2012/05/16

all pain, no gain

前日は夕方にガス欠状態。進学者用の補講を行い、そのまま帰宅してきました。
その前日は、友人であるsoftmachine社長のM氏に、「(web)デザイン・映像について」の話しを生徒にしていただきました。前回の目崎雅昭さんに続いての企画でしたが、今回は2クラス合同です。

デザインについてという話しは、門外漢なので生徒が希望していても、「そっか、頑張れ」で終わってしまいます。それが分かっているから、生徒は一切相談してきません(苦笑)。しかし、Mさんの講演の後、ふだんはほとんど私は声を聞かない生徒が、M氏に「話をもっと聞きたい」と話しかけてきたり、デザインや映像とは縁のないような進路を考えている生徒がやってきたりと、「本物」に触れると何か感じるものがあるようです。それは、講演後のアンケートにも表れており、「とてもおもしろかった。これからの人生に役立てていきたい。本日はありがとうございました」という、高校生が書くような表面的な文章はほとんどなく、A4の用紙に所狭しと思いが書いてありました。
Mさん自身が、ストレートにデザインの仕事に入ったわけではなく、30近くになってからはじめたという「回り道」も生徒にとってはプラスだったようです。人生は直線じゃないんですよね。

このごろ、再び『北斗の拳』が気になります。これは、日本版の『ゲド戦記』だと私は思っています。ケンシロウの成長があり、そして後継者としてのリュウの成長。「哀しみ」とは「人生を受け入れること」であり、自分自身を高めていけば、その先は自然と道が切り開けていくから、そこを歩んでいく。そんな風に、私は勝手に理解しています。

リュウというのは、「ラオウ」の息子です。リュウを育てていたリセキは、ケンシロウにリュウを返すときにこういいます。

  • リュウはいまだ生のままに。われらのちっぽけな生きざまを教えても害になるだけ!それゆえ生のままに育てました。あとはあなた様が!

そしてリュウはケンシロウとの旅の中で、大きな男の人生を見ます。ケンシロウは一切、リュウに何も教えません。リュウはケンシロウと共にいるだけです。2つの物語を終えると、ケンシロウはリュウの元を離れます。

  • リュウ!おまえはその小さな体にすでに哀しみを知る心を刻みつけた。お前に教えることはもうなにもない。あとはラオウの血がおまえを進むべき道に導くであろう。

こんな置き手紙をして、急にいなくなります。

心理学のグレートマザーではありませんが、「教える」とは「型にはめる」ということです。「ちっぽけな生きざま」なんて教えたって、教育目標に加えたって、なんの意味もないどころか、「害になるだけ!」なんでしょうね。「子どもには可能性がある」というのであれば、ちっぽけな生きざまをしている大人が人生についての何かを教えようとするって事は、百害あって一利なしなんだろうな、と本当に思う。

なんだか、英語教育のことはまったく書かなくなってきたなぁ(苦笑)

2012/05/11

学び(2)

 昨晩は、妻が参加した発達障害研修会の話しで盛り上がる。どこまで書いていいもんかしら、ということに悩んでいるのですが、ある程度の発達障害は小学校低学年までに治療を開始すると効果が上がるとか。(ちなみに、講師は福島県立医大の先生。千葉県の医師会とサポート団体主催) 発達障害の子どもを育てる親は、どこかしらに違和感を抱いています。そして、発達障害の大人になると、生きにくさを感じるといわれています。
 小学校の低学年までがひとつの節目であるならば、小学校の先生(特に1年生かな)の役割が重要になります。発達障害がこれだけ大きな問題となっているのですから、小学校の先生方の負担を減らして、医療につなげることが大切だと私は思います。しかし、実際にはあれもやれ、これもやれ、のオンパレード。挙句の果てには、やりきれないならと、「ムチ」を見せる始末です。政治家は、自分たちにとって都合がいい人間を育てたり、自分たちにとって都合のいい教員と面倒な教員との溝を作って分断化を図るのではなく、どんな思想の持ち主であろうとも、児童・生徒の健やかな成長を援助できるようなサポートをするべきです。政治の道具じゃないんですから、教育は。

 学力向上とずっといわれています。つまり、向上していないということなのでしょう。もちろん、「実績」があがっている学校もあるようです。ただその「成果」とは、偏差値や大学入試の「結果」であって、「学力とはなんなのか」というそもそも論は脇においているような気がします。偏差値と大学とを目標にしているなら、大学に入ったらどうするんだろうか?就職先に偏差値つける? それとも、「あとは、本人の問題だから」といって投げ出すか? 「シラバス」が大流行なんですから、人間という存在の「人生シラバス」を作り、その中の高校生とはどういう期間なのか、と考える必要があります。「生徒の人生は自分で決めるんだから、そんなシラバスは教師は作る必要がない!」っていう声も聞こえそうです。少し、ことば足らずでした。あなた自身の「人生シラバス」のことです。

 「何のために学ぶのか」という問いかけが、大学入試のため、偏差値のため、なんていうのはあまりにも悲しいと思いませんか。大学入試も偏差値もなかった江戸時代、人々はどうして学問を行ったのか。寺子屋を作ってまで、どうして教育に力を地域は注いだのか。カネがなく、中学校に行くのすら間々ならなかった戦前に、それでも学ぼうと思ったのはどうしてでしょうか。偏差値で競争させないようなフィンランドがPISAでトップにいるのはどうしてでしょうか。「偏差値アップこそ学力向上だ」ということを実績とするのは、ベネッセの好きそうな話題ではありますけど、教師として私は残念だと思います。

 自分が周囲から愛されて生まれ、周囲に愛されて育ち、自分を気にしてくれる大人がいる。晴れの日もあれば、雨の日もある。どんなときでも、自分を大切にしてくれる大人の存在は子どもにとって心強いものです。そうすれば、次は自分が周囲を愛し、子どもを気にかける大人になるものです。
 学びの本質とは、周囲のために自分の力を惜しまず、自分のことを自分で選び、人生を選んでいける力をつけることでしょう。だからこそ、自分の能力を伸ばしたい、そう思うからこそ、学びがあるわけです。本を読みたくなるし、食欲と同じように、知識欲も沸いてきます。これを人間力と呼びます(私が勝手に呼んでいるだけですが)
 人間力のアップのためには、部活動も大切です。横のつながりだけでなく、上下のつながりも覚えてくる。人間としての土台も大きくなります。これも、人間力のアップが望めます。

 人間力がつき、そして自分はどのように生きたいかという哲学を生徒が持てば、あとは自分で勉強していくものです。高校3年生を担任していて、本当にそれは感じます。偏差値アップや有名大学に入りたいなんていう理由ではなく、自分がどんな生き方をしたいのか、そんなことを思えば、体重を乗せて自分を鍛え上げていくのです。その結果、「○○大学に行きたい」となります。

 ところが、私はいままで結果を最初に求めてきました。失敗したなぁと思う問いかけは次の通り。

  • 将来、どんな生き方をしたいか考えよう
  • どこの大学に行きたいか考えよう
  • 将来、困ることがないように今のうちに勉強しよう

最初の2つは、考えるものではなく、目の前に現れるものです。ただし、人間力がつかないと目の前に現れてくれません。だから人間力がないと、自分探しの旅に出てしまい、あっちの仕事をやっては辞め、こっちの仕事をやっては辞め、「自分に合う仕事はなんだろうか」というリクルートが喜びそうな問いかけをしていくことになります。
そして、最後の問いかけは、脅しです。「善良な脅し」です。「文句を言えない脅し」です。間違っているのかといえば、間違ってるとはいえません。そういう問いかけは、いちばんたちが悪い。生徒と私との関係や、私自身の人間性なんてどうでもよく、「いうこと聞かなきゃ、お前の人生たいへんだぞ」という最低の脅しです。
よくまぁ、私自身、こんな問いかけで教師をやってきたと思っています。恥ずかしい限りです。

 大切なことは目に見えません。人間の成長は目に見えません。ただ、目に見えないことを信じていくのが、子どもの教育に携わる人です。予備校や塾の人は、目に見える偏差値にこだわればいい。それがその人たちの仕事なんですから。企業経営者も数字にこだわればいい。それが仕事なんですから。しかし、教育に携わるのであれば、目に見えないことを信じられるかどうか、ということです。部活動で県大会を目標にして、それがかなえられたにしても、かなえられなかったにしても、その活動を通じて、生徒が成長することが指導者のいちばんの目標でしょう。出場できたから○、できなかったから×と、心から思っているまともな指導者はいないでしょう。

 偏差値にこだわったら、美容師志望の生徒に対し、「君は偏差値が75もあるんだから、ここの大学はどうだ?」という可能性が高い。1度限りの人生です。そして、天文学的な確率で生まれてきた命です。その命を大切にして、自分の人生を選び、他者の力となれるような生き方をする子どもが増えていけば、この国は変わっていくんじゃないかな、と私は思います。ただ、今の政治家がそういう人間が増えることを好むかどうかは分りませんが。

2012/05/03

人生を豊かにすることが学びの原点

本日のtwitterには大阪維新の会の「家庭教育支援条例案」に驚き。ガセ情報に踊らされたり、卒業生へ場違いの「謝罪」をしたりと、ニュースにはこと欠かない同会ですが、今回の条例案にはとにかく驚きしかありません。
特に驚いたのは次の通り。

  • わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり、こうした子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する(18条)
  • 児童虐待の背景にはさまざまな要因があるが、テレビや携帯電話を見ながら授乳している「ながら授乳」が8割を占めるなど、親心の喪失と親の保護能力の衰退という根本的問題がある(前文)

広い意味での支援は、親が必要だと感じたときに気軽に相談したり、愚痴を聞いてもらえたり、「ママ(パパ)友」と語り合えたりしたときの「場」の提供です。啓蒙するかのよな、子育て論(べき論)なんて、親にとってありがたくもない迷惑に過ぎない。相談や愚痴なんていうものは、彼らにとっては「無駄」と見えるかもしれません。なにせ、「こどもの家事業」の廃止を2013から廃止しようとしている人たちですから。(その訴えは、「こどもセンター職員一同より緊急のお願いです」をご覧下さい) 
 残念なことに、維新の人たちは表層的にしか、教育をご存じない。田中康夫氏が「国歌・国旗」「憲法9条・護憲」を保守・革新をリトマス試験紙とすることを愚かしいと喝破していますが、偏差値の高い高校や大学に入学させることのみをメインの「成果」とすることが、教員としての優劣だなんていうのも、愚かしいのです。人生の基本哲学なき教員集団こそ問題だと私は思う。批判を恐れつついえば、人生哲学がなく、進学実績に一喜一憂したり、管理職になりたいと実績作りに励んだりしていては何かがおかしくなります。生徒に届くことばさえ、見つけることが出来ないでしょう。
 むしろ親に対して、学校名にこだわるのではなく、子どもが自分の人生を自分で決定して、それに対して責任をとれる生き方を考えていきましょうよ、と私は「啓蒙」したいのです。親は世間を知っているだけでなく、見栄もある。子どもをついつい、ブローチ代わりにしてしまう。(私もそうです) だからこそ、ちょっと離れたところから、教師が冷静に親と向かい合うことが必要なんです。人間の人生はその人のものであるからこそ、人生を大切に生きてもらいたい、と相手を信用し、サポートすることは養育者として必要なことだと私は思う。
 少し話がそれちゃいました。いつものことですが。ちなみに、「育て方」と「発達障害」とが無関係であると、長崎県こども政策局が次のようにいっています。

  • 違います。生まれつき脳の機能に障害があることが原因です。
      「親のしつけが悪い」という周囲の誤った非難によって、子どもだけでなく親までも傷ついていることが多くあります。
      発達障害児の問題行動は、子どものわがままや、親のしつけが原因ではありません。親だけでなく、周りの人たちが軽度発達障害について正しく理解することがとても大切です。(発達障害に関する相談

少し、授業のことを考えてみました。

「しっくりと絡み合う授業」とは、現場の先生でなければ分からない感覚でしょう。生徒のベクトルと教師のベクトルとの方向が一致し、長さはちょっとだけ教師の方が長い。いくらすばらしい教案を書いたり、目標を掲げていても、方向が違うと生徒は集中しなくなるし、教師の長さが短いとお見限りとなる。教師が長すぎると空回りする。

このバランスを皮膚で感じられないところが転勤したときのストレスの原因のひとつでしょう。

空回りすると、生徒をどうにかコントロールしたくなるものです。「おい、いうこと聞けよ」っていうやつです。民間企業の上司であれば、人事権(評価)を使って、「おい、いうこと聞けよ」ということもあるかもしれません。しかし、ここは学校。そんな評価など、生徒はあまり気にしてくれません。
だから、「間違っていない」ことで、生徒を脅します。それが、「大学入試対策」です。「これは、試験に出る」ということをすれば、生徒はコントロールできます。「試験に出るから英単語」「試験に出るから文法」「試験に出るから長文」「試験に出るからリスニング」という対策だけしていれば、コントロールできるでしょう。

でも、人間がいちばん力を出すのは、支配されたときでも、強制されたときでも、コントロールされたときでもなく、相手と同じ方向を見たときです。(サン=テグジュペリのことばが有名ですよね、「愛とは見つめ合うことではなく、同じ方向を向き合うことだ」) 人生は学ぶことによって、深く・広くなり、楽しいものとなる。そんな学びこそ、人間にとってもっとも有意義なものだと私は思います。その枠組みの中で、英語教育はどうあるのか。そんな原点は忘れたくないものです。

2012/05/02

Look its behind うん? it's behind ・・・かな?

 明けて昨日から進学補講開始。流れの中でいちばん難易度の高い補講をすることになったものの、全体の80%が普通科の生徒です。中には、いちばんの苦手教科が英語というものも少なくありません。自分の子どもの話を聞いていれば当然なのでしょうが、「教える/教えられる」という学校の空間の基礎にあるのは、教師と生徒の人間関係なのですね。人間関係のないところに効果的な授業→学力の向上なんてあるはずもありません。人間関係の上に授業が成立しているのに、その土台を無色透明にした「教材の開発」なんて、無意味なことをどうしてどっかの官庁はやりたがるのでしょうか。この関係に甘えるといっているのではなく、よりどころにしてそれぞれの先生方の色を出せばいいのであって、それ以上でなければ、それ以下でもない。
 「教材開発」というのは、日本酒作りでいえば、大メーカーの酒造り。外食産業でいうなら、チェーン店だと私は思います。確かに、最低限のものは出来るかもしれませんが、それで何か驚くようなものはできないでしょう。「塩こしょう少々」というのは、職人の感覚です。感覚を明確に言語化することなど、できないものです。最低限度の満足という枠組みで教師を育てたって、所詮、その枠組みの中でしか育ちません。チェーン店(製造部長)の味がいいのか、それとも職人(杜氏)の味がいいのか、どちらを目指すのでしょうか。
 同じ授業を持っている人が使う「共通プリント」というのも同じ。こんなことをしていては、教授者としては成長しない。それについては、次回にでも。この延長線上に、「共通テスト」があるんだろうな、と思う。

それはともかく、本日からの進学補講は以下の通り。

 使っている教材はこちら。(夏休みまでに終える予定)

ある先生からの紹介を受けたのですが、解答解説がピカイチにいい。問題を解いたり、読会をするだけなら、この解説をみれば、それだけで対応できます。お気に入りの要約までついています。しかも、プリントを作るためのデータがHPからダウンロードできるというのが、使い勝手がさらによくなります。

そこで補講では、全ての問題を解いてきたということを前提に次のような流れで進めています。

  • センスグループ分けのスラッシュ(自分なりのルール)
  • そのセンスグループでのサイトラ
  • 再びスラッシュ
  • 音読
  • Read&Look up
  • Flip & Write
  • 要約

「先生、授業と同じ流れですね」といわれましたが、長文をしっかりと読むためには、これらの作業が必要だと思うので、補講も授業もスタイルは私の中では変わりません。Readingという授業の特性を考えれば、同じ形式でいいでしょう。ただ、補講は時間的に余裕があるので、これからはディクテーションを入れたり、暗唱を入れたり、バリエーションを拡げていきます。

5/21の金環日食のために購入したのがこの雑誌。お買い得感たっぷりです。子どもの人数分、注文しました。

2012/04/27

遣いたいが、貯金もしたい

もうすぐゴールデンウイーク。

ちょっと気になったこと。これも、twitterだと記録に残らないのでブログで書くといういつものクセなので、なんらかの根拠があるわけじゃありません。

  • 聞くだけで英語が出来るようになるという教材があるなら、教科書の代わりに中学校で採用したらどうだろうか?
  • 学力をつける授業ということで、予備校の授業が評価されることがあるが、どこかの予備校でコミュニカティブをベースとしている講義(論理矛盾かなw)をしているのだろうか。どこかの(一般的な)予備校で英語による講義をしているのか。
  • 予備校は偏差値を上げるという唯一の目的なのだから、効果的な方法があれば、そこに飛びついていくだろう。(「筋肉質な講義」) 東進ハイスクールに「音読ルーム」があると聞き、私は驚きました。さすが、ですね。
  • 学校での授業でコミュニカティブを前面に出すのであれば、予備校的な物差しでいえば、学力アップに直接的につながることにはならないのだろう
  • 学校と予備校との目的がそれぞれ異なることは、当然である。
  • 学校が予備校的な目的(偏差値アップ)をメインとするならば、コミュニカティブな授業がダイレクトに偏差値アップにつながるのだろうか。
  • 偏差値アップにつながるならば、予備校は講義中心のものではなく、小規模で、コミュニカティブな活動を行っているところがいいだろう(って、あるかは知らないけど)
  • コミュニカティブな授業を通じて、英語に対する興味関心が高まり、自律的な英語学習者になっていくことを期待するのであれば、それは生徒(学習者)の可能性を信じることなのだから、管理しないことだ。小テストなんかもってのほかである。生徒がドアをノックしたときにサポートをする。どっちつかずではいけない。
  • もし、コミュニカティブな授業と予備校的取り組み(筋肉質的偏差値アップ)が相容れないのであれば、コミュニカティブな授業は学力向上には予備校ほどの効果は見込めないが、○○はすばらしいのだ、という棲み分けが必要になってくるのか。
  • 両者は二律背反の関係か。たくさん食べたいがダイエットしたい。無駄遣いしたいが大金持ちになりたい。
  • 「いやぁ、そこまで極端な話しをされても」と苦笑するならば、極端ではなく、その割合をどうするというのか。2つの講座で1つはコミュニカティブ、もうひとつは予備校的だとしたら、外に出すときには両方を見せなければ誤解をされてしまう。理科の実験では小学生が楽しそうに活動しているが、その実験で理論的なことまで理解させられるはずもないのだろうけど、あたかもそれで理解できていると見せてしまうとしたら何だかなぁと私は思う。
  • 本日の授業のこと。グループで和訳をチェックさせるときに、1分の時間を与えたが、全体的に50秒程度で全てのグループが話し合いを終えていた。残り10秒は無視して、50秒で次の活動に入ったけど、もし「マニュアル」を作っていたとしたら、1分まで待っていたろう。この例はとてもちっちゃな話しだけど、授業ではマニュアルがあってもそれはアウトラインであり、最終的には教師の観察力。マニュアルにできっこない。それをマニュアル化しようとするような取り組みをしたら、どこかでウソになる。(でも、ウソに見えないようにするし、「それはウソだろ!」という人もいないんだけどねw)
  • ところで、和訳をいやがる人って、その何がイヤなんだろうか?
  • 本日、amazonから届いた本はこちら。では、お休みなさいm(__)m

2012/04/20

Respect for 蒼井そら!

なんだか長い一週間。何年たっても、GWまでは時間的な余裕がないものです。精神的余裕はもっとないか(笑) 学級通信を100号書く!と宣言した手前、今週は本日も含めて4号発行。昔に比べると、学校からLHRが極端に少なくなったので、生徒に訴えかけるのはクラス通信がいちばんだね。「LHRは『担任の宗教の時間』だよ」と初任の頃にいわれましたが、あの1時間をどうやって乗り越えるかは、担任力アップにつながったと思うんですけど、この時間がなくなった影響はボディブローのように効いてきますね。

わけのわからん自称教育評論家に嫌がらせを受けていた蒼井そら(@aoi_sola) さん。彼女のtwitterやブログを見ていると、英語(外国語)学習のリアリティを感じます。ファンとダイレクトにコミュニケーションをとりたいからということで、中国語や韓国語を勉強しているとのこと。すごいなぁ。自分にはそういったリアリティが現在あるのかといえば、ない。少し、考えてみようかな、うん。
それにしても、教育評論家とは実に偽善的な職業だ。勝手なコメントが、道徳的に間違っていなければ、誰もそれをとがめない。私たちは、特に政治の世界はそうだろうが、反道徳的な世界で生きています。人間社会ですから、当然でしょう。そして、反道徳的な「権力闘争」「金銭至上主義」「出世欲」などの「欲」を心の中で強く持っているのに、表面的には、それらがあたかも道徳的であるようなとりつくろいをすることを、偽善という。
最終的に自分がどう行動するか、それを学ぶのがリベラル・アーツなんでしょうが、教養のない偽善者にはこれが理解できない。だから「実践的」「実用的」ということばを前面に出してくる。その人たちが権力を握ったらどうなるか。あれ、、、どっかの世界に、こんなことをいう人が多くない、、、か?(笑) 日常生活で、彼女を上回るような「実践的」「実用的」なことをしている人はどれほどいるのだろうか?

さて、少し、授業のことを。

今年の目標は、「選択と責任」ということで、生徒が自分たちで単語帳を選び、各自、購入させることからはじめました。「単語型」「コロケーション型」「文(章)型」のそれぞれの長所と短所を話し、まずどのタイプを使うかを決めさせます。その上で、書店でどれがいいかを選ばせます。私の方からは、一切、どれがいいとはいいませんでした。(この2段階の決め方でないと、拡散してしまう。詳しくは本日の本を参照してね)
生徒は先輩やクラスメートに「取材」をして、どれがいいかを選び、それをはじめます。そして覚えるのは、「細切れの時間」ということにして、毎日の生活の中の5分、10分の空き時間で単語を覚えるようにアドバイス。

授業の最初の5分を使い、覚えた単語のチェック。「暗記率の目標は3割」「一回のチェック単語は50個」「日本語から英語」というルールで、生徒はそれぞれチェックしています。私も、こんな方法は初めてなので、思いがけないこともいくつも、出てきています。マイナスのものは消して、プラスのものは「もちろん想定していた」というような顔で対応しています(笑)

プラスの想定外は5分という時間でした。この時間が生徒にとっては短いのです。だから、もっとやりたい。しかし、5分できっちりと終わらせることで、「もっとやりたい!」という気持ちが、モチベーションにつながっていますね。「あぁ、もうなくなっちゃったの!?」と焼き肉の時に思うのと同じことです。

生徒1人1人の学力差があるし、与えられたことだけを行う人間にはなって欲しくない。だから、自分で単語帳を選び、それを最後まで行う、という経験をしてもらいたいんですよね。「選択と責任」です。なぜか、理解してくれない人が多いんだけど(苦笑)

授業も、具体的な予習をするように、プリントを配布。とはいえ、なかなか最初からこちらが考えるように予習はしてくれないし、狙いも分かってくれません。いくら説明してもダメですから、授業の中で「この予習は、こういう意味があり、この予習をすることで、授業がさらに分かりやすくなるのか」と生徒が感じられるようになって、初めて、魂の入った予習をしてきてくれるわけです。アリバイ作りの予習は、たいして意味がいないものです。そんな予習をしてくるのではなく、長文を読んで理解するために必要な作業として予習をしてきて欲しい。本日、添付しましたプリントは、まだまだ改善の余地あり。授業の中で、少しずつ改善していきます。もちろん、改善していなきゃ、こっちもいけないんだけどね。

「lesson12.PDF」をダウンロード

2012/04/14

原発の再稼働に反対します

スーパーで食料品を買うときに、産地をどうしても意識します。タケノコが大好きな子どもたちに今年は我慢させたり、イチゴも西のものを購入したり、子どもたちの安全をまず意識しています。

理由はもちろん放射能が怖いからです。

「安全だ、安全だ」という人もいますが、原発から出る廃棄物のうち100ベクレル以上/kgあれば、「低レベル放射性廃棄物」として廃棄されているようです。しかし、それ以上に食べ物に含まれている検査を見ると、不安でたまりません。

60歳を超えれば、危険性がずいぶんと低くなるようです。「安全、安全」といっている人はおじさんが多いですから、その人たちにとっては安全でしょう。しかし、これからの日本を背負っていく子どもにとっては、その安全性は、年配者以上に考えられなければなりません。

借金を次の世代に残さないから消費税を上げるという政府が、次世代どころか、1000年、10000年以上も処理方法がないプルトニウムを生み出す原子力発電所を再稼働させようとする野田政権は、責任ある姿勢なのでしょうか。

専門家が、危険だといっているのに、政治家は危険だといわない。
福島原発は安全だといっていた専門家はその責任をとっていない。
これだけの被害を出しているのに、東京電力の誰もが刑事責任を問われていない。

だーれも、責任をとらない状況で、専門家が警鐘を鳴らしているのにも関わらず、原発を再稼働させようとしている現在の民主党政権、そして今まで推し進めてきた自民党。

枝野経産大臣の詭弁にはもうウンザリ。一部のマスコミでは、「枝野大臣は反原発だ」といっていますが、「爆発的事象」「すぐには影響はない」という”迷言”を残し、東京電力から多額のパーティ券を購入してもらっていた枝野大臣は、国民の安全と電力会社の利益、どちらのサイドにいるのか。

原発の事故を考えれば、「地元の理解」の「地元」は、そこにある自治体だけの問題ではない。福島原発の影響は、福島県以外にも及んでいる。200kmも離れた千葉県だって大きな被害者だ。
大飯原発でもし事故が起きれば、西日本もたいへんな被害を受ける。

それでも、再稼働をするというのだろうか。

2012/04/10

数値化できない欲求

『古武術に学ぶ身体操法』を読了。

1~3章までも興味深く読みましたが、第四章の「発想を育てる」がいまの自分にはいちばん、しっくりときました。その中でも覚えておきたい部分を。

  • 本来測ることのできないものを無理に数値化しないと気がすまなくなっている
  • 演技をしているだけで、教養として言葉が身についていないため、その場の状況を瞬間的に把握する能力が育っていない
  • 「これしかない」と固定されていたら、こんなにも多様な文明は作られなかった
  • こういう時代になって、いっそう私は「これが正しい」といいづらい(中略) 正しいという表現はどうしても使いづらいのです。
  • 自分が常にいいとは思っていない、だからこそ、次々に技が進展していく

また、同書の中で紹介されていたのが「永田農法」。

これを読んでいくと、「読んで訳すだけの英語授業」と批判を受ける授業でも、どうして英語ができる人たちが生まれてきたか、なんとなく分かる気がします。好きなもの・栄養価のあるものを食卓に乗せて、「ほら、食べなさい」といわれるよりは、「あの料理が食べたいな」と思わせたほうが、食に対する欲求が高まるでしょう。

もちろん、どちらが正しいか。「子どもに、栄養価の十分なものを与えるのが間違っているのかというのか?」といわれれば、「いや、間違ってはいません。。。」というしかありません。しかし、それを「これが正しい」ということは、甲野先生ではありませんが、いえないものです。「間違っていないこと」は、「正しいこと」とは言い切れません。それよりも、「間違っているのか?」という問いかけは、上手な詭弁術としか私には思えないのです。

食にしても、学びにしても、子どもや生徒に対する信頼がなければ、食卓に全てを乗せたり、行うべき事柄を全て与えたりと、至れり尽くせりになります。「飢える」(=stay hungry)という過程を通じて、自立的に食べたり、学んだりという方向に進むと思うんですが。

もちろん、これは発達段階にもよります。小学校1年生に対する指導と、中学生に対して、高校生、そして大学生に対して、それぞれ異なります。しかし、「きめの細かい指導」が、現代の若者の"stay hungry"を阻害して、彼らの成長経験を先延ばしにしている部分があるような気がして仕方ないのです。

信じられれば、食べ物にしても、学びにしても、任せることができる。しかし、信じられなければ、多くを管理したがるものです。中学生や高校生、大学生に対して、どれだけ教師と生徒との間に信頼関係があるかが大切になると私には思われます。「きめの細かい指導は悪いっていうの?」という問いかけと、"stay hungry"から欲求を引き出せると信じることとは、ねじれの関係なんですよ。つまり、共通したことばがないのです。

目の前の大人が、学ぶことを楽しんでいれば、"stay hungry"から学びたいという欲求は生まれてくるものでしょう。ここには、数値もなければ、証拠もありません。あるのは、人間に対する信頼だけです。

あれ、いつの間にか、「食」がなくなり、「学び」だけになったか(笑)

ある大手企業の人事の方から、「課題を自分で見つける力が若者にはないなぁ」といわれました。もちろん、「現代の若者」という表現についてはいろいろな意見もあるでしょうが、彼の感想は、示唆に富んでいるのではないかなと思ったものです。

2012/04/09

人間はいつでも、学ぶことができる

以前に國弘正雄先生から聞いた話。

元韓国大統領・金大中氏は、42歳になってから英語を勉強しはじめたそうです。ロンドン大学で講演も行ったり(特任教授?)、英語で本も数冊書いたようですが、國弘先生をして「抜群の英語力」といわしめるほどの、英語力だったそうです。

週末に、とてもうれしいメールをいただきました。本人の許可をいただき、ブログでご紹介します。

 先生のお陰で私の閉ざされた青春が蘇りました。
旧制女学校の1年で英語の授業を受けましたが、
戦争のため英語は敵国語となり、2年から授業は
廃止されました。英語は私にとって未知の世界に
なってしまいました。

波乱万丈の人生を乗り越え、自由な時間を手に
した時は、老年になっていました。80歳過ぎてから
では無理かなあと思いましたが、生きている間に
英語を勉強してみようと思い立ちました。本屋で
「短文で覚える英単語1700」を手に取ったのが
私の出発点になりました。CDは始めは私には
速すぎて聞き取れませんでした。しかし「継続は
力なり」が証明されました。なんとか1冊暗記する
ことができました。CDもあの速さで充分です。
今年の新聞に高校入試の英語の問題が
掲載されていたので試しに解いてみました。
殆ど正解でした。やっと3年間で中学を卒業する
ことができました。もう一度本を開いて「はじめに」
を、読み直してみました。

「誰にとっても道は一歩から始まります、どんなプロ
でも、はじめは素人です」この言葉が今更のように
ジーンときて胸が熱くなりました。
先生、本当にありがとうございました。  

十倉(85歳

こういうメールをいただくと、あの本を作ってよかったな、と思います。十倉さまは、私の祖母と実は同い年です。
80を過ぎて学ぼうとする意欲に驚いただけでなく、学ぶ喜びが人間にはあるという話しは本当にそうなんだなぁと痛感しました。

2012/04/07

Eats, Shoots & Leaves

始業式。新しいクラスが発表されることに、生徒もワクワク・ソワソワ。年をとり、あまりこのワクワク感もなくなってしまったせいか、生徒のワクワク・ソワソワの様子を見て楽しみ、Wordsworthの"The Rainbow"を思い出したり(笑)

実は、今年は初めて「理系」の担任をします。「理系」と書きましたが、「理系」と分けられているのではなく、3年次の科目選択でクラスを分けると、どうしても「理系的」になるクラスが出てきます。Writingをとらずに、数学3や数学Cをとる生徒のいるクラスです。
積極的理系もいる反面、消極的理系(英語が苦手だ)という生徒も少なからずいるので、授業をどうやって組み立てていこうか、そんな風に3月から考えていました。(これは、後述)

物理や化学の先生に「工学と理学って何が違うんですか?」と尋ねると、まずは専門的なお話し。「・・・・・」。なんだか、PCの専門の方の話を聞いているようで、分かる単語はでてくるんだけど、全体として何を言っているのか理解が出来ません(^^;; 見るに見かねたせいか、副担の化学の先生が「工学は目に見えるものを作り、理学は理論や薬品で実験したりする」とシンプルに全体像を教えてくれて、なんとなく納得。今年は、文字通り、生徒と共に勉強していくことが多そうです。
私が正しく理解すれば、その理解は、生徒も納得できるでしょう、たぶん。でも、分かりすぎてしまうと、それはそれでまずいかもしれません。「今年の担任は物理や化学のことよく分かっていないから、自分たちで調べていかないと」と思ってくれれば、それもひとつの「教育」です。ある程度、理解しておいて、分からないふりをするのが、ベストかな。

授業は、教員人生初めての、Readingのみの1科目展開。

英語力にもかなり差があるので、同じ授業でも、使用するプリントでその意味づけが変わってくる2方式をとろうかと思いましたが、自分の中で却下。tmrowingさんのワークシートを見て、「あ、これこれ!」と思い、アイディアをいくつもいただきました。いつも、おんぶに抱っこをさせていただいておりますm(__)m 私のワークシートや授業計画も出したいのですが、職場にファイルを忘れてきたので、また来週にでも。

Readingの授業で今年、取り入れていきたいことは次の通り。

  • とにかく英語に触れさせる
  • 教科書の新出語句を、教科書外のコロケーションで覚える
  • 「熟語」を増やす
  • 難易度の高い英文を、なんとなくで済まさない。文法的な理解も深める。カンマ1つも大切にする
  • 自分なりの「スラッシュ」を入れ、その「塊」を拡げていく
  • サイトトランスレーション
  • 音読(いろいろなバリエーション)
  • パラフレーズで表現を増やす

授業内で、一切、やらないことは、受験指導。受験参考書や問題集の類いを授業で行うつもりは全くありません。もちろん、放課後の補講では行いますが、授業の中では全く行わない。だいたい、学習指導要領にだって、「大学進学のため」なんてことは、ひと言も書いてないでしょう。大学はあくまでも結果であり、英語力をつけるという立ち位置から離れないようにしよう。

明けて昨日の放課後は、ALTに授業の件で相談して、いくつも納得。ウイリアム・バロウズのことを聞き、like a fishは、like William Burroughsとも使うよと教えてもらう。ちょっと、オタク系かな?(笑)

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