでも分かるはずだ。だからこそ、この縁を大切にしつつ、お互いが幸せを共有できる人生、お互いに服従させない人生が必要になってくる。

最終的な人生の幸せかどうかは、老年期にかかってくる。ただ、「将来のために、いまは○○する」ということがあるが、将来のために私たちは生きているのではない。今の連続性が将来のためであり、今を大切に生きることがあなた方の将来のためになるものだ。将来のために、他人に服従したり、こびへつらう人間は、将来、他人に服従を強いたり、こびへつらわせたりする。人間の価値は、誰しもが同じものであり、私とあなた方も、単に立場が違うに過ぎない。自分を大切にすることが、他人を大切にすることであり、今を大切に生きることが、将来を大切に生きることである。死ぬときに、「自分は生きてきて良かった」と思えるような人間であるような、年齢の重ね方をしてほしいなぁと俺は思う。

教養とは何なのか、とよく言われる。知識をつなげる力だと言う人もいるが、教養とは思いやりだと俺は思う。世の中には色々な人がいるわけで、それで人間がつながりを持っている。他者に対する思いやりこそ、本当の教養ではないのだろうか? 世間は、その分野で「勝ち組」と呼ばれている人がいる。経済的、偏差値的、社会的地位的、いろいろな勝ち組がある。しかし、その勝ち組が真の教養人ではない。純粋に透き通った意味で、君たちには教養人になってほしい。こうして、この学校で出会い、同じ教室で学びあった仲間が、その意味でお互いを切磋琢磨してくれたとしたら、これほどうれしいものはない。

なんて、話しをしました。うーん、こうしてブログに書いてみると、ちょっと恥ずかしい(笑) 今日のブログに限り、私と会ったことがある人は、コメントしないでね、恥ずかしいから(^^;;

2006/01/30

英検の結果(速報2)

 今日の午後、英検のサイトで解答が発表されたので、それをもとに、生徒の採点。ただし、マークミスがあるかもしれないけど(苦笑) というのも、電話番号や、郵便番号をマークするところがあるんだけど、そこを間違える生徒が、1割以上いたのには閉口(^^;; 

 まだ、生徒アンケートが終えていないので、何ともいえないけど、今回の「企画」への姿勢がそのまま表れた点数になったようですね。学校に来なかったり、放課後の補習に出なかった生徒は、やはりそれなり。一方、得意ではなくても、前向きに行った生徒は、それなりの結果が出たようです。

 今回、いちばん伸びた生徒は、B君。
http://homepage3.nifty.com/terakoya_english/eiken233.htm
 今回は、57点(65点満点)を取りました。ほとんどの生徒が、前向きに取り組んでくれたこともあり、9~10人(11人中)が一次試験をパスしているのではないかと思っています。

 

2006/01/28

英検の結果(とりあえず)

 今年度第3回の英検が終わりました。「目指せ!英検準2級・3級」チーム(笑)のデキはそれなりに、、、だったようです。月曜日に解答が発表されるので、それを自己採点させてから、ブログではなく、サイトにおいおいと発表していきます。月曜日は、まずは点数の上下のみ、ということになるかも。

 以前に書いたことかもしれないけど、とあるえらい先生の文章を読んでいて、「英語教育には科学性が求められる」とありました。この「科学性」とは、例えば、「教師が『A』といったら、生徒は『B』と反応する」というもののようです。

 そんな、科学性なんて、あるわけねーーーじゃん!!

だから、学者ってヤツは、って言われちゃうんだよね。もちろん、そういうことを言っている人は、一部ですけど(といっても、一握りといえないのかな?;笑) 

でも、なんでこんなことを書いたかというと、2月号の『英語教育』(大修館)にまたまた、スゴイ記事が載っていたからです。数人の先生が、読者からの質問に答えるというコーナーで、今月号は、菅正隆先生の番でした。(菅先生の普段の記事はとても興味深く、うなずきながら読むこともしばしばです。)

読者からの質問は、自分は魅力に欠ける教師なのではないか?というものでした。(手元に記事がないので、もし、違っていたらここは後日に訂正します) 東京都のAさんは、生徒が英語に興味を持ってくれないことに、その原因を自分に求めたのです。

それに対して、菅先生はいくつか答えているのですが、最初にあげられたことは、

清潔感を持て。同じ服は二日着るな。口臭を生徒は気にするから、クロレッツを携帯しろ。

ということでした。

皆さんどう思われますか?

カウンセリングの場面では、クライアントからの質問にダイレクトに答えるのではなく、どうしてそういう質問をしてきたのか、相談事をこちらに伝えているのか、ということを考えながら、話しをするのが基本です。「どうして、学校に来なければいけないんですか?」と中学生が聞いてきたら、「それは義務教育だから、、、」「人間にとって教育とは、、、」「基礎学力とは、、、」と答えるのって、いいのでしょうか? 私はNOだと思います。

「あなたは、学校にどうして来なければいけないのか、と思っているんだね。そう思うようになったきっかけは何だろうか?」と俺なら聞くなぁ。

悩み相談なんだから!といわれれば、それまでなのでしょうが、どうしてそういう悩み相談が出てきたかを考えることのほうが、私には大切だと思われますが、いかがなものでしょうか・・・?

2006/01/24

希望者は全員が進路決定!

 わー、なんとかクラスの希望者の進路が全員、決定しました。あまり勧められることではないけど、フリーターを希望している生徒を除き、とりあえず約30名、全員が決まりました。まずは、良かった良かった。

 ともかく、全員がよく頑張りました。面接指導では、先生という先生を見つけては練習をしてもらっていたり、小論文ではこちらのつたない指導にも関わらず、多くの課題に取り組んだりと、生徒のがんばりが本当に目につきました。本当に、良かったね。

 今年は、実感として就職状況の明るさが目につきました。今までであれば、無理であろうと思われるような会社から求人票がいくつか来ていましたね。

 専門学校は、業種によって相も変わらず差がありますね。医療系の専門学校は、やはり狭き門です。

 短大は、保育・看護系以外はかなり広き門。

 大学も、大学によってはかなーり、広き門。とある大学では面接で、ずーっと雑談(苦笑) 最後に最後で、「せっかくだから、志望理由でも聞かせてよ」といわれたとのこと。まさに、ウーム、である。もちろん、国公立では、そんなことはなかったようだけど。

 アッチからは、「高望み過ぎる」なんてご助言を頂いたけど、気にしなくて正解だったね。ルート通りになんて歩かなくてもいい。最初から道はない、歩いたところが道となる、っていうのを体現したあなた方の努力をみていて、「このクラスの担任で良かった」と心から思いました。ありがとう。

 明日が最後の授業。何を話そうか、こないだから考えているんだけど、いつもの話しになるかな。少しだけ、格好をつけても、明日くらいは許されるかな・・・?

2006/01/22

自己受容

 ちょっとした会合があり、浅草へ。向こうで、普段からお世話になっているT先生と落ち合う。T先生は小学校や中学校で校長を歴任されてきたのだが、とても人柄が素敵な人だ。ウームと思うような管理職がいるのも確かだが、こういう先生がおられることは、救われる気もします。

 昨日の、続き。この本の編著者の1人である岡村達也先生の章がとても目を引く。悩んでいる教師に暖かいメッセージを送ってくれる。(教師は、いつまでたっても、悩む職業でなければいけないよね、って私は思う)

「他者を尊重する能力はその人自身の合理的自尊心の発達の程度による。自分自身を尊重しうる教師のみが生徒を尊重し、対等の立場で生徒に対しうる。合理的自尊心を持つ教師は、生徒に比べて自分がまさっているのは単に特殊な訓練と経験を持っているためなのであって、全ての面でまさっているわけではないといことを心得ている」

「「適正な」自己受容あるいは合理的な自尊心をもっていない心理的に不安定な教師は、それを隠そうとして専門家気取りを示す。生徒の依存性(服従性)を助長し、尊敬を得ようとする。自分の技量と力に対する実験台として生徒を利用する。レディネスを無視してさまざまなことを強いる。(中略)これらは生徒の不安を助長し、自律性を阻害し、その努力を無視し、資質を搾取し、その人権を蹂躙する」

うーん、耳が痛い、と思って読んでいました。たぶん、この「壁」を乗り越えられるかどうか、が教師としての一つの資質のような気がします。これは、とっても大変なことですよね。自分自身がストイックにならなければいけないし、専門家としての自信とそれを裏付ける努力も必要ですよね。

あっちこっちから、スケープゴートとしての教師の虚像を、声高にいう人たちがいますよね。でも、負けないで行きましょうよ! 私たちにとっていちばん大切なのは、目の前の生徒なんですから!

2006/01/21

大会の引率

 昨日から、部活動の引率。いま、バスケットボール部の副顧問をしているのだが、メインの顧問の先生の作戦勝ちともいえる勝利でブロック優勝したために、県大会に参加することに。

 県大会は2回戦から参加。こちらでも、ベンチワークでなんとか生徒をサポートして、残り1秒で決勝点。今日の3回戦では完全に負けてしまったが、選手にとってはいい経験になったろう(と思いたい;笑)

 昨日のコミュニケーションの続きですけど、合宿や遠征で生徒と一緒にいると、このコミュニケーション能力をヒシヒシと感じます。一つ一つ、それを教えていき、なんとか「チーム」にしていくことの難しさを感じますね。でも、それをしてしまうメインの顧問の先生は、スゴイですね。

 以前に購入した本を、往復の電車の中で読むために持っていく。「子どもの成長 教師の成長」(東京大学出版会)という本で、これがなかなか読み応えがある。いろいろな先生方の実践録で(英語教育とは関係なし)、多くの教師をサポートしてこられた編者の先生方の温かい目を感じることができる。ぜひとも、おすすめしたい一冊。

 この中であったことだが、自己受容(自分を大切だと思えている感覚)がある人のみが、生徒を大切だと思える、という部分が非常に気になった。自己受容、、、確かに、これは大きなテーマだね、教師にとって。

2006/01/20

教養へのシフト

 六本木ヒルズって行ったことありますか? どうも、人の多いところや、あのきらびやかな雰囲気が好きでもない私は、行ったことがありません。

 18世紀のイギリスは、急激な都市化や工業化が進み、環境だけでなく、人の心もすさんでいたようです。人々は刺激を求めるようになり、いったんその刺激に飽きれば、さらなる刺激を求める。バクチが盛んになり、環境は悪化していき、大衆文学の世界でも「捨てられる女」をタイトルにしたものが少なからずあったようです。

 ロマン派の代表的な詩人ワーズワスが、The Rainbowと呼ばれる詩で"My heart leaps up when I behold a rainbow in the sky."といいましたが、この時のワーズワスの心と、その当時のロンドンの人の心とではずいぶんと温度差があったのでしょう。

 19世紀になって、イギリスは文学を大切にしようとする運動があったとお師匠さんから聞いたことがあります。すさんだ心を戻すのは、文学しかない、ということで、そういう運動となったようです。

 話しはガラッと変わりますが、今の日本でもパーソナリティ障害と思われる人が多くなりましたね。パーソナリティ障害とは、性格に極端なゆがみがあり、それがトラブルを引きおこす人たちのことです。(検索すると、たくさん出てきます) 確かに、カネ、名誉、勝ち組、などなどだけ考えていたらパーソナリティも変になってしまうでしょう、とイヤミの一つでも言いたくなる風潮があります。『人間は、世話をされて、世話をする』(昨日のS先生の話より)という気持ちがないと、人々の心には妙な空虚感が生まれてしまうのでしょうね。

 心の健康を考えるとき、やはり文学は避けて通れない気がします。詩を読み、小説に共感し、芝居を楽しむ、といったことは私たちの心に活力を与えてくれないでしょうか? 新書は新書で実用の知識を得られるけど、漱石の草枕を辞書を引き引き読んでみるとか、苦労しながらシェイクスピアを読んでみるとか、高校生であってもさきほどのワーズワスのThe Rainbowなんて読めるんじゃないかなぁ? 

 ともかく、実用にばかり走らず、教養にもバランスをとることも大切だと思えて仕方がないんです。自動車の機会は実用的だけど、あまり心が和みません。でも、美しい絵は、形而上的なものは生み出さないけど、ホッとする気持ちになれます。それは、人々のパーソナリティを育てる大きな力になるでしょう。

 英語教育の世界は、「会話・コミュニケーション」に主眼がおかれています。過去の反省からそういう流れになったのでしょうが、教育は人格の完成を目指すものなのですから、実用にばかり目をとらわれず、文学の世界に、哲学の世界に足を踏みいれてみる、そんな時間もあってはいいのではないかなぁと思うことが増えてきました。

2006/01/19

勇気づけられる言葉

 今日は最後のLHR。1学期にクラスで話しを頂いた就職担当のS先生より、2回目の話しをお願いした。

 S先生は、昨年度まで校長を務められ、今では進路の就職担当の先生としてご活躍されている。副担のA先生から「S先生の話は面白いから、生徒に話してもらうよう頼んでみたら?」といわれてお願いした。(ヒラメタイプの管理職経験者ではなく、哲学者タイプの先生だったので、私も話しを伺いたいと思っていた)

 そうしたところ、話しが面白い。たった50分の間に、命の大切さから、大志を抱いて社会に巣立ってほしいという話しまで、話題は多岐にわたったが、全くこちらが迷うことのない道筋で話しをされている。命の大切さでは、娘さんが出産したときの様子が出てきて、「努」とは、「女の又に力。これは、出産の時のことをいうんじゃないか? 男は、あの大変さを乗り越える苦労をしなければならない」といわれたことが、いちばん印象に残ったなぁ。

 今日は、勇気づけられる言葉、という話しをして下さった。「人生には座右の銘といえるものが、あればあるほど、生きていくときに力をもらえるし、重大な決断を下すときの道具となる」という話しから始まった。話しの中には約20ほどの「ことば」が出てきて、一つ一つが、人生を物語るものだった。その中でも、生徒は、「ライバルがいるから、自分が成長できる。ライバルの成功の『どうして?』から学べ」という言葉に感銘を受けたようだ。武田信玄が病状に伏した時に、喜んだ自分の部下を見てそれを諫めた徳川家康の例を引き合いに出された。

 『自分に残るものは、集めたものではなく、与えたもの』というのも、60を過ぎたS先生だからこそ説得力がある。これは生徒よりも、話を聞いていた教員(3人)の方がなるほど、と思ったようだ。『1つ失えば、2つ手に入れる』(フランスのことわざ)では、失恋したばかりのN君が納得をしていた。

 教育とは、人格の完成を目指すものだ。でも、昨今の実用主義という流れは、この人格の完成にどんなプラスを与えているのだろうか? 文学を軽視すれば、教養性は薄まっていき、実用主義の延長線上には、使えるものは○、使えないものは×→使える人は○、使えない人は×、というトンデモ社会に行き着いてしまう。

 パーソナリティー障害が増えてきている社会だからこそ、もう一度、教養の大切さを感じつつ、自分を勇気づけてくれる「座右の銘」を大切にしたい。そういうチャンスをくれたS先生のような方から話を聞けた私のクラスの生徒は幸せ者だ。

2006/01/18

Writingの教科書(2)

やっぱり、7時間寝ると体調がいいですね。ようやく元通りに近づいてきました。

さて、昨日の具体的な内容です。教科書に限らず、問題集や演習書などでは、易しい問題→難しい問題、となることが普通だと思っています。つまり、難しい→易しい作りは相応しくない(1) また、不自然な内容のもの、例えば「携帯電話は主に、お年寄りが使っている」のように、文法的にはOKだけど、意味上では不適切なものも、やはりふさわしくない。(2) 学習者を混乱させてしまうような、作りも避けるべき。(3)

もちろん、単なる文法上のトレーニングとしてならOKだとは思います。しかし、問題数も少なく、文法上のトレーニングとしての役割なら他の例文も十分に考えられるなら、やはり相応しくはないでしょう。

 WORLD TREK ENGLISH WRITING(桐原書店)は、易しい教科書ですから、英語がそんなに得意ではない生徒がいる学校で採択されている教科書だと私は思います。他のライティングの教科書に比べて、文法問題が多く、グラマーの雰囲気の残っている一冊です。
 この教科書は、見開き1ページを1レッスンとして、左のページには文法のまとめ、右のページは練習問題になっているのですが、この右のページの問題が、一つのストーリーを持っているときもあれば、持っていないときもあります。

例えば、第5課(現在形と現在進行形)では、次のような問題があります。

1.I (   ) the flowers in the garden(   )(   )
(私は毎朝、庭の花に水をやります)
2. My borther (     )(    ) breakfast with my mother.
(兄はたいてい母と朝食を作ります)
3. My mother is sick this morning, so we(   )(   ) breakfast.
(今朝は母が病気なので、2人で朝食を作っているところです)

これって、話しがストーリー性があるのでしょうか? 2→3は分かりますが、1→2が私にはよく分かりません。朝つながり、ってことなんでしょうか? また、どうして3のweを「2人」と訳すことができるのか?

いちばん驚いたのは、比較を学ぶ第20課です。

ここでは、最初の部分の例文に" almost as useful as " " a little higher "と、副詞がついてきます。そして、次の例文では、"Some family restaurants are as fancy as famous ones."と、導入としてよくみられる形になります。最初の例文には副詞がついているのに、次は副詞がついていない、いわゆるノーマルな例文です。しかも、この例文ってホントですか?(笑) famous onesがどういう意味でfamousなのか分かりませんが、ファミレスと同じくらいにfancy(高級)って、どんなfamousな店なんだろうか?って、生徒と話しましたが、分かりませんでした。せいぜい、白デニかなぁ?

次に驚いたのは、同じ課の訳文です。

Phil's is the most popular of all the restaurant around here.

これを、どう日本語にするでしょうか? 私なら、「フィルズは、この付近の全てのレストランで、いちばん人気があります」と書くと思います。(「全ての」をつけるかどうかは、問題になるところだとは思いますが)

しかし、「フィルズはこの付近でいちばん人気のあるレストランです」と教科書の訳例にはあります。

また、その後の問題にも、Phil's offers the (  ) desserts of all the restaurants and coffee shops in town.の訳は「フィルズのデザートは町のどのレストランや喫茶店よりも安いです」とあります。

「フィルズのデザート」?どこに書いてあるの? そして、この文は最上級ではないの? 生徒は、この訳を見ながら、ブランクを埋めていくんですけど、比較級で書いている生徒が続出です。うーん、意訳ってここまでOKなんでしょうか? それに、形容詞(安い)に「です」ってつくことは、日本語的にどうなのでしょうか?

ともかく、ここには書ききれないほど、このように気になる箇所がある一冊です。営業の人に、こういう感想を伝えたところ、丁寧に手紙を編集部の方が下さったことには感謝しているのですが、私の感想と営業の方が伝えて下さったニュアンスが一部、違っていました。

2006/01/17

Writingの教科書

 ウーム、風邪をひき始めているようだ。頭がちょっと重たくて、気だるい。今日こそは、早めに寝ないと、、、。

 書こうと思っていた具体的な内容は、体調が戻ってからにします。

 WORLD TREK ENGLISH WRITING(桐原書店)の教科書をWritingで使っているんですけど、どう考えても「?」と思うことが多すぎます。「そんな教科書を選択したあんたが悪いんだ!」といわれれば、その通りなのですが、易しめでグラマー重視、しかも桐原ブランドだったので、ちょっと信用しちゃいました。

 おそらく、Writingを授業として取り入れている学校では、本来のWritingがなかなかできないところが多いのではないか?と思います。もっといえば、私も含めて、Writingのしっかりとした方策も知らずに、授業をしている人も少なからずいるのではないか?という恐れさえあります。

 だから、この教科書に対する率直な感想が、もし間違えだったらご教授頂けたらうれしいと思っています。

2006/01/16

それにしても、ウーム

 今日は初めてのALTの来校。Jさんという24歳の青年で、とても感じのいいカナダ人で、ちょっとホッとする。

 彼と話しをしているのを見た、数学の先生から、「先生って、英語が話せるんですね!」という誉め言葉ととっていいのか、信用されていなかったのか、どちらとでもとれるありがたいお言葉を頂く(笑) 「一応は、英語の教員ですから」というと、『でも、英語の披露の時間ってないですからね』 考えてみると、教科が違えば、感覚は保護者や一般の人と変わりないよなぁって、妙に納得する。

 

2006/01/15

教師の結婚事情

 高校の教員は、男性がかなりの割合を占めています。だから、なかなか結婚とは縁遠い人もいます。昔の同僚のN先生も、そんな1人でしす。

 以前、重量挙げの顧問をしていたときに、いろいろな方にお世話になりました。その競技の専門家だけでなく、パワーリフティングの日本チャンピオンでトレーナー方や栄養士の方、本当に感謝感謝です。N先生のことを想像しながら、その時にお世話になった栄養士のYさんと連絡をとったところ、彼女もまだ結婚していないとのこと。

 ということで、先週にこの二人のお見合いを、決行してまいりました! 教師にしても、栄養士にしても、異性との出会いがないので、ちょっといいかなぁっていうノリでした。

 居酒屋で、その二人と私で飲んでいたのですが、だんだんと、俺がいなくてもいい雰囲気になり、仕方なく飲んだ飲み物が「洋なしサワー」(笑) 飲み過ぎて、横になって寝てしまっていたのですけど、それでもお構いなしに盛り上がっている二人。ともかく、まぁ、紹介した二人が、お互いに話しやすく、フィーリングも合った、というおめでたい結果になりました(^^)

 お互いに、興味を持ったことを確認し、後日、N先生にYさんの携帯の番号とメルアドを教えました。

 この、34&29歳の縁合って知り合った二人が、これからどうなるのか分かりませんが、うまくいくといいなぁって思いました。

2006/01/10

生徒の鬱に注意する

 ここ数年、鬱病に対する理解が深まってきた。教員の鬱が増えていることは、マスコミの報道でもご承知のことだと思うが、生徒の鬱もやはり注意したい。

 ある医師は、1~2月に鬱の患者は増えると言っていたが、メンタル的な研修を積んでいる教員の感覚では11月あたりに増えるのではないかという人が多い。秋に発症し、辛くなって年明けに病院にかかるからなのかなぁと勝手に理解していますが。。。

 実際、ほとんどの鬱は適切な治療をすれば、治る病気である。しかし、善意の「励ましの言葉」が時には鬱の生徒を傷つけ、症状を悪化させることも少なくない。善意の、というのが対人関係の仕事では、実にやっかいなものなんですが…(苦笑)

 秋口から「怠け」的な症状が出て来たら、私は鬱を疑うようにしています。学校に遅刻することが多くなってきて、顔に表情が無くなってきて、午後から元気になる。雰囲気として、「ガラスの向こう側にいる住人」というような雰囲気が漂ってきたら、介入時期だと思っています。

 保護者に連絡をとり、普段の様子を聞きます。時には、生徒からの情報も得ます。失恋など落ち込むようなきっかけはなかったか、楽器などの今まで楽しんでいたことをやらなくなっていないか、自分を責めているそぶりはないか、など聞くようにします。時には、スーパーバイザーの先生に状況を話して、鬱と疑った方がいいかを確認します。

 実際に鬱が疑われるケースだと、こちらがそう思う前に、保護者が「変だなぁ」と思っているケースがほとんどです。その時は、必ず保護者と会うように心がけます。(メンタル的な問題だと、電話で誤解が生じると、あとあとまで尾を引いてしまいます。) そして、実際にあったときには、はっきりと鬱だとはあまりいいません。「以前に同じようなケースの生徒がいて、病院にいったら楽になった」と「治療をすれば楽になるケースがあった」というところに、重点をおくようにします。話しの流れでは信頼できる病院を紹介したり、病院の敷居が高いようだったら、保健所で行われている無料メンタル相談を紹介することもあります。今までのケースですと、「実は、親戚(知人)に鬱がいて、似ているなぁと思ったんです」ということもあり、そういうときには治療までがとてもスムーズに流れます。

 鬱でいちばん辛いのは本人ですから、辛いときは本人が病院に進んでいきますが、本人が「行きたくない」というのであれば、そこまで辛くないのかなぁと基本的には思うようにはしています。無理に受診を薦めてもうまくはいきませんから、本人と保護者が納得した上で、病院に行くことが大切でしょう。

 鬱の予防として、やはりクラスが自律的に明るく、1人1人が自分の存在を認めてもらえるような雰囲気のクラス運営が大切だとも思います。クラスの中で自分が中心になりたくなる先生も一つのタイプかもしれませんが、1人1人が、安全な環境の中で、勉強するクラス作りをする「黒子」的な先生も大事なのではないでしょうか?

 最後になりますが、鬱を疑ったが、相談する先生がいない、というケースでは、各都道府県(市町村)にある教育センターに連絡して、相談をすることをおすすめします。

2006/01/08

教員の評価は出来るのか?

 教員の評価、っていわれているが、これが本当に適切な形で出来るのかだろうか、と疑問に思っている人は多いのではないか? 営業職であれば、売上高という数字である程度は分かるのだろうが、数字で表れない仕事の評価は不可能に近いのではないか、と思う。

 『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』(城 繁幸、光文社)を読んだが、成果主義を導入した結果、どのように富士通が衰退していったかが書かれている。

 早い話、何が問題かと言えば、「正しい評価」が可能かどうか、ということではないか。これは、小学校や中学校といった義務制の学校のことは分からないが、高校の管理職にどのような先生がなっていくか、ということを見ていても感じる。いつも冷静に仕事を見つめ、どの教員もが「この先生がいうんだったら、そうしましょう」と思うほど信頼されている先生が、何故か管理職になれない(ならない、のではなく)ケースがよくある。その一方で、生徒に対して「お前は腐ったリンゴだ」と愛情もない表現でいう先生が、若くして管理職になっていく。(もちろん、後者の先生は、学年主任をしていたけど、ほとんどの教員・生徒から相手にされなかった。)

 前者の先生は、愚直なほどに真面目なケースが多く、生徒に対しても真面目であり、そしてゴマをすることがない。言うべきことは、管理職に対してもはっきりと言う。その一方で、後者の先生は、とある校長のタバコが切れたのを見て、買ってくるほどの、○○なのだ! 

 管理職になるかどうかが、ひとつの評価して考えるのであれば、これが正しい評価といえるのか、私には大いに疑問である。生徒の成長を援助している人は評価されず、生徒の人格を傷つけている人が評価されることに、なにか矛盾はないのだろうか?

 「世の中、立ち回り、そんなものさ」「民間ではそうなんだから、仕方がない」という人もいるだろう。では、子どもたちにもそのような教育がいいと思うのだろうか? 周囲を傷つけても、立ち回りで、ずる賢い子どもに自分の子どもになってほしいのだろうか? 

 目立つような場所で、活躍する先生はそれなりにご苦労もしていることは重々承知している。しかし、目立ちはしないが、活躍している先生もたくさんいる。要は、教育活動の中で、評価はなじまない、ということだ。

 また蛇足ではあるけど、この頃、教諭が教諭を管理するシステムがいろいろなところに広がってきているようだ。ナントカ教諭といって、管理職になりたい教員に肩書きというヤツを与えて、中間管理職的な存在にしてしまう。そしてそのナントカ教諭に、ヒラ教諭を管理させるということだ。このシステムは、学校を壊していく気がして仕方がない。

 もともと、学校の役割は、生徒の成長の援助である。その目標に対して、全ての教員が、自分たちなりの方法で力を発揮していくことが大切ではないのだろうか? その教員をまとめる管理職は、哲学者的素養が必用なのではないか、っていう気がする。

 教諭としてのプライドを持って過ごしていきたいな、って思う。

2006/01/04

きれいさを他に求めない難しさ

 昔、バスケットボールをしていた縁もあり、今は男子バスケの副顧問をしている。正顧問の変わりに、ベンチに入った時のこと。

 キャプテンのT君は、とにかくバスケットを知っている。また、人よりも努力をするし、運動能力も高いので、他の部員よりもバスケットが上手だ。しかし、周囲が彼について来れない。そのために、正顧問がいなくて、ゲーム中に指示する人がいなくなると、彼がある意味で浮いてしまい、だんだんとイライラしてくる。先日、私がベンチに入ったときも、そのような状態だった。

 自分がメインで顧問をしているわけでもないので、普段は何があっても口を挟まないようにしているのだが、T君の様子を見ていて、「まずいなぁ」と思い、介入することにした。

 「周囲はあなたと同じレベルに達していないのだから、分からないこともある」「イライラするよりも、周囲に『こうしてみたらどうだ?』と提案してみた方がいいんじゃないの?」と話してみると、彼は「そうですね」といい、少し落ち着いてから、他の部員と話しをしていた。彼に伝えたかったことは、「自分の出来ることを、他人に求めないこと」という難しいことだったのだが、それをある程度は彼は理解してくれたようだった。

 振り返ってみて、私たちは自分のレベルや、きれいさを、他人に求めていることはないだろうか?と自省してみた。管理職や教育長なり、立場のある人ならばそれは分かる。(だからこそ、立場のある人は、プライベートな時間も含めて自分の日頃の言動に責任を持たなければならないだろう) しかし、同じ立場である教諭同士で、他人が自分の出来ることが出来ない、自分よりも働かないと考え、「あの人はもっと○○すべきだ」「自分が出来るのだから、この人にも○○くらいするよう要求したい」と考えるのは、ある意味、傲慢ではないだろうか、っていう気もする。

 人間社会には、いろんな人がいて、社会が成り立っている。いま、娘は担任の先生にとっても恵まれているが、もしいつかウーンと思うような担任であっても、それはいろいろな大人を見る経験になるのではないか、とさえ思う。それはそれで、家庭がフォローすればいいだけであって、保護者としては「それをやっちゃ、お終いよ」(寅さん風)だけを気をつけていこうとさえ思っている。

 ともかく、志のあるところに人は集まる。あと、悲しいかな、権力や利権のあるところにも人は集まる。違いといえば、志は信頼を友とするが、権力は孤独を友とし、利権は友が敵となることかな? どちらにしても、自分の物差しでの「きれいさ」を他人に求めたい純粋さは分かるけど、それは傲慢さと紙一重ではないのかな、と危惧をしてしまう。

授業研究

 書きたいなぁって思うことがあるんだけど、途中まで書いてしまってから、あまりのネガティブさに削除してしまうこともあります。もう少し、前向きに書けるようになってから、ブログに記すつもりです。

 他の人の授業について、批評をすることはなかなか難しいというか、タブーになっているということは前回のブログで書きました。とはいえ、他人の授業を見ることは勉強になりますので、授業研究ということで、授業を公開することがあります。その時の様子を映したビデオをとある勉強会で見たときに、かなり疑問に思ったことです。ただ、もしかしたらその先生がこのブログを見ている可能性があるので、ちょっとぼかす書き方になってしまうのですが、、、(笑)

 研究授業で、いちばんの問題は、日頃の授業を見せてくれないケースがあるということです。こちらとしては、教科書を使ったふだんの授業を見たいのに、投げ込みともいうべき授業を行ったり、ALTとのTTを行ったりと、「こんな授業は、年間、何回行っているのですか?」といいたくなるようなケースが多いということです。

 出来るだけいい授業を見せたいという気持ちはよく分かります。でも、日頃とは違う授業で、しかも2時間目や3時間目という、生徒の頭がいちばん回るときの授業をみて、そこから普段の授業がどうして見ることが出来るのでしょうか? 月曜日の5時間目の授業なんて、きついですよ~(^^;; しかも、考査あけだったり、連休明けのそんな時間、厳しいですね。

 投げ込みの授業も、普段の授業の延長線上にある、ということはよく分かります。しかし、そういうすばらしい実践を見せて頂けるのでしたら、研究授業はショーではないのですから、底力をつける授業を見せて頂けることは出来ないのでしょうか? 

 以前に、指導主事の先生(中学校の先生)の授業ビデオを拝見しました。研究授業の様子なのですが、まったくの投げ込みです。確かに、生徒は生き生きしていることがよく分かるし、その先生曰く「英語の成績は他校と比較しても伸びている」という言葉はその通りだと思いますが、こちらが参考としたいのは、日頃の授業(鍛錬の様子)です。料理でいうなら、作り方が知りたいのであって、出来上がった写真を見ることではないのです。

 くだんの指導主事の先生は、「これは週4時間の時の実践です」と仰っていました。はぁ?? その先生は週3時間に英語が減らされてからも教壇に立たれていたのですから、週3時間のカリキュラムの今では、その条件での授業を見せるべきではないのか? 

 お互いの授業を見ることはとてもいいことだと思うのですが、普段の授業をお互いに批評しあうことが大切になってくると思いますが、いかがでしょうか?

2006/01/01

トップダウンvsボトムアップ

 昨日の続きを書こうと思ったけど、新年一発目のブログは英語の授業について書きたいと思ったので、今日は授業の話しです。

 「分かる授業」と「分からない授業」ってありますよね。この差って何なのかなぁっていうのは、あまり研究されていないんじゃないかな? というのも、「あの先生は授業が上手だ/下手だ」というのは、一つのタブーでして、生徒からそういう話しが聞こえてきても、意識的に無視するケースが多いですよね。

 英文の読み方で、トップダウンやボトムアップがあるように、授業にもトップダウンやボトムアップと呼べるものがあるのではないか、と思います。

 Readingの授業であれば、行うべき英文はそこにあるわけです。一文一文を細かく見ていって、そして全体としてどのような内容になっているのか、という授業であれば「ボトムアップ」、全体的な内容を捕らえてから、細かい部分に入っていく方法なら「トップダウン」でしょう。

 しかし、分からないと生徒が感じる授業は、これが「トップトップ」(内容を重視するあまり、細かい部分が疎かにされる)とか、「ボトムボトム」(細かい部分のみの説明で、全体として何を言っているのか分からない)ではないのかなぁって思います。授業の具体的な方法はもっと研究されるべき何だろうけど、なかなかタブーに入り込むことは難しい。

 ステレオタイプでいわれる昔ながらの授業は「ボトムボトム」であり、和訳先渡しや音読重視は「トップトップ」になる危険性がある。そこは、注意をして授業をしなければならないのではないか。

 中学校の先生と話す機会があったのだが、そこでその先生は「指導主事が授業訪問にやってきて、コミュニカティブじゃないと必ず『ご指導』を受ける。それが嫌で、コミュニカティブにしているんです」と仰っていた。このコミュニカティブの授業とは、「トップトップ」の危険性がやはりあるのではないか? 「ボトム」の部分を、塾がカバーしているのではないか?と漠然とした不安がある。

 中学校でのコミュニカティブの授業は、高校の多くで受け入れられてはいない。だいたい、これが入るようになってきて、生徒の学力は低下してきている、と考える先生が多いようだ。単語力や文法的な力が必要とされる英文を高校では読むことになる。中学校の教科書で出てくるレベルの英文であれば、トップトップで理解できた気持ちになるかもしれないが、もう少し複雑な英文が出てくるともうお手上げだ。コミュニカティブは、導入としてはいいかもしれないが、そこではボトムの文法的な部分の裏付けも必ず必要だろう。その裏付けなしに、「コミュニケーション能力の育成だ」とかけ声をかけたところで、学力が伸びるのかはなはだ疑問だ。

 くだんの指導主事は、他の先生の授業を見てご批評をされるだけでは説得力がない。「授業はこうやるもんなんだ」と自らが授業の実践をお願いしたいものだ。学力的に低い学校で、水曜日の5時間目に、英語の運用能力と大学入試(私立高校入試)で必要とされる基本的な文法能力の両方を定着させる、すばらしい実践を見せてくれれば、そういう指導主事の先生にはアドバイスを求めたい現場の教員は多いはずである。(もっといえば、1レッスンを3~4時間かけて行って下さると、もっと勉強になる) インプット理論も知らないで、アウトプット中心のコミュニカティブな授業を語るのは、問題ではないかなぁって言っておきたい。

 ちなみに、このトップトップやボトムボトムの考え方は、リンクにも張っている「語教育の明日はどっちだ!TMRowing at best 」のferrierさんのコメント(2004/12/03)からヒントをいただきました。

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