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2005/12/31

それでも「小さな学校」を支持しますか?

 この冬休みに、卒業生と飲む機会があった。卒業生の男3人と久しぶりにのみ、思い出話や今の彼らの仕事の話しに盛り上がった。

 このうちのH君は、とにかく手のかかった生徒だ。(彼のしていたことは、とてもでないけど、ここで書けることではない;苦笑) 1年生の時に担任をしていたのだが、一部からの「やめさせろビーム」を感じながら、担任として出来ることをしていた。彼なら、しっかりと成長するだろう、という気持ちがあったためだったからだ。1学年末には「英語の点数を赤点で出せ」なんていうトンデモ教員がいたっけ。(もちろん、そんなことはしませんでしたよ、念のため)

 しっかりと堅気の仕事についた彼が「中学や高校の先生に謝りたいんだ」といっていたことが、私には印象的だった。「俺のせいで、やめちゃった先生もいたから…」  

 しかし、今の彼はとても好青年で、大人の話がしっかりとできる人間だった。もちろん、他の2人もそうだったが、人間は自分の足で歩き始めると、それなりになっていくんですね。その姿を見て、「やめさせろビーム」に負けなくて良かった、と思いました。

 話は変わるけど、尊敬する先生と忘年会を開いた。その先生の学校もなかなかたいへんだそうだ。飲みながら彼は言っていた。「辞めた生徒が、鑑別所に入ったんだよね」

 中退した生徒が大きな問題を起こすと、警察から「身分照会」がくることがある。また、他の生徒からその生徒の情報が入ってくることもある。そうして、その先生は、鑑別所の件を聞いたそうだ。

 実際に、辞めて働いて、立ち直っていくケースも少なくない。その一方で、学校という枠組みを出て、事件を起こしてしまうケースもある。(H君の話を聞くと、振り込め詐欺に入っているケースも少なからずあるそうだ) 辞めて働いた方が立ち直っていくのか、それとも学校にとどめた方がいいのかは、ケースバイケースだ。(どちらの方がいいのかは、徹底的に付き合った担任の「勘」がいちばん信用できるような気がする)

 文部科学省では「ノートレランスポリシー」といって、ルール違反があれば、有無を言わさず、定められた罰が適用されてしまう政策の研究がなされていると聞いた。おそらく、「退学」ということも、今よりも増えていくのではないか、というような気がする。「小さな政府」に対応する「小さな学校」を目指しているのではないか、と私は思う。今までのように、学校が多くのことを抱えるのではなく、勉強を中心とした本来の姿のみを目指していこうということなのだろう。

 しかし、本当にそれでいいのだろうか? もし、これが厳格に適用されていたら、間違いなくH君は退学になっていて、今のように活躍する社会人にはなっていなかったろう。 

 その一方で、どうにか生徒を辞めさせないようにすると、これはこれで精神的にきつい作業になってくる。この精神的なきつさから解放されるためには、生徒が退学するように促すことになる。しかし、退学を促すと、他の生徒との関係が悪くなる場合もある。しかし、自分の仕事は軽くなってくる。

 日本の教育は、どんな学校でも40人が定員となっている。課題を多く抱えた学校も40人である。これから、労働力がどんどん減っていく時代だ。課題を抱えた生徒が、自分の力でそれを解決できるように援助していく仕事は、とても大きな仕事だ。ただ、そのためにはどうしても、マンパワーが必要となってくる。

 うーん、上手くまとまらなかったので、次回はもう少し、まとめてみていきます。

2005/12/24

こんな教え方もアリでしょう

 今日は久しぶりに、英語教育っぽい話し。

 先日、なかなか課題を抱える生徒が多い学校の先生と話した。欠席する生徒も多く、ベルが鳴っても教室に入らない。その先生のことはよく存じ上げているので、生徒の心を掴む力量はかなりある人だ。その先生ですら、教室に入れることがたいへんだという。もちろん、生徒の学力も低い。驚かれるかもしれないが、欠席が多かったり、ベルが鳴っても教室に入ろうとしない学校は少なくないだろう。

 こういうタイプの学校では、英語教育は、その学校にあったものでいいのではないかと思う。極端な話しをすれば、「英語に取りかかろう」と思う生徒が増えただけでもいいのではないか? 「私(俺)にも、これが分かった」と生徒が思えた経験が一つでもあればいいのではなかろうか?

 でも、真剣に取り組む先生ほど、「あれもしたい」「これもしたい」と希望は膨らんでくる。学力低下のニュースを聞くに連れ、「しっかりとした学力を」という声を聞くに連れ、それが自分へのプレッシャーになってくる。何かやってみようという気持ちになって、「頑張るぞ!」と授業に臨むが、その気持ちはすぐに挫折へと変わってしまう。

 その一方で、心から勉強なんてできなくたっていい、と思っている生徒はごく少数だろう。「魔法の枕があって、一晩寝れば、英語が出来るようになる。その枕を使いたいか?」と生徒に聞けば、ほぼ例外なく「使いたい」という。つまり、出来るようになれるなら、出来るようになりたい。出来ない自分を肯定しているわけではなく、それを肯定するようにしなければ、つまり「出来なくたって、いいじゃないか」と思わなければ、辛いんだよね、生徒も。

 その気持ちを私たちは受け止めるところから、教師の仕事って始まるのではないか? 私自身、中学生の時には英語がほとんど分からない生徒で、あの50分間が長く感じ、自分にあてられそうなときにはあてられないように念じ(苦笑)、劣等感コンプレックスを受け入れてしまったあの感覚は今でも忘れない。そんな自分に対して、勉強することは大切なんだよ、と言い続けてくれた先生に今でも感謝している。(故人となってしまったが)

 話しが横にそれてしまったけど(うーん、横道はこのブログの特徴かも;笑)、生徒の気持ちを受け止めるということは、それなりにシンドイ作業でもある。そのシンドサは決して評価されないだろう。一度限り受け止めるなら、それは偽善だし、受け止め続ける作業は本当に骨が折れる作業だよね。(評価によって給料が上がるようになったら、こんなシンドイ作業をする人は給料が上がらないかも;笑)     

 どうしてシンドイかといえば、なかなか形に表れないから。教えて、成績が伸びてくれれば、それは達成感を感じることが出来る。でも、今まで休む傾向があった生徒が学校に来るようになるのか、といえば、目に見える変化を見ることはまずないだろう。今まで廊下に出ていた生徒が教室にはいるか、といえば、急に教室に入ってくることはあまりないかもしれない。でも、生徒の心の中で何かが動いているのではないか?という気持ちを持ち続けないと厳しいよね。

 時には、教師自身が辛い気持ちになってしまうこともある。そういう時には、弱音を話そう。そうすると、ちょっと楽になってくる。

 今まで生徒に説明をして、「へぇ」と受けが良かった文型の説明。

 1)Bill gave this doll to Mary.(ビルはこの人形メアリーあげた)
 2)Bill gave Mary this doll.(ビルはメアリーこの人形あげた)

 いわゆる第3文型と第4文型である。この書き換えが可能かどうかは、いろいろとあるようだけど(単に情報の新しさだけではない)、それはどうでもいい(うーん、暴力的;笑)

 「仁王って知っているか? そうそう、お寺の入り口にいるあの、こわーい顔をしているよね。では、鬼にあって、仁王にないものってなんだ? 誰か? うん、そうそう! 角だよね。鬼には角があるのに、仁王には角がない」

 「1)の文は人形をメアリーに」と「鬼(をに)の文」だから、角(=to)がある。でも、2)の文は「仁王(にを)の文」だから角(=前置詞)がない。 鬼には、いろんな種類がいるから角がtoだったり、forだったりする」

 生徒の実態にあった英語教育は、あるべきだと私は思う。                                                                              

2005/12/20

親となる覚悟

 最初に、ぜんぜん違う話から。教師の給料を減らす方向のようですね。財政が厳しいから、という理由のではなく、他の色々な理由がつけられています。教員免許状の更新となり、給料も減っていくと、どんな人材が教師になるのか不安があります。

 ただその一方で、一般公務員と同じ給与体系でもいいのかな、とも思います。もちろんそうなれば、5時を過ぎれば窓口がシャットアウトされるように、学校もそうなるのでしょう。保護者が6時に会いたいと言っても、勤務時間以降です。残業手当が付かなければ会わない。土日の部活動ですか? 半日で1200円、1日で1300円の手当であれば、それはやらない。

 そして、今まで学校中心で使っていた時間を、もっと地域の活動に役立てたり、自分の趣味を深めたり、本を読んだりすることで、自分の人生を見つめることも私は必要なことだと思います。このことは、教師の人間的な幅を広めて、生徒にとってもプラスになるだけでなく、教員にとっても生き方を考える良い機会になるのではないか、と思うんです。

 話は変わります。家庭の歪みが学校の生徒に出ていることは、教師の中では常識になっていることですが、なぜかこのことにマスコミが触れることはあまりないですね。

 母親が子どもとトラブルが絶えないときには、家庭を顧みない父親がいる傾向があります。その父親は、企業につとめている「仕事人間」であり、母親とコミュニケーションをなかなかとらない。結局、母親が家庭内で孤立してしまい、「学校にいいたいことがある」と電話をかけてきて、家庭の愚痴をこぼすことは多くの教師が経験したことがあるのではないでしょうか?

 そういう母親の「孤立」を作っていることに、父親はどう考えているのか? 「民間では…」という言葉が教育の現場で「その通りだ!」と思うこともあるけれど、母親を孤立させるほどの仕事をさせている雇用主はどう考えているのだろうか? 

 日本という国のこれからのあり方を考えるとき、子どもの教育はますます大切になります。本当に子どもの学力をつけたいなら、次の2つがベースだと思います

子どもが安心できる家庭の状況
勉強をする保護者を子どもが見る環境

 その上で、学校が始めて機能すると思います。朝食を子どもに食べさせ、自宅で「いい子」になる必要がない家庭環境は大切ですよね。とくに、子どもが安心できる家庭がなければ、いくら授業時間を増やしたところで、あまり効果がないのではないでしょうか?保護者の真剣な生き様を見ると、子どもは落ち着くものです。

 私も3人の子どもの親です。戸籍上、親になることは難しくはないですが、親としての行動をとることは難しいですね。具体的なことが書けないことにジレンマを感じるのですが、家庭が安定している生徒は、多少の横道にずれたとしても、必ず「こちら側」に戻ってきます。子どもが幸せなのは、お金があることでもなく、多くのものをもっていることでもなく、「自分が望まれて生まれてきたのだ」という存在意義のバックボーンとなる絶対感と、「自分は親に愛されている」という安心感を感じられることではないのか、と私は信じて疑いません。

 学校のできることなど大したことはない、と思う一方で、大きなこともできる、と思います。学校は親の役割が出来るかといえば、前者です。しっかりとした保護者がいるときは、後者です。(もし、しっかりとした保護者なのに、学校が役割を果たせなければ、それは学校の責任。) 

 また話は変わりますが、子どもの登下校の安全を求めるのに、警察がどうして出てこないんでしょうか? 彼らが通学路に立っていることが、いちばんの安心感になりませんか? 女の先生や保護者よりも、よっぽどの安心感があるのではないでしょうか? 防犯ブザーやボランティアに頼るのではなく、警察官が毎朝、30分程度立つことはできないでしょうか?

 ちょっと今日はタブーに踏み込んでみました(^^;;

2005/12/14

心が楽になる一冊

やっぱりなぁ、というニュースです。精神疾患による教員の休職が過去最多だそうです。新聞によれば、3500人以上が休職をし、その半分以上が鬱病とのこと。驚くべきは、文部科学省が都道府県の教育委員会にその原因を尋ねたところ、

「わからない」

という回答が多かったということです。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20051214it14.htm

ある会社のとある工場で鬱病にかかる社員が多くなった。そこの取締役会が、その工場の責任者にその原因を尋ねたところ、責任者は「分からない」と答えた。

こんなこと、あり得ませんよね。

実は、3500人以上の休職者だけでなく、退職をしてしまう人も少なからずいるでしょう。その人はカウントされません。教員の多忙化とともに、さらにこの人数は増えていくのではないか、と危惧してしまいます。

疲れたときに、心が楽になる一冊です。

『こころの処方箋』 河合 隼雄 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4103791020/

 自分が肩肘を張っているとき、何か孤立しているような気がするとき、どう工夫をしてもうまくいかないとき、心のエネルギーが減っているとき、この本には多くのヒントが書かれています。というよりも、自分なりの状況に合わせて、内容を自分なりに解釈できる、というところに本書の魅力があります。

2005/12/13

心理分析

 昨日のブログにも書きましたように、山王教育研究所で人間のライフサイクルをベースとした心理学を学びました。

 次に、心理学のお師匠さんであるW先生から、力のある先生を紹介していただき、自分自身の心理分析を受けました。人と相対するにあたって、自分という人間はどういう人間なのか、自分の欠点はどこなのか、ということを見つめ直すのがこの心理分析です。

 紹介して頂いたO先生は、本当に素敵な先生でした。2週間に一度、その先生の元に通い、60分の面談を行います。自分が考えていること、いま自分が抱えている課題、世間話、いろいろとありました。「心理分析」というと固すぎる言葉になってしまいますが、何か準備をするわけでもなく、O先生も準備を求めるわけでもなく、「話したいことをどうぞ」という言葉が全てでした。

 こんな事で、本当に「心理分析」になるのかなぁという不安は杞憂に終わりました。徐々に自分の中の「何か」が動いていき、ある日、こんな夢を見ました。私がそのO先生と駅に行き、私だけ電車に乗ります。そしてその電車は出発していきました。(詳しくはヒミツです) この夢を見て、「もうO先生との面談を終えていいかな」という気持ちになったのです。

 これが終わってから、私自身の教師としてのスタンスが固まったんじゃないかなぁと、私は思います。そして、周囲の状況を、冷静に(時には冷めた目で)見られるようになったのも、この面談の後ですね。生徒と面談をするとき、気がつくとO先生の真似をしていることに気づくと、苦笑してしまいますが(^^;;

 自分なりのスタンスが、ちょっとだけ説明できたところで、次回からは「おすすめ図書」の紹介を何回かしたいと思います。この本で、自分が楽になった、そんな本です。

2005/12/12

ライフサイクル

 心理学と知り合い、本格的に勉強しようと思ったときに、「山王教育研究所」で、人間が生まれてから死ぬまでの心理学を学びに通いました。人はどうやって生まれ、どのように成長し、いかに死んでいくか、自分自身と見つめ合うことのできる有意義な時間でした。(今ではこの講座が無くなり、とてももったいないと思います)

 この人間の成長について、「生涯発達心理学」といいます。人間は一生、発達を続けるということで、このような名前で呼ばれています。

 エリクソンという有名な心理学者が、人間の成長を8段階に分けて考えました。もちろん、これは西洋文化での成長ですから、そのまま日本に適用できない部分もあるかもしれません。しかし、考え方として、とても意味のあるものだと思います。

 8段階とは、1:乳児期、2:幼児期、3:児童期、4:学童期、5:思春期・青年期、6:成人期、7:壮年期、8:老年期です。それぞれの段階で、獲得すべきものがあり、それを土台として、次の段階に進むのが理想とされています。例えば、「1」では、母親的なケアを受けることにより、人間は他者に対する「基本的信頼感」を持てるようになります。そして、それを土台として、「2」でトイレットトレーニングなどを通じて、「自律」(ガマンするときにはがまんし、出すときには出す!)を獲得します。このような流れで、「8」の老年期で「自分の人生は良かった」と思える「統合性」を得て、心穏やかに死んでいくことが、一つのモデルなのでしょう。

 子どもに対する親や教師の役割は、子どもの年代で変わってきます。本来であれば、小学校では「3~4」、中学校では「4~5」、高校では「5」が理想なのでしょう。しかし、社会の状況の変化とともに、小学校では「2~3」、中学校で「2~4」、高校では「2~5」となってしまっています。よく「昔は50人学級でもやれていた!」という人がいますけど、こういう違いが昔とはあるわけです。教師の仕事の多忙化は、事務的な仕事が増えただけでなく、きれいな言葉でいえば「発達段階の多様性」にも大きな理由があると思います。

 ほとんどの保護者は、「親」としての自覚があり、その立場から子どもの教育を考えているのでしょうが、一部の保護者は自分自身が親になりきれていない人もおります。そういう保護者の場合には、例えそれが少数であっても、教師にとっては辛いものがあります。

 若者の特徴として、わざと反権力的な行動をとったり、あえて他と違うことをする、あえて権威に対して反抗していく、ということはあります。この場合には、子どもたちの中に一つのモデルがあり、それに対して反抗をしていくわけです。その一方、モデルが無く、行動自体に「自律」的な要素が無い場合も、残念ながらあります。その時に、その生徒と基本的信頼感を結び、自律を促し、学習を援助していく、ということは、本当にたいへんなことなのです。

 話しがそれてしまいましたが、人間がいかに生まれ、そしていかに心穏やかにこの世を去ることができるのか。これを学んだことが、私にとっては、とても意味のある、そして自分のこれからの人生を考えていきたい、と思った大きなきっかけでした。

  高校の教員としての仕事は、アイデンティティの確立の援助が大きいと思います。あえて、誤解を恐れつついえば、「自分がこれだけのことを生徒にした」というのは、自己満足に陥ってしまう危険性があると私は思います。生徒(自分の子ども)も、いつか離れる日が来るわけで、それまでにどれだけ大切にされたか、どれだけ親身になって考えてくれる大人と巡り会うことができたか、ということが大きな問題となります。しかし、大人の立場は、「これだけやったのだから」「自分はこんなに頑張った」というのは、私は間違いだと思いますがいかがでしょうか?

2005/12/11

教員のメンタルヘルス

 うーん、かなり暗くなってしまう話しを友人から聞く。彼は、大都市圏の教員で、いわゆる「底辺校」「教育困難校」と呼ばれる学校で教えている。そこに赴任してまだ間もないのだが、いやはや、とにかくたいへんな状況らしい。

 その中で、教員の鬱病→休職がずいぶんと増えているとのことだ。しかも、休職中の教員の死去もあったそうで、「もしかして自殺?」と聞くと、友人は「表面上は病気になっているけど、ほとんどの教員は自殺だと思っている」と答えていた。たしかに、鬱病はとっても怖い病気だ。しかし、この怖さを知っている管理職は、どれだけいるのだろうか? 

 これからの教員は、冬の時代を迎えると予想する人は多い。人件費削減のためには、教諭の採用を減らし、1年間の期限付きの講師、もしくは授業のみの非常勤講師の率を高めてくるのではないか?(これを考えていないいなら、人件費を「三位一体」になどしないだろう) その一方で、複雑な社会状況の中(こういう、ぼかし方もあまり好きじゃないけど、後に残るブログでは仕方ない)、サポートをより必要とする生徒が多くいる学校に対しても、教員の人数は変わらない。しかも、教員免許の更新制度が導入され、給料が減っていくとなれば、現在よりも「ハイリスク、ローリターン」となる。

 尊敬すべきカウンセラーがいる。力量もとても高い人だ。その彼にカウンセラーとしての彼なりの忘れてはならないことを聞くと、「感情移入(逆移入)」をしないこと、そして「所詮、人ごと」という気持ちを忘れないこと、と言われた。熱心な先生になると、この「感情移入(逆移入)」は強くなってくる。そして、例えば生徒の進路が失敗したときに、自分が否定されたかのように落ち込むケースもある。一見、熱心で良い先生には見えるけど、はたしてそれがいいのか? もう一度、考え直す必要があるかもしれない。一生懸命にやっている若い先生にこそ、もう一度、考え直してもらいたい。自分の援助が自己満足に陥っていることはないだろうか?もう少し、肩から力を抜いてみると楽になるかも。それでも、地球は回っていますから(^^)

 これから数回は、「英語教育」ではなく、もう少し、危なくない範囲での心理の話しを書いていきたい。

2005/12/03

「チルドレン」の大学合格&PCの故障

 驚いた。昨日、帰ってきたらPCの電源が入らない。一月ほど前から電源が入りずらかったので、自分の準備不足を深く反省。今日、昼間にDOS/Vショップ(死語?に連絡をすると、「マザーボードかもしれないから、送って下さい」と言われる。値段も、修理だと数万円かかると言われる。(ちなみに、見てもらうだけでも、送料込みで数千円以上)

 そこで、近所のお店に持っていって、電源部が壊れていることが分かり、即交換。いつ、PCは壊れるか分からないから、HDDをもう一台、増設しておこうかと真剣に考える。昨日から今日までで、いかに自分がPCに頼り切っているかよく分かったからなぁ。

 さてさて、今日はちょっとうれしい話し。同僚のA先生より、「この子たちは、『○○チルドレン』だねぇ」(○○には私の名前)といわれるほど、私の研究室に来る生徒がいる。その生徒二人が、志望校に合格しました! Xさんは市立高崎経済大学地域政策学部。Zさんは、明治学院大学文学部英文科。

 Xさんのお母様からは、「入学したときは、大学に入れるなんてことも考えていませんでした」という電話がやってくる。お礼を言われたくて仕事をしているのではないが、こういう電話はやはりうれしい。もともと抜群に出来たといえないあなたが、よく努力をして、学力をつけたね。本当におめでとう。
 Zさんは、英語の勉強をしたいということで、明治学院を選んだ。部活動との両立のため、朝の7時から一緒に勉強をしたり、部活動のメイン練習ではないときには、疲れているのに放課後も勉強していたあなたに心から敬意を表します。本当におめでとう。

 二人とも、夏休みは社会福祉法人でのボランティア活動も行った。あの時の12日間は、暑くて、辛かったけど、それも今となっては全てがいい思い出だ。障がい者の人と、自然と接することの出来る柔軟性を持ったあなた方を見ていて、こういう生徒と出会えて良かったと思えました。

 Zさんは、大学でしっかりと学習したいと言うことなので、卒業までは一緒に勉強することになる。少し難しめの教材でしっかりと精読することをやっていこうと提案。速読や多読が流行っているけど、基本的には精読ではないか?というのが私のポリシーです。精読の積み重ねが、速読になり、そして効果的な多読につながっていくのではないか? シドニーシェルダン程度の読み物なら、多読でも問題はない。でも、情報として英語を読むのであれば、やはり精読ですよね。

 何はともかく、昨日は教科の忘年会だったのだが、自分の中では祝勝会でもあった。アルコールは好きだが強くはない。でも、ついつい飲んでしまい、よく帰ってこれたなぁっていうことが正直な感想(笑) あそこまで酔っぱらうのは、年に1度あるかないか。ともかく、アルコールは美味しく飲みたい、楽しく飲みたい、っていうことを、全身で実践してきました(笑)

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